第30話 俺の黒い魔力、やっぱり普通ではないらしい
中央研究棟一階、第三観察室。
壁と床へ刻まれた銀色の線を眺めながら、シュウは中央の机から少し離れた場所に立っていた。
昨日、基礎魔法理論の授業でグレイ・ハルバートへ見せた漆黒魔力。自分にとってはアルカディアと同じくらい昔から馴染みのある力だが、学院で学び始めた今となっては、それを「使えるから」という理由だけで済ませていいのか分からなくなっている。
火、水、風、土、光、闇。
学院で基本とされる六属性には、それぞれ魔力を特定の性質へ変換する過程がある。ところが自分の漆黒魔力は、少なくともシュウ自身の感覚では、そうした属性変換を行っているようには思えなかった。
(黒くしようと思えば、黒くなるんだよな)
その説明しかできないことが、今までよりずっと不思議に感じる。
目の前にいる青紫色の髪の女性は、そんなシュウを急かすことなく待っていた。白い研究衣の上に濃紺のローブを羽織り、机には分厚い記録帳と透明な板状の魔導具が置かれている。
「改めて自己紹介しましょう」
女性は落ち着いた声で言った。
「私はセレナ・ヴァイス。学院の魔力性質研究室に所属しています。専門は特殊魔力性質と属性変質、それから既存分類へ収まりにくい魔力現象の記録です」
「シュウ・アルヴェインです。よろしくお願いします」
「ええ。よろしく」
セレナは軽く頭を下げると、すぐに測定器へ手を伸ばすのではなく、机の横に置かれていた椅子を示した。
「まず座ってください。今日は説明に時間を使います」
「説明だけですか?」
「説明だけで終わる可能性もあります」
シュウは少し驚きながら椅子へ座った。
グレイも向かい側へ腰を下ろす。
「昨日も話しましたが」
グレイが口を開いた。
「私は君の魔力を調べる価値があると考えています。しかし、研究対象として価値があることと、学生本人の意思より研究を優先していいことは別問題です」
「はい」
「特に今回は、我々にも正体が分からない」
その言葉を聞き、シュウはグレイを見る。
「やっぱり、昨日の時点では何も分からなかったんですか?」
「何も、ではありません」
グレイは首を横に振った。
「少なくとも、私が普段扱っている闇属性魔力とは違うように見えました。また、君が通常の魔力から黒い状態へ変化させる際、詠唱も術式も使っていなかったことは確認しています」
「はい」
「しかし、それだけです」
グレイは机へ置かれた透明な板へ目を向けた。
「似た事例を知っていることと、同じものであると証明することは違います。だからこそ、専門のヴァイス先生に協力をお願いしました」
「似た事例はあるんですか?」
シュウが聞くと、セレナはすぐには答えなかった。
少し考えるように指先を組み、それからゆっくり口を開く。
「あります。ただし、『黒い魔力』という見た目だけなら、という意味です」
「見た目だけ?」
「魔力の色は性質を判断する手掛かりにはなりますが、それだけで分類することはできません。昨日の授業でも習ったでしょう?」
「同じ魔力が属性へ変換される、って話ですか?」
「それも一つです」
セレナは頷いた。
「闇属性に適性を持つ者の魔力が、紫や黒に近い色を示すことは珍しくありません。呪術の一部でも黒く見える場合がありますし、魔物由来の魔力、契約によって変質した魔力、特殊な血統に由来する魔力にも、似た色を示す例があります」
「じゃあ、見ただけじゃ分からない」
「そういうことです」
セレナはそこで僅かに笑った。
「もっと言えば、黒いから危険とも限りませんし、白いから安全とも限りません。見た目だけで魔法を判断するのは、赤い液体をすべて同じ飲み物だと思うようなものです」
「それは飲みたくないですね……」
「でしょう?」
思っていたより話しやすい人かもしれない。
シュウの肩から少しだけ力が抜ける。
「今日行う可能性があるのは、三段階です」
セレナは右手の指を一本立てた。
「第一段階。君の通常魔力だけを測ります」
二本目。
「第二段階。漆黒……そう呼んでいるそうですね?」
「はい」
