第32話 得意な魔法を一つに決めるのは、意外と難しいです
翌朝、第一男子寮を出たシュウは、石畳の上へ落ちる自分の影を見ながら大きく伸びをした。
昨夜から続く晴天のおかげで、学院の朝は明るい。東側の建物を越えて差し込む日差しはまだ柔らかく、植え込みの葉には夜露が残っている。中央講義棟へ向かう学生たちの制服も、数日前までより少し軽く見えた。
「眠い……」
隣ではエリオットが欠伸を噛み殺している。
「ちゃんと起きたじゃん」
「起こされたからな」
「今日は窓開けてないよ」
「その前に肩揺すっただろ」
「普通に呼んでも起きなかったから」
「もう少し優しく起こしてくれてもいい」
「じゃあ明日はアルカディアに頼もうか?」
「誰?」
「……何でもない」
危なかった。
学院生活に慣れてきたせいか、時々こういうところで気が緩む。
《私による起床支援が必要でしょうか》
『必要ない。というかエリオットには聞こえないでしょ』
《マスターの肉体へ直接刺激を与える方法であれば――》
『何をするつもり?』
《心拍数を――》
『却下』
朝から物騒な起こし方を提案しないでほしい。
シュウが小さく息を吐くと、エリオットが横から怪訝そうに見てきた。
「また独り言?」
「朝だから」
「理由になってないだろ」
「俺もそう思う」
「自覚あるのかよ」
二人で中央講義棟へ向かう。
昨日の図書館で見つけた「ローデル林区」という古い地名は、当然ながら一晩で意味が判明したわけではない。シュウも朝から図書館へ駆け込むつもりはなく、今日は予定されている授業を受け、放課後にはダンたちと練習区画へ行くことにしていた。
調査を止めたわけではない。
ただ、学院へ来た目的は北の森だけではなかった。
(魔法を勉強するために来たんだもんな)
むしろ、普通の魔法をきちんと理解することは北の森の調査にも、漆黒魔力の正体を考えるためにも役立つ。
そして何より。
魔法を学ぶこと自体が、普通に楽しい。
◇
午前最初の授業は基礎魔法理論だった。
二組と三組の合同授業で、教壇に立つのはグレイ・ハルバートである。
濃紺の長衣を纏ったグレイは、教卓へ何冊かの薄い資料を置くと、教室を見渡した。
「今日は属性適性について、もう少し実際的な話をしよう」
その言葉に、シュウは姿勢を少し正した。
属性適性そのものについては、すでに魔力測定や以前の授業で触れている。
火、水、風、土、光、闇。
基本六属性。
シュウの場合、闇を除いた五属性へ明確な適性が確認されている。
「測定結果を受け取った者の中には、自分の適性が多かった、少なかった、あるいは期待していた属性ではなかったと気にしている者もいるだろう」
教室のあちこちで僅かに空気が動いた。
誰かと目を合わせる学生もいる。
「最初に言っておく。適性の数は、魔法使いとしての優劣をそのまま示すものではない」
グレイは黒板へ六属性の名を書き、その下へ一本の線を引いた。
「適性とは、以前説明した通り、基本的には魔力を特定の性質へ変換する際の容易さだ。適性が強い属性ほど少ない負担で安定した変換を行いやすく、習得速度にも有利に働くことが多い。だが、それだけで強さが決まるなら、学院で四年間学ぶ必要はない」
後方で小さな笑いが起こった。
グレイも僅かに口元を緩める。
「火属性へ強い適性を持つ者が、必ず優秀な火属性魔法使いになるわけではない。逆に適性が弱くとも、用途を絞り、術式を工夫し、長く訓練することで実用域まで伸ばす者もいる」
シュウはノートへ書き留める。
隣のエリオットも真剣にペンを走らせていた。
「では、複数属性に適性がある場合、全てを同時に伸ばすべきでしょうか?」
前方の学生が質問する。
「良い質問だ」
グレイは頷いた。
「答えは、目的による」
黒板へ新しく「主軸」「補助」と書く。
