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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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31/80

第31話 古い地図には、今はない名前が残っています

 翌朝、シュウが目を覚ましたとき、窓の外には久しぶりに青空が広がっていた。


 前日は一日を通して雲が多かったが、夜のうちに風が雲を運んでいったらしい。薄いカーテンの隙間から差し込む朝日が床へ細長く伸び、開けていない窓の向こうからも、学院の敷地を行き交う学生たちの声が微かに聞こえている。


 シュウは寝台の上で身体を起こし、しばらくぼんやりと天井を見つめた。


(……昨日のあれ、結局なんだったんだろう)


 思い浮かんだのは、第三観察室で見た透明な試験晶だった。


 漆黒魔力をほんの僅かに触れさせたあと、中心へ残った小さな黒点。魔力そのものが残っているわけではないのに、反応だけが十数秒ほど消えなかった。


 セレナにもグレイにも、正体は分からなかった。


 ただ、一般的な闇属性と同じ反応ではないことだけは確認できた。


(考えても、今の俺じゃ答え出ないよな)


 魔法について学び始めたばかりなのだ。


 専門の研究者がその場で答えを出せなかったものを、寝起きの自分が天井を眺めながら考えたところで解明できるはずがない。


《適切な判断です》


『おはよう、アルカディア』


《おはようございます、マスター》


 頭の中へ返ってくる声は、いつも通り落ち着いていた。


『昨日の検査から、何か新しく分かった?』


《いいえ。私が取得可能だった情報については、昨夜までに再確認しましたが、新たに確定可能な事項はありません》


『そっか』


《ただし、マスターの身体状態にも異常は確認されていません》


『それはよかった』


 漆黒魔力を試験晶へ触れさせたことで、後から何か起きる可能性も少しだけ心配していた。


 少なくとも一晩経って問題がないなら、そこは安心してよさそうだ。


 シュウは寝台から降りると、隣へ視線を向けた。


 エリオットは眠っている。


 布団を肩まで引き上げ、昨日とほとんど同じ姿勢だった。


「……エリオット」


 返事はない。


「朝だよ」


「……起きてる」


「今日は早いね」


「…………」


「エリオット?」


 寝息が聞こえた。


「やっぱり寝てるじゃん」


《返答のみを行い、覚醒状態へ移行していないものと思われます》


『器用だよね、ある意味』


 窓へ近づく。


 昨日の朝と違って日差しは暖かそうだが、窓を開ければ春の冷たい空気は入ってくるだろう。


 シュウが取っ手へ手をかけたところで、背後の布団が大きく動いた。


「待て」


「起きてるじゃん」


「今起きた」


「じゃあ開けなくていい?」


「開けなくていい」


 エリオットが布団から顔を出す。


 髪は見事に跳ねていた。


「学習したね」


「毎朝寒い思いしたくないからな」


「自分で起きれば全部解決するよ」


「それができたら苦労してない」


「開き直った」


 シュウが笑いながら制服を取り出すと、エリオットも渋々といった様子で寝台から降りた。


 朝の支度を進めながら、シュウは机の上に置いていたノートを鞄へ入れる。


 北の封所について調べた内容をまとめたものだ。


 今日は授業が終わったあと、ユリウスと図書館へ行く。


 昨日、王国史で現在の北部五領に近い領地区分が成立したのは約百四十年前だと教わった。北の森に残る監視小屋が建てられたのは約百八十年前だから、少なくとも現在の領地区分が整うより古い。


 つまり、古い資料を現在の「アルヴェイン領」という名前だけで探していては、見落とす可能性がある。


(古地図で昔の地域名が分かれば、探せる資料が増えるかもしれない)


