第33話 消えた林区には、管理する人たちがいました
翌日の午後。
三組の教室へ入ってきたオルド・カーヴェルは、いつものように分厚い本を何冊も抱えていた。
柔らかな茶色の髪にはところどころ灰色が混じり、落ち着いた色合いの長衣も、これまでの授業と変わらない。ただし今日は本だけではなく、細長く巻かれた紙束まで抱えている。
「先生、それ全部使うんですか?」
前列の学生が尋ねると、オルドは教卓へ本を置きながら穏やかに笑った。
「私としては使いたいところですが、全て説明していると夕食の時間を過ぎます」
教室から小さな笑いが起こる。
「したがって、皆さんの夕食を守るためにも半分ほどにしておきましょう」
「先生の授業って、たまに本気で夕食まで続きそうだよな」
隣でエリオットが小声で言った。
「分かる」
シュウも声を抑えて返した。
嫌という意味ではない。
オルドは一つの話題から関連する歴史へ次々と話を広げるので、聞いている側としては面白い。だが本人が止めなければ、本当に何時間でも話せそうな雰囲気がある。
少し離れた席では、ユリウスがすでにノートを開いていた。
今日は魔法史入門。
前に出された課題を提出する日でもある。
「まず、前回の課題を回収します」
オルドの指示で、学生たちが前から順番に紙を集めていく。
シュウも昨夜書いた《微灯》についての考察を重ねた。
現代では初心者向けの基礎魔法として扱われる《微灯》も、古い時代には魔力と属性の理解そのものが現在と違った可能性がある。術式についても、現代より複雑な補助構造を必要としていたかもしれない。
ただし、「昔は必ず複雑だった」とは書かなかった。
あくまで可能性。
地域差や時代差もある。
そこは意識した。
「課題については、次回以降いくつか取り上げます」
全員分を受け取ったオルドは、教卓の上から巻いた紙を一本取った。
「さて。今日は少し視点を変えましょう」
留め具を外す。
広げられたのは、大きな術式図だった。
円。
線。
細かな文字。
複数の補助構造。
シュウが学院で習い始めた基礎術式と比べると、明らかに複雑だ。
「これは約二百八十年前、王都近郊の記録に残る照明術式を復元したものです」
教室の視線が集まる。
「照明?」
「これが?」
何人かが驚いた声を漏らす。
シュウも同じ気持ちだった。
(これ全部で照明?)
見た目だけなら、もっと大掛かりな魔法に見える。
オルドは反応を楽しむように少し待ってから続けた。
「皆さんが現在使う《微灯》と目的は近い。もちろん完全に同一ではありませんが、少量の光源を一定時間維持するための術式です」
「複雑すぎませんか?」
学生の一人が手を上げる。
「現代の基準では、そう見えます」
オルドは術式図の一部を指した。
「では、なぜこれほど複雑なのか。分かる人は?」
何人かが考える。
シュウも図を見る。
昨日書いた課題が頭に浮かんだ。
(昔は魔力の扱い方自体が違った?)
