第3話 街道に倒れていた男
夕暮れの街道に、一人の男が倒れていた。
西へ傾いた太陽が街道沿いの畑を橙色に染め、遠くに連なる低い山々の輪郭を淡く浮かび上がらせている。昼間まで吹いていた風も弱まり始め、草むらからは夜を待つ虫の声が聞こえていた。
そんな穏やかな夕方の景色の中で、男が倒れている場所だけが明らかに異質だった。
「……なんだ、あれ」
馬車から降りたシュウは、すぐに駆け寄ろうとして足を止めた。倒れている男を中心として、街道脇の草が不自然なほど黒く変色している。
焼け焦げたようにも見えるが、煙は上がっていない。風に乗って漂ってくるのも焦げ臭さではなく、雨上がりの土に何か生臭いものを混ぜたような、鼻の奥に残る嫌な匂いだった。
そして今のシュウには、それだけではないものが見えていた。
黒く変色した草の間から、薄い靄のような魔力が立ち上っている。黒と紫を混ぜたような半透明のそれは、倒れている男の周囲をゆっくりと漂いながら、ときおり地面へ沈み、また別の場所から滲み出していた。
「シュウ」
先に馬車から降りていたローデリックが、息子の様子に気づいて振り返った。腰の剣へ自然に手を添えながらも、すぐには男へ近づかず、シュウの視線の先を確かめている。
「何か見えるのか?」
「うん。倒れてる人の周りに、黒い魔力みたいなのがある」
「魔力?」
後ろからレイモンドも降りてくる。同行していた騎士たちも異変に気づき、それぞれ馬車や街道の周囲へ警戒の目を向け始めた。
「草が黒くなってるところにもある。煙みたいに見えるけど、たぶん普通の魔力じゃない」
「そこまで分かるのか?」
「……昨日から、魔力が前よりはっきり見えるようになったんだよ」
シュウが答えると、レイモンドは何とも言えない表情で弟を見た。昨日の朝までは普通に学院への出発準備をしていた弟が、一日ほどの間に身体能力を上げ、漆黒の魔力を扱い、六種類の武器まで生み出せるようになっている。
「昨日から、か」
「その言い方やめて。俺だって整理できてないんだから」
「責めているわけじゃない。ただ、お前が王都へ出発する前でよかったと思っている」
レイモンドの声に冗談はなかった。
学院の寮で突然こんなことになっていたら、家族の助けもないまま一人で対応することになっていた。その光景を想像したらしく、レイモンドは小さく息を吐いてから倒れている男へ視線を戻した。
シュウも同じ方向を見ながら、胸の奥に意識を向ける。
『アルカディア。あれ、何か分かる?』
《魔力反応を確認しています。ただし、通常の魔力とは異なる性質が混在しています》
『危険?』
《現時点では断定できません。接触は推奨しません》
珍しく歯切れが悪い。
昨夜からアルカディアと話して分かったことの一つは、この魔導書が何でも知っている存在ではないということだった。十四歳の神代修司が書いた設定については、本人が忘れているような一文まで正確に覚えているくせに、この世界固有の魔物や魔法については知らないことも多い。
だからこそ、今の返答は軽く扱えなかった。
「父さん、まだ近づかない方がいい」
「理由は?」
「何なのか分からない。少なくとも、普通の魔力とは少し違うみたいだ」
ローデリックはすぐには答えず、黒く変色した草と倒れている男を交互に見た。領主として街道の安全を確認する責任がある一方で、ここには自分の息子たちもいる。
「倒れている者の様子は分かるか?」
「ちょっと待って」
シュウは男へ意識を集中させた。
昨夜アルカディアによって同期されたという魔力感知能力は、まだ自分でも扱い方がよく分かっていない。それでも意識して見れば、男の身体の奥に微かな魔力の流れが残っていることは分かった。
《生命反応を確認しました。衰弱しています》
『生きてるんだな?』
《はい》
「父さん、生きてる。かなり弱ってるけど」
「なら助ける」
ローデリックの判断は早かった。
腰の剣を抜くと、同行していた騎士たちへ目を向ける。先ほどまで父親としてシュウたちと話していた雰囲気は消え、領主として人へ命令を下す顔になっていた。
「二人は馬車と周囲を警戒しろ。残りは俺と来い。ただし、黒くなっている草へは触れるな」
「承知しました」
騎士たちが即座に動く。
「父さん、待って」
シュウは男へ近づこうとするローデリックをもう一度止めた。生きているなら助けたいという気持ちはシュウも同じだが、未知の魔力の中へ父をそのまま入らせる気にはなれなかった。
「近づかなくても助けられるかもしれない」
「どうするつもりだ?」
「風を使って、こっちまで運ぶ」
今朝選択した《心装武器》は、まだ二十四時間の固定時間内にある。
炎の槍、水の盾、風の銃、雷のアックス、光のバスターソード、闇の双剣。その六つは別々の能力ではなく、一つの《心装武器》に含まれる形態なので、二十四時間の間なら自由に転装できる。
午前中の確認では、風の銃がただ弾丸を撃ち出すだけの武器ではないことも分かっていた。
『アルカディア。風で持ち上げられるよな?』
《可能です。ただし対象者の負傷状態が不明ですので、一点へ強い力を加えることは推奨しません》
『身体全体を包んで運ぶ』
《出力調整を補助します》
シュウは頷き、ローデリックたちから少し離れた場所へ出た。
「俺がやってみる。もし何か変なことが起きたら、すぐ離れて」
「分かった。無理はするな」
「うん」
胸の奥へ意識を向ける。
六つの武器の感覚は、今朝よりもずっと探しやすくなっていた。その中から風を選び、右手を前へ伸ばす。
「――転装、風」
掌の周囲で空気が渦を巻いた。
夕暮れの風が銀白色の光を帯びながら集まり、透明な銃身の輪郭を作っていく。内部では圧縮された風が小さな竜巻のように回転し、握った瞬間には初めて使った武器とは思えないほど自然に手へ馴染んだ。
「やはり不思議な武器だな」
後ろでレイモンドが呟く。
「兄さん、今は感想いらないから」
「悪く言ったつもりはないぞ」