 昨日までに得た知識を、ようやく具体的な調査へ使える。


「今日、図書館行くんだよな?」


 制服の襟を直しながらエリオットが尋ねた。


「うん。ユリウスと古地図見る予定」


「俺も行っていい?」


「もちろん」


「魔力制御の本、返すか迷ってるんだよな」


「もう読み終わったの?」


「一冊は。でも、返す前にもう一回読みたいところがある」


 エリオットは鞄へ教科書を入れながら、少し考えるように眉を寄せた。


「前だったら、書いてある通りにやればできると思ってたんだけどさ。実際にやると、自分がどこで出しすぎるか分かってきたから、読み直したら違って見える気がする」


「いいんじゃない?」


「そう思う?」


「俺も今、似たような感じだから」


 学院へ来る前なら、魔法の本を読んでも「こういう仕組みなのか」で終わっていただろう。


 今は実際に授業で試し、失敗し、教師や友人から指摘される。そのあとで同じ説明を読むと、最初には気づかなかった意味が見えてくる。


 シュウがそう話すと、エリオットは少し笑った。


「じゃあ持っていく」


「うん」


「それより朝飯」


「先に髪直した方がいいよ」


「そんなひどい?」


「右側だけ風属性に目覚めてる」


「どういう寝癖だよ、それ」


 エリオットが慌てて鏡へ向かう。


 その背中を見ながら、シュウは鞄を閉じた。


     ◇


 午前中の授業は、昨日までと比べれば特別な出来事もなく進んだ。


 基礎的な読み書きや計算、魔法を扱ううえで必要になる一般法規について教師の説明を聞き、休憩時間にはエリオットやユリウスと次の授業について話す。入学直後は教室へ入るだけでも周囲の顔を確認していたが、数日過ごしたことで席へ向かう流れにも少しずつ慣れてきた。


 昼休みには二組のダンとセシリアも合流し、五人で中央広場近くの食堂へ入った。


 晴れたせいか、昨日より外で食事を取る学生も多い。開け放たれた窓から春の風が入り、食堂の中に漂う焼いた肉と香草の匂いを時折薄めていた。


「今日は練習行かないのか?」


 ダンが肉の挟まったパンを頬張りながら尋ねる。


「今日は図書館」


 シュウが答えると、ダンは露骨に残念そうな顔をした。


「またか」


「昨日は俺、研究棟行ってたから図書館行けなかったし」


「ああ、先生に呼ばれたやつ?」


「うん」


 シュウが頷くと、ダンはパンを持ったまま少し身を乗り出した。


「怒られた?」


「何でみんな最初にそれ聞くの?」


「先生に呼び出されたら、普通は何かやったと思うだろ」


「何もやってないよ」


「シュウの場合は何か変な魔法を使ったとかありそうですけれど」


 セシリアが冗談めかして言った。


 シュウの手が一瞬止まる。


 実際、変な魔力の調査だった。


「……否定しづらい」


「え?」


「いや、怒られたわけじゃないよ。前に先生へ見せた魔力について少し確認しただけ」


 どこまで話すか迷ったが、隠しすぎる必要もない。


 ダンとセシリアも、シュウが普通とは少し違う力を持っていること自体は知っている。だが、漆黒魔力の研究結果やアルカディアの正体まで話すつもりはなかった。


「何か分かったのか?」


 ダンが聞く。


「普通の闇属性と同じではなさそう、ってところまで」


「じゃあ何属性なんだ?」


「それが分からない」


「分からないのかよ」


「先生たちも分からないから調べてるんだよ」


 ダンはしばらく考え、それから妙に納得した顔で頷いた。


「すごいな」


「どこが?」


「先生でも分からない魔力なんだろ?」


「そこを格好いい方向に受け取らないでほしいんだけど」


「何でだよ。格好いいじゃん」


 予想通りだった。


(やっぱりそうなるよなあ……)


