第4話 母さんに怒られたあと、黒い森の話をしよう
アルヴェイン家の屋敷へ戻ったころには、西の空に残っていた夕焼けもほとんど消えかけていた。領都の家々では一つ、また一つと明かりが灯り始め、昼間には商人や荷馬車で賑わっている通りにも、仕事を終えて家路につく人々の姿が増えている。
窓を少し開けていると、夕食を作っているらしい香ばしい匂いが風に混じって流れ込んできた。いつもなら腹が減ったとでも言いながら家族で帰る時間なのに、今日の馬車の中には普段とは違う重たい空気が残っている。
街道で救助した男は、後ろを走る別の馬車へ寝かせていた。同行していた騎士の一人が付き添っており、屋敷へ到着したらすぐに領都の治癒術師を呼ぶことになっている。
シュウの向かいでは、ローデリックが腕を組んだまま目を閉じていた。眠っているようには見えず、おそらく先ほど起きたことを整理しながら、領主として次に何をすべきか考えているのだろう。
隣に座っているレイモンドも普段より口数が少なかった。ときおり窓の外へ視線を向けては眉を寄せており、いつものように弟をからかう気分ではないらしい。
シュウも、自分から話を始める気にはなれなかった。
街道へ倒れていた男の身体に絡みついていた黒紫色の糸と、地中から現れた巨大な根。それだけでも十分に異常だったのに、最後には普通の樹木だったと思われるものが、異質な魔力によって巨大な怪物へ変貌していた。
《聖澄浄界》によって異質な魔力の大部分を取り除くことには成功したが、あれで何もかも終わったわけではない。むしろ救助した男が意識を取り戻したことで、シュウたちはもっと厄介な事実を知ることになった。
北の森でも木々が黒くなっている。それも一本ではなく、男を逃がした二人の仲間が今も森に残されている。
『……アルカディア』
《はい、マスター》
『さっきの人、助かると思う?』
シュウは窓の外を眺めたまま、胸の内側にいるアルカディアへ問いかけた。今は男と別の馬車に乗っているため直接確認することはできないが、最後に見たときの顔色は決して良いものではなかった。
《街道で最後に確認した時点では、生命反応そのものは安定傾向にありました。ただし衰弱が強いため、早急な休息および治療が必要であるという判断に変更はありません》
『黒い糸を切った影響は?』
《現時点では判断できません。あの糸が対象者へ及ぼしていた作用について、十分な情報がありません》
『やっぱり、そこまでは分からないか』
アルカディアは、神代修司が十四歳のころに書いた設定についてなら本人より詳しい。しかし、この世界そのものについて何もかも知っている存在ではなく、初めて遭遇した現象については観察と分析を重ねなければ答えを出せない。
昨夜までは、そのことに少し安心していた。自分の知らないことまで何でも知っている存在が胸の中にいるというのも怖いと思っていたからだが、今ばかりは少しくらい万能でもよかったのにと思ってしまう。
《マスターは、救助対象者を心配していますか?》
『それもあるけど、森の方もな』
シュウは小さく息を吐いた。
『北の森って、俺も何度か行ったことがあるんだ。小さいころは父さんに連れていってもらったし、少し大きくなってからは兄さんや騎士たちと薬草を採りに行ったこともある』
もちろん、森の深部まで自由に歩き回ったわけではない。それでも北部森林は、シュウにとって地図の上に名前だけが記された未知の場所ではなかった。
春には若葉が増え、夏には木陰が涼しく、秋になれば狩りや木の実の採取に入る者が増える。危険な魔物も存在するが、領内の騎士や狩人によって定期的に確認されており、少なくとも街道に近い範囲は子供のころから見慣れた場所だった。
『だから余計に気持ち悪いんだよ。昨日まで普通だった場所が、急に知らない場所になったみたいでさ』
《理解しました。マスターにとって北部森林は、単なる調査対象ではなく生活圏の一部なのですね》
『……そういうこと』
アルカディアの言葉が妙にしっくりきた。
今までそこにあって当たり前だった場所だからこそ、突然変わってしまった可能性が怖い。しかも、森には今も二人の人間が取り残されている。
「シュウ」
不意にローデリックから呼ばれ、シュウは窓の外から父へ視線を戻した。
「屋敷へ戻ったら、先ほどの異常について詳しく聞かせてもらう。お前に見えていたものと、あの魔導書から分かったことも含めてだ」
「あの魔導書のことも?」
「当然だろう。昨日突然現れたものが、今日の異常について何らかの分析を行えたのなら、無関係とは考えない方がいい」
「いや、関係あるかどうかは分からないけど……」
シュウは思わず言葉を濁した。
禁書アルカディアについて、どこまで家族へ説明するべきなのかは昨日からずっと悩んでいる。家族を信用していないわけではないが、その正体を説明するためには前世の話から始めなければならない。
自分は神代修司という名前で一度人生を送り、その記憶を持ったままこの世界に生まれた。そして十四歳だったころ、全力で格好いいと思いながら書いた妄想だらけのノートが、なぜか本物の魔導書になって現れた。
そんな説明を家族の前でする自分を想像しただけで、別の意味で倒れそうになる。
「俺自身、あの魔導書について分かってないことが多いんだよ。なんで俺のところに現れたのかも、なんであんな力が使えるのかも分からない」
嘘ではない。
むしろ一番重要な部分については、本当に何一つ分かっていない。
ローデリックは息子の顔をしばらく見つめていたが、それ以上無理に問い詰めることはしなかった。