「分かってる。それが困るんだよ」
シュウの返事に、レイモンドは本気で意味が分からないという顔をした。
この世界では銃という武器そのものが珍しい。しかも魔力で作られ、風を撃ち出す武器となれば、レイモンドにとって興味深いのは当然なのだろう。
《非常に好意的な評価です》
『お前まで感想を追加しなくていい』
アルカディアへ返しながら、シュウは倒れている男へ集中した。
銃口は向けるが、引き金は引かない。
撃つのではなく、風を流す。
男の周囲へ。
ゆっくりと。
シュウの足元から伸びた風が街道を滑り、乾いた土を薄く巻き上げながら進んでいった。草むらへ入れば葉が揺れ、その動きによって風がどこを通っているのか目でも追える。
ところが、黒く変色した範囲へ入った瞬間、右腕へ妙な感覚が返ってきた。
「……重い」
「どうした?」
ローデリックが尋ねる。
「風が通りにくい。何かに引っかかってる感じがする」
実際に空気が重くなったわけではない。
粘り気のある液体へ腕を入れたときのような抵抗が、風を通じて伝わってくる。黒い魔力が、こちらの風へまとわりついているようだった。
それでも進めないほどではない。
シュウは力を強めるのではなく、風を細かく分散させながら少しずつ男へ近づけた。
やがて風が外套を揺らす。
「届いた」
肩、背中、腰、脚。
男がどこを負傷しているのか分からない以上、一か所だけを引っ張るのは危険だ。身体全体を下から支えるように風を広げ、地面からほんの少しだけ浮かせる。
男の身体が数センチ持ち上がった。
「おお……」
騎士の一人が小さく声を漏らした。
シュウ自身も、思っていたより上手くいったことに僅かに安堵する。あとはこのまま、身体を揺らさないようこちらまで運べばいい。
そう思った瞬間だった。
「……待って」
男の身体の下に、それまで見えていなかったものが現れた。
黒紫色の細い糸が何本も伸び、男の背中や腕、脚へ絡みついている。先ほどまでは地面と身体の間に隠れていたため気づかなかったが、持ち上げたことでその全体が露わになった。
シュウが息を呑んだ直後、糸の一本がぴくりと動いた。
「シュウ、あれは何だ?」
「俺にも分からない」
ローデリックにも見えている。
魔力を感知できるシュウだけが認識している現象ではないらしい。黒紫色の糸は半透明だった状態から徐々に濃くなり、今では薄暗い夕暮れの中でもはっきりと確認できた。
糸の先は地面へ続いている。
だが、そこで終わってはいない。
シュウの魔力感知では、さらに地中へ伸びているように感じられた。
《対象者と地下の異常魔力反応との接続を確認しました》
『これがこの人を弱らせてる?』
《可能性は高いですが、断定はできません》
『切ったら?』
《接続を解除できる可能性があります。一方で、対象者へどのような影響が発生するかは不明です》
シュウはすぐに攻撃せず、男を支えたまま考えた。
生きてはいる。
だが衰弱している。
この糸が原因なら早く切った方がいい。しかし、逆に無理やり切断したことで男の状態が悪化する可能性も否定できない。
「父さん」
「どうした?」
「この黒い糸、地面の下まで続いてる。それがこの人と繋がってるみたいだ」
ローデリックの顔が険しくなる。
「切れるか?」
「試せる。でも、切ったときに何が起こるか分からない」
「そのまま引き離すのは?」
「たぶんもっと危ない。身体に絡んでるから」
ローデリックは数秒黙った。
夕暮れの街道に、虫の声と風の音だけが戻ってくる。倒れている男は今も意識を取り戻さず、風に支えられた身体が僅かに上下していた。
「シュウ」
「うん」
「切れ。ただし、一度に全部ではなく一本だけだ」
父の判断に、シュウは頷いた。
何が起きるか分からないなら、変化を確認しながら進める。それなら自分も納得できる。
「風でやってみる」
男を支える風は維持したまま、別の気流を細く集めた。
一本の黒い糸へ狙いを定める。
「いくよ」
「ああ」
シュウが指先を僅かに動かすと、圧縮された風が刃となって走った。
黒い糸へ命中する。
ぱしん、と乾いた音がした。
しかし、切れない。
「硬っ……」
糸は激しく揺れただけで、表面に薄い傷が残った程度だった。
《通常の風属性攻撃に対して高い抵抗性を確認しました》
『これ、糸だよな?』
《外見上は》
『糸ってこんなに硬かったっけ』
《一般的な糸との比較は無意味かと》
『分かってるよ』
軽口を返しながらも、シュウの額には薄く汗が浮かんでいた。
風で切れないなら別の方法を使う必要がある。
炎は男の身体に近すぎる。
雷も同じ。
アックスなど論外だ。
闇の双剣はまだ十分に試していない。
残るのは。
「……光か」
午前中に試した白銀のバスターソードを思い出す。
大きすぎるほど大きな剣だったが、その切れ味は確認している。問題は男へ近づかなければならないことだ。
『アルカディア。光の剣で、ここから糸だけ切れる?』
《通常斬撃では射程外です》
『遠距離攻撃は?』
《《光閃》が使用可能です》
シュウは少しだけ黙った。
『……それだけ?』
《技名についての質問でしょうか》
『そう』
《《光閃》です》
『珍しく普通だな』
《上位技には――》
『それは聞いてない》
《承知しました》
危うく自分から新しい黒歴史を掘り起こすところだった。
「武器を変える」
シュウが告げると、ローデリックたちがさらに少し距離を取った。
「――転装、光」
風の銃が銀白色の粒子となって崩れ、代わりに白い光が両手へ集まっていく。
現れたのは、普通の長剣など比べものにならないほど幅広い刀身だった。白銀の表面には淡い金色の光が脈打つように走り、夕日に照らされた刀身が周囲へ柔らかな光を返している。
見た目だけなら、とても繊細な作業に向いている武器には思えない。
それでも握れば、重さに振り回される感覚はなかった。
身体の一部。
そう表現するのが一番近い。
「その大きさで糸を切るのか?」
レイモンドが心配そうに聞いた。
