第29話 先生から呼び出されましたが、たぶん怒られるわけではありません
王立魔法学院へ入学してから迎える、二度目の授業日の朝。
シュウが目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。雨が降るほどではないものの、昨日より日差しは弱く、開けたままにしていたカーテンの向こうから白っぽい朝の光が差し込んでいる。
身体を起こして隣の寝台を見ると、エリオットはまだ眠っていた。
昨日は朝から授業を受け、放課後には練習区画で魔力制御の訓練をして、そのあと図書館にも寄った。本人が思っていた以上に疲れていたらしく、布団から出ているのは髪の一部だけだった。
「エリオット、朝だよ」
シュウが声をかける。
「……起きてる」
「昨日もそれ言ってたよ」
「今日は本当に……」
言葉が途中で消えた。
数秒待つ。
規則正しい寝息が聞こえた。
「寝てるじゃん」
《二度寝へ移行したものと思われます》
『見れば分かるよ』
《では、昨日と同様に窓を開放しますか?》
『今日は曇ってるし、結構寒そうなんだよなあ』
シュウは寝台を離れ、窓辺へ近づいた。
少しだけ窓を開けると、春とはいえ朝の冷たい空気が室内へ入り込んでくる。カーテンが揺れ、その風がちょうどエリオットの寝台へ流れた。
「さむっ!」
布団の中が動いた。
「おはよう」
「……またそれか」
「ちゃんと起きたでしょ」
「もっと優しい起こし方ないの?」
「二回呼んだよ」
「一回しか覚えてない」
「二回目の途中で寝たからね」
エリオットがようやく顔を出す。
眠そうな目で窓を見てから、恨めしそうにシュウを見た。
「明日は自分で起きる」
「昨日も聞いた気がする」
「明日こそ」
「期待しないで待ってるよ」
「それ期待してないだろ」
そんなやり取りをしながら、二人は制服へ着替え始めた。
シュウは机の端へ置いていた薬を忘れないうちに鞄へ入れる。続いて時間割と筆記具を確認し、昨夜まとめた北部古語と保持建築についてのノートも一度手に取ったが、少し考えてから机へ戻した。
今日は北部史を扱う授業ではない。
図書館へ行く予定も、今のところ決めていない。
何でも持ち歩けばいいというものでもないだろう。
《マスター》
『何?』
《昨日作成した家族宛て書簡の下書きは携行しないのですか?》
『あれはまだ下書き。もう少し整理してから出すよ』
《承知しました》
シュウは鞄を閉じる。
最初に家へ送るつもりで書いた手紙も、まだ投函できていない。
入学してから思っていた以上に毎日が詰まっており、郵便を扱う場所へ寄るタイミングを逃していた。
(今日こそ確認しよう)
学院内から手紙を出せる場所があることは聞いている。
場所さえ分かれば、授業の合間か昼休みに寄れるはずだ。
「準備できた?」
先に制服を整えたシュウが尋ねると、エリオットは寝癖を直しながら頷いた。
「できた。たぶん」
「教科書は?」
「入れた」
「学生証」
「ある」
「昨日借りた本」
「今日は使わないから置いてく」
「じゃあ大丈夫そうだね」
「何でシュウが確認する側になってるんだよ」
「朝起こしたから、その流れで」
「母親みたいになってるぞ」
「それは嫌だな」
シュウが苦笑すると、エリオットも眠そうに笑った。
◇
朝食を済ませて寮を出るころには、空は少し明るくなっていた。
学院の敷地には既に多くの学生が行き交っており、中央講義棟へ向かう者、実技服姿で訓練場方面へ歩いていく者、朝から本を抱えて図書館へ向かう者までいる。
「朝から図書館行く人いるんだ」
エリオットが前方を歩く学生を見ながら言った。