「では便宜上、私たちも漆黒魔力と呼びましょう。その漆黒魔力を、装置へ触れさせずに観察します」
三本目。
「そして第一、第二段階で問題がなく、なおかつ君自身が続行を希望した場合に限り、第三段階として簡単な反応試験を行います」
「反応試験?」
「魔力を受けても性質が変わりにくい素材へ、ごく少量を接触させます。ただし今日は、魔力を君の身体へ逆流させる検査も、体内を探る検査も行いません」
シュウの意識が、その言葉へ強く向いた。
「昨日の測定みたいな?」
「入学時の魔力測定ですね」
グレイが答える。
「あの測定は本来、学生へ害を与えるものではありません。ただ、君には通常とは異なる反応が起きた」
測定器から身体へ流れ込もうとした、ごく細い探索魔力。
その瞬間。
シュウ自身が何かをするより先に、アルカディアが遮断した。
しかも、あのとき現れた黒い点について、アルカディアは「漆黒魔力が漏れたものではない」と言っている。
原因は今も分かっていない。
「その記録も読みました」
セレナが続ける。
「ですから今回は、外から君の体内へ魔力を送りません。観察するのは、君が自分の意思で外へ出した魔力だけです」
「それなら……」
《現時点で提示された条件に、重大な危険性は確認できません》
アルカディアの声が頭の中へ響く。
『大丈夫そう?』
《説明通りの手順であれば》
『分かった』
ただし、説明と実際の行動が違えば止める。
その条件も、昨日のうちにアルカディアとは確認している。
「大丈夫です」
シュウはセレナを見る。
「やってみたいです」
「第一段階から?」
「はい」
「分かりました」
セレナは記録帳を開いた。
「途中で気が変わったら、いつでも言ってください。理由も必要ありません」
「はい」
「気分が悪い、痛い、怖い、何か変だと思った。どれでも止める理由になります」
その言い方に、シュウは少しだけ笑った。
「昨日から、みんな同じこと言いますね」
「誰が?」
「グレイ先生と、リディア先生も」
「ああ」
セレナは納得したように頷く。
「なら、その二人がまともな教師で安心しました」
「私の前で言いますか」
グレイが僅かに眉を上げる。
「本人の前だから言っているんです」
「そうですか」
二人のやり取りには、以前から知っている者同士らしい気安さがあった。
シュウはそれを見て、もう一度肩の力を抜いた。
◇
最初に使われたのは、机の上に置かれていた透明な板だった。
大きさは手のひら二枚分ほど。薄いガラス板のようにも見えるが、内部には細かな銀色の線が何本も走っている。
「これは魔力観測板です」
セレナが説明する。
「魔力可視化球と似ていますが、用途が違います。可視化球は学生にも分かりやすい形で魔力の色や揺らぎを表示しますが、こちらは魔力が周囲へ与える変化を記録するためのものです」
「これに触るんですか?」
「触りません」
セレナは観測板を専用の台へ固定した。
「この位置で、君の手から通常魔力を出してください。昨日可視化球へ流した量より少なくて構いません」
シュウは指定された位置へ立つ。
観測板までは腕一本分ほど離れている。
「普通の魔力ですね」
「そうです。属性へ変換しない状態でお願いします」
「分かりました」
右手を前へ出す。
学院へ来るまで、シュウは魔力を「使う」ことには慣れていた。
身体強化。
魔法。
漆黒魔力。
黒歴史ノート由来の能力。
しかし、何の現象も起こさず魔力だけを外へ出す訓練は、家でも何度も行っている。
父や兄との訓練を思い出しながら、余計な力を入れない。
(少しだけ)
掌の上へ、淡い光が現れる。
白を基調としながら、その中に赤、青、緑、黄、そしてごく薄い白金色が流れる。
昨日、魔力可視化球で見たものと近い。
「そのまま」
セレナが言う。
彼女はシュウではなく、観測板を見ていた。
透明だった板の内部へ、細い光が走り始める。
銀色の線に沿って淡い色が広がり、一部が小さく明滅した。
「出力量、安定しています」
グレイが横で記録する。
「変換反応なし。周辺魔力への干渉も基準内」
「アルヴェイン君、少しだけ出力を上げられますか?」
「はい」
