第39話 漆黒魔力は、普通の属性変換とは少し違うようです
翌朝、シュウが目を覚ましたとき、最初に視界へ入ったのは机の上に置かれた一枚の連絡票だった。
窓から差し込む朝の光が紙の端を照らしている。その隣には昨日の授業ノートが閉じた状態で置かれ、最後の頁には自分で書いた注意事項が残っていた。
『漆黒魔力追加観察。無理に答えを出そうとしない。違和感があれば止める。』
(今日か)
前回の観察では、漆黒魔力が普通の闇属性と同じ反応を示さないこと、無属性魔力試験晶へ触れさせると一時的な変化が起きることまでは確認された。
しかし、正体は分かっていない。
今回調べるのは、通常魔力から漆黒魔力へ変わる途中の変化。
火や水といった普通の属性へ変換するときと、何が同じで何が違うのか。
知りたい。
その気持ちは昨夜から変わっていなかった。
「……シュウ」
背後から低い声が聞こえた。
「起きてた?」
「今起きた」
エリオットが布団の中からこちらを見ている。
「今日だろ」
「うん」
「放課後?」
「第三観察室」
「体調は?」
「普通」
「頭痛とかない?」
「ないよ」
「魔力がおかしい感じは?」
「ない」
シュウは思わず笑った。
「先生みたいになってる」
「昨日、違和感あったら止めろって言っただろ」
「覚えてる」
「ならいい」
エリオットはそう言うと身体を起こした。
寝癖は今日も酷い。
「エリオット」
「何?」
「髪」
「後で直す」
「そのまま教室行ったら、たぶんダンに笑われるよ」
「直すって」
いつもの朝だった。
それが少しありがたかった。
◇
午前中の授業は、いつも通り進んだ。
王国基礎教養。
基礎計算法。
昼食。
午後の魔法史。
シュウも授業へ集中していたつもりだったが、完全に普段通りだったかと聞かれれば自信はない。
昼食時にはダンから指摘された。
「今日、静かじゃない?」
「そう?」
「いつもより」
パンを手にしたダンが首を傾げる。
「何かあるのか?」
「放課後、先生に呼ばれてる」
「怒られた?」
「何で最初にそれなの?」
「俺なら呼ばれたらまず考える」
「自覚あるんだ」
エリオットが笑う。
「違うよ。前に受けた魔力検査の続き」
シュウはそれだけ伝えた。
ダンとセシリアには、特殊な魔力について学院側へ相談していることまでは話してある。詳細まで共有してはいないが、隠しているというより、まだ説明できるほど分かっていない。
「大丈夫なやつ?」
ダンの表情から笑いが消える。
「先生と研究員が準備してくれてる。嫌なら途中で止めていいって」
「ならいいけど」
セシリアもシュウを見る。
「体調に変化があれば、検査後でも医務室へ行った方がいいですよ」
「うん」
「その場では平気でも、後から疲労が出ることもありますから」
「分かった」
「今日は自主練習もやめておいた方がいいかもしれませんね」
「そうする」
シュウが素直に答えると、ダンが目を丸くした。
「素直だな」
「俺、普段どんな扱いなの?」
「気になるとすぐ試す」
エリオット。
「調べ始めると止まらない」
ユリウス。
「少し無理をしても、大丈夫だと言いそうです」
セシリア。
三方向から続けて言われた。
「……そんなに?」
ダンだけが何も言っていない。
シュウは少し期待して彼を見る。
「俺は人のこと言えない」
「そこは味方してよ!」
五人の間に笑いが広がった。
緊張していた肩から、少しだけ力が抜ける。
◇
放課後。
最後の授業が終わると、シュウは教本を鞄へ入れた。
「行ってくる」
エリオットも立ち上がる。
「俺、途中まで行く」
「研究棟まで?」
「中央棟のところまで。帰りに購買寄るから」
「分かった」
ユリウスは席に残っていた。
「明日、結果聞いていい?」
「話せる範囲なら」
「うん」
「じゃあまた明日」
教室を出る。
夕方にはまだ少し早く、学院内には授業を終えた学生たちの声が満ちていた。実技棟へ向かう者、図書館へ入っていく者、友人同士で寮へ戻る者。
シュウとエリオットは、その流れの中を中央研究棟へ向かって歩いた。
「緊張してる?」
エリオットが聞く。
「ちょっと」
「怖い?」
「怖いっていうより……何が出るか分からないから」