「ユリウスならやりそう」
「やるだろうな」
二人で中央広場へ向かう。
昨日と同じ噴水近くまで来ると、予想通りユリウスがいた。
ただし。
「……やっぱり本持ってる」
シュウが呟く。
ユリウスは一冊の本を読みながら待っていた。
「おはよう」
声をかけると、ユリウスはすぐ本から顔を上げた。
「おはよう」
「朝から読んでたの?」
「寮で」
「ここでも読んでたじゃん」
「待ってたから」
「図書館は?」
「まだ開いてない」
「開いてたら行ってた?」
「うん」
迷いのない返答だった。
「ほらな」
エリオットが笑う。
「予想通り」
「何が?」
「何でもない」
ユリウスは少し不思議そうだったが、すぐに本を閉じた。
「昨日の続き?」
シュウが尋ねる。
「違う。これは風属性基礎」
「もう次に行ったの?」
「昨日、風が一番やりやすかったから」
実技授業で、ユリウスは風属性の基礎操作をかなり安定して行っていた。自分の得意属性が実際にどんな仕組みなのか、さっそく調べ始めたらしい。
「闇じゃないんだ」
エリオットが言う。
「闇も読む。でも次の実技で属性別をやるって言ってたから、先に風」
「計画的だなあ」
「全部一気に読むのは無理」
「ユリウスでもそう思うんだ」
「僕を何だと思ってるの?」
「本を読む人」
「合ってる」
三人で歩き始めたところへ、後ろから聞き慣れた大きな声が飛んできた。
「おーい!」
振り向く。
ダンがこちらへ向かって走っていた。
その少し後ろを、セシリアが早足で追っている。
「ダン! 走らないでください!」
「遅れる!」
「まだ十分以上あります!」
「じゃあ大丈夫だ!」
「だったら走る必要がないでしょう!」
言われた直後、ダンは速度を落とした。
昨日から何度も注意されているため、さすがに少しは学んでいるらしい。
「おはよう!」
「おはよう」
「おはようございます」
セシリアも追いつき、一度息を整える。
「朝から元気だね」
シュウが言うと、ダンは胸を張った。
「今日は属性別の実技あるかもしれないからな!」
「昨日、次回からって言ってたよ」
「だから今日あるかもしれないだろ?」
「基礎魔法実技が今日あるならね」
「……あるよな?」
ダンがエリオットを見る。
「時間割くらい自分で見ろよ」
「見た!」
「じゃあ分かるだろ」
「……午後だった気がする」
「今日はないよ」
「えっ」
ダンの顔が固まった。
セシリアが小さく息を吐く。
「朝食のときにも言いました」
「聞いてなかった」
「知っています」
「じゃあ今日は何だ?」
エリオットが時間割を思い出すように視線を上げた。
「三組は午前が王国史と魔法数学。二組は一般教養と基礎魔法理論だったはず」
「実技ないのか……」
ダンの肩が分かりやすく落ちる。
「毎日実技だったら身体も魔力も疲れるでしょう」
セシリアが言う。
「俺は平気」
「昨日、小さい火だけでもお腹が空いたと言っていたではありませんか」
「あれは別!」
「何が別なのですか?」
シュウたちは笑いながら中央講義棟へ向かった。
昨日までなら、学院内を歩くたびに周囲の建物や学生へ意識が向いていた。
今も珍しさはある。
それでも、同じ道を友人たちと歩くことに少しずつ慣れ始めている。
(こういうのも学院生活なんだな)
特別なことは何もない。
朝に寮を出て、友人と合流し、授業へ向かう。
前世でも似たような光景はあったはずなのに、今は妙に新鮮だった。
◇
三組の最初の授業は王国史だった。
担当教師は小柄な初老の男性で、黒板へ大きな王国地図を描きながら、現在の領地区分がどのように成立したのかを説明していく。