手を上げるか迷っていると、前方の学生が先に答えた。
「昔の人は術式を簡単にする方法を知らなかったから?」
「一部は正解です」
オルドが頷く。
「ただし、その言い方には少し注意が必要です」
黒板へ「知らなかった」と書く。
その横に「必要だった」と書いた。
「現代の私たちから見れば不要に思える構造でも、当時の魔導具、使用素材、魔力制御技術、あるいは魔法理論では必要だった可能性があります」
シュウはペンを動かす。
「過去の術式を見て、『昔の人は非効率だった』だけで終わらせてはいけません。なぜ、その構造が必要だったのか。それを考えることが魔法史では重要です」
オルドは複雑な円の一部を指した。
「この補助環は、現代の術式ではほぼ使われません。しかし、同時代の魔導具素材を調べると、当時広く利用されていた魔石には魔力流量の揺らぎが大きいものが多かったことが分かっています」
別の部分へ指を移す。
「こちらは、その揺らぎを抑えるための構造だった可能性が高い」
教室が静かになる。
「つまり、術式だけを見ていては分からない」
オルドの声が穏やかに響く。
「魔法は、それ単独で歴史の中に存在しているわけではありません。素材、道具、社会、土地、制度、使用者。それらと結びついています」
シュウのペンが止まった。
(土地……)
ローデル林区。
昨日見つけた古い名前が頭へ浮かぶ。
北の監視小屋。
白樹。
古い術式建築。
管理。
それらも、一つだけ見ていては意味が分からないのかもしれない。
白樹が使われているから何かを保持していた。
「封所」という名だから何かを封印していた。
森に建物があるから監視していた。
そう単純には決められない。
「アルヴェイン君」
「はい」
また呼ばれた。
最近、授業で当てられることが増えた気がする。
「何か気になることでも?」
どうやら考え込んでいたのが顔に出ていたらしい。
「えっと……」
北の森について全て話す必要はない。
少し言葉を選ぶ。
「古い建物を調べる場合も、建物だけじゃなくて、その周りの土地とか、当時の制度とかも調べた方がいいってことですか?」
「その通りです」
オルドはすぐに頷いた。
「特に用途不明の古い魔術建築なら重要ですね。例えば同じ構造の塔でも、国境なら監視塔、街道なら信号塔、魔力脈上なら観測施設だった可能性があります」
「建物が同じでも、場所で意味が変わる?」
「変わります。逆もあります」
「逆?」
「見た目の異なる建物が、同じ役割を持つこともある」
なるほど。
「では、古い施設を調べるとき、何から見ればいいですか?」
シュウが続けて尋ねる。
オルドは少し考えた。
「一つだけ挙げるなら、周囲との関係でしょうか」
「周囲?」
「道、水源、集落、資源、領地境界、他の施設。建物がそこに存在した理由を探すのです」
シュウは急いで書き留める。
「ただし」
オルドが笑う。
「何でも意味があると思い始めると、今度は偶然まで意味のある配置に見えてきます」
「……気をつけます」
「歴史を調べる者が一度は通る道です」
ユリウスが僅かにこちらを見る。
たぶん同じことを考えたのだろう。
昨日の四角い印。
ローデル林区。
北の監視小屋。
近いから同じだと決めてはいけない。
だが、調べる価値はある。
◇
授業の後半では、古い魔法記録を読む際の注意点が扱われた。
同じ名称でも時代によって術式内容が違うこと。
逆に、違う名前でもほぼ同じ現象を指している場合があること。
写本を重ねるうちに誤字や省略が発生すること。
当時の記録者が魔法の専門家とは限らないこと。
「記録に書かれているから事実、とは限りません」
オルドが言う。
「しかし、間違っている可能性があるから無価値、でもありません」
黒板へ二つの文を書く。
『記録された事実』
『記録した者がそう認識した事実』
「この二つは、似ていますが違います」
シュウはしばらくその言葉を見つめた。
北の森に残された日誌。
エドワルドの言葉。
