第24話 強い魔法より、まずは同じ火を三回出してください
第二実技場へ入った瞬間、シュウは思わず足を止めた。
昨日見学した第一実技場ほど広くはないものの、講義室とは比べものにならないほど開放的な空間が目の前に広がっている。高い天井の一部には採光用の大窓が並び、午前の明るい日差しが石造りの床へ斜めに差し込んでいた。
壁際には木製や石製の標的、大小さまざまな水槽、砂の入った箱、金属製の支柱などが整然と並んでいる。中央部分だけは学生数十人が十分に動けるほど広く空けられており、床には細かな区画線と番号が刻まれていた。
「おお……! やっぱり実技場っていいな!」
隣でダンが目を輝かせる。
「まだ何をするかも聞いていませんよ」
セシリアはそう返したものの、彼女自身も興味深そうに周囲を見ていた。エリオットは壁際に置かれた訓練器具を一つずつ確認し、ユリウスは入口近くに掲示された注意事項へ早くも視線を向けている。
シュウも実技場の奥まで見渡した。
剣術訓練場とは明らかに造りが違う。魔法を使うことを前提としているためか、床や壁の至るところへ細かな術式が刻まれており、意識して魔力を探れば建物全体に薄い流れが巡っていることが分かった。
《防護、魔力拡散、衝撃緩和と思われる術式を確認しました》
アルカディアの声が意識の奥へ届く。
『やっぱり頑丈なんだ』
《相応の出力までは想定されているものと推測します。ただし、どの程度まで耐えられるかを確認する目的で攻撃することは推奨しません》
『しないよ』
《マスターの過去の記述には「結界の限界とは、破壊して初めて知ることができる」と――》
『俺は授業を受けに来たの。施設を壊しに来たんじゃないから』
朝から何度目か分からない過去の自分への反論を心の中だけで済ませ、シュウは他の学生たちと一緒に実技場中央へ向かった。
二組と三組の合同授業らしく、既に六十人近い新入生が集まっている。昨日の測定結果について話している者も多く、「今日は火球を撃つのか」「標的があるから攻撃魔法だろう」と期待する声があちこちから聞こえていた。
「絶対、攻撃魔法だって。見ろよ、あの標的。どう考えても撃つためだろ」
ダンも同じ予想らしい。
「実技場なのですから、攻撃魔法の授業以外でも置いてあるでしょう」
「じゃあセシリアは何やると思う?」
「基礎魔法実技と書かれているのですから、まずは基礎的な魔力操作ではありませんか?」
「地味だなあ」
「大切なことでしょう」
ダンは不満そうだったが、シュウはセシリアの予想に近い気がした。先ほど受けた基礎魔法理論では、魔力量や属性数よりも扱い方が重要だと何度も教えられた。その直後の実技で、いきなり誰が一番大きな火球を撃てるか競わせるとは考えにくい。
「エリオットは?」
シュウが尋ねると、エリオットは少し困った顔で床を見た。
「できれば細かい制御じゃないやつがいい」
「そこは避けられないんじゃない?」
「分かってる。分かってるけど、願うくらいはいいだろ」
「それなら俺も、いきなり走り込みじゃないことを願う」
ダンが真剣な顔で加わった。
「魔法実技で走り込みするの?」
「騎士の訓練だと最初は走るぞ。兄貴が言ってた」
「ここは魔法学院です」
セシリアが即座に切り返したところで、実技場の奥にある扉が開いた。
入ってきたのは二人の教員だった。
一人は四十代ほどの大柄な男性で、袖を肘まで捲った灰色の実技服を着ている。短く刈った黒髪と日に焼けた肌のせいか、魔法教師というより騎士や冒険者に近い印象だった。
もう一人は三十代ほどの女性で、淡い緑色の髪を肩の辺りでまとめている。こちらも動きやすそうな実技服姿で、腰には短い杖が下げられていた。
「二組、三組の学生は、床の番号に合わせて並んでくれ」
男性教員のよく通る声が実技場へ響いた。
床を見ると、中央部分に一から六十までの小さな番号が刻まれている。学生たちは自分の出席番号ではなく、入口で渡された札に従って移動し始めた。
シュウたちも一度別れ、それぞれ指定された位置へ向かう。
全員が並んだところで、男性教員は腕を組んだ。
「基礎魔法実技担当のガルド・ベイルだ。隣は補助担当のミレイ・アスター。少なくとも一年の間は何度も顔を合わせることになるから、名前くらいは覚えてくれ」
「よろしくお願いします」
ミレイが穏やかに頭を下げる。
対してガルドは学生たちを一度見回すと、壁際に並んでいる標的を親指で示した。
「さて。あれを見て、今日は火球でも撃つと思った者」
かなりの手が上がった。
ダンの手も真っ直ぐ伸びている。
「残念だったな。今日は撃たない」
「ええっ」
思わず漏れたらしいダンの声が、静かになっていた実技場によく響いた。
周囲から笑いが起こる。
ガルドはダンを見た。
「不満か?」
「ちょっとだけ!」
「正直でよろしい。名前は?」
「ダン・クレイです!」
「クレイ。お前にはそのうち嫌というほど撃たせてやる。だから今日は撃つな」
「はい!」
なぜか嬉しそうに返事をするダンに、今度はさらに大きな笑いが広がった。
ガルドも僅かに口元を緩めたが、すぐに表情を戻した。
「昨日、お前たちは測定を受けた。今朝の理論でも、その結果だけで優劣を決めるなと教わったはずだ。俺の授業でも同じことを言う」
ガルドが右手を上げる。
その人差し指の先に、小さな火が灯った。
蝋燭の炎より少し大きい程度の、ごく普通の火だ。
「これを強い魔法だと思う者はいないだろう。だが、一年間の最初に俺が見たいのは、大きな火球を一発撃てるかどうかじゃない」
指先の火が消える。
すぐに、もう一度同じ大きさの火が灯った。
そして二度目を消し、三度目。
三つとも、ほとんど同じ形、同じ明るさ、同じ大きさだった。
「同じものを、同じように、必要なだけ出せるか。まずはそこからだ」
