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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第41話 保持用白材は、北だけに運ばれていたわけではありませんでした



 翌朝、第一男子寮317号室の窓から見える空には、薄い雲が長く伸びていた。


 昨夜より少しだけ冷え込んだらしく、シュウが制服へ袖を通している間にも、窓際から入り込む空気にはひんやりとしたものが混じっている。向かいではエリオットがベッドへ腰掛けたまま、まだ完全には開いていない目で靴紐を結んでいた。


「エリオット、それ左右違うよ」


「……何が?」


「靴」


 シュウに指摘され、エリオットは自分の足元を見た。


 右足には学院指定の革靴。


 左足には寮内で使っている簡素な室内履き。


 数秒の沈黙が落ちる。


「本当だ」


「どうしたら気づかないの?」


「朝だから」


「朝って便利な言葉じゃないよ?」


「シュウは朝から元気だね」


「普通だと思うけど」


 エリオットは左足の室内履きを脱ぎながら、大きな欠伸をした。昨夜はそれほど遅くまで起きていたわけではないはずだが、朝に弱いところだけは学院へ入ってからほとんど変わっていない。


 シュウは苦笑しつつ、自分の鞄を確認する。


 今日の教本とノート。


 術式筆。


 昼食後に使う予定の資料。


 そして北方調査用のノート。


 昨日、『ローデル北部役務抄』の再閲覧申請を出した。資料の状態に問題がなければ、早ければ今日の放課後に再び閲覧できる。


(見られるといいけど)


 目的は明確だった。


 白材。


 より正確には、旧ローデル地方の記録に残っていた「白材・保持用」という記載が、どこで、何のために使われていたのかを確認する。


 白材という名称だけでは白樹と結びつけられない。


 それは昨日確認した。


 だから今度は用途を見る。


《非常に地道ですね、マスター》


(調査ってそういうものでしょ)


《かつてのマスターであれば、名称を発見した時点で「全てが繋がった」と宣言されていた可能性が高いかと》


(昔の俺を基準に今の俺を褒めるのやめてくれない?)


《褒めていると認識されたのであれば幸いです》


(絶対違うよね)


「シュウ?」


 エリオットの声で意識を戻す。


「何?」


「止まってた」


「ああ、ごめん」


「アルカディア?」


「うん」


「また何か言われた?」


「昔の俺より地道になったって」


「褒められてるじゃん」


「比較対象が酷いんだよ」


 エリオットは少し笑って立ち上がった。


「ほら、朝食行こう。今日は一限からだろ」


「そうだった」


「俺より朝に強い人が時間忘れないでよ」


「それとこれは別だから」


 二人は鞄を持ち、朝の学生たちで賑わい始めた廊下へ出た。


     ◇


 午前の王国基礎教養では、王国内における地方行政の変遷について扱われた。


 奇しくも、現在シュウたちが調べているローデル林区のような旧行政区分とも関係する内容だった。


 教壇に立つリディアは、黒板へ現在の王国地図を描いたあと、その上から異なる色の線で古い境界を重ねていく。


「現在の領地境界が、そのまま百年前、二百年前にも存在したとは限りません。王領、貴族領、共同管理地、森林管理区、鉱山管理区など、目的によって異なる境界が同じ地域へ重なっていた時代もあります」


 シュウはペンを動かしながら、黒板を見る。


「また、行政区分が廃止されたからといって、そこで行われていた業務まで同時に消えるとは限りません。新しい行政組織へ引き継がれる場合もあれば、土地の所有者、地域の家系、神殿、商業組合などへ役割が移ることもあります」


 ペン先が止まりかけた。


(……これ、今調べてることに近いな)