「剣そのものは当てないよ。斬撃だけ飛ばす」
「斬撃を飛ばせるのか」
「兄さん」
「なんだ?」
「ちょっと嬉しそうな顔するのやめて」
「していない」
「してるって」
レイモンドが視線を逸らした。
その横では騎士たちまで興味深そうにバスターソードを見ている。真面目な状況なのに、自分だけ別の意味で精神力を削られている気がして、シュウは小さく息を吐いた。
それでも、今は目の前の男が優先だ。
まず一本。
先ほど風で傷をつけた糸を狙う。
《照準補助を行います》
『頼む』
男の身体へ当てないよう、接続部分から少し離れた場所を選ぶ。
シュウは両手でバスターソードを構え、短く息を吐いた。
「――《光閃》」
剣を横へ振る。
刀身から離れた白い光は、巨大な刃になることなく細い線となって街道を走った。
黒紫色の糸へ触れる。
抵抗は一瞬だった。
糸が切れた。
「よし!」
思わず声が出る。
すぐに男の様子を確認する。
呼吸はある。
魔力の流れも大きく変化していない。
《生命反応に急激な変化はありません》
『なら、残りも切る』
《一度に切断せず、順次処理することを推奨します》
『分かってる』
一本ずつ。
焦らない。
二本目を切り、男の様子を確認する。
三本目。
四本目。
そのたびに黒い糸は激しく動いたが、男の状態に明らかな悪化は見られなかった。
残り二本。
「あと少しだ」
シュウが五本目へ狙いを定める。
そのときだった。
すでに切断したはずの黒い糸が、地面の上で大きく跳ねた。
「っ!」
シュウは咄嗟にバスターソードを前へ出した。
黒い糸が刀身へぶつかり、硬いもの同士を打ち合わせたような音が響く。
「シュウ!」
「大丈夫!」
糸が生きている。
そうとしか思えない動きだった。
地面を這い、互いに絡まりながら、再び男へ伸びようとしている。
「まずい!」
シュウは残っていた二本を続けて切った。
男の身体が完全に地面から解放される。
「風に戻す!」
光の剣を消し、間を置かず風へ転装する。
「――転装、風!」
銀白色の風が男の全身を包み込んだ。
今度は先ほどより少しだけ速く、それでも身体へ負担をかけないよう慎重に引き寄せる。
十歩。
八歩。
六歩。
黒く変色した範囲の端を越えた。
「今!」
シュウの声に、ローデリックと騎士二人が駆け出した。
風に支えられていた男を受け止め、そのまま馬車の近くまで運んでいく。別の騎士がすぐに外套を地面へ敷き、その上へ男を横たえた。
「呼吸は?」
「あります!」
「脈も確認しろ」
「弱いですが、あります!」
騎士たちのやり取りを聞き、シュウはようやく胸に溜めていた息を吐いた。
助けられた。
少なくとも、男をあの場所から引き離すことはできた。
「よかった……」
《マスター》
アルカディアの声が届いた。
その声色はいつもと変わらない。
それなのに、シュウの背筋へ強い悪寒が走った。
《地下の魔力反応が急速に上昇しています》
『え?』
《回避を推奨》
考えるより先に身体が動いた。
シュウは横へ跳ぶ。
直後、先ほどまで立っていた地面を黒い何かが突き破った。
「っ!?」
土が弾け飛ぶ。
人間の腕ほどもある太さの黒い根が、槍のように地面から突き出していた。
「シュウ!」
「大丈夫!」
着地しながら叫び、すぐに風の銃を構える。
一本ではない。
黒く変色した草の下で地面が次々と盛り上がり、二本、三本と太い根が姿を現す。表面には紫色の筋が血管のように走り、先ほどの細い糸とは比べものにならないほど濃い魔力が内部を流れていた。
「全員、馬車から離れるな!」
ローデリックの声が響いた。
騎士たちは救助した男を守るように配置につく。レイモンドも剣を抜いたが、ローデリックが片手を上げて制した。
「レイモンド、お前はそちらにいろ」
「しかし父上」
「男を守れ。街道に他の旅人が来た場合も止める必要がある」
レイモンドは反論しかけたものの、父の表情を見て口を閉じた。
「……承知しました」
「兄さん」
シュウが呼ぶと、レイモンドは弟へ顔を向けた。
「無茶はするなよ」
「それ、こっちの台詞なんだけど」
「お前の方が信用できない」
「ひどくない?」
「今朝、軽く突いただけで訓練人形を消し飛ばした人間が言うな」
否定できなかった。
シュウが僅かに顔をしかめると、レイモンドはほんの少しだけ笑った。それでも剣を握る手には力が入り、弟を心配していることは隠せていない。
「必ず戻ってこい」
「分かってる」
短く答え、シュウは前へ向き直った。
黒い根はまだ増えている。
その一本が大きくしなり、シュウへ向かって振り下ろされた。
「っ!」
横へ避ける。
根が地面を叩き、土が大きく抉れた。
昨日までの自分なら、反応できなかったかもしれない。
だが今は、根が動く直前に内部の魔力が流れるのが見える。どの方向へ力を加えようとしているのか、完全ではないものの予測できた。
風の銃を向ける。
引き金を引いた。
圧縮された空気が乾いた破裂音とともに飛び出し、根へ直撃する。
表面が僅かに削れた。
「硬い……!」
《外殻強度は一般的な植物を大幅に上回ります》
『見れば分かるよ!』
もう一発。
同じ場所へ撃ち込む。
今度は根の表面が弾け、内部から黒い液体が飛び散った。
「シュウ、下がれ!」
ローデリックの声に従い、すぐ後ろへ跳ぶ。
黒い液体が地面へ落ちた。
触れた草から、急速に緑色が失われていく。
灰色へ。
さらに黒へ。
街道脇に広がっていた変色と同じだった。
「……あれが原因か」
シュウは黒くなっていく草を見つめた。
少なくとも、この液体には生きた植物を異常な状態へ変える性質がある。
「全員、黒い液体には絶対に触れるな!」
ローデリックが声を張る。
騎士たちが返事をした直後、今度は地面そのものが大きく震えた。
最初は馬車の車輪が僅かに揺れる程度だった。
しかし、すぐに振動が強くなる。
街道の土が盛り上がり、黒く変色した草が根元から持ち上げられていく。
「……まだ何か出てくるのかよ」