「何も分からないかもしれない」
「それもある」
「それならそれでいいだろ」
「うん」
中央講義棟と研究棟へ向かう道の分岐まで来る。
エリオットが止まった。
「じゃあ俺、購買行くから」
「うん」
「終わったら?」
「寮戻る」
「食堂来られそうなら来いよ。無理なら何か持って帰る」
「そこまでじゃないと思うけど」
「思うだけだろ」
「……はい」
エリオットが満足そうに頷く。
「じゃあ後で」
「後で」
シュウは一人で研究棟へ向かった。
◇
中央研究棟一階。
第三観察室。
扉の前まで来たところで、シュウは一度立ち止まった。
(よし)
ノックする。
「どうぞ」
グレイの声。
「失礼します」
扉を開ける。
室内には、すでに二人が待っていた。
グレイ・ハルバート。
そしてセレナ・ヴァイス。
短い青紫色の髪に白い研究衣、その下へ濃紺のローブを着たセレナは、前回と同じように観察台の横へ立っていた。
ただし、机の上に置かれている器具は以前とは違う。
大きな透明板。
銀色の細い線。
その中央に、五つの小さな透明片が一定間隔で並べられている。
さらに、その横には前回使った無属性魔力試験晶とは異なる、細長い透明な筒のような器具が置かれていた。
「こんにちは、アルヴェイン君」
「こんにちは」
「体調は?」
セレナが最初に尋ねる。
「問題ありません」
「頭痛、倦怠感、吐き気、魔力を動かしたときの違和感は?」
「ありません」
「昨日以降、漆黒魔力を試しましたか?」
「試してません」
「闇属性の変換も?」
「授業以外ではやってません」
セレナがグレイを見る。
「聞いていた通りですね」
「彼は約束は守ります」
グレイが答える。
シュウは少しだけ嬉しくなった。
「では、今日の内容を説明します」
セレナが観察台を示す。
「前回は、通常魔力と漆黒魔力が測定器へどう作用するかを見ました。今日はあなた自身の魔力が、通常状態から各性質へ変わる過程を外側から記録します」
「途中を見られるんですか?」
「正確には、途中で生じる変化を段階的に拾います」
セレナは大きな透明板を指す。
「これは多段式の魔力変化観測板です。あなたが端から魔力を流すと、魔力が五つの観測区画を順番に通ります」
「その途中で属性を変える?」
「はい。ただし、急に変えないでください」
グレイが続ける。
「最初は通常魔力のまま。次に、私の合図でゆっくり火属性へ変換してもらいます。観測区画ごとの反応差を記録します」
「前にやった変換効率の測定とは違うんですね」
「今回は効率そのものより、変化の順序を見ます」
「なるほど」
シュウは観測板を見る。
セレナが細長い透明筒も持ち上げた。
「こちらは記録補助器です。観測板の各区画が受けた反応を、終了後に比較できます」
「壊れたりしません?」
「通常属性では問題ありません」
「漆黒魔力は?」
「分かりません」
即答だった。
シュウの表情が僅かに固くなる。
「だから今日は、漆黒魔力をいきなり観測板全体へ流しません」
セレナは落ち着いて続ける。
「まず通常属性で器具が正常に動作することを確認します。その後、漆黒魔力については出力を前回よりさらに下げます。異常があれば即停止します」
「分かりました」
「もう一つ」
セレナがシュウを見る。
「前回と同じです。途中でやめたくなったら、理由を説明しなくてもやめられます」
「はい」
「こちらが続行可能と判断しても、あなたが嫌なら終わりです」
「分かりました」
シュウは一度息を吸った。
「やります」
◇
最初は通常魔力だった。
シュウは椅子へ座り、右手を観測板の端に置く。
「ごく少量で」
グレイが言う。
「はい」
魔力を流す。
透明板の中を淡い白色の光が進んでいく。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
五つの観測区画が順番に淡く光った。
「そのまま」
セレナは記録補助器を確認している。
「停止」
シュウが魔力を切る。
昨日の実技授業を思い出し、最後まで意識して止める。
観測板の光が消えた。
「残留、ほぼなし」
セレナが呟く。
「停止制御も安定していますね」
グレイが言う。
「昨日、ちょうど授業でやりました」