白樹は未だ役目を果たしている。
扉に異常なし。
森の底も静か。
我らが忘れぬ限り、あれは眠り続ける。
(エドワルドが何を知っていたのかも、まだ分からないんだよな)
日誌に書かれた言葉は重要だ。
だが、それだけで北の封所の全てが分かるわけではない。
授業終了を告げる鐘が鳴る。
「では今日はここまで。提出された課題は次回までに目を通しておきます」
学生たちが立ち上がり始める。
シュウも教科書を閉じた。
「図書館」
ユリウスがすぐに言った。
「行こう」
シュウも迷わなかった。
「俺も」
エリオットが鞄を肩へ掛ける。
「制御の本?」
「今日は地図の方も見る」
「珍しい」
「昨日途中まで聞いたら気になった」
三人で教室を出る。
◇
放課後の図書館は、前回より少し混んでいた。
課題が出始めた影響なのか、閲覧机の半分以上が学生で埋まっている。書架の間を行き来する足音や、ページをめくる乾いた音が、静かな館内に細く重なっていた。
三人は前回使った地理資料の一角へ向かう。
「今日はローデル林区」
ユリウスが確認する。
「うん」
「何を知りたい?」
いきなり本を探すのではなく、先に目的を決める。
シュウは少し考えた。
「まず、林区が何のために作られてたか」
「次」
「いつまで存在したか」
「次」
「管理してたのが誰か」
「あと、四角い印」
エリオットが加えた。
「昨日の建物みたいなやつが、ローデル林区の資料に出てくるか」
「それも」
シュウはノートへ四つ書いた。
ローデル林区の目的。
存在した年代。
管理主体。
地図の四角印に対応する施設。
「これ以上増やさない?」
エリオットが聞く。
「最初はこれでいい」
「賛成」
ユリウスも頷いた。
まず索引を探す。
地域名が分かっているため、前回より調査の入口は明確だった。
北部史。
旧王領記録。
森林行政。
街道。
古地図。
三人で手分けして書架を探す。
シュウは「北部行政史」と記された棚の前で背表紙を順番に追った。
『北方旧領行政記録集成』
『王領森林制度史』
『北部街道と宿駅』
『旧ラウネ地方史資料』
手が止まる。
「ユリウス」
少し離れた棚を見ていたユリウスが来る。
「これ」
「旧ラウネ地方史資料」
「ローデル林区がラウネ地方側なら載ってるかも」
「持っていこう」
分厚い本を一冊抜く。
そのあとエリオットも『北部森林管理制度変遷』という本を見つけた。
「これ使えそうじゃない?」
「かなり」
「重いけど」
「持つよ」
「いや、そこまでじゃない」
三人で資料を閲覧机へ運ぶ。
最初に開いたのは『旧ラウネ地方史資料』だった。
索引を見る。
「ロ……」
指で追う。
「ローデル」
「あった」
ページ番号が三つ記されている。
一つではない。
「まず最初」
該当ページを開く。
古い行政記録を現代語で整理した章だった。
ローデル林区。
名称の横には、おおよその成立年代が記されている。
「王暦……」
ユリウスが年代を換算する。
「約二百十年前には記録がある」
「小屋より古い」
シュウが答える。
北の監視小屋は約百八十年前。
ローデル林区は、その建設以前から存在していた可能性が高い。
「終わった時期は?」
「待って」
読み進める。
約百三十年前、周辺行政区分の再編に伴い名称が廃止されたとある。
「地図と合う」
エリオットが言った。
百四十年前の地図では、すでに記号や名称が変化し始めていた。
「完全に同じ年代じゃないけど、大きくは矛盾しない」
ユリウスが慎重に付け足す。
シュウはノートへ書く。
次に、林区の目的。
文章を追っていく。
「森林資源の管理……」
「やっぱり木材?」
「それだけじゃない」
ユリウスが続きを指す。
ローデル林区は、王都および北部諸領へ供給する建築材の保全を主目的の一つとしていた。
伐採区域。
保全区域。
狩猟許可区域。
水源保護区域。
そして。
「……立入制限区域」
シュウの声が少し低くなる。
エリオットが隣から覗く。
「理由書いてある?」