ガルドは三度目の火を消した。
「大きな魔法を一回成功させるだけなら、魔力量に任せて押し切れる場合がある。だが、味方のすぐ横で使うとき、家の中で使うとき、怪我人を守りながら使うとき、それでは困る」
シュウは黙って聞いていた。
北の森での出来事が頭をよぎる。黒い根が広がる森の中や狭い小屋、傷ついた人間がすぐ近くにいる状況では、単純な威力だけが必要だったわけではない。
「冒険者になれば、強ければ何でもいいと思っている者もいるだろう。騎士を目指す者なら、敵を倒せればいいと思っているかもしれない。研究者なら、戦わないから制御は関係ないと思っている者もいるかもしれない」
ガルドの視線が学生たちをゆっくり横切った。
「全部間違いだ。強い魔法ほど、止められなければ危険になる。便利な魔法ほど、必要な量を調整できなければ使える場所が減る。だから最初に覚えろ。魔法は出せることより、扱えることの方が大事だ」
今朝の理論授業とは言葉が違う。
けれど、教えていることは繋がっていた。
シュウは少しだけ嬉しくなる。座学で聞いたことを、そのまま実際に確かめる。学院へ来る前に想像していた「魔法学校らしさ」とは少し違うが、これはこれで面白そうだった。
「というわけで、最初の課題は簡単だ」
ガルドがそう言うと、ミレイが壁際の棚から箱を取り出した。
中には、手のひらほどの大きさの白い石板が大量に入っている。
「一人一枚取ってください。落としても割れませんが、投げないでくださいね」
列ごとに石板が配られていく。
シュウも一枚受け取った。
表面には三つの小さな円が横に並んで刻まれている。それぞれ同じ大きさで、円の中央には米粒ほどの小さな赤い石が埋め込まれていた。
「火属性に適性がない人もいると思うんですけど」
前方の学生が手を上げた。
ミレイが頷く。
「大丈夫です。今日使う《微灯》は、属性適性がなくても基礎魔力変換ができれば使用できます。適性の有無によって難易度に差は出ますが、それも含めて練習です」
「火が本当に苦手な者には、こちらで補助する」
ガルドが続ける。
「課題は単純だ。三つの円へ順番に《微灯》を使い、中央の赤石を光らせろ。目標は三つとも同じ明るさで、十呼吸維持すること。大きな火を出したら失敗だ」
最後の一言で、何人かの学生が残念そうな顔をした。
もちろんダンも含まれている。
「クレイ」
「まだ何もしてません!」
「顔に書いてある」
「顔は関係ないでしょう!」
「関係ある。お前みたいな顔をしている学生は毎年いる」
また笑いが起きた。
ダンは不服そうだったが、ガルドの方が一枚上手らしい。
◇
最初の練習では、学生たちは六人ずつの組に分けられた。
シュウとエリオットは同じ組になり、ほかには三組のフィンと、二組の学生が三人入った。ダン、セシリア、ユリウスはそれぞれ別の組だったが、教員から「最初の一巡が終わったら他の組を見ても構わない。ただし邪魔はするな」と説明されたため、互いの結果を見る機会はありそうだった。
床に置かれた低い作業台を囲み、それぞれ石板を置く。
「俺からやっていい?」
フィンが尋ねた。
「どうぞ」
シュウたちが頷くと、フィンは石板へ右手を向ける。
「《微灯》」
一つ目の赤石の上へ、小さな炎が灯った。
拳ほどもない炎だが、揺れは少ない。
「一、二、三……」
同じ組の女子学生が呼吸数を数える。
十まで維持して消す。
二つ目は最初より少し大きく、三つ目は逆に僅かに小さかった。
「うーん。難しいな」
フィンが三つの円を見比べる。
「一個ずつなら簡単なのに、同じ大きさって言われると急に難しくなる」
「普通に見たらほとんど同じなんだけどね」
シュウも石板を覗き込んだ。
昨日の測定では、フィンは火と土に適性が出ている。だから火を出すこと自体は苦労していないが、同じ出力を繰り返すことは別の技術らしい。
「次、俺やる」
エリオットが前へ出た。
昨日から魔力制御を気にしているため、緊張しているのが分かる。右手を石板へ向けたまま一度息を整え、最初の円へ魔力を流した。
「《微灯》」
火が灯る。
指定範囲には収まっているものの、少し大きい。
「あ……」
エリオット自身が気づいた。
「でも安定してるよ」
シュウが言う。
昨日の可視化球では魔力の強さが何度も揺れていた。それに比べれば、今の火は僅かに震えている程度で、大きくなったり消えかけたりはしていない。
「十までいこう」
「うん」
エリオットは集中を続ける。
十呼吸。
成功。
消したあと、二つ目へ移る。
今度は最初より明らかに小さかった。
「……小さい」
「途中で大きくしないの?」
フィンが尋ねる。
「したいけど、動かすと一気に行きそうで」
エリオットは苦笑した。
昨日話していた、七くらいにしたいのに十五まで一気に跳ねる感覚なのだろう。
「だったら今は、そのまま十まで維持した方がいいんじゃない?」
シュウが言うと、エリオットは少し考えた。
「同じ大きさにする課題だけど?」
「でも途中で無理に大きくして失敗するより、自分がどれくらい魔力を出したらこの大きさになるのか覚えられるでしょ。三つ目で、その間を狙えばいいし」
「なるほど」
近くを回っていたミレイが、その会話を聞いていたらしい。
「アルヴェイン君の考え方でいいですよ。最終目標は三つを揃えることですが、最初から完成させる必要はありません」
二人が振り向く。
「ファーレン君は、今は『どの程度流したら、どの程度の火になるか』を身体で覚える方が先です。一つ目は大きかった、二つ目は小さかった。それなら三つ目は、その中間を狙ってみましょう」
「はい」
エリオットが頷く。
三つ目。
火が灯る。
一つ目より小さく、二つ目より大きい。
「……真ん中だ」
「できたじゃん」
シュウが言うと、エリオットの口元が緩んだ。
「でも三つ揃ってない」