「ベイル先生ですか」
「はい」
「良いタイミングでしたね」
シュウは少し笑った。
「次は火属性」
通常魔力を流す。
淡い白。
「変換開始」
グレイの合図。
シュウはゆっくり火属性へ寄せていく。
最初の観測区画では白。
二つ目で、僅かに赤が混ざる。
三つ目。
赤が濃くなる。
四つ目。
ほぼ赤。
五つ目。
安定した赤色。
「停止」
魔力を切る。
「……綺麗ですね」
セレナが記録を見る。
「何がですか?」
「変化が順番に出ています。通常状態から火属性へ連続的に移行している」
グレイがシュウへ説明する。
「あなたが昨日感じた『途中』が、外側の観測でも確認できたということです」
「じゃあ、普通の属性変換はこういう感じなんですね」
「少なくとも、あなたの火属性変換では」
セレナが訂正する。
「全員が全く同じとは限りません」
「はい」
次は水。
やはり白から青へ、段階的に変化した。
風。
淡い緑。
土。
黄色。
光。
淡い白金色。
どれも、色や反応の強さには違いがあるものの、基本的には同じだった。
通常魔力。
変換開始。
中間状態。
属性化。
安定。
「五属性とも、変換過程そのものはかなり素直ですね」
セレナが記録を並べる。
「適性測定の結果とも矛盾しません」
「五つとも入口が近い感じがするって、昨日思ったんです」
「入口?」
「属性へ変え始めるまでの抵抗が、あんまり違わないというか」
セレナは少し考えた。
「感覚表現として記録しておきます」
「変ですか?」
「いいえ。本人にしか分からない感覚は重要です。ただし、客観測定とは分けて扱います」
「分かりました」
シュウは頷いた。
次。
闇属性。
少し緊張する。
「昨日と同じように」
グレイが言う。
「漆黒魔力を意識しないでください。普通の闇属性だけです」
「はい」
通常魔力を流す。
白。
「変換開始」
闇属性。
影。
遮光。
内側へ留める。
二つ目の区画。
淡い紫。
三つ目。
紫が濃くなる。
(ここまでは普通)
四つ目へ入る。
昨日感じた。
近くにある、もう一つの道。
意識して探さない。
ただ闇属性だけを維持する。
濃い紫。
五つ目。
安定。
「停止」
シュウはすぐ魔力を切った。
「どう?」
セレナがグレイを見る。
「大きな乱れはないように見えました」
「記録も同じです」
「昨日は途中で揺れたんですけど」
シュウが言う。
「今日は?」
「もう一つの道がある感じはしました。でも、そっちを見ないようにしたら普通にできました」
「重要ですね」
セレナが記録する。
「『別経路の存在感覚はあるが、意識を向けなければ闇属性変換を継続可能』」
「はい」
「引っ張られる感じは?」
「ありません」
「勝手に変わりそうになる?」
「それもないです」
「自分で選べる?」
シュウは少し迷う。
「たぶん。でも、まだ実際に途中から切り替えたことはないです」
「今日は切り替えません」
「はい」
やはり即答だった。
◇
ここまでで一度休憩になった。
セレナが水を用意してくれる。
シュウはゆっくり飲んだ。
「疲れは?」
グレイが尋ねる。
「少しだけ。でも普通の魔法を何回か使ったくらいです」
「魔力残量は?」
シュウは自分の感覚を確認する。
「かなり余ってます」
「頭痛は?」
「ないです」
「胸苦しさ、手足の違和感、寒気は?」
「ありません」
セレナがシュウの顔色を見る。
「続けますか?」
ここからが本題だ。
シュウは観測板へ目を向けた。
「はい」
「では漆黒魔力です」
空気が少し変わった。
グレイもセレナも、表情は変わらない。
しかし、さっきまでより慎重になったことは分かる。
「最初に確認します」
セレナが言う。
「今日は、通常魔力から漆黒魔力へゆっくり変化させてもらいます。ただし、出力は前回の半分以下を目安にしてください」
「はい」
「途中で違和感があれば、自分で止めて構いません。こちらから停止を指示した場合は即時停止」
「分かりました」
「変化を強く見せようとしないこと」
「はい」
「観測結果が弱くても失敗ではありません」
「はい」
セレナは少しだけ笑った。
「返事が良すぎて逆に心配になりますね」
「ちゃんと守ります」