「学院の基礎課程では、自分が扱える属性を広く知ることも重要だ。しかし、実践段階へ進むにつれて、一つか二つの属性を主軸として深く学ぶ者が多い」
教室内の視線が黒板へ集まる。
「理由は単純だ。時間は有限だからだ」
シュウのペンが止まりかけた。
「全ての魔法を極めたいと願うこと自体は悪くない。しかし、火属性の攻撃術式、水属性の治療補助、風属性の移動、土属性の防御、光属性の浄化、闇属性の隠蔽を全て同時に最高水準まで学ぼうとすれば、一つへ集中する者より時間がかかる」
《マスター》
『言わなくていい』
《まだ何も申し上げておりません》
『絶対あるでしょ。昔の俺が全属性極めるとか書いたやつ』
一拍の沈黙。
《ございます》
『ほら!』
《ご希望であれば――》
『希望しない』
今は授業へ集中したい。
だが、グレイの説明はシュウにとって他人事ではなかった。
(五属性なんだよな、俺)
火。
水。
風。
土。
光。
全てに適性がある。
最初に聞いたときは、単純にすごいと思った。
前世の感覚なら、せっかく異世界へ転生したのだから全部使いたいとも思う。
しかし、実際に学院で基礎魔法を学び始めてみると、一つの属性の中にも覚えることが山ほどある。
出力。
制御。
変換。
術式。
発動速度。
維持。
射程。
対象。
環境との相互作用。
まだ基礎の入口しか触れていないのに、それだけ違いがある。
「先生」
別の学生が手を上げた。
「主軸の属性は、適性が一番高いものを選ぶんですか?」
「それも一つの基準だが、必須ではない」
グレイは答える。
「本人が何をしたいかも重要になる。例えば水と光の適性が強く、将来治療分野を目指す者なら、その二属性を主軸にするのは自然だろう。火と土を持ち、前衛で戦うことを望むなら、その組み合わせを伸ばす選択もある」
少し離れた席で、ダンが分かりやすく頷いた。
その横ではセシリアも静かにノートを取っている。
「一方で、適性が最も強い属性と本人の希望が一致しない場合もある。その場合、教師と相談しながら進路を考えればいい。十五、十六、十七歳で一生の専門を決められないからといって、何もおかしくはない」
その言葉に、何人かの学生が安心したように肩の力を抜いた。
「学院は、選択肢を減らすために学ぶ場所ではない。自分が何を選べるのかを知り、そのうえで選ぶために学ぶ場所だ」
シュウはその一文をノートへ書いた。
(何を選べるのかを知ってから、選ぶ)
これは魔法だけではないのかもしれない。
冒険者になりたい。
世界を旅したい。
そこまでは決めている。
だが、どんな冒険者になるのか。
戦うとき何を得意とするのか。
仲間とどう役割を分けるのか。
そこまでは、まだ何も決めていない。
「アルヴェイン」
「はい」
突然名前を呼ばれ、シュウは顔を上げた。
グレイがこちらを見ている。
「君は測定で複数属性へ適性が出ていたな」
「はい」
「現時点で、主軸にしたい属性はあるか?」
「え」
教室の視線が集まった。
シュウは少し困った。
以前なら迷わず「全部」と言ったかもしれない。
いや、中学生時代の自分なら絶対に言った。
今は違う。
「……まだ、分かりません」
正直に答えた。
「火と風は使いやすい感じがあります。でも、水も土も学院へ来てからちゃんと練習し始めたばかりですし、光もできることをほとんど知りません。だから今決めると、知らないまま選ぶことになる気がします」
グレイは少しだけ目を細めた。
「それでいい」
「いいんですか?」
「決めていないことと、考えていないことは違う」
静かな声だった。
「今の君は、まだ判断材料を集めている段階だろう。ならば基礎課程で実際に触れながら考えればいい」
「はい」
「ただし」
グレイの視線が少し鋭くなる。
「使えるからという理由だけで、全てを同時に高度化しようとはしないことだ。自分の時間も集中力も無限ではない」
「……はい」
耳が痛い。
《マスター》