魔力を増やす。
掌の光が僅かに大きくなった。
観測板の反応も強くなる。
「そこまで」
セレナが言った瞬間、シュウは魔力を止めた。
光が消える。
「停止も速いですね」
「家で結構練習しました」
「制御評価が高かった理由はそれですか」
「たぶん」
シュウは右手を開閉する。
特に違和感はない。
「気分は?」
「普通です」
「手に痛み、痺れ、熱感は?」
「ないです」
「魔力が引かれた感覚は?」
「ないです」
「分かりました」
セレナが記録帳へ何かを書き込む。
シュウは観測板を覗いた。
「今ので何が分かったんですか?」
「基準を作りました」
「基準?」
「君の通常魔力が、この観測板へどんな反応を示すのかです」
セレナは板の一部を指す。
「特殊なものを調べるとき、特殊なものだけ見ても意味がありません。比較対象が必要です」
「普通の俺と、黒い俺を比べる?」
「魔力の話なら、そうですね」
「今の言い方だと俺本人が変身するみたいですね……」
セレナが少しだけ笑った。
「では、通常魔力と漆黒魔力を比較する、と言い換えましょう」
「お願いします」
その横で、グレイも僅かに口元を緩めていた。
◇
「次が第二段階です」
セレナは観測板を一度台から外した。
別の板と交換する。
「同じものじゃないんですか?」
「同型ですが、念のため交換します」
「壊れるかもしれないから?」
「その可能性を完全には否定できません」
シュウの頬が引きつった。
(やっぱりそういう可能性あるんだ……)
《マスター》
『言わなくていい』
《まだ何も申し上げていません》
『絶対、昔の文章出そうとしたでしょ』
《推測です》
『その間で分かるよ』
かつての自分が書いた一文。
『凡百の器に我が深淵を量ること能わず。測定の水晶は真実を知った瞬間、自ら砕け散る』
昨日アルカディアに読み上げられたばかりなので、嫌でも鮮明に思い出せる。
(頼むから割れないでくれよ)
もし本当に壊れたら、笑えない。
いや、周囲は笑わないのだろう。
むしろ何か格好いい現象だと思われる可能性がある。
それが余計につらい。
「緊張しました?」
セレナに聞かれた。
「ちょっと」
「壊れる可能性はありますが、爆発はしません」
「そういう心配じゃなくて……」
「では?」
「いえ、何でもないです」
説明できるはずがない。
「第二段階では、観測板へ直接触れさせないでください」
「はい」
「手のひらの上へ、昨日ハルバート先生へ見せたものと同程度か、それ以下の漆黒魔力を出してください」
セレナの表情から、先ほどまでの僅かな笑みが消えた。
怖がっているわけではない。
集中している。
「出したあとも、私が指示するまで大きくしないでください」
「分かりました」
「異常を感じたら、こちらから止める場合もあります」
「はい」
シュウは右手を前へ出した。
先ほどと同じ位置。
同じ姿勢。
違うのは、出すものだけ。
(漆黒魔力)
意識する。
詠唱はない。
術式を思い描く必要もない。
何かを変換している感覚もない。
ただ、自分の中にある力へ手を伸ばすような感覚。
次の瞬間。
掌の上に、黒が生まれた。
黒い光。
言葉にすると矛盾している。
けれど、それ以外に表現しようがない。
周囲を明るくするのではなく、近くの光がほんの僅かに沈んで見える。完全な闇ではなく、その中心には紫にも見える微細な揺らぎがあり、何も知らなければ闇属性の一種だと思うかもしれない。
グレイは昨日も見ている。
しかしセレナは初めてだった。
「……なるほど」
小さく呟く。
驚いてはいる。
それでも視線は冷静だった。
「そのまま維持してください」
「はい」
シュウは掌の黒い球を一定の大きさに保つ。
昨日の《微灯》よりも小さい。
この程度なら負担はほとんどない。
観測板へ変化が現れた。
先ほどは銀色の線に沿って光が走った。
今度は違う。
板の中央付近から、銀線が僅かに暗くなっていく。
「……先生」
「見ています」
グレイの声も低くなる。
「出力は?」
「ほぼ一定です」
「板への接触なし」
「ありません」
シュウは動かない。
(何が起きてる?)