「それなら結構です」
シュウは右手を観測板へ置く。
心臓が少し速い。
《アルカディア》
《はい、マスター》
(何か変だったら教えて)
《承知しました。ただし、研究員らの停止指示を最優先してください》
(分かってる)
深呼吸。
「始めてください」
通常魔力。
淡い白色の光が一つ目の観測区画へ入る。
いつも通り。
「そのまま」
二つ目。
「変換を始めてください」
セレナの声。
(漆黒魔力)
意識する。
火とは違う。
水とも。
風、土、光とも違う。
そして、闇とも違う。
いつもなら「黒くする」と思えば変わる。
だが今日は、その途中を見る。
(ゆっくり)
白い魔力の奥へ、黒が生まれる。
そう感じた。
「……?」
シュウの眉が僅かに動く。
二つ目の観測区画。
白。
まだ白。
三つ目へ入る。
火のときなら、ここまでに赤が混ざっていた。
しかし。
白い。
セレナも記録器を見ている。
「続けて」
シュウは漆黒魔力への変換を少し進める。
感覚としては、確実に変わり始めている。
(もう黒くなり始めてる)
自分の中では分かる。
なのに観測板は白い。
四つ目。
その瞬間だった。
白い光の中心へ、黒い点が現れた。
「……出た」
セレナが小さく言う。
黒点。
前回、無属性魔力試験晶に現れたものを思わせる。
だが今回は魔力が流れている最中だ。
「そのまま。出力を上げないで」
シュウは維持する。
黒い点が広がる。
白が徐々に黒へ変わるのではない。
中心の黒が、周囲の白を覆っていくように見える。
五つ目。
そこで一気に変わった。
黒。
僅かな紫。
周囲の光を吸い込むような漆黒。
「停止」
セレナの声。
シュウは即座に魔力を切った。
黒い光が消える。
観測板には何も残らない。
「手を離してください」
シュウはすぐ手を離した。
グレイが近づく。
「体調は?」
「大丈夫です」
「違和感は?」
「ないです。でも……」
「何か感じました?」
シュウは自分の右手を見る。
「火とか水と違いました」
「どう違いました?」
「俺の中では、もっと早く変わり始めてたんです」
セレナの手が止まる。
「詳しく」
「二つ目から三つ目に行く辺りで、もう漆黒魔力へ変わり始めてる感じがありました。でも板は白いままで」
「四つ目で初めて外側の反応が出た」
「はい」
「そして五つ目で急激に漆黒反応へ移行」
セレナが記録器を見る。
グレイも隣から確認する。
「通常属性と違いますね」
「ええ」
シュウは二人を見る。
「どう違うんですか?」
セレナはすぐには答えなかった。
記録を一つずつ確認する。
「火、水、風、土、光、闇。これらは通常魔力から属性魔力へ変わる途中で、観測反応も連続的に変化しました」
「はい」
「漆黒魔力は、あなた自身が変化開始を感じた段階では、観測板上にほぼ変化が出ていません」
「……はい」
「そして一定段階を超えたところで、黒い反応が急に現れています」
「じゃあ、途中がない?」
「そうは言えません」
セレナは即座に否定した。
「あなたは途中を感じています。観測器が拾えていないだけかもしれない」
グレイも頷く。
「今の器具が、漆黒魔力へ変わる途中の性質に対応していない可能性があります」
「それとも、本当に途中だけ普通の魔力と見分けがつかない?」
「それも候補です」
セレナが言う。
「他にもあります。一定段階までは内部的な変化だけで、外部へ表れる性質が変わらない可能性。あるいは――」
そこで止める。
「いえ。候補を増やしすぎるのはやめましょう」
「分からなくなるから?」
「はい」
セレナは記録紙へ三つだけ書いた。
『本人は変化開始を感知』
『観測板は初期変化を検出せず』
『一定段階以降、黒色反応が急速に顕在化』
「今日確実に言えるのは、ここまでです」
シュウはその三行を見る。
(普通の属性変換とは違う)
少なくとも、観測された形では。
「もう一回やりますか?」
シュウが尋ねる。
「今すぐはやりません」
予想通りの答えだった。
「記録を確認します」
「はい」
少し残念ではある。
でも、それでいい。
◇
セレナとグレイが記録を比較している間、シュウは椅子へ座って待った。
アルカディアにも確認する。
(どうだった?)