『だから言わなくていいって』
《過去の記述との比較ではなく、現在のマスターに必要な助言と判断します》
『何?』
《「時間も集中力も無限ではない」という点です》
『それは普通に正論だから余計に刺さるんだよ』
シュウはノートへ視線を戻した。
◇
授業後の短い休憩時間。
シュウがノートを整理していると、前の方からダンがやってきた。
「シュウ!」
「何?」
「俺は火だな!」
「聞いてたよ」
「あと土!」
「二つじゃん」
「先生が一つか二つって言っただろ」
「言ったけど」
ダンは胸を張る。
「火で攻めて、土で守る。分かりやすい」
「ダンには合ってそうだね」
「だろ?」
本人の性格にも合っている。
ただし、火属性については小さく出す制御を練習中だ。
「今日も練習行くよね?」
「行くよ」
「よし!」
「授業中より嬉しそうだな」
エリオットが呆れたように言う。
「実際に使う方が楽しいだろ」
「俺は理論も楽しいけど」
「エリオットはそうだろうな」
そこへセシリアとユリウスも来る。
「セシリアは水と光?」
シュウが尋ねると、セシリアは少し考えてから頷いた。
「今のところは、その二つを深く学びたいと思っています。ただ、まだ基礎しか知りませんから、決定というほどではありません」
「治療とか生活支援?」
「はい。それだけではありませんけれど」
セシリアは柔らかく笑う。
「水は飲み水や衛生、温度調整にも関わりますし、光も治療以外に照明や浄化、探索など用途がありますから。戦うことだけを考えずに学びたいです」
「セシリアらしい」
「シュウさんは?」
「まだ分かんない」
「五つですものね」
「だからこそ迷う」
「全部やればいいじゃん」
ダンがあっさり言った。
「今の授業聞いてた?」
「聞いてた。でも基礎くらい全部やってから決めればいいだろ」
シュウは瞬きをした。
単純な意見だが、間違ってはいない。
グレイも基礎課程では広く知ることが重要だと言っていた。
「ダンにしてはまとも」
ユリウスが言う。
「おい!」
「褒めてる」
「絶対褒めてないだろ!」
ダンが抗議する。
セシリアが小さく笑い、エリオットも肩を揺らした。
シュウもつられて笑う。
(まあ、そうだよな)
まだ入学して数日。
今すぐ将来の専門を決める必要はない。
使えるものを一つずつ知っていけばいい。
◇
午後の授業を終えた五人は、予定通り第一学生練習区画へ向かった。
中央広場から東へ伸びる道を進むと、低い石壁に囲まれた練習区画が見えてくる。前回より時間が少し早いため、入口付近には同じ一年生らしい学生が何組か並んでいた。
受付では学生証を確認され、空いている区画を割り当てられる。
「今日は第五区画です」
受付の職員が札を渡した。
「基礎属性魔法まで使用可能。攻撃目的の術式は禁止です。出力上限を守り、異常があれば即時停止してください」
「はい」
五人で答える。
借りる道具は、練習用の標的板が二枚、水属性用の浅い容器、術式練習板が二枚。それからダンの希望で《微灯》練習用の補助板も一枚借りた。
「まだやるの?」
シュウが尋ねる。
「前できたから、もう一回同じの出せるか確認する」
「なるほど」
前回、ダンは三つの小さな《微灯》をほぼ同じ大きさで出し、十呼吸ほど維持できた。
一度成功したから終わりではなく、再現できるか確かめるらしい。
「いいと思う」
「だろ?」
ダンが嬉しそうに笑う。
第五区画は前回使った第三区画と大きさこそ似ているが、片側の壁際に属性魔法用の標的板を固定できる台が設置されていた。地面の一部には砂地があり、反対側には水源もある。
春の夕方の日差しが石壁の上から差し込み、区画の半分ほどを明るく照らしていた。
「今日はどうする?」
エリオットが尋ねる。
「各自やりたいもの?」
「でも、せっかく今日の授業で主軸属性の話があったし」
シュウは周囲を見る。