 ローデル林区は約百三十年前の行政再編で廃止された。


 けれど、古い資料には一部の管理事項を従前の担当へ継続させる記述があった。


 そしてハーゼン家は、公的役職の記録から徐々に名前が減っている。


 それが役割の消滅を意味するのか。


 別の誰かへ引き継がれたのか。


 あるいは、公的記録に残らない形で続いていたのか。


「フェルン先生」


 一人の学生が手を挙げた。


「はい」


「行政区分がなくなった後も昔の仕事が残った場合、それって誰が管理するんですか?」


「場合によります」


 リディアは即答せず、黒板へ向き直った。


「例えば、橋の維持なら新しい地方行政へ移されることが多いでしょう。鉱山なら所有権や採掘権を持つ者へ移る場合があります。森林なら領主、王家、地域管理者、あるいは複数組織の共同管理になることもあります」


 そこで一度、生徒たちを見渡す。


「重要なのは、『昔の組織が消えた』と『昔の仕事が消えた』を同じ意味にしないことです」


 シュウはその言葉をノートへ書き留めた。


『組織消滅≠役割消滅』


 隣からエリオットの視線を感じる。


 目が合った。


 エリオットが、ごく小さく口元を緩める。


 たぶん、同じことを考えている。


 前方斜めの席にいるユリウスも、普段より少し速い手つきで何かを書いていた。


 授業が終わったあと、三人が廊下へ出ると、ユリウスが最初に口を開いた。


「使える」


「やっぱりそう思った?」


「うん」


 ユリウスは教本を抱え直す。


「ローデル林区がなくなった後だけじゃなくて、その前も見るべきかも」


「前?」


 エリオットが尋ねる。


「ローデル林区ができたとき」


 シュウは足を緩めた。


「その前にあった管理を、ローデル林区が引き継いだ可能性?」


「そう」


 ハーゼン家は、ローデル林区成立以前から一部管理へ関わっていた可能性がある。


 それなら、


 古い管理。


 ローデル林区による管理。


 行政再編後の管理。


 さらに、そのどこかでアルヴェイン家が関わるようになった。


「線じゃなくて、段階があるのか」


 シュウが呟く。


「かもしれない」


 ユリウスはすぐに付け加えた。


「まだ分からない」


「うん」


「そこ大事」


「分かってるって」


 エリオットが笑う。


「ユリウス、最近シュウが断定しないか監視してない?」


「必要だから」


「必要なの?」


「昔よりは必要なくなった」


「昔って学院入ったばかりの頃?」


「そのくらい」


「成長してるじゃん、シュウ」


「何で二人とも俺の成長を判定する側なの?」


 三人の会話を追い越していった同級生が振り返り、楽しそうに笑った。


 シュウもつられて笑いながら次の教室へ向かった。


     ◇


 昼休みになると、五人はいつもの食堂へ集まった。


 今日は煮込み肉と根菜のスープ、黒パン、それに小さな果実が付いている。食堂の大窓からは午前より厚くなった雲が見え、外の風に揺られた木々の枝が時折ガラス越しに影を落としていた。