「なら、今分かっている範囲でいい。ただし、都合が悪いからという理由で必要な情報まで隠すのはやめろ」
「父さん、たまに俺の考えてること分かってない?」
「十七年、お前の父親をやっているからな」
「それだけで分かるものなの?」
「少なくとも、お前が何かを誤魔化そうとしている顔くらいは分かる」
ローデリックが僅かに口元を緩める。
シュウは助けを求めるようにレイモンドを見たが、兄は窓の外を見たまま肩を竦めただけだった。
「諦めろ。父上だけではなく、母上にも大抵ばれている」
「俺、そんなに分かりやすい?」
「かなり」
「兄さんにまで即答された……」
《私も同意します》
『お前まで参加しなくていい』
心の中で抗議すると、アルカディアは《承知しました》とだけ返した。
そのまま会話が途切れたところで、馬車が緩やかに速度を落とした。窓の外を見るとアルヴェイン家の屋敷へ続く門が近づいており、門前には数人の使用人と騎士が待機している。
先触れを受け、すでに受け入れの準備をしていたらしい。馬車が完全に止まると、騎士たちはすぐ後方の馬車へ向かい、救助した男を慎重に運び出し始めた。
「一階の客室を使え。寝台へ運び、治癒術師が来るまで安静にさせるんだ。身体に異常な魔力が残っている可能性があるから、必要以上に素手で触れるな」
「承知しました!」
馬車を降りたローデリックが矢継ぎ早に指示を出し、騎士たちがそれぞれの役割へ動いていく。
シュウも馬車から降りようとしたところで、屋敷の玄関前に立っている人物に気づいた。
「あなた」
穏やかな声だった。
それなのに、先ほどまで騎士へ指示を出していたローデリックの動きが僅かに止まった。
エレノア・アルヴェインが玄関前で待っていた。
淡い色の長い髪を後ろでまとめ、普段と変わらない優しげな表情を浮かべている。怒っているようには見えないのだが、その姿を見た瞬間、なぜかシュウの背筋まで自然と伸びた。
「ずいぶん遅かったのね」
「ああ。街道で少し問題があった」
「聞いているわ」
「……もう?」
思わずシュウが口を挟むと、エレノアの視線がゆっくりと息子へ移った。
「先に戻った騎士から、街道で倒れていた方を救助したことと、そこで大きな魔物のようなものが現れたことまでは聞きました。それから、シュウがその相手と戦ったことも」
「そこまで報告したの誰!?」
「必要な報告だろう」
ローデリックが当然のように答えた。
「父さん、もっとこう……母さんを心配させない言い方とかあるでしょ」
「事実を隠して、あとからエレノアに知られた場合、俺まで叱られる」
「息子を守ろうよ!」
「理不尽に叱られているなら守る。正当な理由なら一緒に話を聞け」
味方になってくれる気配がない。
シュウは今度こそレイモンドへ視線を向けたが、兄はちょうど馬車の反対側へ移動しようとしていた。
「レイモンド」
エレノアの声が飛ぶ。
兄の足が止まった。
「どこへ行くの?」
「救助した男性の様子を確認しようかと思いまして」
「騎士の皆さんが運んでくださっていますよ」
「……そうですね」
「なら、あなたも一緒に来てください」
「はい、母上」
レイモンドが素直に戻ってくる。
シュウはその様子を見て、少しだけ心強くなった。
「兄さん」
「なんだ?」
「仲間だね」
「嬉しくない」
「そこは喜んでよ」
そんな兄弟のやり取りを見ていたエレノアは、小さく息を吐いた。
「まず中へ入りましょう。シュウは怪我をしていないの?」
「してないよ。本当に大丈夫」
「熱は?」
「ないと思う」
「痛いところは?」
「ない」
「気分が悪かったり、息苦しかったりは?」
「それもないよ」
答えながら玄関へ向かうと、エレノアの手がシュウの額へ伸びてきた。子供のころから何度もされたように手のひらで熱を確かめられ、シュウは少し気恥ずかしくなって視線を逸らす。
「熱はなさそうね。でも、あなたの『大丈夫』だけで全部判断するつもりはありませんからね」
「十七歳なんだけど」
「何歳でも息子は息子でしょう?」
「それ、さっき父さんにも言われた」
「なら、夫婦で意見が一致したわね」
エレノアは少しだけ笑った。
その笑顔を見て、シュウもようやく肩の力を抜いた。
屋敷へ入ると、応接室へ通された。救助した男の対応は騎士と使用人に任せ、治癒術師が到着するまでの間に、ローデリックから今日起きたことを説明することになった。
使用人が水と濡らした布を用意してくれたところで、シュウは初めて自分の服が思った以上に汚れていることへ気づいた。街道で何度も跳び回り、風を使って土を巻き上げ、根を避けたときには地面へ片膝までついているため、靴もズボンもかなり泥にまみれている。
「……これは心配されても仕方ないか」
「何か言った?」
「いや、母さんの判断は正しいなって」
「急に素直になったわね」
「自分の格好を見たら、ちょっとね」
エレノアは呆れたように笑い、それ以上は追及しなかった。
全員が席へ着くと、ローデリックが街道での出来事を順番に説明していった。男を発見したときには周囲の草が黒く変色しており、シュウだけがそこに漂う異常な魔力を認識できたことから始まり、風を使った救助、身体へ繋がっていた黒紫色の糸、地中から出現した巨大な根についても省略せず伝える。
できれば危険だった部分は少しくらい軽く話してほしいとシュウは思ったが、領内で起きた異常事態である以上、ローデリックに隠すつもりはないらしい。
「その後、地中から巨大な樹木のようなものが現れた。シュウの魔導書による分析では、元々は普通の木だった可能性が高いらしい」