「自分が得意だと思う属性と、そうじゃない属性を一個ずつ試してみない?」
「比較?」
ユリウスが興味を示す。
「うん。同じくらい簡単な魔法で、何が違うか見る」
「面白そう」
「俺は火と水!」
ダンが即決する。
「水が苦手だから?」
「火が得意だから」
「反対側の理由を聞いてるんだけど」
「水は前にぶちまけた」
「じゃあ水だね」
セシリアは水と風。
エリオットは水と火。
ユリウスは風と火。
シュウだけが迷った。
「得意なの、どれ?」
エリオットが聞く。
「火か風かな」
「苦手は?」
「……分かんない」
「ずるいな」
「俺が決めたわけじゃないよ」
五属性に適性がある。
だが、適性があることと習熟していることは違う。
シュウは少し考えた。
「じゃあ、火と土にする」
「何で土?」
「一番使った回数が少ない気がするから」
「なるほど」
最初は全員で得意側から試すことになった。
攻撃魔法は禁止なので、扱うのは基礎的な現象だけだ。
ダンは《微灯》。
セシリアとエリオットは小さな水球。
ユリウスは一定方向へ風を送る《送風》。
シュウはダンと同じ《微灯》を選んだ。
「三つ?」
ダンが聞く。
「今日は一個でいいんじゃない?」
「じゃあ大きさ揃える比較できないだろ」
「今日は得意と不得意の感覚を見るんでしょ」
「あ、そっか」
ダンは素直に納得した。
五人が少しずつ距離を取る。
シュウは右手を軽く前へ出した。
意識する。
通常魔力を火へ変換。
必要以上に強くしない。
小さな灯り。
指先から少し離れた場所へ、赤橙色の炎が生まれた。
揺れは少ない。
熱も狙った程度。
特に難しさは感じない。
(やっぱり火は使いやすい)
魔力を火へ変える瞬間に、引っ掛かりがほとんどない。
前世の知識で炎を想像しやすいことも関係しているのかもしれないが、魔力測定でも火への適性は明確だった。
「シュウ、安定してるな」
隣でダンが言う。
ダンの炎はシュウより少し大きい。
「ダンも前より小さくなってる」
「だろ?」
「でも少しずつ大きくなってない?」
「え?」
ダンが炎を見る。
確かに、ほんの僅かだが膨らんでいる。
「……ほんとだ」
「喋って意識逸れたからかな」
「もう一回やる」
「先に止めよう」
「おう」
二人とも炎を消す。
少し離れた場所では、セシリアの水球がほぼ完全な球形を保って浮かび、エリオットの水球も以前より揺れが小さくなっていた。
「エリオット、かなり安定したね」
「今日は出す量を最初に決めた」
「どうやって?」
「このくらいって感覚を、前に成功したときから覚えておくようにしてる」
エリオットが掌を見ながら答える。
「出しながら調整すると俺は上げすぎるから、最初に量を決めて、そこから増やさないようにする」
「へえ」
「前の練習でダンがやってたのと似てる」
「俺?」
ダンが反応する。
「最初の火を基準にしてただろ」
「ああ!」
自分の練習方法が他人の参考になったことが嬉しいらしく、ダンの顔が明るくなる。
「じゃあ俺、エリオットの先生だな!」
「それは違う」
「何でだよ!」
「参考にしただけ」
また始まった。
セシリアが苦笑しながら水球を容器へ戻す。
「次は不得意側を試してみませんか?」
「そうしよう」
シュウは土属性を試すため、砂地へ移動した。
以前の実技でも、少量の砂や小石を持ち上げる練習はしている。
できなかったわけではない。
むしろ、適性があるため基礎としては十分に扱えた。
だが火や風ほど使った経験がない。
今回は小石一つを選び、地面から手の高さまで持ち上げて静止させる。
(まず魔力を土へ)
変換する。
抵抗はほとんどない。
小石へ働きかける。
石がゆっくり浮いた。
「できてる」
エリオットが言う。
「うん。でも……」
シュウは浮かぶ石を見つめる。
できる。
難しくもない。
それなのに、火とは感覚が違った。
(火より考えることが多い?)