 シュウが小さく肩を落とすと、向かいに座るユリウスがスープから顔を上げた。


「危険は?」


「今のところは確認されてない。でも、分からないから勝手に魔導具とかへ入れて試さないように言われた」


「それは守った方がいい」


「もちろん」


「シュウならやりそうだからな」


 エリオットが横から言う。


「やらないよ」


「昨日の検査が面白かったって顔してた」


「面白いとは思ったけど、それと勝手に実験するのは別だから」


「ならいい」


 なぜエリオットに確認されているのだろう。


 シュウが少し不満そうに見ると、エリオットは何食わぬ顔で魚料理を食べていた。


「それで、今日は何を調べるのですか?」


 セシリアが尋ねる。


「古い地図」


「地図?」


「家の領地に古い建物があるって話したでしょ?」


 シュウが説明すると、セシリアは以前聞いた内容を思い出したらしく頷いた。


「白樹が使われているかもしれない建物ですね」


「うん。建物が造られたころと今で領地の区分が違うらしいから、昔はその辺りが何て呼ばれてたのか調べようと思って」


「なるほど」


 セシリアは少し考えてから、スプーンを置いた。


「領地の境界が変わっているなら、税の記録などにも昔の地名が残っているかもしれませんね」


「税?」


「土地から税を集める以上、どこがどの領主の管理下だったのか記録する必要がありますから」


 シュウは思わず瞬きをした。


「それ、使えるかも」


「ただ、学院図書館に地方の古い徴税記録まであるかは分かりません」


「でも地図以外の探し方にはなるよね」


 ノートを出したくなったが、今は食事中だ。


 忘れないよう頭の中で繰り返す。


「教会の記録も」


 ユリウスが言った。


「昨日の王国史で、場所を照合するときに教会領も使うって言ってた」


「ああ、そうだった」


「昔から残っている教会なら、周辺の呼び方も残っているかもしれない」


「二人とも、食事中まで調査を始めないでください」


 セシリアに言われ、シュウとユリウスは顔を見合わせた。


「ごめん」


「まだ始めてない」


「もう始まっています」


 エリオットが笑い、ダンは話についていけなくなったのか、残っていたパンを大きく齧った。


「俺は古い地図より練習の方がいいな」


「ダンらしいね」


「明日は行こうぜ」


「授業次第かな」


「約束な!」


「授業次第って言ったよね?」


 それでもダンは満足そうだった。


     ◇


 放課後。


 シュウ、エリオット、ユリウスの三人は中央講義棟を出ると、そのまま図書館へ向かった。


 午後の日差しはまだ明るく、石造りの建物の間を抜ける風も朝ほど冷たくない。実技場の方向からは時折、魔法が防護壁へ当たる鈍い音が聞こえ、訓練へ向かう学生たちの声が遠く重なっていた。


 図書館へ入ると、外の賑わいが一段遠ざかる。


 高い天井。


 長く並ぶ書架。


 紙と革表紙、古い木材が混ざった独特の匂い。


 数日前には圧倒されるほど広く感じた空間も、何度か利用したことで入口付近の配置くらいは分かるようになっていた。


「古地図は一般地理資料の奥」


 ユリウスが迷わず歩き始める。


「もう場所調べてるじゃん」


「昨日確認した」


「俺が研究棟行ってる間に?」


「場所だけ」


 昨日、先に全部調べないでほしいと言ったことを守ってくれたらしい。


「ありがとう」


「何が?」


「待っててくれて」


「一緒に見るって言ったから」


 ユリウスにとっては当然のことなのだろう。


 シュウはそれ以上言わず、隣を歩いた。


 エリオットは途中で魔力制御関係の棚へ寄るというので、一度別れる。


「見終わったら合流する」


「分かった」


「変な資料見つけても勝手に地下とか行くなよ」


「図書館に地下へ続く秘密の扉がある前提で話さないでくれる?」


「シュウの周りならありそう」


「ないよ、たぶん」


「たぶんなんだ」


 笑いながらエリオットが別の通路へ消える。


 シュウとユリウスはさらに奥へ進んだ。


 一般地理資料の一角には、現在の王国地図だけでなく、過去の街道図や領地境界図を写した資料がまとめられている。原本ではなく写本が中心らしく、年代ごとに細かく分類された背表紙には、「北部街道変遷」「旧王領境界」「北方河川記録」といった文字が並んでいた。


「多いな……」


「全部見る?」


「今日はやめよう」


「賛成」


 さすがのユリウスも即答した。


 まず必要なのは、約百八十年前の北部。


 現在のアルヴェイン領周辺。


 それより大きく範囲を広げれば、時間だけがかかる。


 二人で年代表示を確認しながら、該当しそうな地図資料を数冊選ぶ。


 閲覧机へ運ぶと、一番古い地図帳を開いた。


 厚い紙の上へ、黒と褐色の線で領地境界が描かれている。現在の地図ほど精密ではなく、山地は連なる三角形、森林は小さな樹木の記号、河川は太い曲線で表現されていた。


「今の地図も出そう」


 ユリウスが言う。


「比較しないと分からないね」


 シュウは席を立ち、近くの棚から現行の北部地図を持ってきた。


 二枚を横へ並べる。


「アルヴェイン領は……ここ」


 現在の地図で位置を確認する。


 北部の森林地帯。


 領都。


 主要街道。


 近くを流れる川。


 北の森がある方向。


 それらを一つずつ覚え、古地図へ視線を移す。


「川の形が少し違う」


 ユリウスが指を差す。


「でも、この山並みは同じかな」


「たぶん。街道は……今より西?」


「古い方は森を避けてる」


「本当だ」


 現在の街道は領地の中央寄りを通っているが、古地図では大きく西側へ迂回している。


 北の森林も、現在より広く描かれていた。


(昔は森の範囲そのものが違ったのか)