《観測板からマスターへ向かう干渉は確認されていません》
『板が暗くなってるのは?』
《現時点では不明です》
アルカディアにも分からない。
その事実が、少しだけ緊張を強める。
「アルヴェイン君」
「はい」
「今、何かしていますか?」
「出してるだけです」
「吸収しようとは?」
「してません」
「観測板へ働きかける意識は?」
「ないです」
「分かりました。維持してください」
セレナが別の小型器具を手に取った。
透明な細い棒のようなものを、観測板の横へ置く。
そちらには変化がない。
「周辺魔力濃度、低下なし」
グレイが言う。
「では吸収ではない?」
「少なくとも、周囲の魔力そのものを取り込んでいる反応には見えません」
「光量は?」
「僅かに低下しています」
シュウは二人の会話を聞きながら、掌の黒を維持する。
吸収。
その言葉には覚えがある。
学院で学んだ闇属性魔法にも、魔力や光を弱める性質を持つものがある。
「闇属性と同じじゃないんですか?」
「似ている部分はあります」
セレナは観測板から目を離さず答えた。
「ですが、普通の闇属性なら、観測板は闇属性として反応します」
「今は?」
「反応していません」
「……え?」
「正確には、既存の属性反応を示していません」
シュウは思わず自分の掌を見る。
黒い。
どう見ても闇属性っぽい。
「じゃあ、これは何なんですか?」
「まだ分かりません」
即答だった。
「だから調べています」
「ですよね……」
聞いた自分が悪かった。
「一度止めてください」
「はい」
意識を切る。
黒い球が消える。
それとほぼ同時に、観測板の銀色が少しずつ元へ戻った。
「戻る」
グレイが近づく。
「ヴァイス先生」
「待ってください」
セレナは板へ直接触れず、別の細い器具をかざした。
数秒。
「残留変質なし。破損もなし」
シュウは内心で盛大に安堵した。
(割れなかった!)
《過去設定との差異が確認されました》
『わざわざ言うな!』
《観測機器は真実を知っても自壊しませんでした》
『やめて!》
「シュウ君?」
グレイがこちらを見る。
「何でもありません」
「顔が少し赤いようですが」
「本当に何でもないです」
黒歴史による精神的被害です。
そんなことを言えるわけがない。
◇
短い休憩が入った。
セレナは水差しから三つの杯へ水を注ぎ、シュウにも渡してくれた。
「魔力消費は?」
「ほとんど感じません」
「疲労は?」
「大丈夫です」
「頭痛や吐き気は?」
「ないです」
「では第二段階までは問題ありませんね」
シュウは水を一口飲む。
「さっきので、普通の闇属性じゃないって分かったんですよね?」
「少なくとも、一般的な闇属性魔力と同じ反応ではありませんでした」
セレナは慎重に言葉を選んだ。
「ただし、『闇属性ではない』と断定するには早いです。未知の変質をした闇属性かもしれませんし、複数の性質が重なっている可能性もあります」
「複数?」
「ありますよ。特殊な血統、契約、祝福、呪いなどによって、基礎属性へ別の性質が加わる例は」
シュウは杯を持ったまま黙った。
契約。
祝福。
呪い。
どれも、自分に当てはまるとは思えない。
少なくとも、この世界で生まれてから何かと契約した覚えはない。
(アルカディアは……)
頭の中に存在する禁書。
前世の黒歴史ノート。
魂に保存されているという、あまりにも普通ではない存在。
漆黒魔力も黒歴史ノートへ書いた設定の一つだ。
無関係だとは考えにくい。
しかし、それを学院へ説明するには、前世の話までしなければならなくなる。
今はまだ。
そこまで話す覚悟はない。
「何か心当たりがありますか?」
セレナに尋ねられた。
シュウは一瞬迷う。
「……あります」
嘘はつかない。
「でも、今は話したくないです」
室内が静かになる。
セレナはシュウを見ている。
グレイも何も言わない。
問い詰められるだろうか。
そう思ったが。
「分かりました」
セレナはそれだけだった。
「いいんですか?」
「昨日、ハルバート先生から聞いていませんか?」
「秘密を全部話す必要はないって」
「なら、私からも同じです」
セレナは自分の杯へ口をつける。
「ただし一つだけ。話さない情報が検査の安全性に関係すると思った場合は、検査を止めてください」
「……はい」
「内容を教えなくても構いません。『それは危ないかもしれない』と言ってくれれば止めます」