石そのものへ働きかける位置。
重さ。
持ち上げる方向。
高さ。
止める位置。
火なら「この大きさの炎」とイメージすれば自然に形がまとまるのに、土では対象となる物質の状態を意識する必要がある。
『アルカディア、俺の感覚だけで先に考えたい』
《承知しました》
すぐ答えを求めない。
前回の術式練習から続けているやり方だ。
シュウは小石を少し下げ、再び上げる。
一度目より滑らか。
今度は左右へ僅かに動かす。
「どう?」
ユリウスが近くから尋ねる。
「魔力を変えるのは簡単。でも動かす方は火より意識すること多い気がする」
「土だから?」
「まだ分からない。単に俺が慣れてないだけかも」
ユリウスが頷く。
「僕は風の方が楽」
彼の前では、地面に置いた細い布が一定方向へなびいている。
「火は?」
「今から」
五人は互いの邪魔にならない範囲で場所を替えながら、得意と不得意を試していく。
セシリアの風は安定しているが、水より起動に僅かに時間がかかった。
エリオットの火は出力が揺れやすく、水で見せた安定感が薄れる。
ユリウスの火は小さいものの、観察しながら修正することで形を保つ。
ダンの水球は最初こそ大きく崩れたが、前回のように慌てて強く抑え込まず、一度止めてからやり直すと二度目はかなり小さくまとまった。
「おお!」
ダンが声を上げる。
水球が揺れる。
「あっ」
「喜ぶと崩れるの、分かりやすいね」
「くそっ……!」
「でも前よりいいよ」
シュウが笑うと、ダンも悔しそうにしながら笑った。
「次は喋らない」
「そこから?」
「集中する!」
「それも大事ではありますね」
セシリアが真面目に肯定する。
しばらく練習したところで、全員いったん手を止めた。
石壁の端に寄り、水を飲む。
夕方の風が汗ばんだ首元を撫で、実技場の方から響く魔法音も少しずつ減ってきていた。
「で」
エリオットが水筒を閉じる。
「主軸、決まった?」
「全然」
シュウは即答した。
「むしろ迷った」
「何で?」
「火はやっぱり使いやすい。でも土も面白かった」
「面白いで選ぶの?」
ダンが聞く。
「だって大事じゃない?」
シュウは砂地を見る。
石を持ち上げるだけなら地味だ。
黒歴史ノートに書いたような派手な能力とは比べるまでもない。
それでも、石の重さや位置を意識しながら魔力で動かし、少しずつ滑らかになる感覚は楽しかった。
「俺、冒険者になりたいからさ」
「知ってる」
「旅するなら、戦うだけじゃないでしょ。道が崩れてたら土が便利かもしれないし、水があれば飲み水とかに使えるかもしれない。風も移動とか探索に使えるかもしれないし、光だって暗い場所で使える」
話しながら、自分でも気づく。
だから決められないのだ。
どの属性にも使い道が見える。
「全部便利」
「結局全部じゃん」
エリオットが笑う。
「そうなんだよ」
シュウも笑った。
「だから困ってる」
「じゃあ、今は決めなくていいんじゃないですか?」
セシリアが言った。
シュウが見ると、彼女は水筒を両手で持ったまま、穏やかな表情をしていた。
「グレイ先生も、判断材料を集めてから選べばいいと仰っていました。シュウさんの場合は選択肢が多い分、少し時間が必要なのだと思います」
「そうかな」
「はい。それに、旅をするなら一つの属性だけしか使わない必要もないでしょう?」
「あ」
「主軸を決めることと、他を捨てることは違います」
その言葉に、シュウは少し目を見開いた。
(そうか)
どれかを選ぶ。
その言葉を、無意識に「他を選ばない」と同じ意味で考えていた。
だが違う。
火を主軸にしたからといって、水を使ってはいけないわけではない。
風を深く学んだからといって、土を捨てる必要もない。
「それなら気が楽かも」
「シュウは欲張りだな」
ダンが笑う。
「ダンに言われたくない」