「シュウ、今日も図書館?」


 席へ着くなりダンが聞いた。


「資料が見られたらね」


「見られなかったら?」


「別の本読む」


「結局図書館じゃん」


「そうなるね」


 ダンが呆れたように笑う。


「俺たちは今日、実技棟」


「また?」


「またって言うなよ。昨日より上手くなったから今日もやるんだ」


「ちゃんと先生の許可範囲?」


「もちろん」


 ダンが胸を張る。


 セシリアは隣でスープを口へ運んでから、静かに補足した。


「今日は自主練習ではありません。二組の補助実技があります」


「あ、授業なんだ」


「はい。昨日練習した停止制御も見ていただけると思います」


「じゃあちょうどいいね」


「ダンが大きくしなければ」


「まだ言うの!?」


 ダンの声に、近くの席にいた学生たちが何人か振り返る。


 そのうちの一人が「ああ、またクレイか」と笑っており、どうやら彼の声の大きさは二組以外にも知られ始めているらしい。


 ダン自身も周囲の視線に気づいたのか、少しだけ声を落とした。


「……今日は本当に小さくする」


「先生の前ですからね」


「分かってるって」


 エリオットが黒パンをちぎりながらシュウを見る。


「資料の返事っていつ分かるんだっけ」


「放課後。状態確認が終わってれば」


「駄目だったら『北部保持材研究録』?」


「そのつもり」


 ユリウスが頷く。


「どっちでも調べるものはある」


「いいなあ」


 ダンが言った。


「何が?」


「何か、三人で謎解きしてる感じ」


「実際は古い本読んでるだけだよ」


「でも面白そうじゃん」


「ダンは来る?」


 シュウが聞くと、ダンは一瞬だけ本気で考える顔をした。


「……今日は実技ある」


「うん」


「その後は腹減る」


「うん」


「古い本って難しい?」


「かなり」


「じゃあ今日はいいかな」


「判断早いな」


 エリオットが笑った。


「でも、何か見つかったら教えてくれよ」


「話せる範囲なら」


「それでいい」


 ダンは気にした様子もなく、煮込み肉へフォークを伸ばした。


 セシリアもシュウを見る。


「無理はしないでくださいね」


「図書館で?」


「昨日も一昨日も、別の調査をしていましたから」


 柔らかな声だったが、その視線にはわずかな心配がある。


 シュウは一瞬返事に詰まった。


 漆黒魔力の研究。


 北方資料の調査。


 授業。


 自分では分けているつもりだったが、外から見ると連日何かを調べ続けているように見えるのかもしれない。


「今日は閉館まで粘らない」


「昨日もそう言って早く帰ったよ」


 エリオットが証言する。


「なら安心です」


 セシリアが微笑む。


「エリオット、保護者みたいだな」


 ダンが言う。


「誰が保護者だよ」


「シュウが図書館に住まないように見張ってるんだろ?」


「住まないって!」


 シュウが反論すると、今度は五人全員が笑った。


     ◇


 午後の授業を終えた三人は、図書館へ向かった。


 昼から広がっていた雲のせいで、まだ夕方には早い時間にもかかわらず外は少し薄暗い。図書館へ入ると、入口近くの魔導灯がすでに点けられており、暖かな白い光が受付周辺を照らしていた。