シュウはゆっくり頷いた。
「分かりました」
《適切な判断と評価します》
アルカディアの声が響く。
『うん』
隠すことと、騙すことは違う。
話せないものは話さなくていい。
けれど、そのせいで誰かが危険になるのは違う。
その線だけは守ろう。
◇
「第三段階を行うかどうか、君が決めてください」
休憩が終わると、セレナがそう言った。
「何をするんでしたっけ?」
「素材への接触反応です」
机の引き出しから、小さな箱が取り出される。
蓋を開けると、中には親指ほどの大きさの透明な結晶片がいくつか並んでいた。
「これは無属性の魔力試験晶です。魔力を蓄積する能力は低く、外から受けた魔力に応じて一時的に反応します」
「普通の魔力なら?」
「淡く光ります。属性魔力なら、それぞれに応じた変化を示します」
「壊れたりは?」
「通常ならしません」
「通常なら……」
「未知の魔力ですから、絶対とは言えません」
シュウは透明な結晶を見る。
アルカディアへ意識を向ける。
『どう?』
《試験晶からマスターへ魔力を返す構造は確認できません》
『触らせても大丈夫そう?』
《少量であれば、現時点で重大な危険性は低いと推定します。ただし、異常反応発生時には即時停止を推奨します》
『分かった』
「やります」
シュウが答える。
「では、まず通常魔力から」
比較。
また同じ順番だ。
セレナが一つの結晶を台へ置く。
「直接手で触れる必要はありません。指先から細く魔力を伸ばし、試験晶へ一瞬だけ触れさせてください」
「はい」
シュウは人差し指を向ける。
通常魔力を細く伸ばす。
透明な結晶へ触れた瞬間、内部に白い光が灯った。
その中を、赤、青、緑、黄、白金に近い色が薄く流れていく。
「五属性反応」
グレイが記録する。
「闇は?」
「なし」
「入学時と同じですね」
魔力を止める。
結晶は数秒かけて透明へ戻った。
「次に漆黒魔力です」
新しい結晶へ交換される。
シュウは一度息を整えた。
さっきと同じ。
少量。
異常があれば止める。
「始めます」
「どうぞ」
指先に黒い魔力を集める。
糸より少し太い程度。
それをゆっくり伸ばした。
透明な試験晶へ。
触れる。
その瞬間。
結晶の中心に黒い点が生まれた。
「止めて」
セレナの声とほぼ同時に、シュウは魔力を切った。
黒い糸が消える。
全員の視線が試験晶へ集まった。
黒い点。
小さい。
入学時の測定で見た、あの異常反応を思い出すほど小さい。
だが。
「……消えませんね」
グレイが呟く。
通常魔力のときは数秒で透明へ戻った。
今は違う。
黒い点が残っている。
「シュウ君」
「はい」
「体調は?」
「大丈夫です」
「魔力が引かれる感覚は?」
「ないです」
「試験晶と繋がっている感じは?」
「……ないと思います」
《接続反応は確認できません》
『俺も分からない』
セレナは結晶へ手を触れず、細い測定具を近づける。
「魔力残留……ではない?」
「どういう意味ですか?」
「待って」
声に僅かな緊張が混じっている。
だが、慌ててはいない。
測定具を変える。
角度を変える。
記録帳へ数値を書き込む。
「ヴァイス先生?」
「魔力量が増えていません」
グレイの眉が動く。
「それなのに反応だけ残っている?」
「そう見えます」
シュウには意味が分からない。
「普通は違うんですか?」
「普通なら、試験晶へ魔力を入れれば、短時間ですが魔力が残ります」
セレナが説明する。
「その残った魔力に応じて、色や光が続く。でも今、この結晶から検出できる魔力量は接触前とほぼ同じです」
「じゃあ、この黒いのは?」
「分かりません」
またそれだ。
けれど今度の「分かりません」は、先ほどより重かった。
黒い点はゆっくり薄くなり始める。
十数秒。
やがて完全に消えた。
透明な結晶へ戻る。
破損はない。
表面にも変化はない。
セレナはすぐには触らなかった。
しばらく測定を続け、安全を確認してから初めて結晶を持ち上げる。
「……面白い」
小さく呟いた。
研究者らしい言葉だった。
「危ないって意味じゃないですよね?」
シュウが聞く。
「今のところは」
「今のところ……」
「分からないものを安全だと断定する方が危険です」
「それはそうですけど」
セレナは試験晶を小箱へ戻さず、別の透明な容器へ入れた。
「今日はここまでにしましょう」
「もう終わりですか?」
「終わりです」
「もう一回やらなくていいんですか?」