「俺は火と土だから二つだけだ」
「二つ欲張ってるじゃん」
「二つならいいんだよ」
「その基準どこから来たの?」
五人の笑い声が区画に広がる。
シュウは水を飲みながら、少し離れた標的板へ視線を向けた。
今日は攻撃魔法を使わない。
それでも、属性ごとの違いを意識して使うだけで、以前より魔法の見え方が変わった。
(全部使える、で終わらせたらもったいないな)
使えること。
分かること。
得意なこと。
好きなこと。
役に立つこと。
それぞれ違う。
今までの自分は、その違いをほとんど考えていなかった。
◇
休憩後は、それぞれが今日気になった部分をもう一度だけ試した。
ダンは水球。
エリオットは火。
セシリアは風。
ユリウスも火。
シュウは土。
シュウは今度、小石を一つではなく二つ選んだ。
同じ高さまで持ち上げる。
右側が少し高い。
一度下ろす。
再び。
今度はほぼ揃った。
そのまま十呼吸ほど維持する。
(火の《微灯》とやってることは似てる)
現象は違う。
だが、再現性を高めるという意味では同じだ。
同じ量。
同じ高さ。
同じ時間。
基礎実技でガルドが言っていた「扱えること」の意味が、少しずつ具体的になってくる。
『アルカディア、今の二回どうだった?』
《一回目は右側対象への魔力供給が左側より約六・八パーセント高値。二回目は約二・一パーセントまで縮小しております》
『やっぱり一回目、結構違ったんだ』
《はい。ただし、マスター自身が視覚的な高度差から右側への過供給を推測し、二回目で補正できています》
『よし』
自分で気づいたあとに確認する。
この使い方なら、アルカディアの分析能力に頼り切らず、自分の感覚も育てられる気がする。
「何か嬉しそう」
エリオットが近づいてきた。
「二回目、揃ったから」
「それだけ?」
「それだけ」
「最近、基礎練習好きだよな」
「面白くない?」
「面白いけど」
エリオットは自分の指先へ視線を落とす。
そこには今、火は出ていない。
「俺も今日はちょっと分かった」
「何が?」
「水と火で、出力が上がるときの感覚が違う」
「どう違う?」
「水は出し始めに多くなりやすい。火は途中で大きくなりやすい」
「へえ」
「だから同じ『制御が苦手』でも、同じ直し方じゃ駄目なのかも」
シュウは思わず笑った。
「それ、グレイ先生に聞いたら喜びそう」
「何で?」
「ちゃんと自分で違い見つけてるから」
「まだ合ってるか分からないけどな」
「次の授業で聞けばいいじゃん」
「そうする」
エリオットの顔には、入学直後に制御の不安定さを気にしていたころより明らかに余裕がある。
まだ失敗する。
今日も火は途中で一度大きくなった。
それでも「自分は制御が苦手だ」で終わらず、どこで崩れるのかを考えられるようになっている。
シュウはそれが少し嬉しかった。
「そろそろ終わりにしよう」
セシリアの声で、全員が手を止める。
空を見ると、青かったはずの西側がすっかり橙色へ変わっていた。
練習区画の利用終了まではまだ余裕があるが、成功した感覚を崩すまで続ける必要もない。
「今日は早くない?」
ダンが名残惜しそうに言う。
「やりすぎると集中が落ちます」
「まだいける」
「前もそう言って大きくしましたよね?」
「……終わろう」
セシリアが強い。
シュウとエリオットが笑い、ユリウスも僅かに口元を緩めた。
借りた道具をまとめ、受付へ返却する。
異常なし。
破損なし。
利用終了の記録を済ませて外へ出ると、夕方の空気は練習区画へ入ったときより冷えていた。
「飯!」
ダンが真っ先に言った。
「今日はそればっかりだね」
「魔法使ったら腹減るだろ」
「それは分かる」
シュウも少し空腹だった。
「食堂行きます?」
セシリアが尋ねる。
「行こう」
「ユリウスも?」
「行く」
「珍しい」
エリオットが言う。
「何が?」