昨日までなら、シュウは王国史を「覚えることの多い授業」くらいに考えていた。
しかし。
「現在の北部五領が、今とほぼ同じ境界になったのは約百四十年前です。それ以前は小領や王家直轄地が入り組み、領名そのものが現在と異なる地域も珍しくありません」
教師が北部を指した瞬間、シュウの意識が一気に授業へ向いた。
(百四十年前)
昨夜ユリウスと調べた「封所」という言葉の使用例。
約二百五十年前から百七十年前。
北の森にある古い監視小屋。
約百八十年前。
現在の領地区分成立より前だ。
シュウは急いでノートへ書き込んだ。
「先生」
前方の学生が手を上げる。
「現在の領地名と昔の領地名が違う場合、古い記録はどうやって場所を特定するんですか?」
「良い質問です」
教師は黒板へ向き直った。
「川、山、街道、古い町名、教会領、砦など、時代を越えて位置が比較的変化しにくいものと照合します。また、貴族家が同じ土地を継承していても領名が変わっている例がありますから、家名だけを頼りにするのも危険です」
シュウの筆がまた動く。
アルヴェイン家。
現在のアルヴェイン領。
しかし百八十年前も、同じ領名だったとは限らない。
(これ、今日の授業かなり使えるかも)
教師はさらに北部の古地図について説明を続けた。
現在より細かく分かれていた領地。
統合された土地。
廃止された砦。
流路が変わった川。
名称だけ残っている古い地域。
シュウは普段以上に集中してノートを取った。
「シュウ」
隣から小声が聞こえる。
エリオットだ。
「何?」
「今日、すごい真面目だな」
「いつも真面目だよ」
「昨日の一般教養より明らかに書いてる」
「ちょっと調べたいことと関係ありそうだから」
「昨日の図書館?」
「うん」
エリオットはそれ以上聞かなかった。
その代わり、自分のノートへ視線を戻す。
前の席にいるユリウスだけが一度振り返り、シュウのノートへ視線を落とした。
どうやら何に反応しているのか気づいたらしい。
休憩時間。
ユリウスはすぐシュウの席へ来た。
「今の話」
「うん」
「昨日の年代と重なる」
「やっぱりそう思った?」
「小屋が百八十年前なら、今の領地区分になる前」
「アルヴェイン領の古い名前、学院で調べられるかな」
「地図資料」
「図書館?」
「たぶん」
シュウは昨日作った調査項目を思い出した。
アルヴェイン領の旧地域区分。
まさか翌日の授業で、その調べ方に繋がる話が出てくるとは思わなかった。
「授業って役に立つんだな……」
思わず漏らす。
エリオットが呆れた顔をした。
「今まで何だと思ってたんだよ」
「役に立たないとは思ってないよ。ただ、こんなすぐ自分が調べてることに繋がると思わなかっただけ」
「学院だからじゃない?」
ユリウスが言う。
「何が?」
「調べるために必要なことも教える場所」
「……なるほど」
確かにそうかもしれない。
答えだけを教わるのではない。
答えへ辿り着く方法も学ぶ。
それも学院へ来た意味なのだろう。
◇
王国史の授業が終わり、次の魔法数学の教室へ移動しようとしたところだった。
「シュウ・アルヴェイン君」
教室の入口から名前を呼ばれた。
「はい?」
振り向く。
そこにいたのは三組の担任、リディア・フェルンだった。
黒い教師用ローブを身につけ、片手に数枚の書類を抱えている。
教室に残っていた学生たちの視線が一斉にシュウへ集まった。
「少しいいですか?」
「はい」
何かしただろうか。
昨日の実技。
放課後の練習区画。
図書館。
思い当たる違反はない。
(たぶん怒られるやつじゃないよな?)