 昨日の男性司書――マティアス・レンが窓口にいる。


 シュウたちが近づくと、マティアスの方から気づいた。


「アルヴェインさんですね」


「はい」


「『ローデル北部役務抄』の再閲覧申請ですが、状態確認が終わっています。本日閲覧できます」


 シュウの表情が明るくなる。


「ありがとうございます」


「ただし、昨日と同じく筆記具は学院指定のもののみ。資料へ直接物を載せないでください」


「はい」


「今回は白材の使用箇所を確認する、という申請でしたね」


「そうです」


 マティアスは手元の記録票へ目を落とした。


「それでしたら、関連する索引札も一緒にお出しできます」


「索引札?」


「以前、この資料を整理した司書が作成した簡易索引です。正式な研究資料ではありませんが、資材名や地名が記載された頁を探す補助にはなります」


 三人の視線が揃ってマティアスへ向いた。


「見てもいいんですか?」


「閲覧補助資料ですから問題ありません。ただし、索引札そのものを根拠資料として扱わないでください」


 ユリウスがすぐ頷く。


「元の頁を確認します」


「それがいいでしょう」


 マティアスの口元が僅かに緩んだ。


「少々お待ちください」


 彼が収蔵庫側へ向かう。


 シュウはその背中を見送った。


「助かる」


「でも索引だけ信じない」


 ユリウスが言う。


「分かってる」


「念のため」


「本当に監視役になってない?」


「事実確認役」


 エリオットが小声で笑った。


     ◇


 やがて『ローデル北部役務抄』が運ばれてきた。


 前に見たときと同じ、保存用の箱に収められた古い資料だ。


 今回はその隣に、手のひらほどの札が十数枚束ねられている。


 閲覧机へ移動し、三人はまず索引札を確認した。


「資材……木材……白材」


 エリオットが一枚を見つける。


 そこには複数の頁番号が記されていた。


「七箇所」


「思ったよりある」


 シュウは自分のノートへ頁番号だけ先に写した。


 最初の記載。


 約百八十八年前。


『西路詰所、屋根補修。黒松材十二、白材・壁用六。』


「西」


 ユリウスが言う。


「北じゃない」


「うん」


 次。


 約百八十六年前。


『南水路監視所、内部仕切り補修。白材・壁用四。』


 これも北ではない。


 三箇所目。


『東部旧所、保持部補修。白材・保持用二。小型魔石二。』


 シュウの指が止まった。


「東部旧所」


「地図の東側と同じ場所とは限らない」


 ユリウスがすぐ言った。


「分かってる」


「でも候補」


 エリオットが続ける。


「うん」


 シュウは慎重に書き写す。


『約184年前? 東部旧所。保持部補修。白材・保持用2、小型魔石2。』


 年代は文字が薄く、末尾が読みづらい。


 推定で断定しないよう、疑問符を添える。


「小型魔石もある」


 エリオットが言った。


「レオルの支給品にも四個あった」


「だからって同じ用途とは限らない」


 シュウが先に言う。


 ユリウスが少しだけ口元を上げた。


「言おうと思った」


「先回りした」


「成長」


「またそれ?」


 三人は声を抑えて笑い、次の頁へ進んだ。


 四箇所目。


『北路休息所、床補修。樫材八、白材・壁用三。』


「北だけど壁用」


「しかも休息所」


 五箇所目。


『北部旧所、春季補修。白材・保持用四。導線材一式。』


 今度こそ、三人とも言葉を失った。


 シュウはすぐにノートへ書かず、原文をもう一度読む。


 北部旧所。


 春季補修。


 白材・保持用四。


 導線材一式。


(北部旧所に保持用白材……)


 胸の奥が熱くなる。


 だが、まだ足りない。


「次の行」


 ユリウスが静かに言った。


 シュウは視線を落とす。


『前年より保持弱し。継ぎに先立ち交換。』


「……継ぎ」


 エリオットの声が小さくなる。


 シュウは呼吸を整えた。


 家の記録。


『白樹の満ち、前年より僅かに弱し。春の終わりまでに継ぎを行う』


 そして、


『今年の継ぎ、レオルに任す。白樹よく応ず』


 ここにあるのは別の資料だ。


 学院側の『ローデル北部役務抄』。


 そこにも「継ぎ」がある。


 しかも北部旧所。


 保持用白材。


 保持弱し。


 交換。


「これは……」


 エリオットが言いかける。


「かなり近い」


 シュウは答えた。


 断定はしない。


 けれど、今までより明らかに情報同士の距離が縮まった。


 ユリウスもすぐには否定しなかった。


「家の記録と同じ『継ぎ』が、学院側の北部旧所記録にもある」


「うん」


「保持用白材も一緒」


「うん」


「でも白材が白樹かはまだ未確定」


「そう」


「北部旧所が北の封所かも未確定」


「そう」


 確認するように一つずつ言葉を重ねる。


 シュウはそれをそのままノートへ書いた。


『重要:学院側『ローデル北部役務抄』北部旧所記録に「継ぎ」。家資料と同語。』


『北部旧所・春季補修――白材・保持用4、導線材一式。前年より保持弱し。継ぎに先立ち交換。』


『ただし、北部旧所=北の封所、保持用白材=白樹は未確定。』


 ペンを置く。


 手のひらが少し汗ばんでいた。


《マスター》


(分かってる。まだ確定じゃない)


《先回りされました》


(ユリウスに鍛えられてるからね)