「一回目だから。少なくとも狙って変えられたんでしょ?」
「……そうだな」
昨日までなら失敗した部分だけへ意識が向いていたかもしれない。だが今のエリオットは三つの火を見比べながら、自分がどの程度の魔力を流したのかを確認している。
「次、シュウやってみて」
「分かった」
順番が来た。
シュウは石板の前へ立つ。
《微灯》は何度も使ったことがある。家の中で灯りが必要なときにも使うし、旅の途中でも火種として使った、攻撃魔法ですらないごく基本的な術式である。
だからこそ、最初は簡単だと思った。
「《微灯》」
一つ目。
赤石の上へ小さな火が灯る。
大きさは指定範囲内。
十呼吸維持して消す。
二つ目も、ほぼ同じ。
三つ目も同じ大きさで揃った。
「……揃ってる」
フィンが三つの円を見比べる。
「昨日、制御高かったもんな」
エリオットも納得したように頷いた。
シュウ自身も、少し嬉しい。
父や兄と繰り返した基礎訓練が、こういうところで役に立っている。
「アルヴェイン君」
ミレイがまだ近くにいた。
「はい」
「もう一回できますか? 今度は三つとも、さっきの半分程度の大きさで」
シュウは少しだけ目を瞬いた。
同じものを三回ではない。
今度は、自分が普段出しているものより意図的に小さくする。
「やってみます」
一つ目。
魔力量を減らす。
小さな火。
二つ目も、ほぼ同じ。
三つ目は僅かに大きくなった。
「あ」
「惜しいですね」
ミレイは失敗を責める様子もなく、三つ目を指した。
「今、三つ目だけ少し大きくなった理由は分かりますか?」
「二つ目まで上手くいったから、同じ感覚で出せると思って……少し雑になったかもしれません」
「その認識でいいと思います。制御が得意な学生ほど、『できる』と思った瞬間に確認を省くことがあります」
シュウは三つ目の円を見る。
失敗と呼ぶほど大きな差ではない。
それでも確かに違う。
「魔法は、得意なら失敗しないわけではありません。慣れているからこそ起きる失敗もあります」
「はい」
その言葉は覚えておこうと思った。
北の森でも、自分は強い能力を持っているから何でもできたわけではない。選んでいない能力は使えず、使えるつもりで《心装武器》へ切り替えようとして失敗したこともある。
できることと、できないこと。
今使えるものと、今は使えないもの。
それを正確に判断することは、単純な強さとは別の大切な部分なのだろう。
◇
一巡目が終わるころには、実技場のあちこちから成功や失敗に対する声が上がっていた。
次の課題へ移る前に短い確認時間が与えられ、シュウとエリオットはフィンへ一声かけてから、近くの組を覗いてみることにした。
「シュウ!」
先に見つけたのはダンだった。
「ちょうどいいところに来たな!」
「その言い方、嫌な予感するんだけど」
「見てろ。今度こそ三つ揃える!」
「俺に見せる必要ある?」
「ある!」
「何で?」
「何となく!」
理由になっていない。
ダンの石板を見ると、一つ目と二つ目には既に火を灯した跡が残っていた。記録用の赤石は発動時の強さによって色が変わるらしく、一つ目は濃い赤、二つ目もほぼ同じ色になっている。
「二つは揃ってるじゃん」
「だろ? 火なら得意だからな!」
昨日の測定でも、ダンは火と土に明確な適性があり、魔力量そのものも高かった。
火を作ること自体は簡単なのだろう。
問題は。
「三つ目いくぞ!」
「普通にやればいいからね」
「分かってる!」
ダンが右手を向ける。
「《微灯》!」
ぼっ、と音がした。
三つ目だけ、他の二つの倍以上の火が立ち上がった。
「熱っ!」
本人が一歩下がる。
近くにいた担当教員がすぐに術式を解除し、火は一瞬で消えた。
周囲から笑い声が上がる。
「クレイ!」
少し離れた場所からガルドの声が飛んだ。
「はい!」
「誰に見せようとした!」
「シュウです!」
「見せる相手がいると魔力が増えるなら、まずそこを直せ!」
「はい!」
シュウは額へ手を当てた。
エリオットは横で肩を震わせている。
「何で俺に見せようとすると威力上がるんだよ……」
「勝負したいからじゃない?」
「俺、何もしてないのに」
「ダンの中ではもう勝負が始まってるんだよ、たぶん」
「迷惑だなあ」
口ではそう言いながら、シュウも笑ってしまった。
「もう一回!」
ダンは諦めない。
「今度は誰にも見せるな」
担当教員に言われ、ダンは「はい」と返事をして石板だけを見る。
再挑戦。
一つ目。
やはり火はすぐに出た。
二つ目も大きさはほぼ同じ。
三つ目。
今度は勢いをつけず、少し慎重に魔力を流す。
三つの赤石が、ほぼ同じ濃さで光った。
「できた!」
ダンが顔を上げる。
「できるじゃん」
シュウが言うと、ダンは満面の笑みを浮かべた。
「火だからな!」
「じゃあ何でさっき失敗したの?」
「……気合いが入りすぎた」
「自分で分かってるなら直せるね」
エリオットが笑う。
ダンは出力そのものに困っていない。
むしろ逆で、魔力が多く火属性への適性も高いからこそ、気持ちが乗ると必要以上に出てしまうらしい。
昨日の「魔力量は高、制御は普通」という測定結果が、そのまま目の前へ形になって現れていた。
「次は小さい火を三つやってみろ」
担当教員が言う。
「小さいやつ?」
「今のお前は出す方より抑える方が練習になる」
「分かりました!」
ダンは素直に頷いた。
小さな火。
一つ目は成功。
二つ目は少し大きい。
三つ目はさらに少し大きい。
「……小さくする方が難しいな」
さすがのダンも真面目な顔で石板を見ていた。
「大きい方が楽?」
シュウが尋ねる。
「楽。増やすのはすぐできる。でも小さいまま止めようとすると、何か足りない感じがする」
「その感覚を覚えろ」
教員が横から言う。