「待って」
ページをめくる。
立入制限区域が存在した理由として、いくつかの例が挙げられている。
崩落危険地。
魔物の繁殖域。
希少樹木保護区。
水源周辺。
王家指定施設周辺。
シュウの指が止まる。
「王家指定施設」
「北の小屋?」
エリオットがすぐ言う。
「まだ分からない」
シュウは即座に答えた。
「施設って他にもあるだろうし」
「そうだな」
エリオットも頷く。
以前なら、こういう言葉を見つけた瞬間に北の封所へ結びつけていたかもしれない。
今は一度止まれる。
それでも、胸が少し高鳴るのは止められなかった。
(王家指定施設があった)
少なくとも、それ自体は新しい情報だ。
「場所は?」
ユリウスが聞く。
「ここにはない」
「別ページかも」
索引にあった二つ目のページを開く。
こちらは林区内の管理制度についてだった。
「管理者」
シュウが呟く。
林区全体を一人の領主が直接管理していたわけではない。
王家から任命された森林監督官。
地域ごとの管理人。
木材検査官。
街道保全担当。
季節雇用の作業員。
複数の役割が存在した。
「思ったより組織的」
エリオットが言う。
「広かったんじゃない?」
「地図だと結構広い」
ユリウスが昨日写した範囲を確認する。
シュウは文章をさらに読む。
すると、一つの記述が目に留まった。
「これ……」
「何?」
「北部管理人」
他の管理人と少し違う。
ローデル林区の北部には、通常の森林管理とは別に「北部管理人」と呼ばれる役割が置かれていた時期がある。
仕事内容。
巡回。
施設確認。
立入制限区域の境界確認。
異常時の報告。
ここまでは理解できる。
しかし。
「任命条件……」
シュウは文章を目で追う。
「特定家系からの推薦を優先?」
エリオットが読む。
「家系?」
胸が鳴った。
シュウは慌てて先を読む。
家名は書かれていない。
理由も不明。
ただ、約百九十年前から百五十年前までの一部記録で、北部管理人について「旧来の管理を知る家から推薦を受けることが望ましい」とされていた。
「旧来の管理」
ユリウスが呟く。
三人とも、しばらく黙った。
シュウの頭にはアルヴェイン家の記録が浮かんでいた。
代々の管理。
エドワルド。
グレゴル。
エルネスト。
アルベルト。
そして途切れた可能性のある引き継ぎ。
(似てる)
そう思う。
だが、似ているだけだ。
「アルヴェイン家とは書いてない」
シュウは自分から言った。
「うん」
ユリウスも頷く。
「でも調べる価値はある」
「ある」
シュウはノートへ丁寧に書き写す。
『ローデル林区北部管理人。約190~150年前の一部記録に、旧来の管理を知る家からの推薦を優先する旨。家名・理由は資料中では未確認。アルヴェイン家との関係は不明。』
最後の一文には、下線を引いた。
関係は不明。
そこを忘れてはいけない。
「次のページ」
ユリウスが言う。
索引にあった三つ目。
こちらはローデル林区廃止時の行政再編についてだった。
名称廃止後、森林の大部分は新たな領地へ分割され、一部は王家管理地として残った。
「アルヴェイン領になるのは?」
「この資料だけだと分からない」
「別の成立記録が必要だね」
読み進める。
林区の通常業務は新しい行政組織へ移管。
街道保全も移管。
木材管理も移管。
だが、一行だけ。
シュウはそこを二度読んだ。
「……一部の旧来管理事項については、従前の担当へ継続を命ずる」
ユリウスが隣から読む。
「従前の担当」
「誰?」
エリオットが尋ねる。
「書いてない」
シュウはページ下部の注釈を見る。
原記録の一部欠損。
詳細不明。
「これだけ?」
「この本では」
残念ではある。
しかし、何もないわけではない。
行政区分が変わっても、一部の「旧来管理事項」は通常の移管対象にならず、それまでの担当者へ継続された。
(もし、それが北の封所だったら……)
思考が先へ走りそうになる。
シュウは一度息を吐いた。
(まだだ)
可能性。