そう考えながら席を立つ。
「何したんだ?」
ダンがいたら絶対に言いそうな台詞を、なぜかエリオットが小声で言った。
「何もしてないよ」
「たぶん?」
「たぶん付けないで」
ユリウスもこちらを見ている。
「先に行ってて」
「分かった」
シュウはリディアのところへ向かった。
廊下へ出る。
扉が閉まると、教室内のざわめきが少し遠くなった。
「授業前にすみません」
リディアは書類から一枚の小さな紙を抜き取った。
「グレイ・ハルバート先生から伝言です」
その名前を聞いた瞬間、シュウには用件が分かった。
「昨日の件ですか?」
「詳しい内容までは聞いていません。ただ、あなたも話があることは承知していると伺っています」
「はい」
紙を受け取る。
そこには簡潔な文章が書かれていた。
『本日、放課後。中央研究棟一階・第三観察室。都合が悪ければ基礎魔法理論担当グレイ・ハルバートまで申し出ること。』
シュウは文字を追う。
今日。
放課後。
第三観察室。
(思ったより早かった)
昨日、グレイは学院側で準備してから改めて話すと言っていた。
まさか翌日に連絡が来るとは思わなかった。
「参加は強制ではありません」
リディアが付け加える。
「ハルバート先生からも、その点は必ず伝えるよう言われています」
「分かりました」
「行きますか?」
シュウは少しだけ考えた。
怖くないわけではない。
漆黒魔力。
自分でも正体を知らない力。
昨日はほんの少量を手のひらへ出しただけだった。
今度は研究用の部屋へ行く。
何をするのか。
誰がいるのか。
どこまで調べられるのか。
まだ分からない。
(でも、調べたいって言ったのは俺だ)
グレイに強制されたわけではない。
自分で決めた。
「行きます」
「分かりました」
リディアは頷いた。
「それから、これは教師としての助言ですが、分からないことがあれば必ずその場で聞いてください」
「はい」
「研究に協力することと、言われたことを何でも受け入れることは違います。嫌だと思ったこと、怖いと思ったこと、説明が足りないと思ったことがあれば止めて構いません」
シュウは少し驚いた。
「止めていいんですか?」
「当然です」
リディアの返答に迷いはなかった。
「あなたの魔力でしょう?」
その一言が、妙に胸へ残った。
学院へ来る前は、特殊な力が見つかれば根掘り葉掘り調べられるのではないかと心配していた。
実際には、昨日のグレイもそうだった。
今日のリディアもそうだ。
話すかどうか。
調べるかどうか。
止めるかどうか。
選択するのは自分だと言ってくれる。
「ありがとうございます」
「では、次の授業へ。遅れたら私から担当教員へ説明します」
「まだ間に合います」
「走らないように」
「はい」
先回りされた。
シュウは苦笑して頭を下げた。
◇
魔法数学の教室へ入ると、エリオットとユリウスが既に席を取っていた。
「間に合った」
エリオットが隣の席を示す。
「ありがとう」
シュウは座る。
「何だった?」
「グレイ先生から」
声を抑えて答える。
「昨日の?」
「うん。放課後に来てほしいって」
エリオットの表情が少し真面目になる。
「黒いやつ?」
「たぶん」
「大丈夫?」
「まだ何するか分からないけど、嫌なら止めていいって」
「先生が?」
「リディア先生も、グレイ先生も」
「なら……まあ、大丈夫なのかな」
エリオットは完全には安心していないようだった。
それでも必要以上に問い詰めない。
「一人で行く?」
「そうなると思う」
「終わったら部屋戻る?」
「うん」
「じゃあ待ってる」
何気ない言葉だった。
シュウは一瞬だけエリオットを見る。
「先に夕飯行っててもいいよ?」
「腹減ったら行く。でも部屋には戻るだろ」
「まあ、そうだけど」
「なら同じ」
「……そっか」
何となく。
少しだけ嬉しかった。
ユリウスも前の席から振り向いた。