 だが、嬉しくないわけではない。


 家にしか残っていなかったと思っていた「継ぎ」という言葉が、学院側の公的な役務記録にも存在した。


 これは大きい。


 少なくとも、アルバート個人だけの表現ではなかった可能性が高くなる。


「残り二つ」


 エリオットが言う。


「見よう」


 六箇所目。


『東部旧所、秋季確認。保持部異常なし。白材交換不要。魔石残量良。』


 三人の動きが再び止まった。


「東部旧所にも保持部」


「しかも魔石」


 シュウは先ほどの記録へ戻る。


 東部旧所。


 保持部補修。


 白材・保持用二。


 小型魔石二。


 そして別年には、


 保持部異常なし。


 白材交換不要。


 魔石残量良。


「……東側も同じような管理してる?」


 エリオットが言う。


「少なくとも似た語は使われてる」


 ユリウスが答える。


「これ、地図の東側の四角と関係あるかな」


「候補にはなる」


 シュウは地図の記憶を辿る。


 北方の四角+短縦線。


 東側にも同じ記号。


 もし東部旧所がその東側記号に対応しているなら、記号の意味を推測する材料になる。


 しかし、まだ位置が一致したわけではない。


「東部旧所の場所を探したい」


 シュウが言う。


「うん」


「でも今は最後」


 ユリウスが七箇所目を指す。


「分かってる」


 最後の記載は、北部でも東部でもなかった。


『中央管理所、保管庫内棚補修。白材・壁用二。』


 三人はしばらく資料を見たあと、ノートを並べた。


「整理しよう」


 エリオットが言う。


「白材自体は北だけじゃない」


「うん」


「壁用は西、南、北、中央」


「保持用は確認できた範囲だと東部旧所と北部旧所」


 ユリウスが続ける。


「保持用白材が北専用じゃない」


「そうなるね」


 シュウは書く。


『保持用白材――確認範囲では北部旧所・東部旧所の双方で使用。北専用ではない。』


『壁用白材――複数施設。一般補修材としての用例あり。』


『東部旧所――保持部、保持用白材、小型魔石、魔石残量確認。』


『北部旧所――保持用白材、導線材、「保持弱し」「継ぎに先立ち交換」。』


 そして最後に、


『北・東の旧所は類似する保持管理機構を持っていた可能性。ただし同一構造・同一目的とは未確定。』


「これなら?」


 シュウがユリウスへ見せる。


「いいと思う」


「合格?」


「何の?」


「監視役の」


「だから監視役じゃない」


 ユリウスが少し眉を寄せ、エリオットが笑いを堪えた。


     ◇


 三人はさらに資料の前後を確認した。


 すると、北部旧所の「継ぎ」記録から数頁後に、役務担当者の簡単な一覧があった。


 名前。


 担当。


 支給品。


 シュウは一行ずつ追っていく。


 そして、見覚えのある姓を見つけた。


「ハーゼン」


 声が僅かに漏れた。


 エリオットとユリウスが身を寄せる。


『レオル・ハーゼン――北部管理補佐。春季旧所役務、三日。』


 既に別資料で確認している内容に近い。


 しかし、その下。


『担当:保持部確認、資材受領立会、継ぎ補助。』


 シュウは目を見開いた。


「継ぎ補助……」


 家のアルバートの日記には、


『今年の継ぎ、レオルに任す。白樹よく応ず』


 とあった。


 学院側記録では、


 レオル・ハーゼン。


 北部管理補佐。


 継ぎ補助。


 これで「レオル」と「継ぎ」の結びつきが、家の記録だけではなくなった。


「これは強いね」


 エリオットが小声で言う。


「うん」


 シュウも頷く。


 だが、その横でユリウスは記録の上部を見ていた。


「シュウ」


「何?」


「この一覧、誰が責任者?」


 シュウも上を見る。


 北部旧所春季役務。


 担当者一覧。


 一番上にある名前は――


『北部管理役 ゲオルグ・ハーゼン』