それ以上ではない。
「森林管理制度の方も見よう」
エリオットが言った。
「うん」
今度は『北部森林管理制度変遷』を開く。
こちらはローデル林区だけではなく、北部全体の制度を扱っている。
索引からローデルを探す。
複数箇所。
「多いな」
「全部読む?」
「今日は必要なところだけ」
シュウが答える。
まず施設。
昨日の四角印へ繋がるものがあるか。
林区の管理施設について記された章を探す。
森林管理では、規模や地域によって複数の建物が使われていた。
監督官の詰所。
作業員小屋。
木材保管庫。
街道休憩所。
境界標。
監視施設。
「監視施設」
シュウが指を止める。
説明を読む。
火災。
盗伐。
魔物。
境界侵犯。
危険区域への立入り。
目的は様々。
「北の監視小屋って呼ばれてるから、これ自体は近そう」
エリオットが言う。
「でも普通の森林監視小屋だった可能性もあるってことだよね」
シュウは答える。
「そうなる」
ユリウスが頷く。
これはむしろ、仮説を弱める情報でもあった。
北の小屋が地図へ描かれていたとしても、それだけで特殊施設とは言えない。
ローデル林区には普通の管理小屋や監視施設が複数あった。
(でも、地下の扉は普通じゃない)
シュウ自身は知っている。
北の小屋の地下には、隠された石扉がある。
黒く高密度な何か。
ノック音。
「帰ってきた」と反応した淡い魔力。
そこは普通の森林監視小屋では説明できない。
ただし、エリオットにはそこまで話していない。
ユリウスにも同じだ。
だから、口には出さなかった。
「地図記号は?」
ユリウスが資料の付録を探す。
「あった」
折り畳まれた図が付いていた。
三人で慎重に広げる。
ローデル林区そのものではない。
別の北部林区で使われていた管理図の写しだ。
小さな四角。
三角。
二重丸。
線。
記号の横には説明がある。
「四角……」
エリオットが探す。
「管理建物」
ユリウスが読んだ。
「やっぱり建物」
「ただし」
シュウが続きを見る。
「用途は別記号との組み合わせで示す」
四角単体なら「管理用建物」。
中に点があれば保管施設。
斜線があれば宿泊可能。
二重線なら監督官常駐。
そして、四角の横に短い縦線があれば――。
「特殊管理?」
シュウが読んだ。
説明は短い。
『通常の森林業務外の管理対象に付随する施設。用途は個別記録を参照。』
三人の間から声が消えた。
昨日の古地図。
小さな四角。
その横。
(線、あったか?)
思い出そうとする。
あったような気もする。
なかったような気もする。
地図の文字自体が薄かった。
「昨日の地図」
エリオットが言う。
「確認しよう」
ユリウスもすぐ立ち上がりかける。
「待って」
シュウが止めた。
二人が見る。
「先に、この記号がローデル林区でも同じ意味だったか確認しよう」
ユリウスが座り直した。
「そうだった」
「別の林区の図だもんな」
エリオットも納得する。
似た記号が使われていたとしても、地域や年代が違えば意味も変わる可能性がある。
「これ、何年前?」
ユリウスが付録の説明を見る。
「約百七十年前」
「年代は近い」
「地域は?」
「北東部。ローデルよりかなり東」
「じゃあ参考にはなる。でも証拠じゃない」
「うん」
シュウはノートへ記録する。
『北東部林区、約170年前の管理図では、四角=管理建物。四角+短縦線=通常森林業務外の管理対象に付随する施設。ローデル林区で同一記号体系を使用した証拠は未確認。』
そこまで書いたところで。
《マスター》
アルカディアの声が響いた。
『何?』
《昨日閲覧した古地図について、マスターの視覚記憶との照合を提案します》
シュウの手が止まる。
以前、北の小屋の記憶を整理したときと同じだ。
アルカディアは、シュウが見たものを完全な映像として保存しているわけではない。
だが、本人が視認した範囲について、記憶を整理する補助はできる。
『待って。先に俺が思い出す』
《承知しました》