「威力を出せるのは長所だ。だから長所を潰す必要はない。ただし、十必要な場面で百を出す奴は、強いんじゃなくて扱えてないだけだ」
「はい」
今度のダンの返事には、先ほどまでの勢いだけではない真剣さがあった。
シュウはその様子を見て、少し意外に思う。
ダンは騒がしい。
勝負好きで、すぐに張り合いたがる。
けれど、自分の苦手な部分を指摘されたとき、ふざけて逃げるわけではない。
昨日も、派手な火炎魔法の本ではなく、自分の制御が普通だったことを理由に実戦基礎の本を選んでいた。
やっぱり。
思っていたより、ちゃんと考えている。
「何だよ?」
見ていたことに気づいたダンが尋ねる。
「いや、何でもない」
「変な顔してたぞ」
「ダンもちゃんと練習するんだなって」
「当たり前だろ!?」
また声が大きくなった。
◇
ダンの組を離れると、少し先でセシリアが石板へ向かっていた。
「今から三回目です」
シュウたちに気づいたセシリアが、小さく微笑む。
「見てもいい?」
「もちろんです。ただ、あまり面白くはないかもしれませんよ」
「何で?」
「今のところ、大きな失敗をしていないので」
言い方だけ聞くと自慢にも聞こえるが、セシリアの表情にはそういう意図がまったくない。
石板を見る。
一回目。
三つの赤石はほとんど同じ濃さだった。
二回目も、僅かな差しかない。
「十分すごくない?」
エリオットが言う。
「昨日、制御高かったもんね」
シュウも思い出す。
セシリアは水と光に適性があり、魔力量は平均よりやや上、制御は高評価だった。
「でも、火は得意属性ではありませんから、少し集中しないと安定しません」
セシリアが三回目の石板へ向かう。
「《微灯》」
一つ目。
小さな火が灯る。
二つ目も同じ。
三つ目。
僅かに小さい。
「……少し足りませんでした」
セシリアはすぐに気づいた。
「俺だったら同じに見えるけど」
エリオットが石板を覗き込む。
「私も見た目だけならほとんど分かりません。ただ、三つ目だけ手応えが少し軽かったので」
「手応えで分かるんだ」
「何となくです」
そこへミレイが近づいた。
「ノアさんは、細かな制御が得意ですね」
「ありがとうございます」
「ただ、少し慎重すぎます」
セシリアが目を瞬く。
「慎重すぎる、ですか?」
「はい。失敗しないように一回ごとの確認が長くなっています。もちろん最初はそれで構いませんが、生活魔法や補助魔法では、必要なときにすぐ使えることも大切です」
「……なるほど」
セシリアは自分の石板を見る。
「では次は、少し早くしてみます」
「そうしてください。ただし、速さのために雑にする必要はありません」
「はい」
再挑戦。
先ほどより明らかに間隔が短い。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
すべて成功。
「できました」
セシリアの表情が少し明るくなる。
「速くしても揃ってる」
シュウが言う。
「私も少し驚いています。慎重にやらないと失敗すると思っていました」
「それだけ制御できてるってことじゃない?」
「そうなら嬉しいです」
セシリアは控えめに笑った。
そのあと課題が《送風》へ変わると、彼女の特徴はさらに分かりやすく出た。
風属性への明確な適性はない。
そのため風を起こすまでには、シュウより少し時間がかかる。
しかし一度風が出ると、三本の紙帯がほとんど同じ角度で揺れ続けた。
「出すまでが少し難しいですけれど、出てしまえば調整はできますね」
セシリアは紙帯を見ながら、自分の感覚を確認するように言う。
「これなら生活魔法でも使えそうです」
「やっぱりそっち考えるんだ」
シュウが笑う。
「はい。風を細く調整できるなら、乾燥や換気にも使えるでしょうし、魔導具へ組み込む方法もあるかもしれません」
もう応用先を考えている。
昨日図書館で家庭用魔導具の本を借りていたことを思えば、実にセシリアらしい。
「攻撃に使おうとは思わない?」
エリオットが尋ねる。
「必要なら学びます。でも、今は人を助ける方に使える魔法の方が興味があります」
迷いのない答えだった。
母親の身体が弱く、家庭で温度調整や移動補助の魔導具を使っていたという話を、シュウは思い出す。
同じ基礎魔法でも。
何に使いたいかは、人によって違う。
◇
「ユリウスはどこ?」
セシリアの組を離れ、三人で周囲を探す。
「いた」
エリオットが指した。
ユリウスは実技場の端に近い組で、《微灯》へ挑戦していた。
ちょうど一つ目。
火が灯る。
小さい。
二つ目。
少し大きい。
三つ目。
今度は一つ目とほぼ同じ。
「火、苦手?」
シュウが近づいて尋ねる。
「少し」
ユリウスは石板を見たまま答えた。
昨日の適性は風、土、闇。
火は入っていない。
「出すこと自体はできる。でも変換に余計な魔力がいる感じがする」
「余計な魔力?」
「風なら一押しで動く感じ。火は一度押して、途中でもう一度押さないと届かない感じ」
「分かりやすいような、分かりにくいような」
エリオットが首を傾げる。
「僕には分かる」
「本人だからね」
ユリウスは気にせず、四回目へ入る。
今度は最初から少し魔力を多めに流した。
一つ目。
指定された大きさ。
二つ目。
同じ。
三つ目。
僅かに小さい。
「さっきより揃った」
シュウが言う。
「最初に必要量を増やした」
「もう修正したの?」
「さっき三回やったから」
当然のように言う。
そこへ担当していた教員が口を挟んだ。
「ベルンは適性外の属性でも、感覚を言葉にするのが早いな」
「本を読んだので」
「本だけで身体は動かんぞ」
「だから今、試してます」
「……そうだな」
教員が少し笑った。
ユリウスは理論だけで満足するタイプではないらしい。
分からないなら調べる。
調べたら試す。
違ったら直す。
昨日、闇属性について話していたときと同じだ。