 三人の間に沈黙が落ちた。


 ゲオルグ。


 約百九十年前の北部管理役。


 家側記録で「封所異常なし」と残っていた人物。


 その下にレオル。


「二人同じ時期?」


 エリオットが眉を寄せる。


「年代を確認しよう」


 シュウは頁上部の年を見た。


 文字がかなり薄い。


 閲覧鏡を使う。


 拡大された文字を三人で確認する。


「……百七十何年前?」


「最後の数字が潰れてる」


「ゲオルグの活動記録は約百九十から百八十年前だったはず」


「レオルは約百七十年前」


 同じ役務一覧に二人がいるなら、今まで想定していた活動年代の幅を見直す必要がある。


 あるいは。


「別のゲオルグ?」


 エリオットが言った。


 シュウはすぐ答えなかった。


 あり得る。


 同じ家で同名。


 年代が近いならなおさら、完全には排除できない。


「名前だけで同一人物とは決めない」


 シュウが言う。


「うん」


 ユリウスが頷く。


「役職は同じだけど」


「それでも」


「家の記録か、人名録で活動年をもう一回確認した方がいい」


「そうする」


 シュウはノートへ、


『役務一覧にゲオルグ・ハーゼン+レオル・ハーゼン同時記載。既知人物と同一か要確認。年代文字不鮮明。同名別人可能性を残す。』


 と記した。


 嬉しい発見があっても、その勢いで次まで決めない。


 学院へ来てから、少しずつ身についてきたやり方だった。


     ◇


 資料の閲覧時間が残り少なくなった頃、三人は最後に東部旧所関連の頁番号だけ控えた。


 地図との照合は別の日にする。


 今日はここまで。


 マティアスへ資料を返却すると、彼は頁の状態を確認してから保存箱へ戻した。


「必要な箇所は確認できましたか?」


「はい。ありがとうございます」


「再度閲覧する場合は同じ手続きになります」


「分かりました」


 シュウは一度離れかけて、振り返る。


「あの」


「はい?」


「古い役務記録に同じ名前があって、同一人物か調べたい場合って、どうするのが一番いいですか?」


 マティアスは少し考えた。


「名前だけでなく、役職、活動年、所属、家族関係、署名の有無を比較します。任命記録や給与記録が残っていれば有効ですね」


「給与記録」


「役職名は引き継がれても、給与の受取人記録には本人識別のため居住地や家長名が添えられることがあります」


 ユリウスがすぐノートを出した。


「ローデル林区の給与記録は学院にありますか?」


「全期間ではありません」


 マティアスは索引帳を確認する。


「北部関係ですと……『ローデル林区支給台帳・残巻』があります。ただ、保存状態が悪いため閲覧には教員の確認が必要です」


「学生だけじゃ無理?」


「申請自体はできますが、担当教員の署名が必要です」


 三人は顔を見合わせた。


「急がなくていいか」


 シュウが言う。


「うん」


 ユリウスも頷く。


「まず今ある資料」


「そうしよう」


 新しい資料を見つけるたび、全部に飛びついていたら終わらない。


 シュウは資料名だけ記録し、今日は申請しなかった。


     ◇


 図書館を出る頃には、外はすっかり夕暮れだった。


 厚かった雲は少し切れ、西の空だけが淡い橙色に染まっている。


 三人が食堂へ向かう途中、第一実技棟から出てきたダンとセシリアに会った。


「おっ!」


 ダンがこちらへ手を上げる。


「どうだった?」


「そっちこそ」


「今日は完璧!」


 ダンが胸を張る。


 その横でセシリアが僅かに首を傾げた。


「完璧、ではないと思います」


「セシリア!」


「でも昨日より良くなっていました」


「ほら!」


「最後の一回だけ停止が遅れましたけど」


「そこ言う!?」


 シュウたちは笑った。


「セシリアは?」


「風の停止時の乱れを見ていただきました。止めようと意識しすぎて、最後に流れを押してしまっていたようです」