「やりません」
きっぱりしていた。
「一度目で分からない反応が出たのに、同じ条件で二度目を行う理由がありません。まず今の記録を調べます」
「再現するか確認しなくていいんですか?」
「必要です。ただし、それは今ではありません」
セレナは容器の蓋を閉じる。
「次に行うなら、今の反応について可能な範囲で仮説を立て、それぞれを区別できる観測方法を準備してからです。ただ同じことを繰り返して同じ現象が起きても、『また起きた』以上の情報が増えないでしょう?」
「……なるほど」
昨日の基礎実技とは違う。
《微灯》なら、同じことを何度も繰り返して再現性を高める意味がある。
しかし未知の現象を調べるときは、同じことをすればいいわけではないらしい。
「研究って、もっと何回も実験するものだと思ってました」
「何回も行うことはあります」
セレナは記録帳を閉じる。
「でも、何のために繰り返すのかが分からない実験は、ただ回数を増やしているだけです」
シュウはその言葉を覚えておこうと思った。
◇
検査が終わっても、すぐ解散にはならなかった。
セレナとグレイが今日の記録を簡単に整理し、シュウにも分かる範囲で結果を説明してくれる。
「現時点で言えることは多くありません」
セレナは紙へ三つの項目を書いた。
一つ目。
通常魔力は、入学時の測定結果と大きな矛盾なし。
二つ目。
漆黒魔力は、一般的な闇属性としての反応を示さなかった。
三つ目。
試験晶への接触時、魔力量の明確な残留を伴わない一時的な変化が確認された。
「これだけですか?」
「これだけです」
「何かもっと……特殊な魔力だとか」
「特殊ではあります」
セレナは答える。
「少なくとも、私が今日使った通常の分類方法では整理できませんでした」
「じゃあ、新しい属性とか?」
「それは言えません」
「六属性とは別の力?」
「それもまだ言えません」
「闇属性じゃない?」
「一般的な闇属性と同じではない、までです」
何を聞いても慎重だった。
シュウは少し苦笑する。
「全然決めてくれませんね」
「研究者が早く決めすぎると、あとで困ります」
「そういうものですか?」
「そういうものです」
グレイが横から頷いた。
「魔法を学び始めた学生ほど、答えを一つに決めたがる傾向があります」
「俺もですか?」
「今の質問を聞く限りでは」
「……気をつけます」
「悪いことではありません」
グレイの声は穏やかだった。
「分かりたいと思うから答えを求める。ただ、答えを急ぐあまり、まだ分かっていない部分まで埋めてはいけないというだけです」
昨日の図書館で、ユリウスと調べたことを思い出す。
白樹。
保持建築。
封。
封所。
似た情報はいくつも見つかった。
けれど、それだけで北の森の答えにはしなかった。
(同じなんだな)
森のことも。
自分の魔力も。
分からないものへ、それらしい答えを貼りつけるのは簡単だ。
しかし、それが本当に正しいかは別の話だ。
「次はいつですか?」
シュウが尋ねる。
「決めていません」
セレナが答える。
「今日の記録を確認してからです。必要ならハルバート先生か担任のフェルン先生を通じて連絡します」
「明日とかじゃない?」
「可能性は低いですね」
「よかった……」
「残念そうには見えませんが」
「ちょっと緊張したので」
「それが普通です」
セレナは机の上を片づけながら、ふと手を止めた。
「それから、シュウ君」
「はい」
「次の検査まで、自分一人で今日の反応を再現しようとしないでください」
シュウは目を瞬いた。
「試験晶持ってないですけど」
「似た魔導具や魔石を使わないで、という意味です」
「ああ」
「漆黒魔力そのものを使うなとは言いません。普段から安全に扱ってきた範囲まで制限するつもりはありません。ただ、何かへ入れて反応を見る実験はしないでください」
「分かりました」
「図書館で似た事例を調べるのは?」
「それは構いません」
「じゃあ調べてみます」
言った瞬間。
セレナが少しだけ目を細めた。
「北部の古語と古式魔術建築も調べていると聞きましたが」
「え?」
「ハルバート先生から、君は図書館をよく利用していると」
「そこまでしか言っていませんよ」
グレイが訂正する。
「では、北部については本人が今話しましたね」
「あ」
シュウは口を閉じた。
自分から言ってしまった。
「何か別の調べ物を?」
セレナに尋ねられる。