「次、風だって」
シュウが言う。
「そっちはやりやすい」
ユリウスが紙帯の前へ移動する。
《送風》。
三本の紙帯が同時に傾いた。
角度はほぼ同じ。
しかも。
「……速い」
エリオットが呟く。
シュウより発動までが速かった。
「ユリウス、風かなり得意なんじゃない?」
「たぶん」
「嬉しくないの?」
「嬉しい」
「顔に出ないなあ」
「出してる」
「どこに?」
よく見る。
確かに。
口元がほんの少しだけ上がっている。
「……本当だ」
「だから言った」
次の土属性基礎では、さらに分かりやすかった。
砂箱の中央に置かれた小石を、土を盛り上げて一定の高さまで持ち上げる課題である。
ユリウスが手をかざす。
砂が静かに盛り上がり、小石が持ち上がる。
指定線。
止まる。
ほとんど揺れない。
「土も上手いね」
シュウが言う。
「風より遅い。でも止めやすい」
ユリウスは自分の結果を冷静に見ている。
「闇は今日はやらないのかな」
「基礎属性別は次回からって先生が言ってたから、そのときじゃない?」
「楽しみ」
今度は。
少しだけ分かりやすく表情が動いた。
「ユリウスって、闇属性嫌じゃないんだね」
エリオットが尋ねる。
「何で?」
「何となく。怖がる人もいるかなって」
「使い方を知らないものは怖いかもしれない。でも、自分に適性があるなら知った方がいい」
昨日と変わらない答えだった。
「使えるなら覚える。危ないなら危なくない使い方も覚える」
「ユリウスらしい」
シュウが言う。
「そう?」
「うん」
本人だけは分かっていないらしい。
◇
短い確認時間が終わると、全員が再び自分の組へ戻った。
そこから課題は少しずつ変わっていった。
同じ大きさの火を三回出す。
次は大、中、小の順。
その次は小、大、中。
さらに、一つの火を途中で大きくし、また元へ戻す。
単純な《微灯》だけなのに、条件が変わると難易度も大きく変わる。特に途中で火の大きさを変える課題では、周囲のあちこちから「あっ」「消えた」「大きすぎた」と声が上がった。
エリオットも何度か失敗した。
小さな火を大きくしようとして一気に指定範囲を超え、慌てて魔力を減らした結果、そのまま消してしまったこともある。
「また十五になった……」
肩を落とすエリオットへ、シュウは笑いかけた。
「でも最初より分かってきてるでしょ?」
「分かる。出る直前に『これ多い』って思った」
「止められなかった?」
「止めようとしたけど間に合わなかった」
「じゃあ次は、そう思ったところで増やすのやめたら?」
「やってみる」
エリオットはすぐに次の試行へ入った。
小さな火を出す。
少しずつ魔力を増やす。
途中で一度止める。
火は中程度まで大きくなり、そのまま安定した。
「……止まった」
エリオット自身が一番驚いている。
「止まったね」
「今、ちゃんと止まったよな?」
「見てたから分かるよ」
「もう一回やる」
目の色が変わった。
苦手だから嫌だと言っていたはずなのに、一度できた途端、自分から何度も繰り返している。
シュウは少し離れて見守った。
できないことが、少しずつできるようになる。
その過程を目の前で見るのは、思っていたより面白かった。
◇
授業の後半になると、《微灯》から別の基礎魔法へ移った。
今度は《送風》。
手のひらから弱い風を送り、机の上に立てられた三本の細い紙帯を、指定された角度まで同時に傾ける。
強すぎれば紙帯は完全に倒れ、弱すぎればほとんど動かない。しかも三本へ均等に風を当てなければならないため、単純なようで意外と難しい。
「火よりこっちの方が難しいな」
フィンが紙帯を一本だけ大きく倒し、残り二本がほとんど動いていない状態を見て苦笑した。
「風の向きが片方に寄ってる?」
シュウが横から見る。
「たぶん。真っ直ぐ出してるつもりなんだけど」
「手をもう少し離したら広がるんじゃない?」
「やってみる」
フィンが一歩下がる。
今度は三本とも動いた。
「あ、さっきよりいい」
「本当だ」
こうして互いの結果を見ながら試していると、自分一人では気づかなかったことが見えてくる。
学院長が入学式で言っていた言葉を、シュウはふと思い出した。
自分以外の人間を知れ。
大げさな話ではなく、こういうことも含まれているのかもしれない。
「シュウは風も得意なんだよな?」
エリオットに聞かれる。
「得意っていうか、よく使うかな」
「やってみて」
「うん」
シュウは紙帯の前へ立った。
「《送風》」
弱い風を広げる。
三本が同時に傾く。
角度もほぼ同じ。
「やっぱり上手いな」
フィンが感心する。
「これは家でも使ってたから。埃を飛ばしたり、暑いときに風を送ったり」
「生活感あるな」
「魔法ってそういうものでしょ?」
「俺、風適性ないから羨ましい。使えなくはないけど、結構疲れるんだよな」
フィンがもう一度風を出す。
今度は三本とも動いたが、本人は先ほどより集中しているようだった。
同じ基礎魔法でも、適性によって感覚が違う。
ダンは火を出すことには苦労しないが、小さく抑えることに苦戦した。セシリアは得意属性でなくても細かな制御が安定している一方、慎重になりすぎる癖を指摘された。
ユリウスは適性外の火に苦戦しても、何が難しいのかを自分で言葉にして修正していた。エリオットも制御そのものはまだ不安定だが、一度感覚を掴むと、自分から何度も繰り返している。
昨日は紙に書かれた測定結果だったものが、今日になってそれぞれの魔法として見えるようになった。
シュウは自分の五属性適性を思う。
火、水、風、土、光。
昨日は「多い」と驚かれただけだったが、授業が進めば、それぞれをどう伸ばすか考える必要が出てくる。
全部学ぶのか。
得意なものを決めるのか。
戦闘だけではなく、生活や探索で役立つ魔法もある。