「普通の木が?」
「ああ。何らかの異質な魔力が外部から入り込み、変質させられた可能性があるそうだ。ただし、原因が自然のものか、人為的なものかまでは分かっていない」
エレノアの表情から柔らかさが消える。
「それで、その木と戦ったのね」
「うん」
「どのくらい危なかったの?」
シュウは一瞬だけ迷った。
大丈夫だったと言えば、完全な嘘になる。
巨大な根に追われたときも、赤黒い魔力を正面から受け止めたときも、確かに怖かった。
「……思ってたより怖かった」
素直に答えると、エレノアは何も言わず続きを待った。
「朝に訓練場で武器を試したときとは全然違ったよ。相手が本当にこっちを攻撃してきて、避け方を間違えたら怪我するって分かったし、後ろには父さんたちもいたから、俺だけ避ければいいわけでもなかった」
「そう」
「水の盾で一度攻撃を受けたんだけど、その盾も途中から黒くなり始めた。だから光の大剣に変えて、それで残りを防いだんだ」
エレノアの眉が僅かに寄る。
「盾が駄目になりかけたの?」
「完全に壊れたわけじゃないよ。でも、あのまま受け続けるのは危なかったと思う」
「それでも戦い続けたのね」
「逃げたら、後ろにみんないたから」
口にしてから、シュウは少しだけ俯いた。
それが間違っていたとは思っていない。
ただ、母が心配する理由も分かる。
「エレノア」
ローデリックが静かに口を挟んだ。
「シュウは無闇に攻撃したわけではない。炎の槍なら大きな損傷を与えられる可能性があったが、周囲への被害を考えて使用しなかった。最後には木を破壊するのではなく、異常な魔力だけを取り除く方法を選んでいる」
「それが、先ほど聞いた浄化の魔法?」
「うん。《聖澄浄界》っていう……」
自分で名前を口にした瞬間、昨日まで存在しなかったはずの恥ずかしさが改めて込み上げてきた。
エレノアはそんな息子の反応には気づかず、むしろ感心したように目を細める。
「綺麗な名前ね。どんな魔法なの?」
「母さん、そこは深掘りしなくていいよ」
「なぜ?」
「俺の心を守るため」
「危険な魔法なの?」
「違う。そういう意味じゃない」
説明すればするほど苦しくなる。
レイモンドまで会話へ加わった。
「詠唱も術の性質に合っていたぞ。穢れを洗い、傷つく命へ清き流れを、だったか」
「兄さん、なんで覚えてるの!?」
「聞こえたからだが」
「忘れて!」
「良い詠唱なのに?」
「その真面目な評価が一番きついんだって!」
シュウが頭を抱えると、エレノアは困惑しながらローデリックを見る。父も意味が分からないらしく、夫婦そろって似た表情をしていた。
《ご家族から非常に高い評価を得ています》
『お前まで参加するな』
《事実を報告したのみです》
『それがいらないんだよ』
胸の内側で返しながら、シュウは水を一口飲んだ。
エレノアはまだ不思議そうだったが、それ以上詠唱について尋ねることはせず、少し間を置いてからシュウへ視線を戻した。
「私は、あなたが誰かを助けたことを怒っているわけではないのよ」
「うん」
「街道に倒れている人を見捨てなかったことも、家族や騎士の皆さんを守ろうとしたことも、悪いことだとは思っていません。ただ、昨日まで知らなかった力を手に入れたばかりのあなたが、その翌日に命を落とすかもしれないような戦いをしたと聞けば、母親として心配するのは当然でしょう?」
声を荒らげることもなく、エレノアは静かに話した。
「もうすぐ学院へ行けば、私たちはすぐそばにはいられません。何かあったときには自分で考えて、自分で判断しなければならないことも増えるでしょう。だから、力があるから大丈夫だとは思わないでほしいの」
「……うん」
「誰かを助けるために危険へ向かうことと、自分の命を軽く扱うことは違います。そこだけは忘れないで」
シュウはすぐに返事をせず、母の言葉を胸の中で繰り返した。
街道では父から、強い力ほど使う場所と加減を考えなければならないと教えられた。今度は母から、自分自身まで力の代償として扱ってはいけないと教えられている。
昨日突然力を得たからといって、父や母から教わることがなくなったわけではない。むしろ、自分が扱えるものが大きくなったからこそ、今まで以上に必要なのかもしれなかった。
「分かった。今日も途中で、ちょっと調子に乗りそうになったから」
「そうなの?」
「炎の槍なら倒せるかもって思った。でも、父さんに止められて使わなかった」
「周囲まで燃える可能性があったからな」
ローデリックが補足すると、エレノアは少しだけ安心したように息を吐いた。
「なら、きちんと止まれたことは覚えておきなさい。自分で止まれなかったときに、周りの人の言葉を聞けることも大切ですから」
「うん」
「それで、今日はこれ以上危険なことをしないこと」
「もちろん」
「北の森へ行くと言い出したりもしないこと」
シュウの返事が止まった。
その僅かな沈黙だけで、エレノアには十分だったらしい。
「シュウ?」
「いや、その件なんだけど……」
「何かしら?」
「俺、役に立てる可能性はあると思う」
エレノアの表情が変わる。
シュウは慌てて続けた。
「今から行くって話じゃないよ。父さんにも止められたし、夜の森へ入るつもりもない。ただ、今日の黒い魔力は俺にしか見えてなかった部分もあったから、明日調査するなら役に立てるかもしれないってだけ」
「危険な場所へ行きたい気持ちは?」
「……少しはある」
「シュウ」
「嘘をつくよりいいでしょ?」
エレノアは額へ手を添えた。
ローデリックが苦笑しながら会話を引き取る。