《マスター自身の感覚と概ね一致します》
(どこから変わってた?)
《明確な境界を提示することは困難です》
(アルカディアでも?)
《はい。ただし、マスターが変換開始を意図した直後から、通常時とは異なる魔力挙動は確認しています》
(じゃあやっぱり変わってた?)
《「変化が開始していた可能性が高い」までを推奨します》
(慎重だなあ)
《マスターの影響かと》
(俺?)
《近頃のマスターは、仮説と事実を分けることを重視されています》
シュウは少しだけ笑った。
(アルカディアも変わってる気がする)
《私は常に完全です》
(そういうところは変わらないね)
《当然です》
いつもの調子だった。
それが妙に安心する。
「アルヴェイン君」
セレナに呼ばれる。
「はい」
「もう一つだけ、負担の少ない確認をしたいのですが」
「何ですか?」
「漆黒魔力をもう一度出してもらうわけではありません」
セレナは先ほど使った観測板を指す。
「通常魔力だけを流してください。先ほど漆黒魔力が通った経路に残留変化があるか確認します」
「分かりました」
シュウは再び手を置く。
「普通の魔力だけですね」
「はい。漆黒へ変えないでください」
通常魔力。
淡い白色。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
五つ目。
すべて普通。
「停止」
魔力を切る。
セレナが記録を確認する。
「……残留反応なし」
「板は?」
「正常です」
「前回の試験晶みたいな黒い点も?」
「ありません」
グレイが観測板を確認する。
「少なくとも、この板には持続的な変質は起きていないようですね」
シュウはほっと息を吐いた。
「よかった」
「ただし」
セレナがすぐ続ける。
「前回の試験晶と今回の観測板は材質も用途も違います。『漆黒魔力は物へ残らない』とは言えません」
「はい」
もう、その注意の意味は分かる。
今回大丈夫だった。
だから全部大丈夫。
そうはならない。
◇
「今日はここまでにしましょう」
セレナが器具を片付け始めた。
「もう終わりですか?」
「終わりです」
「まだ魔力余ってますけど」
「あなたの魔力量ではなく、こちらの解析量が限界です」
「あ」
「データが増えすぎると、かえって判断しづらくなります」
グレイが少し笑う。
「研究する側にも限界はあります」
「そうなんですね」
「ありますよ」
セレナも苦笑した。
「研究者は何でも一日で解明できると思われがちですが、実際には一回試して、何日も記録を見ることもあります」
「地味ですね」
「非常に」
シュウは思わず笑った。
「古文書調査と同じだ」
「何か調べているんですか?」
セレナが尋ねる。
一瞬だけ迷う。
「家の領地にある古い施設について、学院の図書館で少し」
「なるほど」
セレナはそれ以上聞かなかった。
「では、研究も似たようなものです。一つ見つけて、すぐ答えに飛びつかない。別の記録と比べる。再現できるか確認する」
「最近そればっかり言われます」
「良いことです」
グレイが言う。
「今日の結果について、現時点であなたが覚えておくべきことを整理しましょう」
シュウは姿勢を正した。
「一つ。通常の六属性では、少なくとも今回の条件下で、通常魔力から属性魔力への連続的な変化が観測された」
「はい」
「二つ。漆黒魔力では、あなた自身が変化開始を感じた時点と、観測器が変化を捉えた時点にずれがあった」
「はい」
「三つ。一定段階を超えると、観測反応は急速に漆黒魔力特有のものへ移った」
「はい」
「四つ」
グレイの声が少し強くなる。
「これだけでは、漆黒魔力が通常六属性と全く別の体系だとは断定できない」
シュウは頷いた。
「分かってます」
「闇属性の上位とか、七つ目の属性とかも?」
「まだ言えない」
「その通りです」
セレナが続ける。
「観測器側の問題かもしれません。あなた特有の変換方法かもしれません。既知の特殊魔力性質の一種かもしれません。候補はいくつもあります」
「次は何を調べるんですか?」
二人が一瞬顔を見合わせた。