選択肢が多いということは、何でもできるという意味ではない。何を学ぶか自分で選ぶ場面が増えるということなのだろう。
《マスター》
『何?』
《過去のマスターであれば、全属性を極める選択以外を認めなかったものと推測します》
『推測じゃなくて、書いてあるんでしょ』
《はい》
『やっぱり』
《「一つを極める者は一つの頂へ至る。全てを極める俺は天そのものとなる」》
『……何歳の俺?』
《中学二年時です》
『一番元気だった頃だな……』
自分でも何となく納得できてしまった。
だが今のシュウは、全部を極めるなどと簡単には言えない。
目の前の《微灯》一つ、《送風》一つですら、同じ結果を繰り返すには集中が必要なのだ。十七年間使ってきた通常魔法にも、まだ知らないことがいくらでもある。
◇
「最後に、水属性の基礎操作を行う」
ガルドの声に、学生たちが水槽のある区画へ移動した。
今度の課題は、水の入った器から決められた量だけを浮かせ、隣の空の器へ移すというものだった。水属性適性が高い学生には比較的扱いやすいが、適性の低い学生は水を浮かせるだけでも苦労している。
今回は組ごとではなく、近い者同士で順番に試す形式になったため、シュウたち五人も同じ区画へ集まることができた。
「水は俺、たぶん苦手だな」
ダンが水槽を覗き込む。
「まだやってないでしょう」
セシリアが言う。
「何となく分かる。火の方が絶対楽だ」
「そう言っていると本当に失敗するよ」
シュウが笑う。
「じゃあ俺からやる!」
「どうしてそうなるの?」
止める間もなく、ダンが器の前へ立った。
水へ手を向ける。
ゆっくり持ち上がる。
思ったより普通だ。
「お、いける!」
「集中して」
「分かってる!」
指定量より少し多い。
ダンは水を減らそうとする。
少し戻る。
もう少し。
一気に半分近く落ちた。
「あっ」
器へ水が跳ねる。
「減らしすぎましたね」
セシリアが冷静に言う。
「今のは水が悪い」
「水に責任を押しつけないでください」
「火なら言うこと聞くんだけどなあ」
「火もさっき暴れてたじゃん」
シュウが言うと、ダンが黙った。
二回目。
今度は減らすときに慎重になる。
指定線より僅かに多いところで止め、そのまま隣へ運ぶ。
着水。
少しこぼれたが成功。
「できた!」
「さっきより全然いいね」
「だろ!」
「水でもできるじゃん」
「……まあな」
少し嬉しそうだ。
次はセシリア。
水属性は明確な適性がある。
右手を向けると、水は滑らかに持ち上がった。
指定線。
ほぼぴったり。
そのまま隣へ。
着水。
ほとんど跳ねない。
「上手い」
ダンが素直に言う。
「ありがとうございます」
「もう一回やって」
担当教員に言われる。
二回目。
同じ量。
同じ速度。
着水も静か。
「安定しているな」
教員が頷く。
「ノアは水適性と制御の相性がいい。今後、治癒や生活補助系統へ進むなら、この精度は武器になる」
「はい!」
セシリアの返事が少しだけ弾んだ。
昨日、母親のような人を助けられる魔法や魔導具を学びたいと言っていた。
自分が進みたい方向へ、初めて学院の授業が具体的に繋がったのかもしれない。
「次、僕」
ユリウスが前へ出る。
水は明確な適性に入っていない。
それでも浮かせるところまでは問題なくできた。
ただし。
遅い。
指定量へ合わせるまで、セシリアの倍近い時間がかかる。
「時間かかるな」
ダンが言う。
「分かってる」
「でも量は合ってる」
シュウが器を見る。
「急ぐと崩れるから、今はこれでいい」
ユリウスはそのまま隣へ運ぶ。
着水。
成功。
「次は少し速くしてみろ」
教員に言われる。
「はい」
二回目。
速度を上げる。
指定量より少し多い。
ユリウスは一度止める。
減らす。
指定線。
運ぶ。
成功。
「火のときと同じだね」
シュウが言う。
「何が?」
「一回目で感覚を見て、二回目で直してる」
「普通じゃない?」
「たぶん、それが早いんだと思う」
ユリウスは少し考えたあと、自分の右手を見る。
「そうなのかな」
「そうだと思うよ」
次はエリオット。
「これはいける」
本人も少し自信があるらしい。
昨日の属性測定では水と風に明確な適性が出ている。
器へ手をかざす。
水が持ち上がる。
勢いよく。
「多い多い!」
シュウが思わず声を出す。
「分かってる!」
エリオットが慌てて魔力を弱める。
空中へ浮かんだ水の塊が揺れ、半分ほどが器へ戻った。
「今度は少ない!」
「調整してる!」
「落とさないでね!」
「喋りかけるな!」
必死だった。
それでも水は落ちない。
ゆっくり。
少しずつ。
指定された線に近い量まで調整する。
隣の器へ移動。
着水。
僅かに跳ねた水が机を濡らした。
「……できた」
エリオットが呆然と器を見る。
完璧ではない。
指定量より少し多い。
水も僅かにこぼした。
それでも途中で暴発させず、自分で量を調整して最後まで運んだ。
「できたじゃん」
シュウが笑う。
「できた」
エリオットも笑った。
その顔は、昨日測定前に制服の裾を握っていたときとはまるで違う。
「もう一回やる」
「いいね」
二回目。
最初から少し量を抑える。
今度は一度で指定量に近い。
移動。
着水。
一滴だけ机へ跳ねる。
「さっきよりいい!」
「うん」
三回目。
さらに安定した。
エリオットは器を見たまま、嬉しそうに息を吐いた。
「俺、制御苦手だけど……練習したら本当に変わるんだな」
「先生が言ってた通りだったね」
「昨日は、言われても半分くらいしか信じてなかった」
「そうなの?」
「だって何年も苦手だったから。入学試験でも失敗したし、測定でも跳ねたし、自分はずっとこうなんだと思ってた」
エリオットは自分の右手を開き、少し濡れた指先を見た。
「でも、さっき火を止められて、今も水を減らせた。まだ下手だけど、変えられないわけじゃないんだな」