「同行させるとはまだ決めていない。そもそも明朝すぐ森へ入るかどうかも、救助した男から情報を得てから判断する」
「森に残っている二人は?」
「もちろん救助を優先する。ただし、場所も状況も分からないまま夜間に人員を送り込めば、救助する側まで遭難しかねない」
エレノアは夫の言葉を聞き、しばらく考えてから頷いた。
「分かりました。ただ、シュウを連れていく場合は私にもきちんと説明してください」
「ああ」
「俺にも決定権は?」
「ある」
ローデリックが答えた。
「ただし、お前一人で決めることではない」
「……はい」
そこは素直に受け入れた。
そのとき、応接室の扉が控えめに叩かれた。
「旦那様、失礼いたします」
「入れ」
入ってきた騎士が一礼する。
「治癒術師が到着しました。救助した男性の診察を始めています」
「状態は?」
「大きな外傷は確認されていません。ですが、一つ気になるものがあるとのことです」
ローデリックの表情が引き締まる。
「何だ?」
「左腕に、黒い筋のようなものが残っています」
シュウはすぐに立ち上がった。
「見に行っていい?」
「行く。ただし治癒術師の邪魔はするな」
「分かってる」
ローデリックに続いて応接室を出る。レイモンドとエレノアも後ろからついてきた。
救助した男が寝かされているのは、一階の客室だった。
室内には薬草と湯の匂いが漂い、寝台の脇では治癒術師が男の左腕を確認していた。領都で長く治療を行っている五十代ほどの男性で、アルヴェイン家の人間も何度か世話になったことがある。
男の顔色は街道で見たときより僅かに良くなっている。
問題は左腕だった。
袖を肩近くまで捲られた腕には、手首の少し上から肘へ向かって黒紫色の細い筋が伸びている。血管が皮膚の下で黒く染まったようにも見えるが、シュウが目を凝らすと、そこから微かな異質魔力が滲んでいることが分かった。
『アルカディア、見える?』
《確認しています》
シュウは寝台から少し距離を取ったまま、その魔力を観察した。
街道で男の身体へ絡みついていた黒紫色の糸ほど濃くはない。しかし性質はよく似ており、完全に切り離せたと思っていたものが、まだ男の中に残っているらしい。
「今日見たものと似てる」
シュウが呟くと、ローデリックが隣から尋ねた。
「街道の異常魔力と同じものか?」
「完全に同じとは言い切れない。でも、かなり近いと思う」
治癒術師がシュウへ顔を向けた。
「シュウ様には、この黒い部分の魔力まで見えるのですか?」
「昨日から、前より細かく見えるようになったんです」
「なるほど。私にも異常な魔力が残っていること自体は感じられるのですが、性質までは判別できません」
治癒術師は男の腕へ視線を戻した。
「通常の治癒魔法を試しましたが、この黒い筋にはほとんど変化がありませんでした。傷ではなく、毒とも異なります。呪詛に近い反応もありますが、私が知るものとは一致しません」
「命に関わる可能性は?」
エレノアが尋ねる。
「現時点では分かりません。ただ、衰弱そのものは少しずつ改善しています。今夜しっかり休ませることができれば、明朝までに再び意識を取り戻す可能性は十分あります」
それでも治癒術師の表情は晴れなかった。
原因の分からないものが身体に残っている以上、安心できないのだろう。
『アルカディア。この黒いの、消せる?』
《手段は存在します》
『《聖澄浄界》?』
《有効である可能性はありますが、現在は水形態の深奥技使用後であるため、水形態そのものが選択期間終了まで使用不能です》
『それ以外は?』
《現在の《心装武器》選択期間終了後、治癒系能力を選択する方法があります》
シュウは僅かに眉を寄せた。
昨夜、アルカディアから能力の分類だけは聞いている。その中には確かに治癒系も存在していたが、詳しい内容までは確認していなかった。
『一番確実そうなのは?』
《登録されている治癒系能力では、《生命回帰》が最も適しています》
『効果は?』
《対象が生存している限り、肉体および生命活動を正常状態へ回帰させます。外傷、骨折、臓器損傷、失血、毒、病、呪詛、異常魔力汚染等に対応可能です》
そこまでは、強すぎるとは思っても理解できた。
だが、アルカディアの説明はまだ続いた。
《欠損部位についても、対象が生存している場合は再生可能です》
シュウは思わず男の腕から視線を外した。
『ちょっと待って。腕とか脚がなくなってても?』
《はい》
『それ、本当に治癒魔法って呼んでいいの?》
《登録上は治癒系能力です》
十四歳の自分は、やはり加減というものを知らなかったらしい。
『死んだ人まで戻せたりは?』
《できません。対象が生存していることが絶対条件です》
そこだけは越えられない。
とはいえ、生きてさえいれば重傷も病も異常魔力汚染も治せるというのなら、この世界の治癒魔法と比べても明らかに常識外だろう。
『次にそれを選んだら、《心装武器》は二十四時間使えないんだよな?』
《はい。恒常能力および《漆黒魔力》は引き続き使用できますが、別の選択能力へ変更することはできません》
シュウは黙って男を見つめた。
北の森には二人残っている。
もし明日、自分が森へ行くことになった場合、《心装武器》があれば戦闘だけでなく防御や移動、救助にも使える。一方で《生命回帰》を選べば、見つけた二人が重傷でも生きてさえいれば助けられる可能性が高い。
昨日、二十四時間に一つだけという制限を聞いたときは、面倒な設定を作ったものだと思った程度だった。
今は、その意味が違って見える。