《地下反応の中心部が上昇しています》
『どれくらい大きい?』
《不明です》
『不明って怖いな……』
シュウは風の銃を握り直した。
やがて地面が大きく割れる。
湿った土を押し退けながら現れたのは、一本の巨大な幹だった。
樹皮は墨を塗り込めたように黒く、その表面には先ほどの根と同じ紫色の筋が何本も走っている。枝には葉がほとんどなく、代わりに細長い根のようなものが垂れ下がり、風もないのにゆっくりと蠢いていた。
地上へ現れた部分だけでも三メートルを超えている。
普通の木なら根を張って動かないはずなのに、それは太い根を脚のように使い、土を押し退けながら身体を起こした。
「父さん、あれ知ってる?」
「いや」
ローデリックの返事は短かった。
剣を構えたまま巨大な木を見上げ、その表情を険しくする。
「少なくとも、アルヴェイン領に生息する魔物ではない。似たものについても聞いた覚えがない」
「……そっか」
父なら何か知っているかもしれないという小さな期待は消えた。
なら、本当に未知の相手だ。
巨大な幹の中央に縦の亀裂が走った。
その奥で赤黒い光が灯る。
目ではない。
そう分かっているのに、見られている感覚があった。
《敵性反応を確認しました》
『それは俺にも分かる』
シュウは乾いた唇を舐めた。
今朝とは違う。
木製の訓練人形は反撃しなかった。
父や兄との試し合いも、本気で命を奪い合うものではなかった。
目の前にいるものは、明確にこちらへ敵意を向けている。
怖くないと言えば嘘になる。
身体能力が上がった。
強い武器もある。
それでも、昨日までのシュウは普通の十七歳としてこの世界で暮らしていたのだ。
自分の力がどこまで通用するのか。
相手が何をしてくるのか。
何も分からない。
背後から、剣を抜く音が聞こえた。
ローデリックだった。
「父さん、下がってていいよ」
「それはできんな」
「でも」
「お前一人に戦わせる理由もない」
ローデリックは巨大な木から視線を外さないまま、静かに言った。
「お前がどれだけ強い魔法を得たとしても、昨日まで俺の息子だった事実が消えるわけではない」
「今日も息子だけど?」
「なら、なおさら一人で前へ出るな」
こんな状況なのに、少しだけ笑いそうになった。
父らしい。
シュウが突然とんでもない力を使えるようになっても、ローデリックの中では何もかもが変わったわけではないのだろう。
「……分かった。でも危なくなったら下がって」
「それはこちらの台詞だ」
「兄さんと同じこと言うね」
「親子だからな」
「それで納得していいのかな」
ほんの僅かな会話だった。
それでも肩に入っていた力が少し抜けた。
一人ではない。
後ろには家族がいる。
騎士たちもいる。
だからこそ、自分の力を好き勝手に振るうわけにはいかない。
黒い木の根が大きく持ち上がった。
「来る!」
シュウが叫ぶ。
一本目が正面から伸びてくる。
魔力の流れを見る。
身体を右へ。
根が肩の横を通過し、風圧で髪が大きく揺れた。
二本目は横から。
風の銃を向け、一発撃ち込む。
命中した根の軌道が僅かに逸れ、その隙に後ろへ下がる。
三本目は地面からだった。
足元の魔力が膨らんだ瞬間、シュウは反射的に跳んだ。
「うわっ!?」
自分で思っていた以上に身体が高く浮いた。
地面から二メートル以上。
強化された身体能力を、まだ自分自身が把握しきれていない。
《跳躍力も正常に同期されています》
『今説明することじゃないだろ!』
空中へ追ってくる根が見えた。
逃げ場がない。
シュウは咄嗟に風の銃を斜め下へ向けた。
引き金を引く。
地面へ叩きつけられた圧縮風が周囲の土を巻き上げ、その反動と気流がシュウの身体を横へ押した。
空中で軌道が変わる。
根が空を切った。
シュウは数メートル離れた場所へ着地し、片膝をついた。
「……できた」
「今のは狙ってやったのか!?」
ローデリックが驚いた声を上げる。
「半分くらい!」
「残り半分は!?」
「咄嗟!」
「実戦中に試すな!」
「俺だって好きで試したわけじゃないよ!」
叱られながらも、シュウはすぐに立ち上がった。
今の動きで一つ分かった。
風の銃は攻撃だけの武器ではない。
風そのものを操れるなら、移動にも救助にも使える。
十四歳の自分がどこまで想定していたのかは分からないが、《心装武器》は単純に六種類の強い武器を出すだけの能力ではないらしい。
《設定上は――》
『あとで聞く』
《承知しました》
今回はアルカディアも素直に引き下がった。
シュウは巨大な木を見上げる。
倒すだけなら、炎の槍へ転装する方法がある。
今朝の威力を考えれば、かなりの損傷を与えられるはずだ。
だが、ここは訓練場ではない。
すぐ後ろには父がいる。
少し離れた場所には兄や騎士たち、救助した男もいる。
街道の向こうには畑まで広がっている。
朝のように「軽く」のつもりで撃って、どこまで燃えるか分からない。
「……使いにくいな、炎」
《威力を抑制することは可能です》
『今朝も軽くって言ったよな?』
《はい》
『それで訓練人形が消えたよな?』
《結果としては》
『今日は信用しない』
《残念です》
シュウは風の銃を構えたまま、黒い木の動きを見る。
無理に倒さない。
まず相手を知る。
それでいい。
その考えが浮かんだところで、ローデリックが隣から口を開いた。
「シュウ」
「何?」
「今、炎の槍を使うか迷ったか?」
「……分かる?」
「一瞬、右手を見ただろう」
よく見ている。
シュウは少し迷ってから頷いた。
「たぶん、あれならかなり効く。でも周りまでどうなるか分からない」
「なら使うな」
「即答だね」
「力があることと、使うべきかどうかは別の話だ」
ローデリックは剣を握り直した。
「領主が兵を百人動かせるからといって、盗人一人を捕らえるために村へ百人送り込めば、村人にとってはそちらの方が迷惑になる。強い力ほど、使う場所と加減を覚えなければならん」
シュウは父の横顔を見た。