 シュウはノートを開き、気づいたことを書き込む。


 現在のアルヴェイン領に相当する場所を探していく。


 しかし。


「アルヴェインって書いてない」


「うん」


 分かっていたことではある。


 それでも実際に地図から家名が消えているのを見ると、不思議な感覚があった。


 自分にとっては生まれ育った土地であり、アルヴェイン領と呼ぶのが当たり前だった場所だ。


 だが、百八十年前。


 そこは違う名前だった。


「これかな」


 ユリウスの指が、森の南側に書かれた小さな文字で止まる。


「……ラウネ?」


「ラウネ地方」


 シュウは文字を読む。


 古い字体ではあるが、昨日まで古語資料を見ていたおかげで何とか判別できた。


 さらにその東側には別の名がある。


「セルド王領?」


「たぶん王家直轄地」


「今のアルヴェイン領、二つに跨ってる?」


「境界を見ると、もっと細かいかも」


 二人は現行地図と古地図を何度も見比べる。


 現在のアルヴェイン領北部は、古地図では「ラウネ地方」の北端と「セルド王領」の西端に近い。だが境界線が森の途中を通っており、北の古い小屋がどちら側にあったのか、地図だけでは判断できない。


「小屋の正確な位置が欲しい」


 ユリウスが言った。


「家なら分かると思う」


「手紙」


「もう出したから、次に書くなら追加で聞ける」


 ただし、最初の手紙が家へ届くまで数日はかかる。


 返事が来るならさらに時間が必要だ。


「今すぐできるのは?」


「川とか、森の位置で絞る」


 シュウは古地図へ顔を近づける。


 北の森には、現在は使われていないらしい細い道が描かれていた。


 南から森の西側へ入り、途中で途切れている。


「これ何だろ」


 ユリウスも覗き込む。


「道?」


「街道にしては細い」


「林業用?」


「かもしれない」


 その先には、地名らしき文字が小さく記されていた。


 紙が古く、写本の文字も薄い。


「……読める?」


「待って」


 ユリウスが目を細める。


「ロ……ローデ?」


「ローデン?」


「最後が潰れてる」


 断定できない。


 シュウはノートへ「ローデ? ローデン? 要確認」とだけ記した。


(勝手に決めない)