一つを選ぶということは、その一日、別の力を捨てることでもある。
「シュウ?」
エレノアに呼ばれ、シュウは意識を現実へ戻した。
「何か分かったの?」
「この黒い魔力を消せる可能性がある力はある。でも、今は使えない」
「なぜだ?」
ローデリックへ向き直り、シュウは昨夜知った仕組みを説明することにした。
「俺があの魔導書から使える特殊な力には制限があるんだ。一つ選んだら、その能力で二十四時間固定される。今は《心装武器》を選んでるから、別の能力には切り替えられない」
「では、今日使っていた六種類の武器は?」
レイモンドが尋ねる。
「あれは六つ全部で一つの能力扱いなんだ。だから炎から風、風から光みたいに武器の形を変えることはできる」
「なるほど。好きな力を必要なときに何でも使えるわけではないのか」
「そういうこと」
ローデリックは少し考える。
「その黒い筋を消せるという別の力は、治癒魔法なのか?」
「たぶん、治癒魔法って呼んでいいと思う」
「どの程度のものだ?」
シュウは答える前に一瞬だけ迷った。
家族に隠すなと言われたばかりだ。
しかし、効果をそのまま説明すれば間違いなく驚かれる。
「……生きていれば、ほとんど何でも治せるみたい」
室内が静かになった。
治癒術師が最初に反応する。
「ほとんど何でも、ですか?」
「傷とか、毒とか、病気とか、呪いとか。さっきの黒い魔力みたいなものも対象にできるらしいです」
「欠損した部位は?」
さすが専門家なのか、すぐにそこまで聞かれた。
シュウは諦めて答える。
「……生きていれば、戻せるみたいです」
治癒術師の表情が完全に止まった。
レイモンドも驚きを隠さず弟を見ている。ローデリックでさえすぐには言葉を返さず、エレノアは能力そのものよりも、そんな力を突然持つことになった息子を心配するように見つめていた。
「シュウ様」
治癒術師がようやく口を開く。
「それが本当に可能なら、少なくとも私が知る治癒魔法とは別の領域にあります。王都の高位治癒術師でも、失われた部位を完全に再生させるなど容易なことではありません」
「やっぱり、そうですよね」
「『やっぱり』で受け止められる話でもありませんが……」
「俺も昨日知ったばかりなので」
治癒術師は何か言おうとして、結局言葉を飲み込んだ。
《非常に高い評価を得ています》
『これに関しては褒められても恥ずかしくないけど、怖いんだよ』
《能力の社会的影響についてでしょうか》
『そう』
失った腕を戻せる。
治らない病を治せる。
強力な毒や呪いまで消せる。
そんな力が広く知られたら、助けを求める人間がどれほど現れるのか想像もできない。しかもシュウには、一日に選べる能力は一つだけという制限がある。
誰かを助ければ、その日に別の誰かを助けられない可能性がある。
力が強ければ、それだけで簡単になるわけではない。
「この治癒能力については、今のところ不用意に外へ話さない方がいい」
ローデリックも同じことを考えたらしい。
「特に欠損まで治せるという部分はな。治癒術師殿も頼む」
「もちろんです。患者について必要な範囲以外で口外するつもりはありません」
「シュウも学院で軽々しく話すな」
「分かってる」
ローデリックは頷き、それ以上は追及しなかった。
「今夜はこの男の回復を待つ。明朝までに意識が戻れば、森で何があったのか詳しく聞く。そのうえで救助隊を出すか、どの程度の人数を動かすか決める」
「俺が行くかどうかも?」
「ああ。それも含めてだ」
シュウは頷いた。
治癒術師へ男を任せ、全員で客室を出る。
廊下へ出ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。屋敷の中には夕食の匂いが漂っており、緊張が途切れた途端、シュウの腹が小さく鳴った。
レイモンドが隣を見る。
「腹は正直だな」
「仕方ないだろ。昼から結構動いたんだから」
「それだけ食欲があるなら、少し安心した」
「兄さんまで母さんみたいになってない?」
「家族だから心配しているだけだ」
言い方まで似ている。
シュウが何とも言えない顔をすると、少し前を歩いていたエレノアが振り返った。
「今日は遅くなったから、先に食事にしましょう。それとシュウ、食べ終わっても新しい魔法を試すのは禁止です」
「まだ何も言ってないよ」
「試そうと思っていたでしょう?」
「……少しだけ」
「禁止です」
「はい」
今度は素直に返事をした。
夕食は普段より遅くなったため、温かなスープと焼いた肉、柔らかなパン、野菜の煮込みを中心にした簡単なものだった。それでも空腹だったシュウには十分で、最初の数口を食べたところで、身体がようやく一日の疲労を思い出したように重く感じられた。
「ゆっくり食べなさい」
向かいからエレノアに言われ、シュウはパンを口へ運ぶ速度を少し落とした。
「戦ったあとって、こんなに腹減るんだな」
「魔力もかなり使ったのではないか?」
レイモンドがスープを飲みながら尋ねる。
「たぶん。でも、どのくらい使ったのか自分でもよく分からない」
《現在のマスターの魔力量について報告可能です》
『今はご飯食べさせて』
《承知しました》
胸の中から聞こえる声を無視して食事を続けていると、ローデリックが北部森林について話し始めた。
「ここ数日、森から異常の報告は上がっていない。昨日も街道に近い区域へ採取に入った者がいるが、黒い木を見たという話はなかった」
「じゃあ、本当に今日になって急に広がったのかな」
「それはまだ分からん。もっと奥で以前から起きていたものが、今日になって街道付近まで広がった可能性もある」