昨日まで、自分は普通に剣や魔法を教わる側だった。
突然力を得たからといって、その関係がすべて逆転するわけではない。
むしろ今の自分には、父から学ばなければならないことが増えている。
「……覚えておく」
「ああ。お前はまだ、その魔法を手に入れて一日目だろう」
「そうなんだよね」
「なら一日目らしく慎重にやれ」
その言葉が妙に腑に落ちた。
十四歳の神代修司がノートへ「最強」と書いたからといって、十七歳のシュウ・アルヴェインが今日から何でも完璧にできるわけではない。
力と、それを扱う自分は別だ。
今は一つずつ知ればいい。
《マスター》
『どうした?』
《解析が進行しています》
『分かりそう?』
《対象内部に複数の異なる魔力層を確認しました》
シュウの意識が切り替わる。
『どういう意味?』
《この生命体が本来保有していたと思われる魔力と、現在外部へ放出されている異常魔力が一致しません》
『……元からこういう魔物じゃない?』
《その可能性が高いと判断します》
シュウは黒い木を改めて見た。
黒い樹皮。
紫色の筋。
地面へ落ちれば草を変色させる液体。
そして、その奥に残っている別の魔力。
「父さん」
「何か分かったか?」
「こいつ、最初からこういう魔物だったわけじゃないかもしれない」
ローデリックの眉が僅かに動いた。
「変異したということか?」
「たぶん。でも自然に変わったのか、何かに変えられたのかまでは分からない」
「何かに、か」
父の声が低くなる。
もし人為的なものなら、単なる魔物の出現では済まない。
誰かがアルヴェイン領の街道で何かをしている可能性が生まれる。
だが、まだ何も断定できない。
シュウもそれ以上は言わなかった。
そのとき、黒い木の中央にある赤黒い光が急激に強くなった。
《警告。高密度魔力の収束を確認》
『攻撃?』
《可能性は極めて高いです》
「父さん、下がって!」
ローデリックは理由を聞かなかった。
二人が同時に距離を取る。
黒い木の幹が大きく震え、赤黒い光が一点へ集まっていく。
避けるだけならできる。
だが、その後ろにはレイモンドたちがいる。
「避けられないか……!」
シュウは風の銃を消した。
守る。
そう考えた瞬間、次に使う武器は決まっていた。
「――転装、水!」
青い光とともに大量の水が右腕の前へ集まった。
水流は円を描くように回転しながら広がり、透明な盾を作り出す。夕日の色を映した水面が揺れ、シュウの身体だけではなく、その後方まで覆うほどの大きさへ変わった。
直後、赤黒い光が放たれた。
激突した瞬間、耳の奥まで響くような重い音がした。
「ぐっ……!」
水の盾が大きく波打つ。
両腕へ強烈な圧力が伝わり、シュウの靴底が土を削りながら後ろへ滑った。
今朝、レイモンドの剣を受け止めたときとはまるで違う。
重い。
痛い。
それでも盾は壊れない。
「シュウ!」
「大丈夫! まだいける!」
ローデリックへ返しながら、足へ力を入れる。
だが、数秒後。
透明だった水の一部が、ゆっくりと黒く濁り始めた。
「……なんだ?」
《異常魔力による侵食を確認しました》
『盾そのものが?』
《はい。このまま接触を継続した場合、防御力が低下します》
『あとどれくらい?』
《現在の出力では十秒前後》
短い。
避ければ後ろへ攻撃が抜ける。
かといって、このまま受け続ければ水の盾が破られる。
シュウは歯を食いしばった。
強い力を得た。
それだけで何でもできるような気になりかけていた。
だが現実は違う。
相性もある。
使い方もある。
判断を間違えれば、後ろにいる人たちまで危険に晒す。
怖い。
初めて、はっきりそう思った。
朝の訓練場では感じなかった恐怖だった。
それでも逃げられない。
父も、兄も、騎士たちも、救助した男も後ろにいる。
「……絶対、通さない」
口から自然に言葉が漏れた。
《水形態による防御限界が接近しています》
『分かってる』
水が駄目なら。
別の武器へ。
守るために使えるもの。
巨大で。
幅が広く。
そして、異常魔力に侵食されにくい可能性があるもの。
「――転装!」
水の盾が大量の飛沫となって弾ける。
赤黒い光が一気に押し込んできた。
「光!」
白銀のバスターソードが両手へ現れた。
シュウは斬らなかった。
巨大な刀身を地面へ立て、盾のように構える。
赤黒い光が真正面からぶつかった。
「ぐっ……!」
腕が痺れる。
だが、先ほどとは違う。
白銀の刀身中央を走る金色の線が強く輝き、正面からぶつかった黒い魔力を左右へ分けていく。
逸れた光が街道脇の地面へ当たり、草が黒く変色した。
それでも後ろには届かない。
数秒。
十秒。
やがて赤黒い光が細くなり、完全に消えた。
「……はぁ」
シュウは大きく息を吐いた。
両腕が少し震えている。
魔力が尽きたわけではない。
それでも、初めて本気で攻撃を受け止めた緊張と恐怖が身体に残っていた。
「シュウ!」
ローデリックが近づこうとする。
「待って、まだ終わってない」
シュウは父を止めた。
黒い木の中央にあった赤黒い光は、先ほどより明らかに弱くなっている。あの攻撃は、相手にとっても簡単に繰り返せるものではないらしい。
『アルカディア。解析は?』
《完了しました》
シュウの目が僅かに見開かれた。
『教えて』
《対象は通常の魔物ではありません。元は一般的な樹木系生命体であった可能性が極めて高いと判断します》
『やっぱり……』
《外部より流入した異質魔力によって、生命構造および魔力経路が強制的に変質しています》
外部から。
その言葉が胸に残った。
誰かが意図的に行ったのか。
自然に発生した何かが入り込んだのか。
そこまでは分からない。
ただ一つ。
目の前の存在は、最初からこの姿だったわけではない。
『元に戻せる?』
シュウは自分でも少し意外な質問をしていた。
倒せるかではない。
元に戻せるか。
アルカディアからの返答まで、ほんの僅かな間があった。
《可能性はあります》
『本当に?』