 昨日、グレイとセレナから言われたことが頭に残っている。


 答えを急ぐあまり、分からない部分まで自分で埋めてはいけない。


「別年代の地図見よう」


「うん」


 二人は次の地図帳を開いた。


     ◇


 約百六十年前。


 約百四十年前。


 約百二十年前。


 年代を少しずつ進めながら地図を比較すると、土地の変化が思っていた以上にはっきり見えてきた。


 百六十年前の地図では、まだラウネ地方とセルド王領の名が残っている。


 百四十年前になると境界が大きく整理され、現在の領地へ近い形が現れ始めた。


 そして百二十年前の地図では。


「あった」


 シュウの指が止まる。


 現在のアルヴェイン領とほぼ同じ位置に、家名が書かれていた。


「アルヴェイン領」


 ユリウスが読む。


「この間に成立した?」


「少なくとも、地図上では」


 百四十年前の地図をもう一度見る。


 こちらでは小さな文字で別の行政区分が記されており、アルヴェインの名は見つからない。


「百四十年前から百二十年前の間」


「二十年ある」


「もっと細かい地図があれば……」


「地図じゃなくて領地成立記録の方が早いかも」


「それだ」


 目的が少し変わる。


 単に古い地名を知るだけではなく、現在のアルヴェイン領がいつ、どの土地をまとめて成立したのかを確認する。


 それが分かれば、北の森に関する古記録を探す際、どの旧地域名を使えばいいのか絞れる。


「でも」


 ユリウスが古い地図へ戻る。


「この名前」


「ローデ……のやつ?」


「百六十年前にもある」


 確かに。


 森へ伸びる細道の先。


 同じ位置に、薄い文字が残っている。


 今度は前の地図より読みやすかった。


 二人で顔を近づける。


「ローデル……?」


「ローデル林区」


 ユリウスが最後まで読んだ。


「林区?」


 シュウはその言葉をノートへ書く。


 現在の地図にはない。


「林業の区分かな」


「可能性はある」


「北部は林業が盛んって授業でやったし」


「でも決めない方がいい」


「うん」


 林区という言葉が当時どんな意味で使われていたのか。


 現代と同じとは限らない。


 オルドの魔法史でも、セレナからも、古い言葉を現代の意味だけで読む危険性を教えられている。


「用語辞典」


 ユリウスが言う。


「また?」


「また」


「持ってこよう」


 二人で席を立とうとしたところで、後ろから声がした。


「何をそんなに広げてるんだ?」


 振り返ると、エリオットが本を二冊抱えて立っていた。


「地図」


「それは見れば分かる」


「昔のうちの領地」


「見つかった?」


「今のアルヴェイン領になる前は、ラウネ地方とセルド王領の境目あたりだったみたい」


 エリオットが机の横へ回り込み、地図を覗く。


「全然違うな」


「でしょ?」


「こっちが今?」


「うん」


 三枚の地図を順番に見せると、エリオットも変化を追っていく。


「昔の方が森広くない?」


「俺たちもそう思った」


「川も違う」


「そこも」


「じゃあ、昔の記録に書いてある場所を今の地図だけで探すの無理じゃない?」


「だから調べてる」


「なるほど」


 エリオットは納得すると、空いている椅子へ座った。


「俺も見る」


「本は?」


「読み直すところ確認した。あとで返すか決める」


 三人になった。


 ユリウスが用語辞典を取りに行き、シュウは地図の年代と名称をノートへ整理する。


 エリオットは古地図を眺めながら、ときどき現在の地図へ視線を移していた。


「シュウ」


「何?」


「この印は?」


 指差したのは、ローデル林区よりさらに北。


 森の中に、小さな四角が描かれている。


「建物?」


「分からない」


「他の地図にもある?」


 三人で調べる。


 百八十年前の地図。


 ある。


 百六十年前。


 ある。


 百四十年前。


「……ない」


 シュウの手が止まった。


 百二十年前にもない。


「消えてる」


 エリオットが言う。


「何の印だろ」


 胸の奥が少しだけ速くなる。


(小屋?)


 真っ先に思い浮かんだ。


 約百八十年前に建てられた、北の森の監視小屋。


 年代は合う。


 場所も北の森林。


 だが。


「小屋とは限らない」


 自分に言い聞かせるように口にする。


「うん」


 ユリウスが戻ってきた。


 手には分厚い辞典が二冊ある。


「何かあった?」


「この四角」


 シュウが示す。


 ユリウスは地図を確認し、すぐ別の年代も見る。


「消えてる」


「百八十年前と百六十年前にはある。百四十年前からない」


「地図記号を調べよう」


 誰も「監視小屋だ」とは言わなかった。


 そのことに、シュウは少し安心した。


 三人とも興味はある。


 けれど、答えを急がない。


 用語辞典と地図凡例集を開き、同じ四角い印を探す。


 すぐには見つからなかった。


 当時の地図は作成者や用途によって記号が統一されていないらしく、現在のように「この記号なら必ずこれ」とは言えない。


「面倒だな」


 エリオットが小声で漏らす。


「でも面白い」


 ユリウスは楽しそうだった。


「ユリウスはそうだろうね」


 シュウも苦笑しながらページをめくる。


 やがて、似た記号が見つかった。


「これ」


 凡例集の一ページ。


 北部で作成された古い森林管理図に使われた記号の例。


 小さな四角。


 説明には複数の意味が並んでいた。


 管理小屋。


 物資保管所。


 監視所。


 休息所。


「一個じゃない」


 エリオットが言う。


「でも建物ではありそう」


「この地図が同じ記号体系なら」


 ユリウスが付け足す。


「そうだね」


 シュウは慎重にノートへ書く。


『北部古地図、森北側に四角記号。百八十年前・百六十年前に存在、百四十年前以降は確認できず。北部森林管理図では管理小屋・物資保管所・監視所・休息所等を示す例あり。ただし同一記号体系か未確認。北の小屋との一致は未確定。』