「今日の木が、森から移動してきた可能性は?」
「それも否定できない。ただ、元々街道脇に生えていた木が変質した可能性もある。明るくなってから周辺を調べる必要があるな」
まだ分からないことばかりだった。
それでもローデリックは、分からないからこそ無理に答えを決めようとはしていない。街道で自分に慎重に動けと言ったときと同じように、一つずつ確認するつもりなのだろう。
「明日、森へ向かうとしても大人数は動かさない」
「救助隊なのに?」
「何が起きているか分からない場所へ人数を入れすぎれば、異常が起きたとき被害まで増える。まず必要なのは、森に残された二人の救助と状況確認だ」
ローデリックはテーブルの上へ指を置き、順番を確認するように続けた。
「二人を探し、生存しているなら救助する。その過程で可能な範囲だけ異常の広がりを確認し、全員で戻る。原因の特定や異変そのものの解決は、その後でいい」
「明日一日で全部どうにかしようとしないってこと?」
「そうだ。正体も規模も分からないのに、最初から解決まで考える必要はない」
シュウはパンを置き、父の言葉を考えた。
もし自分一人だったら、黒い木を見つけて、その原因を追って、何とかするところまで考えていたかもしれない。しかし、森に残された二人を助けるという目的だけでも十分に大きい。
「父さん」
「なんだ?」
「もし俺が一緒に行くなら、どんな力を選ぶのがいいと思う?」
ローデリックは少し意外そうに息子を見た。
「俺に聞くのか?」
「アルカディア……あの魔導書なら、能力そのものについては詳しい。でも、何を選ぶべきかまで全部任せるのは違う気がしてきた」
昨日までなら、こんな相談をする必要はなかった。
使える剣も魔法も限られていたから、その中で工夫するだけだった。
今は違う。
選択肢が多すぎる。
だからこそ、能力の強さだけで決めない方がいい。
「なら、まず明日の目的に合う候補を魔導書から聞け」
「候補?」
「ああ。強い順ではなく、救助に向いているものだ。その中から、俺たちが用意できる人員や装備と合わせて考えればいい」
「なるほど」
「お前一人で全部できる能力を探す必要はない。戦える者はこちらにもいるし、治療ができる者もいる。お前にしかできないことがあるなら、そこを優先すればいい」
シュウは思わず父を見た。
自分一人で全部やる必要はない。
当たり前のことなのに、能力の話になるといつの間にか抜け落ちていた。
「……分かった。候補だけ聞いてみる」
「今すぐここで聞いても構わんぞ」
「それは嫌」
「なぜだ?」
「名前を聞く心の準備が必要だから」
ローデリックは意味が分からないという顔をした。
レイモンドは今日一日で少し慣れてきたらしく、笑いを堪えるように口元へ手を当てている。
「兄さん、笑ってる?」
「いや」
「絶対笑ってる」
「気のせいだ」
「目が笑ってるからね?」
エレノアが二人を見て小さく笑う。
夕食の席には、ようやく普段に近い空気が戻り始めていた。
食事を終えて自室へ戻ったシュウは、窓を少しだけ開けた。夜の涼しい風が部屋へ入り込み、机の上に置いてあった学院の案内書の端を小さく揺らしている。
王都へ出発するまで、あと僅かだった。
本来なら今夜は荷物の最終確認でもして、学院で何を学ぶか考えながら眠るはずだった。それが今は、明日北の森へ行くかもしれないという話をしている。
人生は分からない。
前世も含めれば、そのことくらい知っているつもりだったが、ここまで急激に予定を変えられるとは思わなかった。
「アルカディア」
《はい、マスター》
今は部屋に一人なので、普通に声へ出して呼びかける。
「明日の候補を考えよう。ただし全部読み上げるのは禁止」
《理由を伺っても?》
「俺の精神を守るため」
《精神防御能力を検索しますか?》
「そういう意味じゃない」
《承知しました》
絶対に分かっていて言っている気がする。
シュウは机へ座り、紙と筆記具を用意した。
「まず明日の目的を整理する。森に残ってる二人を探して、見つけたら助ける。その途中で黒い木とか異常な魔力がどこまで広がってるか、無理のない範囲で確認する」
《はい》
「それから、全員で帰る。原因を見つけても深追いしない」
《ローデリック様が提示された方針ですね》
「そう。それに向いてる能力を三つくらいに絞って」
《検索します》
シュウは少し身構えた。
性能より先に名前が怖い。
昨夜から何度も思っているが、十四歳の自分はどうして普通の名前を付けようと思わなかったのだろう。
《第一候補は《生命回帰》です》
「さっき聞いたやつか」
《はい。救助対象者が重傷、毒、呪詛、異常魔力汚染等を受けていた場合でも、生存していれば対応できます》
「戦闘はできなくなるけど、《漆黒魔力》と身体能力は残るんだよな?」
《その認識で問題ありません》
シュウは紙へ《生命回帰》と書いた。
戦闘力は《心装武器》より落ちる。
それでも完全に戦えなくなるわけではない。
騎士たちも同行するなら、自分が治療へ回るという考え方もできる。
「二つ目は?」
《探索系能力、《万象探知》を推奨します》
シュウは少し待った。
続きがない。
「……普通だ」
《名称についてでしょうか》
「うん。なんか安心した」
《十四歳当時のマスターは、この名称について三日間――》
「そこは聞いてない」
《承知しました》
危なかった。
「効果は?」
《指定範囲内に存在する生命反応、魔力反応、敵性反応、異常魔力、地形変化等を複合的に探知します》
「それ、人探しにはかなり便利じゃない?」