すぐに得意になるわけではない。
明日になれば、また失敗するかもしれない。
それでも、変えられると一度でも実感できたことは大きいのだろう。
「じゃあ部屋でも練習する?」
シュウが聞く。
「やる」
「水はやめようね」
「何で?」
「部屋びしょびしょになったら困るから」
「じゃあ火?」
「もっと駄目でしょ!」
エリオットが笑った。
「冗談だよ。寮の練習場所、後で確認しよう」
「それなら付き合う」
「洗濯も教える」
「まだ交換条件なんだ」
「そこは大事」
周囲から小さな笑いが起きた。
最後はシュウの番だった。
水槽の前へ立ち、器の中を見る。
水属性には明確な適性がある。
基本的な操作もできる。
それでも、今度は最初から「できる」と決めつけないようにした。
必要な量。
必要な高さ。
必要な速度。
そこまで意識して、水を浮かせる。
指定線まで。
隣へ移す。
静かに落とす。
ほとんど水滴を散らさず成功した。
「よし」
小さく息を吐く。
「アルヴェイン」
ガルドが呼ぶ。
「はい」
「今のは悪くない。もう一度」
「はい」
「ただし次は、半分の時間でやれ」
難易度が上がった。
シュウは器を見る。
「分かりました」
今度は速度も意識する。
浮かせる。
移す。
落とす。
少しだけ水が跳ねた。
「速さを優先して最後が雑になったな」
「はい」
「三回目。今度は最初と同じ速度でいい。ただし水量を半分にしろ」
「はい」
条件が変わる。
同じ魔法なのに、同じ水なのに、要求されることが一つ変わるだけで意識しなければならない部分も変わる。
シュウは自然と笑っていた。
強力な魔法を撃つわけではない。
派手な戦闘もない。
それなのに、もっとやってみたいと思う。
「楽しそうだな」
ガルドに言われた。
「え?」
「顔だ」
「あ……はい。面白いです」
「なら覚えておけ。基礎を面白がれるうちは伸びる」
ガルドはそれだけ言うと、次の学生のところへ移った。
シュウは水の入った器へ視線を戻した。
基礎。
普通。
昨日までなら、自分が持っている規格外の力と比べれば、地味なものだと思っていたかもしれない。
だが今は違う。
普通の魔法にも、できていないことがある。
知らないことがある。
上手くなれる余地がある。
そして、それはシュウだけではない。
ダンにはダンの得意と苦手があり、セシリアには目指したい使い方がある。ユリウスは自分の感覚を確かめながら修正し、エリオットは苦手だと思っていた制御へ少しずつ手応えを掴み始めている。
同じ授業を受けても。
同じ魔法を使っても。
全員が違う。
それが、思っていた以上に楽しかった。
◇
授業終了の鐘が鳴るころには、実技場のあちこちから安堵の声が上がった。
大きな魔法を使ったわけではないのに、集中し続けたせいか、シュウも軽い疲労を感じている。エリオットは右手を何度も開いたり閉じたりして自分の感覚を確かめ、ダンは小さな火を出すときの魔力量を忘れないよう、何度も空中で指を動かしていた。
セシリアは配布された実技記録用紙へ自分の結果を書き込み、ユリウスは火、水、風、土で感じた違いを短い言葉で書き留めている。
「今日はここまでだ」
ガルドが学生たちを集める。
「最初に言ったことを忘れるな。同じ火を三回出す。同じ量の水を三回運ぶ。言葉にすれば簡単だが、毎回同じ結果を出すには技術がいる」
学生たちは静かに聞いている。
授業開始時には標的へ攻撃魔法を撃ちたそうにしていた者たちも、今は少し表情が違っていた。
「次回からは今日の内容に加えて、属性ごとの基礎操作も始める。適性のある属性だけでなく、適性の低い属性にも触れてもらう予定だ。得意を伸ばすことも大事だが、苦手なものを知ることも同じくらい大事だからな」
ダンが少しだけ残念そうな顔をする。
どうやら次回も標的を吹き飛ばす授業ではなさそうだ。
「なお、寮の部屋や講義室で勝手に練習するな。練習用の区画は別に用意されている。特に火属性を部屋で試した者は、俺のところへ連れてこられる前に寮監から絞られると思え」
エリオットが無言でシュウを見る。
シュウも見る。
「やっぱり水も練習場でやろう」
「うん」
「今、部屋でやろうとしてたのか?」
近くにいたフィンが笑った。
「やらないよ。候補に出ただけ」
「候補に出る時点で危ないだろ」
「俺じゃなくてエリオットが水って言ったんだよ」
「シュウが火って言っただろ」
「あれは駄目な例として言ったの!」
そんな話をしているうちに解散の指示が出た。
学生たちが出口へ向かい始める。
「腹減った!」
ダンの第一声がそれだった。
「さっき朝食を食べたばかりではありませんか?」
「実技やったから減った!」
「《微灯》でそこまで消耗したんですか?」
「集中すると腹減るんだよ!」
セシリアは呆れているが、シュウにも少し分かる。
まだ昼食には早い。
次の授業もある。
「次、何だっけ?」
シュウが時間割を出そうとすると、エリオットが先に答えた。
「二組と三組は別。三組は一般教養で、二組は王国史だったはず」
「覚えてるの?」
「だから昨日三回確認したって言っただろ」
「頼りになるなあ」
「迷子になりたくないだけだけど」
ダンとセシリアとはここで一度別れることになる。
「昼はいつものところでいいか?」
ダンが尋ねる。
「食堂?」
「混んでなかったら」
「昨日はかなり混んでいましたよ」
セシリアが少し困った顔をする。
「なら中央広場で合流してから考えよう」
シュウが提案すると、全員が頷いた。
「じゃあ後でな!」
「また後ほど」
ダンとセシリアが二組の次の教室へ向かう。
シュウ、エリオット、ユリウスは三組の授業へ向かうため、中央講義棟へ戻る道を歩き始めた。
「ユリウス、火の練習もう少しやりたい?」
シュウが聞く。