 そこまで書いて、ペンを置く。


(これでいい)


 見つけた。


 けれど、答えではない。


 今の段階で言えるところまでにしておく。


「ローデル林区は?」


 ユリウスが辞典を開いた。


 三人で調べる。


 こちらは比較的早く見つかった。


 ただし、説明を読んだシュウは少し眉を寄せた。


「林区って、単純な林業区域じゃないんだ」


 古い北部行政用語としての「林区」。


 王家や領主が森林資源を管理するために区切った地域を指すことが多いが、木材採取だけでなく、狩猟、街道保全、水源保護、危険区域の立入管理など、地域ごとに役割が異なる。


 さらに一部では、特殊な理由で一般人の立入りを制限する森林も同じ分類へ含められていた。


「特殊な理由」


 エリオットが読む。


「これだけじゃ何も分からないな」


「うん」


 シュウは頷いた。


 魔物。


 崖。


 毒草。


 軍事施設。


 貴重な資源。


 理由はいくらでも考えられる。


 北の封所があったから立入制限された、と考えるのは簡単だが、今はまだ飛躍だ。


「でも、ローデル林区って名前で資料を探せる」


 ユリウスが言った。


「それが一番大きいかも」


 今まで「アルヴェイン領」「北の森」「白樹」「封所」といった言葉で探していた。


 そこへ、新しい検索語が一つ増えた。


 ローデル林区。


 少なくとも約百八十年前から百六十年前の地図には存在している。


「今日、そこまで探す?」


 エリオットが尋ねる。


 シュウは窓を見る。


 図書館の高い窓から入る光は、来たときよりかなり傾いていた。


 机の上には地図帳が何冊も開かれ、ノートにもかなりの量を書いている。


 ここから新しい資料群へ手を出せば、また長くなる。


(気になるけど……)