「このまま図書館行くかと思った」
「今日は行かない」
ユリウスが答える。
「ローデル林区、気になってないの?」
「気になる」
「じゃあ何で?」
「昨日、今日は練習って決めたから」
淡々とした答えだった。
シュウは少し笑った。
「図書館は逃げない?」
「そう」
「やっぱり言うんだ」
五人で中央広場へ向かう。
昨日はシュウ、エリオット、ユリウスの三人で歩いた道だが、今日はダンとセシリアもいるため賑やかさがまるで違う。
ダンが夕食の話をし、セシリアが食べすぎないよう注意し、エリオットが横から余計なことを言ってダンと言い合いになる。ユリウスはそれを聞きながら必要なところだけ口を挟み、シュウはそのやり取りの中を歩いていた。
(こういう日が増えてきたな)
授業を受ける。
昼を一緒に食べる。
放課後に練習する。
失敗して、教え合って、笑う。
特別な事件など何もない。
けれど、前世で想像していた「魔法学院生活」より、今の方がずっと楽しい気がした。
《マスター》
『何?』
《過去の学院設定におけるマスターは、他者との共同訓練を拒否しております》
『聞いてない』
《理由は――》
『言わなくていい』
《「我が力を目にした者は、畏怖によって二度と同じ空を見上げられなくなるため」》
シュウは歩きながら両手で顔を覆いたくなった。
(何で同じ空を見上げられなくなるんだよ、中学生の俺!)
「シュウ?」
セシリアが心配そうに見る。
「大丈夫」
「急に顔が赤くなりましたけれど」
「夕日」
「今、建物の影です」
「……心の夕日」
「何ですか、それ」
セシリアが首を傾げる。
エリオットが吹き出した。
「また昔の自分だろ」
「何で分かるの?」
「最近その顔するとき、大体それだから」
「そんな分かりやすい?」
「かなり」
ダンが興味を示した。
「昔何したんだ?」
「何もしてない」
「絶対何かあるだろ」
「ない!」
「じゃあ教えろよ!」
「何もないから教えることもない!」
シュウは歩く速度を上げた。
後ろから笑い声が追ってくる。
《なお、当時の設定資料には共同訓練を拒否した翌項に――》
『アルカディアも続けなくていい!』
《承知しました》
珍しく素直に止まった。
だが、もう十分だった。
◇
夕食後。
ダンとセシリア、ユリウスと別れ、シュウとエリオットは第一男子寮へ戻った。
部屋へ入ると、シュウは制服の上着を脱ぎ、椅子の背へ掛ける。窓の外はすでに暗く、学院敷地の通路沿いには魔導灯が等間隔で灯っていた。
「宿題やる?」
エリオットが机へ教科書を置く。
「やる」
「魔法史のやつ、まだ途中だよな」
「あ」
シュウは思い出した。
オルドから出されている課題。
現在の基礎魔法を一つ選び、それが古い時代にはどのような形だったか、授業で学んだ原則をもとに考える。
「《微灯》にしようかな」
「俺もそれ考えてた」
「被った」
「別に同じでもいいだろ」
「じゃあ比較できるね」
二人で机へ向かう。
シュウはノートを開き、《微灯》と書いた。
現代の《微灯》は非常に簡単だ。
少量の魔力。
火属性への変換。
燃焼物を必要としない小さな炎。
明るさや大きさを抑えれば、初心者でも比較的安全に練習できる。
(昔はもっと複雑だった可能性がある)
魔法史で見た、約三百年前の保温術式。
現代なら簡略化できる処理が、古い術式では何重にも組み込まれていた。
「昔の人って、魔力そのものと属性を分けて考えてなかった時期があるんだよな」
エリオットが呟く。
「うん」
「じゃあ火属性の人間しか使えない前提の《微灯》みたいなのがあったかも?」
「ありそう。でも『昔は絶対そうだった』じゃなくて、授業で習った理論から考える課題だから……」
「可能性として書く?」
「その方がよさそう」
シュウも書き始める。