目を閉じる。
昨日の地図。
机。
ユリウス。
エリオット。
ローデル林区。
森の北側。
小さな四角。
(横……)
何かあったか。
細い線。
いや、地形線だった可能性もある。
シュウは目を開けた。
『俺の記憶だと、四角の右か左に短い線っぽいものがあった気がする。でも自信ない』
《照合します》
短い沈黙。
《マスターが昨日視認した範囲では、四角形記号の右側に短い縦方向の線状表現が存在した可能性が高いと判断します》
胸が跳ねる。
『可能性?』
《はい。該当部分は退色しており、紙面の汚れまたは隣接する地形表現との完全な分離は困難です》
『じゃあ確定じゃない』
《その通りです》
シュウは息を吐いた。
期待した。
一瞬だけ。
けれど、まだだ。
「シュウ?」
エリオットが見ている。
「昨日の地図の四角、横に短い線みたいなのがあった気がする」
「本当?」
「自信ない。汚れかもしれない」
「じゃあ見に行く?」
「うん。今度は拡大用の閲覧具が借りられるか聞こう」
「それがいい」
ユリウスが頷いた。
すぐ地図へ飛びつかず、まず今の資料を確認し終える。
それから三人は、ローデル林区で同じ記号体系が使われていたかを探した。
しかし、今日用意した資料では見つからなかった。
地図作成者の名も違う。
管理機関の表記も一部異なる。
共通制度だった可能性はあるが、確定できない。
「今日はここまでかな」
シュウが言う。
「四つの目的、確認しよう」
ユリウスがノートを見る。
「ローデル林区の目的」
「森林資源管理が主目的の一つ。立入制限区域もあった」
「存在年代」
「約二百十年前には記録あり。約百三十年前の行政再編で名称廃止」
「管理主体」
「王家側の森林監督官、地域管理人とか複数。北部管理人は一部期間で『旧来の管理を知る家』からの推薦を優先」
「四角印」
「管理建物の可能性は高くなった。でも特殊管理施設かは未確認」
エリオットが腕を組む。
「結構分かったな」
「でも、分からないことも増えた」
「いつものやつ」
「いつものやつだね」
シュウは笑った。
◇
資料を片づける前に、シュウは引用元とページ番号をノートへ書き写した。
以前なら内容だけを書いて終わっていたかもしれない。
今は、どの本のどこに書かれていたかも残す。
後から別の資料と食い違ったとき、確認できるようにするためだ。
ユリウスも同じように自分のノートへ記録している。
エリオットは途中から「俺も書いた方がいい?」と言い出し、結局、ローデル林区の年代だけ控えていた。
「俺、完全に巻き込まれてない?」
「嫌なら制御の本読んでていいよ」
「嫌とは言ってない」
「じゃあ巻き込まれてる」
「認めるのかよ」
三人で小さく笑う。
資料を戻し、受付へ向かう。
そこでシュウは司書へ尋ねた。
「すみません。古地図を見るときに、細かいところを拡大して見る道具って借りられますか?」
「閲覧鏡ですね」
司書はすぐ答えた。
「一般資料用なら貸し出せます。ただし、古地図そのものが保存指定資料の場合は職員立ち会いになります」
「昨日見た地図が保存指定か分からなくて」
「資料番号は分かりますか?」
シュウはノートを開いた。
昨日、ユリウスが書き留めていた番号を確認する。
「これです」
司書が台帳を見る。
「こちらは一般閲覧可能な写本ですね。閲覧鏡も使用できます」
「ありがとうございます」
「ただし、写本ですから、原本にあった線が正確に写されているとは限りません」
シュウは一瞬黙った。
「……そうか」
写本。
当然だ。
昨日の地図は原本ではない。
仮に短い縦線が見つかっても、それが原本から正確に写されたものかは別問題になる。
「原本はありますか?」
「この資料については学院所蔵ではありません。写本の作成元が記録されていますから、必要なら確認できますよ」
「お願いします」
司書が台帳の別欄を見る。
「原本所蔵は……王立北方記録院となっています」
「王立北方記録院」
シュウは聞き覚えがなかった。