 今すぐ全部知りたい。


 そんな気持ちは確かにある。


 しかし、焦って読み飛ばせば重要な違いを見落とすかもしれない。


「今日はやめとく」


 シュウは答えた。


「明日以降、ローデル林区で資料探そう」


「賛成」


 ユリウスが頷く。


「珍しいな」


 エリオットが言った。


「何が?」


「シュウなら今から探すって言うと思った」


「俺だって学習するよ」


「昨日研究者に止められたから?」


「それもある」


 否定はできない。


 分からないものを調べるとき、ただ回数や情報量を増やせばいいわけではない。


 何を知りたいのか。


 何が分かっていて、何が分からないのか。


 そこを整理してから次へ進む。


 セレナが漆黒魔力を調べるときに見せた姿勢は、北の森を調べるうえでも使える気がした。


     ◇


 三人で使った地図や辞典を元の場所へ戻し、貸出カウンターへ向かう。


 シュウは今日は新しい本を借りなかった。


 すでに借りている白樹や多属性に関する資料が残っているし、ローデル林区については次回来たときに候補を絞ってから選ぶつもりだ。


 エリオットは迷った末、魔力制御の本を一冊だけ継続して持つことにした。


「返さないんだ」


「もう一回読む」


「いいと思う」


「次の練習までに、出力が上がる瞬間のところ見直したい」


「じゃあ今度、また一緒に試そう」


「うん」


 図書館を出る。


 外は夕方へ近づき、空の青に薄い橙色が混ざり始めていた。


 石畳には学生たちの影が長く伸びている。実技場から戻ってきたらしい上級生たちが笑いながら横を通り過ぎ、別の方向では制服姿の学生が寮へ急いでいた。


 三人はゆっくり中央広場へ向かう。


「今日分かったこと」


 ユリウスが言った。


「昔のアルヴェイン領周辺は、ラウネ地方とセルド王領の境界付近」


「うん」


「ローデル林区って名前があった」


「うん」


「森の北側に建物らしい記号がある。でも何の建物かは不明」


「そう」


「アルヴェイン領の成立時期は百四十年前から百二十年前の間の可能性。ただし正確な年はまだ未確認」


「完璧」


 シュウが笑う。


「何が分からないかも?」


「ローデル林区の役割。四角い印の正体。北の小屋と同じものか。昔の境界と今の森の正確な位置関係。あと、アルヴェイン家がいつ今の土地を管理するようになったか」


「多いな」


 エリオットが苦笑する。


「増えたね」


「調べるほど増えてない?」


「増えてる」


 ユリウスが平然と答えた。


「それでいいの?」


 エリオットが尋ねる。


 シュウは少し考えた。


 以前なら、分からないことが増えるのは嫌だったかもしれない。


 答えを探しているのだから、調べれば調べるほど答えに近づきたい。


 けれど。


(分からない部分がはっきりするのも、前進なんだよな)


 漆黒魔力の検査で感じたことと同じだ。


「いいんじゃないかな」


 シュウは答えた。


「適当に答え決めるよりは」


「それはそう」


 エリオットも納得したらしい。


 中央広場へ着いたところで、ユリウスは第二男子寮へ向かうため別れる。


「明日は?」


「授業終わってから決めよう」


「分かった」


「ダンが練習行きたがってたし」


「図書館は逃げない」


「最近それよく言うね」


「本当だから」


 ユリウスは軽く手を上げ、そのまま歩いていった。


 シュウとエリオットも第一男子寮へ向かう。


 夕方の風が頬を撫でる。


 日が落ち始めたせいか、昼間より少し冷たかった。


「家に追加の手紙書く?」


 エリオットが尋ねた。


「どうしようかな」


「小屋の場所聞くんだろ?」


「聞きたい。でも最初の手紙がまだ届いてないはずだから、もう少し待ってもいいかなって」


「返事に書いてあるかもしれないしな」


「うん。父さんたちも白樹のこと調べてくれてるかもしれないし」


 今すぐ次の手紙を出してもいい。


 けれど、家族側が何を確認できたのか分からないうちに質問を重ねるより、一度返事を待った方が整理しやすい気がする。


「じゃあ待つ?」


「数日は」


「珍しいな」


「また言った」


「だってシュウ、調べ物になると止まらないし」


「ユリウスほどじゃないよ」


「同じくらいになってきてる」


「それはない」


「あると思う」


 言い合いながら寮へ入る。


     ◇


 部屋へ戻ったあと、シュウは夕食へ行く前に今日の調査内容だけ整理することにした。


 机へノートを広げる。


 窓の外はもう薄暗く、室内には備え付けの魔導灯が柔らかな光を落としていた。隣ではエリオットが借りた本を机へ置き、夕食へ行く準備をしている。


 シュウは今日分かった事実と仮説を分けて書いた。


 約百八十年前、現在のアルヴェイン領周辺にはラウネ地方とセルド王領が存在。


 ローデル林区という名称を確認。


 森の北部に建物を示す可能性がある四角記号。


 その記号は百八十年前・百六十年前の地図にはあり、百四十年前以降の確認資料では消失。


 北部森林管理図の類似記号には、管理小屋、物資保管所、監視所、休息所等の用例がある。


 ただし、同じ記号体系かは未確認。


 北の監視小屋との同一性も未確認。


 現在のアルヴェイン領に近い名称・区分は、確認した百二十年前の地図では存在。成立の正確な時期は未確認。


 そこまで書いたところで、ペンを止める。


(だいぶ増えたな)


 けれど、不思議と頭の中は昨日より整理されていた。


 情報が多いから混乱するのではない。


 事実と予想を一緒にしてしまうから混乱する。


 そこを分ければいい。


《マスター》


『何?』


《現在の記録方法は合理的と評価します》


『アルカディアに褒められた』


《過去のマスターにも、同様に設定資料を分類していた時期があります》


 嫌な予感がした。


『……聞かない方がいい?』


《「確定設定」「裏設定」「真の裏設定」「俺だけが知る禁断設定」の四分類です》


 シュウは静かに顔を伏せた。


「どうした?」


 エリオットが振り返る。


「何でもない」


「また?」


「本当に何でもない」


《なお、「俺だけが知る禁断設定」については、ノートへ記載した時点で私が把握しております》


『今その矛盾に気づかせないでくれる!?』


 自分しか知らない設定をノートへ書いていた。


 誰にも見せる予定がないのに、わざわざ分類までして。


(中学生の俺、設定管理だけは妙に細かいな……!)