《今回の目的との適合率は高いと判断します。ただし《生命回帰》のような治癒効果はありません》
当然、一つの能力ですべてを解決できるわけではない。
シュウは二つ目の候補も紙へ書いた。
「三つ目は?」
《《心装武器》の再選択です》
「今と同じ?」
《はい。六形態によって戦闘、防御、移動、救助、遠距離攻撃、限定的な浄化まで幅広く対応できます。また現在使用不能となっている水形態についても、次回選択時には制限が解除されます》
「《聖澄浄界》もまた使える?」
《はい。ただし再度使用した場合、その選択期間中は水形態が使用不能となります》
「なるほど」
三つ目を書く。
《生命回帰》。
《万象探知》。
《心装武器》。
並べてみると、それぞれ役割がまったく違った。
生存者を見つけたあと確実に助けるなら《生命回帰》が強い。そもそも広い森の中から二人を探すなら《万象探知》が圧倒的に便利で、何が起きるか分からない状況への総合的な対応力なら《心装武器》が優れている。
「……これ、思ってたより悩むな」
《二十四時間制限は、マスターご自身が設定されたものです》
「分かってるよ」
《十四歳当時の記述では、この制限について詳細な理由が――》
「聞かない」
《まだ内容を申し上げていません》
「どうせ恥ずかしいから聞かない」
《『最強の力を持つ者に必要なのは、無限の力ではない。限られた選択肢から唯一の正解を選び取る、王たる者の判断力――』》
「だから読むなって!」
思わず声が大きくなった。
数秒後、隣の部屋との壁を軽く叩く音がする。
「シュウ」
レイモンドの声だった。
「今度は何の練習をしている?」
「何もしてない!」
「何もしていない人間は、夜に一人で『読むな』とは叫ばない」
「ちょっと事情があるんだよ!」
「母上を呼ぶか?」
「それだけはやめて!」
壁の向こうで、兄が笑いを堪えているような気配がした。
「明日も早いかもしれないんだ。ほどほどにして寝ろ」
「兄さんもね」
「ああ。おやすみ」
「おやすみ」
それ以上は何も言われなかった。
シュウは椅子へ座り直し、机の上に並んだ三つの候補を見る。
「今日は決めない」
《よろしいのですか?》
「父さんも言ってた。まず情報を集める。あの人が朝までに目を覚ますかもしれないし、森のどこに二人がいるか分かれば必要な能力も変わるだろ」
《合理的な判断です》
「それに、今決めても次の選択時間までは変えられないしな」
シュウは紙を折り畳み、学院案内書の横へ置いた。
今日一日だけで、ずいぶん多くのことを知った。
自分が思っていた以上に《心装武器》は強いこと。
強いだけでは何でも解決できないこと。
選ぶ能力によって、その日にできることが大きく変わること。
そして、力を使うときには自分一人のことだけを考えてはいけないこと。
「アルカディア」
《はい》
「森に残ってる二人、生きてるといいな」
少しだけ間があった。
《はい》
返ってきたのは分析でも、確率でも、能力の提案でもなかった。
シュウは僅かに目を細めた。
十四歳の自分は、アルカディアを「唯一無二の理解者」などという恥ずかしい設定で作ったらしい。だから今の返事も、そういう設定に沿ったものなのかもしれない。
それでも昨日から話していると、ときどき妙に人間らしく感じる瞬間があった。
「……まあ、いいか。今日はもう寝る」
《おやすみなさい、マスター》
「おやすみ」
灯りを消し、ベッドへ入る。
身体は思っていた以上に疲れていたらしく、目を閉じると眠気はすぐに訪れた。明日の朝には救助した男から話を聞き、それから森へ行くかどうかを決めることになるだろう。
少なくともシュウは、そう思っていた。
どれくらい眠ったのか分からない。
深い眠りの中へ沈んでいた意識へ、突然アルカディアの声が届いた。
《マスター、起床を推奨します》
「……ん……?」
シュウは薄く目を開いた。
窓の外はまだ暗い。月明かりがカーテンの隙間から細く差し込んでいるだけで、朝には程遠い時間だということはすぐに分かった。
「……何時……?」
《深夜です》
「だったら寝かせてよ……」
寝返りを打とうとしたところで、アルカディアの次の言葉が届いた。
《客室方向に、異質魔力反応を確認しました》
眠気が一気に消えた。
シュウは身体を起こし、暗い部屋の中で客室がある方角へ顔を向ける。
「救助した人?」
《反応位置は一致します。また、街道で確認した異質魔力と類似した性質を検出しています》
ベッドから降り、急いで服を羽織る。
裸足のまま飛び出しかけたところで靴だけは履き、扉を開けた。
夜の屋敷は静まり返っていた。
廊下の壁に設置された魔導灯だけが淡い光を落とし、昼間とは違う長い影を床へ伸ばしている。シュウが客室へ向かって歩き始めたところで、遠くから何かが床へ落ちる大きな音が響いた。
直後、男の苦しげな声が聞こえた。
「う、あ……あああっ!」
シュウは走り出した。
隣の部屋の扉も開き、寝間着の上から上着を羽織ったレイモンドが廊下へ出てくる。
「シュウ、今の声は?」
「昼間助けた人だと思う。変な魔力がまた出てる!」
説明を聞いたレイモンドの表情が一気に引き締まった。
「父上を呼ぶ。お前は一人で入るなよ」
「分かってる!」
二人が客室へ近づくと、夜番の騎士もすでに扉の前へ駆けつけていた。
「シュウ様、レイモンド様!」
「中へ入ったか?」
「まだです。突然、中から苦しむ声が聞こえて――」
騎士が扉へ手を伸ばそうとしたところで、シュウには扉の隙間から漏れ出しているものが見えた。
「待って。まだ開けないで」