「今日は図書館なし?」
「たぶん」
「分かった」
「ごめん」
「何で謝るの?」
「昨日、続きを調べようって話してたから」
「明日でも本は逃げない」
「確かに」
ユリウスはそれだけ言って前を向いた。
友人たちは事情を全部知らない。
それでも、無理に聞こうとはしない。
シュウが話した範囲だけで受け止めてくれている。
(ありがたいな)
そう思ったところで、魔法数学の教師が教室へ入ってきた。
◇
魔法数学は、シュウが想像していたより魔法に近い授業だった。
単純な計算問題ではなく、魔力出力、術式維持時間、魔導具へ必要な魔力容量などを数値として扱うための基礎を学ぶらしい。
「たとえば、一分間に十の魔力を消費する術式を一時間維持する場合、必要量を単純計算することはできます」
教師が黒板へ式を書く。
「しかし実際の魔術では、起動時に多くの魔力を必要とするもの、時間経過で効率が落ちるもの、外部環境から魔力を補うものなどがあります。そのため、魔法数学は単なる算術ではありません」
シュウはノートへ書き写す。
外部環境から魔力を補う。
また昨日の調査を思い出しそうになり、慌てて授業へ意識を戻す。
(何でも森に繋げるのやめよう)
《現在のマスターは北の封所に関する情報へ注意が偏っている傾向があります》
『自覚してる』
《注意喚起は不要ですか?》
『授業中に関係ないこと考え始めたらお願い』
《承知しました》
しばらく授業へ集中する。
教師が例題を出した。
一定量の魔力を蓄積できる魔導具へ、毎日少量ずつ補充する場合の計算。
また近い。
(いや、これは授業)
《マスター》
『分かってるよ!』
まだ何も言われていないのに、先に反応してしまった。
《私はまだ注意喚起を行っていません》
『……ごめん』
《集中を推奨します》
『はい』
アルカディアに授業態度を注意される日が来るとは思わなかった。
シュウは小さく息を吐き、黒板へ視線を戻した。
◇
昼休み。
いつものように五人は中央広場で合流した。
今日は食堂が昨日ほど混雑していなかったため、五人で中へ入り、空いている大きめの卓を確保する。
ダンは肉料理を多めに載せた皿。
セシリアは野菜と煮込み。
ユリウスはパンとスープ。
エリオットは魚料理。
シュウは日替わりの煮込み料理を選んだ。
「今日、王国史だったんだろ?」
席へ着くなりダンが尋ねる。
「うん」
「俺たちは一般教養」
「どうだった?」
「昨日お前らがやったのと似た感じ」
ダンがパンを千切る。
「学院の規則とか、王都で気をつけることとか」
「ダンは廊下を走らないように、というところをよく覚えてください」
セシリアが静かに付け加える。
「それ一般教養じゃなくても言われてる!」
「だからこそ覚えてください」
「もう走ってないだろ?」
「今朝走っていました」
「あれは途中で止まった!」
「最初から走らなければいいのです」
相変わらずだった。
「三組は魔法数学もあった」
エリオットが話題を変える。
「結構面白かったよ」
「計算だろ?」
ダンの顔が少し曇る。
「魔法の計算」
「それでも計算だろ?」
「嫌いなの?」
「嫌いじゃない。ただ、火を撃つ方が好き」
「知ってる」
シュウは笑いながら煮込みを口へ運ぶ。
温かい。
午前中ずっと授業を受けていたせいか、思っていた以上に空腹だった。
「そういえばシュウ」
エリオットが言う。
「手紙」
「あ」
忘れかけていた。
「出す場所確認するって言ってたな」
「そうだった」
「食堂出たところの掲示板に、学院郵便受付の場所書いてあったよ」
「本当?」
「昨日見た」
「何で教えてくれなかったの?」
「聞かれてないから」
「それはそうだけど」
「中央講義棟の西側。事務棟の一階だって」
「昼休みに間に合うかな」
「行けると思う」
シュウは食事の残りを見る。
急いで食べる必要はない。
まだ十分時間がある。