「押す?」


「はい。消すのではなく、別方向へ動かしてしまっていたみたいで」


「それ分かったの大きいね」


「私もそう思います」


 セシリアは嬉しそうに頷いた。


 それからシュウたちの顔を見る。


「図書館はどうでした?」


「見つかった」


 シュウが答える。


「答えが?」


「いや。材料が増えた」


「また?」


 ダンが笑う。


「でも、かなり大きいと思う」


 シュウは地下施設や封所の詳細には触れず、話せる範囲で説明する。


「調べてた保持用の材料が、北だけじゃなく東側の古い施設でも使われてた。それと、家の記録に出てきた言葉と同じものが学院の資料にもあった」


「じゃあ家の記録が正しかったってこと?」


「少なくとも、その言葉が家だけで使われてたわけじゃない可能性が高くなった」


「へえ……」


 ダンは少し考える。


「じゃあ、その東の施設って今もあるの?」


「分からない」


「場所は?」


「それもまだ」


「何に使ってた?」


「それも分からない」


「分からないこと多いな!」


「だから調べてるんだよ!」


 シュウが笑いながら返す。


 その横でセシリアは少し違うところへ気づいたらしい。


「でも、北だけ特別だと思っていたものが、東にもあったかもしれないんですよね?」


「うん」


「それなら、北のものが何だったのかを考えるためにも、東側を調べる意味がありそうですね」


 シュウは少し目を見開いた。


「俺たちも同じこと考えてた」


「そうなんですか?」


「地図にも東側に似た印があるんだ」


 そこまでなら、地下施設の秘密には触れない。


 セシリアは納得したように頷いた。


「比較できるものがあるなら、一つだけを見るより分かりやすそうです」


「うん」


 ユリウスも静かに同意した。


 ダンは難しそうな顔をしてから、やがて言った。


「つまり、北だけ見てても分かんないかもしれないってこと?」


「たぶんね」


「じゃあ東も見る」


「簡単に言うなあ」


「だってそうだろ?」


 理屈としては単純だ。


 だからこそ、シュウは少し笑った。


「うん。そうだね」


     ◇


 夕食後。


 317号室。


 シュウは机へ北方調査ノートを広げ、今日の内容を改めて整理していた。


 窓の外では雲が流れ、時折、月の淡い光が学院の屋根を照らしている。向かいの机ではエリオットが授業課題を進めており、ペンが紙を擦る音だけが静かな部屋へ続いていた。


『白材・保持用』


『北部旧所――春季補修。保持用四、導線材一式。「前年より保持弱し。継ぎに先立ち交換」』


『東部旧所――保持部補修。保持用二、小型魔石二。別年「保持部異常なし。白材交換不要。魔石残量良」』


『保持用白材は北専用ではない。』


『北部・東部旧所には、少なくとも記録上、類似した「保持」管理が存在した可能性。目的・構造の同一性は未確定。』


 さらに別欄。


『レオル・ハーゼン――北部管理補佐。保持部確認、資材受領立会、継ぎ補助。家資料の「今年の継ぎ、レオルに任す」と独立に接続。』


『ゲオルグ・ハーゼン+レオル・ハーゼン同一役務一覧。年代不鮮明。既知のゲオルグと同一人物か未確認。同名別人可能性あり。』


『確認候補――任命記録、支給記録、家長名、居住地、署名。』


『『ローデル林区支給台帳・残巻』学院所蔵。保存状態悪。閲覧には担当教員署名必要。現時点では申請しない。』


 最後に、今日の授業で聞いた内容を一行加える。


『行政組織の消滅と、管理役務の消滅を同一視しない。』


 ペンを置く。


 ノートを見れば、分からないことはまだ多い。


 それでも、数日前とは違う。


 ハーゼン家。


 ローデル林区。


 北部旧所。


 継ぎ。


 白材。


 保持。


 魔石。


 それぞれ別々だった言葉の間に、少しずつ資料上の接点が増えている。


(でも、北だけじゃなかった)