《異質魔力のみを除去できれば、本来の生命構造が残存している部分については回復する可能性があります》
『異質魔力だけを……』
シュウは自分の武器を見た。
光の剣で切る。
炎の槍で焼く。
それでは木そのものまで壊してしまう。
必要なのは攻撃ではない。
異常なものだけを洗い流す力。
そこで思い出した。
水の盾。
午前中に六つの武器を確認したとき、アルカディアはそれぞれに通常の使い方とは異なる技が設定されていると言っていた。
『アルカディア』
《はい》
『水の盾に、浄化する技があったよな』
《あります》
『これに効く?』
《《聖澄浄界》であれば、有効である可能性が高いと判断します》
名前を聞いた瞬間、シュウは一度だけ目を閉じた。
やっぱり普通ではなかった。
さっきの《光閃》が奇跡だっただけらしい。
『効果を教えて。昔の俺の説明文はいらないから、効果だけ』
《周辺一帯へ浄化水を展開し、毒、呪詛、瘴気、異常魔力等を除去します。同時に範囲内の生命体へ軽度から中程度の治癒効果を付与します》
『今のこいつにも?』
《有効と推測します。ただし、内部の異質魔力が抵抗する可能性があります》
『他に問題は?』
《深奥技使用後、水形態は現在の選択期間が終了するまで使用不能となります》
シュウはすぐには答えなかった。
先ほど水の盾には助けられた。
相手の攻撃を完全には防ぎ切れなかったとはいえ、あの防御力は間違いなく頼りになる。
今ここで深奥技を使えば、少なくとも明日の朝までは水の盾を使えなくなる。
この先、何が起きるかも分からない。
それでも。
シュウは黒い木を見た。
元は普通の木だった。
なら、壊さずに済む可能性があるなら試したい。
「……やる」
《選択を確認しました》
シュウはローデリックへ顔を向けた。
「父さん。もう少し下がって」
「何をする?」
「こいつを元に戻せるか試してみる」
ローデリックが黒い木を見上げる。
「倒すのではなく?」
「元は普通の木だったみたいなんだ。変な魔力だけ消せれば、戻せるかもしれない」
「確実なのか?」
「分からない」
シュウは正直に答えた。
「でも、やってみたい」
ローデリックは息子の顔をしばらく見ていた。
それから、静かに頷く。
「分かった。ただし危険だと思ったらすぐにやめろ」
「うん」
シュウは光の剣を消し、胸の奥へ意識を向けた。
「――転装、水」
青白い光とともに、水の盾が再び姿を現す。
先ほど侵食された部分は残っていない。
新たに生み出された透明な水が円を描きながら回転し、夕暮れの光を受けて淡く輝いていた。
黒い木が反応する。
根が地面を這い、こちらへ伸びてくる。
時間はない。
『アルカディア。発動句』
《お伝えします》
シュウは覚悟した。
《――『我が慈愛よ、穢れを洗い、傷つく命へ再び清き流れを。すべての禍を澄み渡る聖水へ還せ――《聖澄浄界》』》
「…………長い」
《深奥技ですので》
『そういう問題かな……』
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
後ろには父も兄も騎士たちもいる。
全員に聞かれる。
しかし、目の前では黒い根が近づいている。
シュウは一度だけ深く息を吸った。
ここで恥ずかしがって何もしない方が、もっと嫌だ。
「――我が慈愛よ、穢れを洗い、傷つく命へ再び清き流れを」
声が夕暮れの街道へ響いた。
後ろから笑い声は聞こえない。
分かっていた。
この世界の人間は、これを本気で格好いいと思う。
だからこそ、シュウの頬が熱くなる。
それでも止めなかった。
「すべての禍を、澄み渡る聖水へ還せ――《聖澄浄界》!」
水の盾が弾けた。
壊れたのではない。
無数の雫へ変わり、空へ舞い上がった。
青白い光を宿した水滴が夕暮れの空を覆い、そのままゆっくりと降り始める。
「……雨?」
後ろでレイモンドが呟いた。
最初の一滴が、黒い木の枝へ触れた。
小さな音とともに、黒い靄が立ち上る。
煙ではない。
異常な魔力そのものが、水へ触れた場所から薄れていく。
二滴。
三滴。
やがて数え切れないほどの水滴が、巨大な木全体へ降り注いだ。
黒い木が激しく震えた。
根が地面を叩き、枝が大きく揺れる。
攻撃しようとしているようにも見える。
だがシュウには、先ほどまでとは少し違って感じられた。
苦しんでいる。
身体の中へ入り込んだ何かを追い出そうとしているように。
「……頑張れ」
自然と声が出た。
自分でも、木へ言ったのか、術へ言ったのか分からなかった。
青白い雨は降り続ける。
黒い樹皮から、少しずつ色が抜け始めた。
墨のようだった黒が薄れ、その下から本来のものらしい茶色が現れる。血管のように走っていた紫色の筋も一本ずつ消え、赤黒く輝いていた幹の亀裂から光が失われていった。
《浄化反応を確認しています》
『効いてる?』
《はい。異質魔力が急速に減少しています》
シュウの胸が少しだけ軽くなる。
雨は木だけではなく、周囲の地面にも降っていた。
黒く変色していた草へ水滴が触れるたび、不自然な色が薄れていく。すでに枯れてしまった草までは元に戻らないものの、あの黒い魔力だけは確実に消えていた。
やがて暴れていた根が動きを止めた。
地面へ沈む。
異様に長く伸びていた枝も力を失い、普通の樹木と変わらない形へ落ち着いていく。
数分後。
青白い雨が止んだ。
そこに残っていたのは、一本の古い木だった。
高さそのものは変わっていない。
だが黒かった幹は茶色へ戻り、枝先には僅かながら緑色の葉が残っている。街道を襲っていた怪物と同じものだったとは、すぐには信じられない姿だった。
「……戻った」
シュウはしばらく木を見つめた。
倒したわけではない。
消し飛ばしたわけでもない。
それでも脅威はなくなった。
朝、炎の槍で訓練人形を消し飛ばしたときとは違う感情が胸に残る。
力を使った。
でも壊さずに済んだ。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