「まだ決めません」
セレナが答える。
「今日の記録を見てからです」
「分かりました」
「それから、前回と同じ制限は継続してください」
「漆黒魔力を魔導具とか魔石へ勝手に入れない」
「はい」
「今日やった段階変換も、一人で再現しないでください」
「普通に漆黒魔力を使うのも?」
セレナは少し考える。
「日常的に必要な場面がありますか?」
「……ないです」
「なら、調査が一区切りするまでは控えてもらえると助かります」
「分かりました」
シュウは素直に答えた。
「もし緊急時に必要になった場合は?」
グレイが尋ねる。
「それは安全を優先してください」
セレナは現実的だった。
「使わなければ怪我をする、誰かが危険になる、そういう状況で研究上の制限を優先する必要はありません。ただし、使用した場合は後で教えてください」
「はい」
シュウは立ち上がった。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
セレナが答える。
「あなたが協力してくれているから調べられています」
「また必要なら呼んでください」
「無理のない範囲で」
「はい」
第三観察室を出る。
扉が閉まった。
廊下には夕方の光が差していた。
◇
中央研究棟を出たところで、シュウは一度足を止めた。
外の空気を吸う。
身体に異常はない。
頭痛もない。
魔力が減りすぎた感じもない。
(終わった)
答えは出なかった。
でも、新しい違いは見つかった。
普通の属性変換では、途中の変化が観測できる。
漆黒魔力では、自分が変化を感じ始めても観測板はしばらく通常魔力として反応した。
そして、ある段階を超えたところで一気に黒くなる。
(何なんだろうな)
知りたい。
やはり、その気持ちは強くなる。
しかし今日はもう試さない。
それも自分で決められる。
食堂へ向かう。
少し歩くと、入口近くの壁へ背を預けている人物が見えた。
「エリオット?」
「遅い」
「待ってたの?」
「食堂行く途中」
「絶対嘘だ」
「十分くらいしか待ってない」
「待ってるじゃん」
エリオットは少し気まずそうに視線を逸らした。
「体調は?」
「大丈夫」
「本当に?」
「本当に」
シュウは両手を軽く広げる。
「頭痛なし。気持ち悪くない。魔力も普通」
「ならいい」
「心配してた?」
「少し」
「ありがと」
「……別に」
エリオットは先に歩き始めた。
シュウも隣へ並ぶ。
「結果、聞いていい?」
「話せる範囲なら」
「じゃあ、何か分かった?」
シュウは少し考えた。
「普通の属性に変えるときとは、ちょっと違う動きをした」
「危ない?」
「それは分からない。今日は問題なかった」
「正体は?」
「分からない」
「じゃあ前より分からなくなった?」
「いや」
シュウは笑った。
「何が分からないかは、前より分かった」
エリオットが一瞬黙る。
「ユリウスみたいなこと言うな」
「最近一緒に調べてるから移ったかな」
「ありそう」
二人で笑った。
◇
食堂では、ダンたちも待っていた。
「遅かったな!」
「検査だったから」
「大丈夫?」
セシリアが先に聞く。
「大丈夫。体調も問題なし」
「よかったです」
ダンも安心したように息を吐く。
「で、すごいこと分かった?」
「すごいことって?」
「実は伝説の七属性目だったとか」
シュウの動きが止まった。
ユリウスがダンを見る。
「飛躍しすぎ」
「でも特殊な魔力なんだろ?」
「特殊に見えることと、新属性は別」
「そうだけどさ」
シュウは椅子へ座りながら苦笑した。
「先生からも、まさにそれ言われた」
「何を?」
「七つ目の属性とか、闇の上位とか、まだ決められないって」
「じゃあ違うの?」
「違うとも決まってない」
「難しいな!」
「だから調べてるんだよ」
ダンはしばらく考えていたが、やがて諦めたようにパンを取った。
「分かった。分からないってことが分かった」
「それで合ってる」
「最近それ多くない?」
「俺もそう思う」
シュウが笑う。
セシリアは少し考えてから尋ねた。