「手紙、家に?」
セシリアが尋ねる。
「うん。入学してからのこと書いたやつ」
「もう書いたのですか?」
「昨日の夜までに」
「早いですね」
「家族に無事着いたって知らせたかったから」
「いいですね」
セシリアは柔らかく笑った。
その表情を見て、シュウは以前彼女が母親の話をしていたことを思い出す。
家族との距離や形は人それぞれだ。
自分が家へ手紙を書くことを当たり前だと思えるのは、ありがたいことなのだろう。
「じゃあ食べ終わったら行ってくる」
「俺も行く」
エリオットが言う。
「何で?」
「場所知ってるから」
「案内?」
「シュウ、一人で行ったら違う建物入りそう」
「そこまで方向音痴じゃないよ」
「昨日、教室番号確認してなかった人が言ってもなあ」
「それと方向感覚は別!」
ダンが笑う。
「俺も行く!」
「ダンは何しに?」
「何となく!」
「それ一番いらない理由だよ」
「じゃあ俺はセシリアとユリウスと待ってます」
「切り替え早いな」
結局、シュウとエリオットだけで郵便受付へ向かうことになった。
◇
学院郵便受付は、エリオットが言った通り中央講義棟西側の事務棟一階にあった。
小さな窓口が三つ並び、学生向けの手紙や荷物を扱っている。王都内だけでなく、各領地へ向かう定期便にも載せてもらえるらしい。
「アルヴェイン領までお願いします」
シュウは昨夜までに書いていた最初の手紙を差し出した。
内容は、王都へ無事到着したこと。
寮でエリオットという同室者ができたこと。
学院でダン、セシリア、ユリウスたちと過ごしていること。
測定で五属性に明確な適性が出たこと。
制御訓練が役に立っていること。
図書館で白樹について気になる資料を見つけたこと。
ただし、白樹と北の封所の関係については、あくまで可能性として書いている。
昨日追加で調べた古語や保持建築については、まだこの手紙には入っていない。
それは次の便で送るつもりだ。
「こちらでしたら、明朝の北部方面便へ載せられます」
窓口の職員が確認する。
「到着は?」
「天候や街道状況にもよりますが、通常なら数日です」
「お願いします」
料金を支払い、手紙を預ける。
職員が宛先を確認し、専用の箱へ入れた。
それだけだった。
けれど。
シュウは箱へ入った手紙を少しだけ見つめた。
(届くんだな)
家を出てから、まだそれほど長い時間は経っていない。
それでも家族の顔を思い出す。
父。
母。
兄。
北の森。
今ごろ何をしているだろう。
「シュウ?」
「うん?」
「終わったぞ」
「あ、うん」
二人で受付を離れる。
「家、近い?」
エリオットが尋ねた。
「王都からだと結構あるよ。馬車で何日か」
「そっか」
「エリオットは手紙出さないの?」
何気なく尋ねた。
エリオットの足が、ほんの少しだけ遅くなった。
ほんの一瞬。
すぐに元へ戻る。
「今はいいかな」
「そっか」
シュウはそれ以上聞かなかった。
何か事情があるのかもしれない。
単に手紙を書く習慣がないだけかもしれない。
本人が話さないものを、無理に聞く必要はない。
エリオットも何も付け足さなかった。
二人はそのまま昼休みの残り時間を過ごすため、中央広場へ戻った。
◇
午後の授業が終わるころには、朝から空を覆っていた雲が少し薄くなっていた。
窓から差し込む夕方前の光は柔らかく、講義室を出る学生たちの影を廊下へ長く伸ばしている。
「じゃあ俺、行ってくる」
シュウは鞄を持ち直した。
「中央研究棟だよな」
エリオットが確認する。
「うん。一階の第三観察室」
「場所分かる?」
「……たぶん」
「案内図見てから行けよ」
「分かってる」
ユリウスも鞄を肩へ掛ける。
「僕は図書館寄る」
「昨日の続き?」
「少しだけ。古地図の場所だけ確認する」
「見つけても先に全部調べないでね」
「何で?」
「俺も見たいから」
「分かった」
ユリウスが頷く。