「北部の行政・地理・古記録を保管している機関です。王都にも一部写本がありますが、原本の多くは北部にあります」
「学生でも見られます?」
「資料によります。一般公開資料なら閲覧申請できますが、学院からすぐ行ける距離ではありませんよ」
「どの辺ですか?」
「北部中央寄りです。王都からなら数日は見た方がいいでしょう」
今すぐ行ける場所ではない。
「ありがとうございます」
シュウは礼を言い、ノートへ「王立北方記録院」と書いた。
新しい場所。
新しい調査先。
ただし、今すぐ向かう予定はない。
(いつか必要になるかもしれない)
学院の図書館で調べられることは、まだたくさんある。
家族からの返事も待っている。
北へ行くのは、そのあとでも遅くない。
◇
図書館を出たころには、夕方の鐘までそれほど時間が残っていなかった。
空は淡い橙色に染まり、昼間より冷えた風が学院の建物の間を抜けている。
三人は中央広場へ向かいながら、今日分かったことをもう一度整理した。
「ローデル林区は、小屋が建ったころには存在してた」
エリオットが指を折る。
「うん」
「北側には普通と少し違う管理人がいた可能性がある」
「『旧来の管理を知る家』から推薦を優先、ね」
ユリウスが補足する。
「それがアルヴェイン家かもしれない?」
「かもしれない。でも証拠なし」
シュウが答える。
「行政再編のあとも、一部の旧来管理事項だけは元の担当が続けた」
「それが何かは不明」
「四角い建物記号は、別地域の同時代資料だと特殊管理施設の可能性がある。でもローデルで同じ記号か不明」
「明日は地図を拡大して見る」
エリオットがまとめる。
「明日行くの?」
シュウが聞く。
「行かないの?」
「授業次第かな」
「気になってるくせに」
「気になってるよ」
否定はしない。
かなり気になる。
もし昨日の四角に、本当に短い縦線が付いていたら。
もしローデル林区でも同じ記号体系が使われていたら。
それでも北の監視小屋と同じだとは確定しない。
だが、調べる価値はさらに高くなる。
「家からの返事、まだかな」
シュウが呟く。
「昨日出たばっかりだろ」
エリオットが言う。
「分かってる」
「数日はかかるって言われたんだろ?」
「分かってるって」
「なら待て」
「エリオットに言われると何か悔しい」
「何でだよ」
ユリウスが小さく笑った。
中央広場へ着く。
第二男子寮へ向かう道の前で、ユリウスが足を止めた。
「シュウ」
「何?」
「今日の資料」
「うん」
「北部管理人のところ、家名が載ってないのが気になる」
「俺も」
「別資料なら載ってるかもしれない」
「探そう」
「でも」
ユリウスは少し間を置いた。
「もしアルヴェイン家じゃなくても、がっかりしない方がいい」
シュウは一瞬だけ言葉に詰まった。
自分では慎重に調べているつもりだった。
けれど、心のどこかで期待している。
北部管理人。
旧来の管理を知る家。
代々、北の封所を管理していたアルヴェイン家。
繋がっていてほしいと思っている。
(そうだな)
調査は、自分が欲しい答えを見つけるためにするものではない。
「うん」
シュウは頷いた。
「違ったら、違ったって分かるだけだよね」
「それも情報」
「事実の味方?」
「そう」
「ユリウス、本当にそれ好きだな」
エリオットが笑う。
「便利だから」
ユリウスはいつも通り淡々と答え、第二男子寮へ向かっていった。
◇
第一男子寮へ戻るころには、空の橙色もかなり薄くなっていた。
シュウとエリオットは夕食の前に一度部屋へ寄る。
扉を開けると、朝のまま整えられた二つの寝台と、それぞれの机が目に入った。
シュウは鞄を置き、今日のノートを取り出す。
「まだやるの?」
エリオットが呆れたように言う。
「整理だけ」
「昨日も言ってたな、それ」
「本当に整理だけ」
椅子へ座る。
今日分かったこと。
分からなかったこと。
次に調べること。
三つへ分ける。
【分かったこと】