古い時代に属性を固定的な性質と考えていたなら、現代のように「魔力を火へ変換する」という説明ではなかった可能性がある。
術式も複雑だったかもしれない。
燃焼の維持や出力制限を、現在より多くの線や補助構造で指定していた可能性。
ただし、古い魔法=必ず複雑というわけではない。
地域や時代によって違う。
オルドが授業で何度も強調していたことだ。
「これ、地図調べてるのと似てるな」
シュウが呟く。
「何が?」
「昔のものを今の感覚だけで決めないところ」
「ああ」
エリオットが頷く。
「今のアルヴェイン領も、昔はアルヴェイン領じゃなかったもんな」
「そう」
魔法も土地も同じだ。
今の名前や常識が、ずっと昔から同じだったとは限らない。
シュウは課題を書き進めながら、昨日見つけたローデル林区を思い出す。
(明日か、次に図書館行くときに調べよう)
焦る必要はない。
名前はもう分かった。
資料は逃げない。
家族への手紙も今ごろ北へ向かっているはずだ。
そして漆黒魔力の検査記録は、セレナたちが調べている。
自分一人で全部を追いかける必要はない。
「シュウ」
「ん?」
「主軸属性」
エリオットが課題を書きながら言った。
「本当にまだ決めない?」
「うん」
「俺は水かな」
シュウは手を止めた。
「風じゃなくて?」
「迷ってるけど、水の方が自分の制御の癖が分かりやすい気がする。あと、使ってて面白い」
「面白いって大事じゃん」
「シュウが言ってたから考えた」
エリオットは少し照れくさそうに笑った。
「でも風も捨てない」
「セシリアが言ってたやつだ」
「主軸決めるのと、他を捨てるのは違う」
「うん」
シュウは自分の右手を見る。
火。
水。
風。
土。
光。
五つ。
その奥には、既存の属性分類へ素直に収まらない漆黒魔力まである。
(俺は何が一番好きなんだろう)
強いものではなく。
便利なものでもなく。
得意なものだけでもない。
自分が、これから深く学びたいと思えるもの。
今はまだ答えが出なかった。
それでも、不思議と焦りはない。
今日、土魔法で二つの石を同じ高さへ浮かせただけで楽しかった。
火を出せば扱いやすさを感じる。
風を使えば身体の周囲へ流れる空気が面白い。
水も、光も、まだ知らないことばかりだ。
(だったら、もう少し迷ってよう)
選ぶために学ぶ。
グレイの言葉を思い出す。
シュウは課題の続きを書き始めた。
窓の外では魔導灯が静かに夜道を照らし、廊下からは別の部屋へ戻る学生たちの足音が聞こえている。
机の端には北の森についてまとめたノート。
その隣には学院の教科書。
さらに横には、昨日まで読んでいた白樹の資料。
知りたいことは多い。
分からないことは、それ以上に多い。
けれど今は、それが少し楽しかった。
すぐに最強の答えを選ぶのではなく、一つずつ知ってから決める。
中学生だったころの自分なら、きっと我慢できなかっただろう。
《当時のマスターであれば、すでに主属性を決定しております》
『……何属性?』
《「覇属性」です》
シュウのペンが止まった。
『六属性のどこにもないじゃん』
《当時の記述では、「六属性は世界に縛られた凡人の分類。我はその外側に立つため、覇属性を有する」と――》
『もういい』
《承知しました》
シュウは額を押さえた。
向かいからエリオットが顔を上げる。
「また?」
「……俺、ちゃんと学院で勉強する」
「急にどうした?」
「すごく大事なことだと思った」
「だから何があったんだよ」
「聞かないで」
前世の自分が勝手に作った「覇属性」とやらを思えば、火、水、風、土、光のどれを選ぶか真面目に悩んでいる今の方が、間違いなく成長している。
たぶん。
そう信じたい。
シュウは小さく息を吐くと、笑いを堪えているらしいアルカディアを頭の片隅から追い払い、もう一度《微灯》の課題へペンを走らせた。