「じゃあ、また明日」
「うん」
エリオットとは寮で会う。
ユリウスとは明日の朝になるだろう。
二人と別れ、シュウは中央研究棟へ向かった。
研究棟は講義棟より人が少ない。
廊下を歩いているのも上級生らしい学生や教師が中心で、新入生の制服姿はほとんど見かけなかった。
入口の案内図を確認する。
一階。
第三観察室。
「……こっち」
《右手の通路です》
『分かってるよ』
《確認です》
『ありがとう』
歩きながら、少しずつ緊張している自分に気づく。
昨日は教室で、グレイへ黒い魔力を見せた。
ほんの小さな球。
それだけだった。
今日は観察室。
名前からして、何かを調べる場所なのだろう。
(何するんだろ)
魔力量を測るのか。
性質を見るのか。
普通の魔法と比較するのか。
昨日のような装置を使うのか。
《マスター》
『うん』
《緊張状態を確認しています》
『分かる?』
《心拍数が平常時より上昇しています》
『……便利だな』
《中止を希望する場合は、いつでも申し出ることを推奨します》
シュウは少しだけ歩みを緩めた。
『アルカディアは、危ないと思ったら教えて』
《承知しました》
『昨日みたいに、勝手に止める前に』
少し間が空く。
《生命、精神、魂、能力機構に即時かつ重大な危険が存在しない限り、先に報告します》
『うん。それでお願い』
《承知しました、マスター》
第三観察室の前へ着く。
扉には小さな札が掛かっている。
『使用中』
シュウは一度深く息を吸った。
そして扉を叩く。
「シュウ・アルヴェインです」
「どうぞ」
グレイの声が返ってきた。
扉を開ける。
中は、昨日使った講義室とはまるで違っていた。
広さは普通の教室の半分ほど。
中央には大きな机があり、その周囲へいくつもの測定器らしい道具が並んでいる。壁には魔力を遮断するためなのか、銀色の細い線が幾重にも刻まれ、床にも円形の術式が配置されていた。
グレイは奥の机に立っている。
そして。
もう一人。
知らない人物がいた。
四十代ほどに見える女性。
深い青紫色の髪を短く切り揃え、白い研究衣の上から濃紺のローブを羽織っている。机の上には分厚い記録帳と、見たことのない透明な板状の魔導具が置かれていた。
女性はシュウを見る。
観察するような視線。
けれど、嫌な感じはしない。
「来ましたね」
グレイが穏やかに言う。
「はい」
「まず紹介しましょう」
グレイが女性へ手を向ける。
「魔力性質研究室の――」
「その前に」
女性がグレイの言葉を止めた。
シュウは少し驚く。
女性は椅子から立ち上がり、こちらへ向き直った。
「最初に確認しておきたいことがあります」
声は落ち着いている。
「シュウ・アルヴェイン君。今日ここへ来たのは、あなた自身の意思ですか?」
昨日。
グレイにも似たことを聞かれた。
今日。
リディアにも、止めていいと言われた。
そして今、初めて会う研究者まで確認する。
シュウは少しだけ肩の力を抜いた。
「はい」
はっきり答える。
「俺が、自分の魔力について知りたいと思ったから来ました」
女性は数秒、シュウの顔を見ていた。
やがて、小さく頷く。
「分かりました」
それから初めて、僅かに表情を緩めた。
「では、調べる前に説明から始めましょう。何をするのか分からないまま魔力を触らせるつもりはありません」
シュウは机の上に並ぶ測定器を見る。
胸の奥にあった緊張は、まだ消えていない。
けれど。
(これなら、ちゃんと聞けそうだ)
何を調べるのか。
何が分かるのか。
何が危険なのか。
そして。
自分の漆黒魔力は、一体何なのか。
答えが今日すべて出るとは思っていない。
むしろ、昨日までの経験を考えれば、分からないことが増える可能性の方が高い。
それでもいい。
分からないなら、一つずつ知ればいい。
シュウは研究者とグレイへ向き直り、これから始まる説明を待った。