「今日はもう魔法を使わない方がいいのですか?」
「研究員さんからは、漆黒魔力は控えてって。普通の魔法は禁止されてないけど、自主練習はしない」
「それがいいと思います」
「今日はちゃんと休む」
「偉いな」
ダンが言う。
「何でダンに褒められてるんだろう」
「俺だって休むときは休むぞ」
「昨日自主練習したでしょ」
「昨日は休む日じゃなかった!」
「基準が分からない」
いつもの会話。
いつもの五人。
研究室にいたときの張り詰めた空気が、少しずつほどけていく。
◇
夜。
317号室。
シュウは机へ座り、今日の観察結果を自分用にまとめていた。
研究記録そのものではない。
自分が何を感じたか。
何を言われたか。
それだけを整理する。
『通常六属性――変換開始後、観測反応も段階的に変化。』
『漆黒魔力――自覚上は早い段階で変化開始。しかし観測板はしばらく通常魔力反応。一定段階から黒色反応が急速に出現。』
『途中が存在しないとは言えない。観測できていない可能性あり。』
『六属性外、新属性、闇上位などは未確定。』
『一人で段階変換を再現しない。魔導具・魔石へ流さない。』
最後の二行には下線を引いた。
エリオットは向かいの机で読書をしている。
「ちゃんと禁止事項書いた?」
「書いた」
「見せて」
「何で?」
「確認」
「保護者?」
「同室者」
「どっちが上か分からないな」
シュウは笑いながらノートを少し傾ける。
エリオットは本当に下線部分を確認した。
「よし」
「だから何でエリオットが判定するの?」
「部屋で変なことされたら俺も巻き込まれるから」
「それは確かに」
「だろ」
反論できなかった。
シュウはノートを戻す。
その隣には北方調査用のノートが置いてある。
白材。
北部旧所。
ハーゼン家。
魔石。
調べたいことは、こちらにも残っている。
(明日は『北方建築材古称集』見ようかな)
そう考えたところで、シュウは少し笑った。
「エリオット」
「何?」
「明日、図書館行く」
「知ってた」
「まだ言ってなかったよね?」
「今日行かなかったから、明日は行くだろうなって」
「読まれてる……」
「ユリウスにも言っとく?」
「明日の昼に聞いてみる」
「了解」
シュウは北方調査ノートの上へ、小さな紙を置いた。
『白材』
明日調べる言葉。
ただし、それが白樹だと決めつけない。
似ているから同じだと思わない。
今日の漆黒魔力も同じだ。
普通の属性と違う反応をした。
だからといって、すぐに「七つ目の属性」になるわけではない。
(昔の俺なら絶対やってたな)
《はい》
(即答だね)
《「六属性など仮初めの分類に過ぎない。我が漆黒は――」》
(待って。もしかして書いてあるの?)
《ございます》
シュウの手が止まる。
(……短い?)
《比較的》
(じゃあ聞く)
《承知しました》
嫌な予感しかしない。
《中学時代のマスターによる記述です》
(うん)
《「六属性など仮初めの分類に過ぎない。我が漆黒は世界創世以前より存在する第零属性――原初黒源」》
「…………」
シュウは静かに両手で顔を覆った。
「また?」
エリオットが本から顔を上げる。
「第七じゃなかった」
「何が?」
「零だった」
「何の話?」
「聞かないで」
《なお、「原初黒源」の読みは――》
(いらない!)
《まだ読みを申し上げておりません》
(絶対格好つけてるからいらない!)
エリオットが困惑した顔でこちらを見ている。
シュウは顔を上げ、深く息を吐いた。
研究者たちは一つの結果を見ても、答えを急がなかった。
自分もそうする。
少なくとも十三歳の自分よりは、慎重でいたい。
窓の外には静かな夜空が広がっていた。
漆黒魔力が何なのか。
まだ分からない。
けれど今日、一つだけ確かになった。
普通の属性魔力へ変わるときとは、少なくとも同じ見え方をしていない。
その違いが何を意味するのかは、これから調べればいい。
シュウは研究用のノートを閉じ、今度は北方調査用のノートへ手を置いた。
明日は、また別の「分からないこと」を調べる日になりそうだった。