《異質魔力反応は大幅に減少しました。ただし微量の残留反応が存在します》
『完全じゃない?』
《はい。再変異の可能性については現時点で判断不能です》
『じゃあ、まだ近づかない方がいいな』
《推奨します》
シュウは頷き、水の盾を呼び出そうとした。
何も起こらない。
そこで先ほどの説明を思い出す。
『……本当に使えなくなった』
《説明通りです》
『分かってたけど、実際に使えないと不安になるな』
《残り五形態は使用可能です》
『それでも防御役が一つ減ったからな』
代わりに、この木を壊さずに済んだ。
それなら後悔はなかった。
「シュウ!」
レイモンドがこちらへ走ってきた。
ローデリックも一緒だ。
兄はシュウの前まで来ると、何か言うより先に顔や腕を確認した。
「怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「本当に。ちょっと疲れたくらい」
シュウが両腕を軽く動かして見せると、レイモンドはようやく肩の力を抜いた。
「……ならいい」
「兄さん、心配しすぎ」
「誰のせいだと思っている」
「俺かな」
「お前以外に誰がいる」
即答だった。
いつもの兄の調子が戻ったことに、シュウも小さく笑った。
ローデリックは少し離れたところから木を見上げていた。
「本当に戻したのか」
「完全に大丈夫かは分からない。まだ少し変な魔力が残ってるみたいだから、近づかない方がいいと思う」
「分かった。後ほど周囲を封鎖し、詳しく調べさせよう」
そこでローデリックは息子へ視線を戻した。
「先ほどの魔法は《聖澄浄界》と言ったか」
「父さん」
「なんだ?」
「できれば復唱しないで」
「なぜだ?」
「恥ずかしいから」
ローデリックは本気で理解できないという顔をした。
「術の性質をよく表した名だと思うが」
「そういう真面目な評価が一番きついんだって!」
「私も悪くないと思うぞ」
「兄さんまで入ってこないで!」
レイモンドは首を傾げた。
「浄化の水を広範囲へ展開する魔法なのだから、むしろ分かりやすい。詠唱も術の目的と合っていた」
「感想会を始めないで!」
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩んだ。
騎士たちの中からも小さな笑いが漏れる。
シュウを馬鹿にしている笑いではない。
危険が去ったことへの安堵と、家族のやり取りを見たことによるものだ。
《非常に好評です》
『お前は今だけ黙ってて』
《承知しました》
今度こそアルカディアも余計な一文を読み上げなかった。
シュウが胸の内でほっとした、その直後。
「旦那様!」
馬車の近くから騎士の声が飛んだ。
全員が振り返る。
「倒れていた男の意識が戻りそうです!」
シュウの羞恥は一瞬で消えた。
ローデリックとともに馬車へ向かう。
救助した男は、地面に敷かれた厚手の外套の上へ横たえられていた。呼吸はまだ浅いが、先ほどまで閉じたままだった瞼が微かに震えている。
「聞こえますか?」
シュウは少し距離を残したところで膝をついた。
男の瞼がゆっくり開く。
焦点が合うまでには時間がかかった。
「……ここ……は……」
「アルヴェイン領です。あなたは街道で倒れていました」
「アル……ヴェイン……」
掠れた声だった。
男は周囲を見ようとしたが、首を動かすだけでも辛そうだった。
ローデリックがシュウの隣へ立つ。
「俺はこの領地を預かるローデリック・アルヴェインだ。話せる状態でなければ、今は無理をする必要はない」
「……男爵……様……」
男の目に僅かな安堵が浮かんだ。
だが、それはすぐに焦りへ変わった。
「……知らせ……」
「何だ?」
「知らせ……ないと……」
男が身体を起こそうとする。
「動かないで」
シュウは咄嗟に肩へ手を伸ばしかけ、黒い糸に繋がれていたことを思い出して途中で止めた。代わりに騎士へ目を向けると、慣れているらしい一人が男の背中を慎重に支える。
「何を知らせる?」
ローデリックが落ち着いた声で尋ねた。
男は何度か息を吸った。
「……北の……森……」
「北部森林か?」
小さく頷く。
アルヴェイン領の北には、広い森林地帯がある。
木材や薬草の採取だけでなく、狩人や冒険者も出入りする場所だ。危険な魔物がまったくいないわけではないが、領内では比較的よく管理されている地域でもある。
「森で何があった?」
ローデリックの問いに、男の喉が震えた。
「……木が……黒く……」
シュウの背筋に冷たいものが走った。
先ほどまで戦っていたもの。
同じ言葉。
「黒い木があったのか?」
男はまた頷いた。
「……一本じゃ……ない……」
その場にいた全員が黙った。
夕方の風が街道を抜けていく。
先ほど浄化した木の葉が、遠くで微かに揺れていた。
「何本だ?」
ローデリックの声から、家族と話していたときの柔らかさが完全に消えている。
「……分から……ない……」
男は苦しそうに咳き込んだ。
騎士が身体を支える。
「無理に話すな」
「でも……仲間が……」
男の手が震えながら持ち上がった。
シュウの袖を掴む。
力などほとんど残っていないはずなのに、その指だけは必死だった。
「仲間?」
「……二人……まだ……森に……」
シュウは男の目を見た。
恐怖。
悔しさ。
自分だけがここにいることへの罪悪感。
いくつもの感情が混ざっている。
「置いてきたのか?」
「……違う……」
男の呼吸が荒くなる。
「俺を……逃がして……二人が……」
そこで声が途切れた。
掴んでいた指から力が抜ける。
「おい!」
レイモンドが一歩近づいた。
《生命反応は維持されています》
アルカディアの声がすぐに届く。
『気絶しただけ?』
《はい。ただし衰弱が強いため、早急な治療を推奨します》
シュウは息を吐いた。
「気を失っただけだと思う。でも急いで治療した方がいい」
「分かった」
ローデリックはすぐに立ち上がった。