 そこが今日一番大きかった。


 もし北部旧所だけに保持用白材や魔石が使われていたなら、それらを北の封所固有のものだと思ってしまったかもしれない。


 だが東にもある。


 なら、保持用白材も魔石も、もっと広い管理技術の一部だった可能性がある。


 その上で、北だけに何か別の役割があったのか。


 あるいは、北も東も同じ仕組みだったのか。


 調べる方向が増えた。


「シュウ」


 エリオットが課題から顔を上げた。


「何?」


「今、楽しそう」


「え?」


「難しい顔してるけど、ちょっと楽しそう」


 シュウは自分の頬へ触れた。


「そんな顔してた?」


「してた」


「謎が増えたんだけど」


「だからじゃない?」


 言われて、少し考える。


「……そうかも」


「やっぱり」


「でも解けないのは困るよ」


「解けないから調べてるんだろ?」


 昼間、ダンへ言った言葉をそのまま返された。


 シュウは苦笑した。


「それ言われると何も返せない」


「じゃあ今日は終わり?」


「うん」


「本当に?」


「今日は終わり」


 シュウはノートを閉じた。


《マスター》


(今日はもう黒歴史の話しないからね)


《まだ何も申し上げておりません》


(最近その流れ多いんだよ)


《では調査に関する真面目な提案を》


 意外だった。


(何?)


《東部旧所を調査されるのであれば、地図上の位置だけでなく、周辺の旧水路および地形変化も比較することを推奨します》


 シュウは閉じたばかりのノートへ手を置いた。


(理由は?)


《保持機構が何を対象としていたかによって、必要な立地条件が異なる可能性があります。地下へ何かを送る施設、境界を維持する施設、周辺魔力を集める施設では、同じ「保持部」であっても配置条件が異なるでしょう》


 シュウは少し黙った。


 確かに。


 北と東に似た施設があるなら、位置関係を見る意味がある。


 川。


 街道。


 森。


 高低差。


 旧境界。


 他の施設。


 以前オルドが教えた、「建物だけでなく周囲を見る」という考え方にも合う。


(それ、いいかも)


《ありがとうございます》


(珍しく本当に普通の提案だ)


《では続けて、過去のマスターが考案した「四方封界大陣」について――》


(やっぱり来た!)


《北・東・南・西の四施設によって世界の魔力脈を――》


(聞かないからね!)


 シュウは慌てて頭の中で遮った。


 向かいからエリオットが見ている。


「また?」


「また」


「今度は?」


「東側も調べるなら、昔の水路とか地形も見た方がいいって」


「まともじゃん」


「そこまではね」


「その後は?」


「聞かなかった」


「正解だと思う」


「俺もそう思う」


 二人で笑う。


 それでも、最初の提案は使える。


 シュウは結局もう一度ノートを開き、最後に短く書き足した。


『東部旧所候補――地図記号だけでなく、旧水路・街道・地形・境界・周辺施設と比較する。』


 今度こそノートを閉じる。


 答えは、まだ遠い。


 けれど今日、北だけを見ていた視線が東へ広がった。


 それは謎が増えたというだけではない。


 一つしかなかった比較対象が、二つになったということでもある。


 北部旧所と東部旧所。


 もし二つに共通するものが分かれば、「保持」の仕組みへ近づけるかもしれない。


 逆に違いが分かれば、北にだけ残された役割が見えるかもしれない。


 そしてその先に、北の封所が何を眠らせているのかという問いがある。


 シュウは消灯前の部屋で、閉じたノートへ一度だけ視線を落とした。


 急ぐ必要はない。


 明日も授業がある。


 友人たちとの学院生活もある。


 家からの返事も、まだ待っている途中だ。


 調べられるものから、一つずつ確かめればいい。


 窓の向こうでは雲の切れ間から月が現れ、王立魔法学院の石造りの建物を淡く照らしていた。

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