シュウは少し考えた。
隠す必要はない。
ただし、北の森の地下に何があるのかも分かっていない以上、全部を話す必要もない。
「家の領地に古い建物があって、それについて調べてます」
「魔術建築?」
「その可能性がある、くらいです」
「なるほど」
セレナはそれ以上聞かなかった。
「なら、一つだけ助言します」
「はい」
「古い魔術資料を読むとき、現代の用語と同じ意味だと思わないことです。魔術用語は時代と地域で意味が変わります」
シュウはユリウスと顔を合わせたくなった。
昨日、まさにそれを調べていた。
「昨日それで苦労しました」
「なら良い経験をしていますね」
「いい経験なのかな……」
「答えが簡単に出なかったでしょう?」
「はい」
「それが大事です」
研究者は本当に、分からないことを嫌がらないらしい。
ユリウスと少し似ている。
ただ、セレナの場合は「分からない」を楽しむというより、分からない状態を正確に切り分けることを大切にしているように見えた。
「今日はありがとうございました」
シュウは椅子から立つ。
「こちらこそ」
セレナが答える。
「興味深いものを見せてもらいました」
「やっぱり研究者的には面白いんですね」
「かなり」
即答された。
「ただし」
セレナの表情が少し真面目になる。
「面白いからといって、君より優先するつもりはありません」
シュウは一瞬、返事が遅れた。
「……はい」
「次回も、嫌なら断ってください」
「分かりました」
グレイも立ち上がる。
「寮へ戻るなら、もう暗くなり始めています。気をつけて」
「はい」
シュウは二人へ頭を下げ、第三観察室を出た。
◇
中央研究棟の外へ出ると、空はすっかり夕方の色へ変わっていた。
雲の隙間から沈みかけた太陽が見え、学院の石畳へ薄い橙色の光を落としている。昼間より風が冷たく、シュウは制服の襟元へ少し顎を引いた。
歩き出す。
《マスター》
『うん』
《今回の検査について整理しますか?》
『お願い』
《通常魔力について異常なし。漆黒魔力は一般的な闇属性反応を示さず。観測板への接触なし状態で光学的変化と思われる現象が発生。周辺魔力の明確な吸収は確認されず》
『うん』
《試験晶への直接接触では、明確な魔力残留を伴わない一時的変化が発生。現時点で原因不明》
『アルカディアにも分からないんだよね』
《はい》
シュウは歩きながら空を見る。
『漆黒魔力って、俺が昔ノートに書いたから使えるんだよね?』
《少なくとも、マスターが記述した能力体系との対応は確認されています》
『でも、どうやって魔力が黒くなるのかは?』
《不明です》
『普通の魔法みたいな術式は?』
《マスターは使用していません》
『属性変換は?』
《マスターの主観上は行われておらず、私からも通常の属性変換に相当する過程は確認できません》
そこまで聞いて、シュウは少し笑った。
『本当に分からないことだらけだな』
《不安ですか?》
すぐには答えなかった。
以前なら。
自分の能力は強い。
それで十分だった。
ゲームのようなものだと思えば、仕組みなど知らなくても使える。
だが、この世界で生きていくなら。
自分の中にある力について何も知らないままというのは、少し怖い。
『不安はあるよ』
《はい》
『でも、昨日よりはマシかな』
《理由を伺っても?》
『分からないって分かったから』
アルカディアが黙る。
シュウはそのまま歩いた。
『普通の闇魔法じゃない。周りの魔力を吸ってるわけでもなさそう。試験晶に魔力を残してるわけでもない。それだけでも、昨日より知ってること増えたでしょ』
《その認識は正確です》
『だったら、少しずつでいいよ』
《承知しました》
また少し間があった。
《マスター》
『何?』
《過去の記録に関連する記述があります》
嫌な予感がした。
『……何て書いてあるの?』
《「我が漆黒は闇に非ず。闇とは光なき空虚の名。漆黒とは、光すら跪く王の色なり」》
シュウは石畳の真ん中で立ち止まりそうになった。
『忘れて!』
《記録されています》
『何で今それ出したの!?』
《一般的な闇属性とは異なるという現在の観測結果と、過去設定の内容に類似性が確認されたためです》
『中学生の俺、何でそんなところだけ合ってるんだよ!』
《詳細不明です》
『俺もだよ!》
頭を抱えたい。
だが周囲には他の学生もいるため、どうにか耐える。
(しかも「光すら跪く王の色」って何だよ……!)