「屋敷へ戻る。到着次第、治癒術師を呼べ。この男の装備と所持品は本人の許可なく調べるな。ただし身体に黒い変色や先ほどの糸と同じものがないか、触れずに確認しろ」
「承知しました」
「それから、この場所へ人が入らないよう騎士を回す。木についても今夜は触れるな。調査は明るくなってからだ」
次々と指示が飛ぶ。
騎士たちが動き始める。
シュウはその場に立ったまま、北の方角を見た。
ここから森そのものは見えない。
畑。
丘。
そのさらに先。
子供の頃から何度も行ったことのある場所だ。
父や兄と狩りへ出たこともある。
騎士たちと薬草を採りに行ったこともある。
特別な場所ではない。
少なくとも、昨日までは。
『アルカディア』
《はい、マスター》
『さっきの木と同じものが、森に何本もあると思う?』
《情報不足です》
『だよな』
《ただし、救助対象者の証言と今回確認された異常を関連事象として扱うことは妥当です》
『……うん』
決めつけてはいけない。
同じものかもしれない。
違うものかもしれない。
何が原因なのかも分からない。
それでも。
王都へ出発するまで、あと少し。
学院へ行って。
新しい魔法を学んで。
新しい友人を作って。
その先では、この世界を旅してみたい。
昨日の朝。
そんなことを考えていた。
まさかその翌日に、自分の領地で正体不明の異変へ遭遇するとは思わなかった。
「シュウ」
ローデリックの声に振り返る。
「馬車へ乗れ」
「父さん。北の森は?」
「今から行くつもりか?」
「……少し思った」
「却下だ」
即答だった。
「やっぱり?」
「当然だ。日が落ちる。敵の正体も、数も、森の状況も分からん。救助された男から詳しい話も聞けていない。その状態で森へ入るのは勇敢ではなく無謀だ」
言われてみれば、その通りだった。
力を手に入れたばかりだからこそ、試したい気持ちがどこかにある。
さっき父から慎重に使えと言われたばかりなのに、もう先走りかけていた。
「……分かった」
「素直でよろしい」
「子供扱いしてない?」
「十七歳の息子を息子として扱っているだけだ」
「それなら仕方ないか」
シュウが肩を竦める。
ローデリックはそんな息子を見て僅かに笑ったあと、北の方角へ視線を向けた。
「森へは行く」
シュウが顔を上げる。
「ただし今夜ではない。まず情報を集める。明朝、偵察隊を出すかどうか判断する」
「俺も行っていい?」
「それも今決めることではない」
「絶対駄目とは言わないんだ」
「今日のお前の目が役に立ったのは事実だからな」
ローデリックは一度そこで言葉を切った。
「だが、役に立つことと、連れていくことは同じではない。エレノアにも説明しなければならん」
「……母さんか」
シュウの顔が僅かに引きつった。
朝、炎の槍で訓練人形を消し飛ばした。
昼間には家族へ《心装武器》について説明
そして夕方。
街道で謎の巨大な木と戦った。
この報告を母が聞いたときの顔を想像する。
「父さん」
「なんだ?」
「今日のこと、ちょっとだけ穏やかに説明してくれない?」
「事実を説明する」
「そこをなんとか」
「俺が誤魔化して、あとでエレノアに知られたらどうなる?」
シュウは考えた。
「……一緒に怒られる」
「そういうことだ」
「父親なら息子を守ってよ」
「理不尽な叱責なら守る。正当な叱責なら一緒に受けろ」
「そんな……」
レイモンドが後ろから小さく笑った。
「諦めろ、シュウ」
「兄さんは他人事だと思ってるだろ」
「私はお前を止めなかった件で、おそらく一緒に叱られる」
「仲間じゃん」
「嬉しくない」
兄弟で顔を見合わせる。
さっきまで命の危険を感じるような戦いをしていた。
それでも、こうしていつもの会話へ戻れることが、シュウには妙にありがたかった。
馬車へ向かおうとして、もう一度だけ振り返る。
夕暮れの街道。
抉れた地面。
黒く枯れた草。
そして、青白い雨によって元の姿を取り戻した一本の木。
風が吹いた。
緑色の葉が揺れる。
普通の木にしか見えない。
だが。
北の森には、まだ二人残されている。
黒くなった木は一本ではない。
救助した男が残した言葉が、頭から離れなかった。
《マスター》
『何?』
《明日の能力選択について、事前検討を推奨します》
シュウは足を止めた。
今は《心装武器》が選択されている。
二十四時間が経過すれば、別の能力へ切り替えることもできる。
もし明日。
本当に北の森へ行くことになったら。
何を選ぶ。
《心装武器》を続けるのか。
別の能力を使うのか。
昨夜、アルカディアが読み上げようとしていた膨大な能力群が頭をよぎる。
『……先に一つだけ聞いていい?』
《どうぞ》
『森の調査に向いてる能力って、ある?』
アルカディアは少しも迷わなかった。
《複数存在します》
『だよなぁ……』
《一覧を読み上げますか?》
『それはやめて』
《では、推奨候補のみ提示します》
『待って』
《はい》
シュウは馬車を見る。
父。
兄。
騎士。
救助した男。
そして、これから帰れば母が待っている。
今日はもう十分だった。
『……屋敷に帰ってからにしよう』
《承知しました》
『あと』
《はい》
『できれば、名前が普通そうなやつから教えて』
数秒の沈黙。
嫌な予感がした。
《該当候補の検索条件が厳格すぎます》
「十四歳の俺ぇ……!」
夕暮れの街道に、シュウの声が響いた。
「今度は何だ!?」
レイモンドが振り返る。
「なんでもない!」
「お前の『なんでもない』は、昨日から一度も信用できないぞ!」
「今回は本当に俺個人の問題だから!」
《正確には私との共有問題です》
『黙ってろ!』
「また誰かと話しているのか?」
「独り言!」
レイモンドの疑わしそうな視線から逃げるように、シュウは馬車へ向かった。
学院へ出発するまで、あと僅か。
その短い時間くらいは、家族と穏やかに過ごせると思っていた。
どうやら。
十四歳の自分が帰ってきた時点で。
そんな予定は、かなり怪しくなっていたらしい。