 しかも、そのノートが今は意思を持って本人へ読み上げてくる。


 過去の自分が知ったら、歓喜するのか絶望するのか。


 たぶん最初は歓喜する。


 そして三十三歳まで生きた前世の自分なら、全力で止める。


「シュウ、本当に大丈夫?」


「大丈夫。ちょっと昔の自分に腹が立っただけ」


「何したんだよ、昔のお前」


「聞かないで」


「分かった」


 エリオットが素直に引き下がる。


 シュウはノートを閉じた。


 そのとき。


 机の端へ置いていた別の紙が目に入る。


 家族へ送った手紙の下書きではない。


 学院へ来る前、父から渡された簡単な領内地図の写しだった。


 王都までの道を確認するために持たされたもので、北の森も大まかに描かれている。


「……あれ?」


 シュウは閉じたばかりのノートをもう一度開いた。


「どうした?」


「ちょっと待って」


 領内地図を広げる。


 今日見た古地図を思い出しながら、北の森の位置を確認する。


 古い地図でローデル林区と記されていた辺り。


 そこから北へ。


 四角い記号があった位置。


 正確な縮尺は違う。


 川の流れも変わっている。


 森の範囲も同じではない。


 だから重ねることはできない。


 それでも。


(近い……気がする)


 北の監視小屋がある辺りと、大きく離れてはいない。


 だが「同じ場所」と言えるほどの精度はない。


「何か見つけた?」


 エリオットが近づいてくる。


「今日の古地図にあった四角い印」


「建物かもしれないやつ?」


「うん。家から持ってきた地図で見ると、北の古い建物がある辺りに近いかもしれない」


「同じ?」


「分からない」


 シュウはすぐ答えた。


「地図の精度も違うし、昔と今で川も森も変わってる。だから、近そうってだけ」


「そっか」


 エリオットは地図を覗き込む。


「じゃあ、やっぱり場所を家に聞く?」


「うん。でも返事待ってからでもいいと思う」


 シュウは地図を見つめた。


 もし。


 本当に。


 百八十年前の地図へ描かれている四角が、あの監視小屋なのだとしたら。


 その周辺は当時、「ローデル林区」と呼ばれていた可能性がある。


 ならば探すべき記録は、アルヴェイン家の記録だけではない。


 ローデル林区。


 ラウネ地方。


 セルド王領。


 今は使われていない名前の下に、北の封所へ繋がる記録が眠っているかもしれない。


(でも、まだ決めない)


 胸が高鳴っている。


 調べたい。


 今すぐ図書館へ戻りたいくらいだ。


 それでも、今日見つけたものは手掛かりであって答えではない。


 シュウは領内地図を丁寧に畳み直した。


「よし」


「何が?」


「今日はここまで」


 エリオットが目を丸くする。


「本当に?」


「何でそんな驚くの?」


「今から図書館戻るとか言いそうだった」


「もう閉館近いでしょ」


「それが理由?」


「……お腹も空いた」


「じゃあ飯行こう」


 エリオットが笑う。


 二人で部屋を出る。


 廊下には夕食へ向かう学生たちが何人もおり、階段の方から賑やかな話し声が上がってきていた。誰かが今日の授業について話し、別の学生は明日の実技が楽しみだと笑っている。


 シュウもその流れへ混ざる。


 古い地図。


 消えた地名。


 ローデル林区。


 森の北側に描かれていた、小さな四角。


 まだ何も確定していない。


 けれど、北の森を調べるための道は、昨日より一つ増えた。


 そして、それを確かめるために必要なのは、強大な黒歴史能力でも、漆黒魔力でもない。


 地図を読み、本を探し、昔の言葉を調べ、分からないことを分からないまま記録すること。


(こういうのも、冒険なんだろうな)


 剣も魔法も使わない。


 ただ机に地図を広げただけ。


 それでも、知らなかった土地の過去へ少しずつ近づいていく感覚は、思っていた以上に楽しかった。


 シュウは隣を歩くエリオットと夕食の話をしながら、階段を下りていった。


 明日、何が分かるかはまだ知らない。


 今はそれでよかった。

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