ローデル林区は約二百十年前には記録が存在し、約百三十年前の行政再編で名称廃止。
森林資源管理だけでなく、立入制限区域を含む。
北部管理人という役割があり、一部時期には「旧来の管理を知る家」からの推薦が重視された。
行政再編後も、一部の旧来管理事項は従前の担当へ継続された。
【分からないこと】
北部管理人とアルヴェイン家の関係。
旧来管理事項の具体的内容。
ローデル林区の立入制限区域の場所と理由。
昨日の四角印が北の監視小屋なのか。
ローデル林区で使用された地図記号体系。
【次に調べること】
古地図の四角印を閲覧鏡で再確認。
ローデル林区の管理人名簿または任命記録。
立入制限区域の記録。
アルヴェイン領成立時の行政資料。
王立北方記録院。
最後まで書き終え、シュウはペンを置いた。
「増えた?」
エリオットが聞く。
「すごく」
「嬉しそうだな」
「分かる?」
「分かる」
シュウはノートを見る。
答えはまだない。
むしろ疑問は増えている。
それなのに、以前ほど不安ではなかった。
一つ調べれば、次に何を調べればいいか分かる。
行き止まりではない。
道が枝分かれしているだけだ。
《マスター》
『何?』
《現在の調査方針について、一点提案があります》
『聞く』
《北部管理人の任命記録を確認する場合、家名だけではなく任命期間も記録してください》
『何で?』
《アルヴェイン家に残る管理継承記録との年代比較が可能となります》
シュウは目を見開いた。
『それだ』
エドワルド。
グレゴル。
エルネスト。
アルベルト。
家に残っていた管理者の名前。
もし北部管理人の名簿が見つかれば。
同じ名前があるかもしれない。
あるいは、全く違う名前かもしれない。
どちらでも大きな情報になる。
「エリオット」
「何?」
「次、管理人の名前と年代調べる」
「急に元気になったな」
「家に残ってる管理記録と比べられるかもしれない」
「ああ」
エリオットも意味を理解したらしい。
「同じ名前があれば、かなり近づく?」
「かなり。でも、同姓同名とか別の役職とかもあるから、それだけで確定にはしない」
「慎重になったなあ」
「学院でいっぱい言われたからね」
「先生たちの教育成果だ」
「否定できない」
シュウは笑いながら、次の調査項目へ「任命期間」を付け足した。
その瞬間。
寮の廊下を、誰かの足音が近づいてきた。
複数人ではない。
一人。
一定の歩調で進み、この部屋の前で止まる。
シュウとエリオットが同時に扉を見る。
軽いノック音が二度響いた。
「はい」
エリオットが返事をする。
扉を開けると、そこには寮の管理を手伝っている上級生が立っていた。
「シュウ・アルヴェインはいるか?」
「俺です」
「中央棟の郵便受付から連絡。北部方面から君宛ての便が届いてる」
シュウの呼吸が一瞬止まった。
「俺宛て?」
「ああ。受け取りは明日の朝でもいいそうだけど、受付はまだ開いてる。行くなら今でも間に合うぞ」
「行きます」
考えるより先に答えていた。
上級生が頷き、廊下を戻っていく。
シュウは机の上のノートへ目を落とす。
北部。
自分宛て。
今の時期に届くものに、心当たりは一つしかない。
「家から?」
エリオットが尋ねる。
「たぶん」
椅子から立ち上がる。
胸が早くなる。
父が何を調べたのか。
白樹について何か分かったのか。
北の封所に変化はないのか。
それとも、ただ学院生活への返事なのか。
まだ何も分からない。
「飯は?」
エリオットが聞く。
シュウは一瞬だけ迷った。
「……先に手紙」
「だと思った」
「ごめん」
「俺も行く」
「いいの?」
「どうせ中央棟の近くだろ。受け取ったらそのまま食堂行けばいい」
「ありがとう」
二人で部屋を出る。
廊下の窓の外では、日が沈みきる直前の空が深い青へ変わり始めていた。
ローデル林区。
北部管理人。
旧来の管理を知る家。
調べるべきことが増えた、その日の夕方。
今度は北から、家族の返事が届いていた。