シュウの声に、騎士はすぐ手を止めた。
昼間に見たものより薄いが、間違いなく黒紫色の魔力だった。煙のように廊下へ広がっているように見えるものの、その流れを注意深く追ってみると、奇妙なことに気づく。
外へ出ているのではない。
廊下に漂う微かな魔力まで、扉の向こうへ吸い込まれている。
『アルカディア、分かる?』
《解析を開始しています。救助対象者に残留していた異質魔力が増大しています》
『昼間より増えてるってこと?』
《はい。ただし、対象者自身の内部だけで増殖している反応とは異なります》
シュウは扉から少し離れた位置で目を凝らした。
黒紫色の魔力には、細い流れがある。
それは男の身体から無秩序に漏れているのではなく、どこか遠くから引かれている糸のように、一つの方向へ続いているように感じられた。
『発生源を追える?』
《試行します》
シュウは返事を待ちながら、客室の中から聞こえる苦しげな呼吸へ耳を澄ませた。
今すぐ助けに入りたい。
だが昼間の経験がある。
正体の分からない魔力へ何も考えず近づけば、救助する側まで危険に晒される可能性がある。
だから、まず確認する。
分かることを増やしてから動く。
ほんの数秒後、アルカディアの声が再び意識へ届いた。
《異質魔力の流入方向を確認しました。対象者を中心として、ほぼ北方です》
シュウは息を止めた。
屋敷から北へ進んだ先に何があるのか、考える必要さえなかった。
「北の森……」
「何だって?」
レイモンドが聞き返す。
「この人に残ってる黒い魔力、外から何かが流れ込んでるみたいなんだ。それが北の方から来てる」
「北部森林からか?」
「断定はできない。でも方向は合ってる」
レイモンドの顔から眠気が完全に消えた。
そのとき、廊下の向こうから複数の足音が近づいてきた。ローデリックとエレノア、それに別の騎士がこちらへ向かってくる。
「状況は?」
到着したローデリックへ、シュウは今分かったことをそのまま説明した。
男に残っていた異質魔力が急激に増えていること。
それが本人の中だけで発生しているのではなく、外部から流れ込んでいる可能性があること。
そして、その方向が北だということ。
ローデリックは扉とシュウを交互に見たあと、すぐには中へ入れと命じなかった。
「この男をここから移動させれば、流れは切れると思うか?」
「分からない。昼間の黒い糸みたいに、距離が離れても繋がってる可能性がある」
「なら、まず本人の状態を確認する必要があるな」
「うん。でも直接触らない方がいい」
ローデリックは頷き、騎士たちへ厚手の手袋と毛布を用意するよう命じた。
エレノアは扉の向こうから聞こえる苦しげな声へ視線を向けている。
「朝まで待てる状態なの?」
その問いに、シュウはすぐ答えられなかった。
『アルカディア。生命反応は?』
《低下傾向を確認しています。ただし、直ちに生命活動が停止する段階ではありません》
『どれくらい持つ?』
《未知の異質魔力による影響であるため、正確な予測はできません》
結局、分からない。
ただ、放置していい状態ではないことだけは確かだった。
「今すぐ死ぬような状態じゃない。でも悪くなってる」
シュウが答えると、ローデリックは数秒だけ考えた。
「中へ入る。ただし最小人数だ。俺と治癒術師、それからシュウ。レイモンドは外で待機し、何かあれば人を呼べ」
「父上、俺も――」
「全員で入る必要はない」
レイモンドは唇を結んだが、すぐに頷いた。
「分かりました」
その判断を見て、シュウは昼間に父から言われたことを思い出す。
使える人数を全部使えばいいわけではない。
強い力を全部使えばいいわけでもない。
必要なものだけを選ぶ。
それは能力だけの話ではないのだろう。
やがて治癒術師も呼ばれ、準備が整った。
ローデリックが扉へ手をかける。
「シュウ。異常を感じたら、すぐ言え」
「分かった」
今のシュウが選択しているのは、まだ《心装武器》だ。
水形態は使えない。
《生命回帰》へ切り替えることもできない。
それでも炎、風、雷、光、闇は残っている。《漆黒魔力》も使えるし、異常な魔力を見ることもできる。
今あるものだけで何ができるか考えるしかない。
ローデリックがゆっくりと扉を開いた。
室内には、昼間にはなかった黒紫色の靄が漂っていた。寝台の上では救助した男が汗に濡れ、苦しそうに身を捩っている。
左腕にあった一本の黒い筋は、もう一本ではなかった。
肩まで。
胸元まで。
何本もの細い黒紫色の線が、皮膚の下を這うように広がっている。
そしてシュウには、そのすべてが同じ方向から魔力を受け取っていることが見えた。
北。
森の方角。
昼間、街道で男へ絡みついていた糸は切った。
それでも繋がりそのものは、切れていなかったのかもしれない。
「……父さん」
「ああ」
「明日の朝まで待つって話、変えた方がいいかもしれない」
ローデリックはすぐには答えなかった。
寝台の男と、その身体を侵食している黒い筋を見つめている。
「まず、この男を今夜どうやって助けるかだ」
その言葉に、シュウは頷いた。
森へ行くかどうかを決めるのは、そのあとでいい。
原因を突き止めることも、異変を解決することも、まだ先だ。
今ここには、一人の生きている人間がいる。
なら、まずはその命を守る。
シュウは胸の奥でアルカディアの存在を確かめながら、男の身体を走る黒紫色の魔力へ意識を集中させた。
学院へ出発するまで、あと僅か。
穏やかに家族と過ごすはずだった最後の数日は、どうやらシュウが思っていたよりずっと長い夜になりそうだった。