絶対にセレナへ知られてはいけない。
もし知られたら。
あの研究者なら真顔で記録する。
グレイも止めない気がする。
そして学院の研究資料に残る。
それだけは避けたい。
《なお、同頁には――》
『続きはいい!』
《承知しました》
素直に止まった。
それが逆に怖い。
◇
第一男子寮へ戻るころには、空はかなり暗くなっていた。
三階へ上がり、三一七号室の扉を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
エリオットは机で本を読んでいた。
シュウの姿を見ると、すぐ本を閉じる。
「どうだった?」
「……分からないことが増えた」
エリオットが数秒黙る。
「昨日も聞いたな、それ」
「最近こればっかり」
「でも無事?」
「うん。痛くもないし、疲れてもない」
「ならよかった」
エリオットは本当にそれだけで安心したらしく、表情を緩めた。
「何か分かった?」
「普通の闇属性とは違うらしい」
「やっぱり?」
「やっぱりって何?」
「だって、昨日先生もそんな感じだったんだろ?」
「そうだけど」
シュウは自分の椅子へ座る。
「でも、何なのかはまだ分からないって」
「次も調べる?」
「今日の結果を先生たちが調べてから」
「そっか」
エリオットはそれ以上深く聞かなかった。
「夕飯は?」
「まだ」
「俺も待ってた」
「本当に?」
「ちょっと腹減ってる」
「先に行けばよかったのに」
「一人より二人の方がいいだろ」
何でもないことのように言う。
シュウは少しだけ笑った。
「じゃあ行こうか」
「うん」
二人で立ち上がる。
部屋を出る前、シュウは机の上に置いてある一冊のノートへ目を向けた。
北の封所。
白樹。
保持建築。
漆黒魔力。
学院へ来てから、調べたいことは増える一方だ。
けれど、それだけではない。
普通の授業もある。
友人たちとの練習もある。
食事も、洗濯も、朝起きることもある。
そういう毎日の中で、少しずつ分かることを増やしていけばいい。
「シュウ?」
「今行く」
エリオットに呼ばれ、シュウは扉へ向かう。
明日になれば、また授業がある。
図書館でユリウスと古地図を探すのもいい。
ダンは次の実技を楽しみにしているだろうし、セシリアはきっとまた何か役に立つ魔法や魔導具の本を見つけている。
グレイやセレナから次の連絡が来るのは、もう少し先になるかもしれない。
急ぐ必要はない。
(俺、まだ入学したばっかりなんだよな)
あまりにも色々なことが起きるせいで、ときどき忘れそうになる。
シュウはエリオットと並んで階段を下りながら、食堂から漂ってくる夕食の匂いに気づいた。
「今日、何だろ」
「肉だといいな」
「エリオットもダンみたいになってきたね」
「それは嫌だ」
「本人に言っていい?」
「絶対やめろ」
二人の笑い声が、夕方の寮の廊下へ混じっていく。
自分の魔力が何なのかは、まだ分からない。
北の森の秘密も、アルカディアの本当の正体も分からない。
それでも今日、漆黒魔力について一つだけ確かなことが増えた。
見た目が黒いからといって、普通の闇属性と同じではない。
その先にどんな答えがあるのかは、まだ誰にも分からない。
だから今は、それで十分だった。