「やりたい。風と土も」
「全部じゃん」
「比較したいから」
「やっぱり図書館も行く?」
「行く」
「練習区画は?」
「行く」
「忙しいね」
「学院に来たから」
短い答えだった。
けれど、ユリウスの足取りは少し軽い。
「エリオットは?」
「俺は制御練習。今日できた感覚を忘れたくない」
「じゃあ放課後、練習区画見に行こうか」
「うん」
シュウも頷く。
朝から続いていた妙な高揚感が、まだ消えていない。
昨日までは、学院で自分の秘密がどう見つかるかを心配していた。
測定器が漆黒魔力を拾うのか。
アルカディアが見つかるのか。
五属性をどう見られるのか。
実際、分からない反応は出た。
教師にも自分の黒い魔力を見せた。
調べる話まで始まった。
それなのに今、シュウの頭の中で一番大きいのは、その不安ではなかった。
同じ大きさの火を三回。
指定された量の水を運ぶ。
たったそれだけのことが、思っていたより難しくて、面白かった。
そして同じ課題をやっても、ダンは大きな火を小さく抑えることに苦戦し、セシリアは細かな制御を安定させ、ユリウスは苦手な属性の感覚を言葉にして修正し、エリオットは不安定だった魔力を少しずつ自分で止められるようになった。
昨日の測定結果だけでは分からなかった四人の違いが、少し見えた気がする。
自分は魔法を使える。
十七年間そう思ってきたし、実際に使ってきた。
けれど、使えることと、使いこなせることは違うのだろう。
学院へ来てまだ間もないのに、知らなかったことが次々に増えていく。それは以前なら不安につながったかもしれないが、今はむしろ、その先にまだ学べるものがあるのだと思えるようになっていた。
《マスター》
『うん?』
《本日の基礎実技について、一点申し上げてもよろしいでしょうか》
『いいよ』
《先ほどの水操作、二回目は着水時に約三パーセント多く飛散していました》
『……先生にも言われたよ』
《改善余地があります》
『分かってるって』
《なお、三回目は良好でした》
シュウは歩きながら、僅かに口元を緩めた。
『褒めるなら最初からそっち言ってよ』
《改善点を先に提示する方が効率的かと》
『そういうところ、兄さんにちょっと似てきたな』
返事が来ない。
ただ、以前ならすぐに否定か分析が返ってきたような気もして、シュウは少しだけ首を傾げた。
『アルカディア?』
《……比較対象について検討していました》
『そこ真面目に考えるんだ』
思わず笑いそうになり、慌てて口元を押さえる。
「どうした?」
エリオットがこちらを見る。
「何でもない」
「また?」
「本当に何でもないよ。今日は声に出してないでしょ」
「それはそうだけど、急に笑うのも結構怪しいぞ」
「気をつけます……」
まだ疑わしそうな視線を向けられたが、少なくとも独り言は口にしていない。それだけでも少しは成長しているはずだと、自分に言い聞かせておく。
窓の向こうでは、春の青空の下に学院の建物がいくつも並んでいた。
まだ入ったことのない教室がある。
知らない魔法がある。
図書館には十二万冊近い本があり、その中には北の森へ繋がるかもしれない古い記録も、自分の奇妙な魔力を考える手掛かりになる本も眠っているかもしれない。
けれど、何も特別な資料ばかりを追う必要はない。
普通の授業の中にさえ、自分が知らなかったことはいくらでもあった。
「次の授業も面白いといいな」
シュウが何気なく口にすると、エリオットが頷いた。
「俺は今日の実技、もう一回やりたい」
「放課後、練習区画見に行こう」
「行く」
「僕も行っていい?」
ユリウスが会話へ入る。
「もちろん。」
「図書館は?」
「その後」
「やっぱり行くんだ」
「本も読みたいから」
ユリウスは当然のことのように答え、そのまま中央講義棟へ続く廊下を歩いていく。エリオットも放課後の練習について考え始めたらしく、どのくらい続ければ今日掴んだ感覚を忘れずに済むだろうかと、小さな声で呟いていた。
シュウはそんな二人の横を歩きながら、午前中の実技をもう一度思い返した。
派手な事件は起きていないし、強敵と戦ったわけでもない。新しい能力を選んだわけでもなければ、漆黒魔力を使う必要さえなかった。
それでも、今日覚えた小さな火と水の扱い方は、これまで使ってきた大きな力とは違う意味を持ち始めている。
強い力を持っているからこそ、細かなことを知らなくていいわけではない。むしろ、自分の力を本当に使いこなしたいなら、こうした小さな基礎を知っていることの方が大切なのかもしれなかった。
そして学院で学ぶのは、自分のことだけではない。
ダンは魔力量と火属性への適性に恵まれている一方、勢いが乗れば必要以上の力を出してしまう。セシリアは細かな制御を得意としていて、その技術を生活魔法や人を助けるための魔導具へ繋げようとしていた。
ユリウスは得意ではない属性でも、自分が何につまずいているのかを言葉にして修正していく。エリオットは長い間苦手だと思っていた魔力制御に、ほんの少しずつではあるものの確かな手応えを掴み始めていた。
同じ授業を受け、同じ課題へ挑んだだけなのに、四人ともまるで違う。
誰が一番強いのかではなく、誰が何を得意としていて、何を苦手としているのか。それを知っていくこともまた、ここへ来なければ得られなかったものなのだろう。
入学式で学院長が話していた「自分以外の人間を知れ」という言葉が、昨日よりほんの少しだけ分かった気がした。
「シュウ?」
隣から呼ばれ、シュウは顔を上げた。
「何?」
「また考え込んでた」
エリオットが少し笑っている。
「今日は色々あったから」
「まだ午前中だけどな」
「あ」
言われてみれば、その通りだった。
朝に基礎魔法理論を受け、そのあと実技を受けただけで、今日という日はまだ半分も終わっていない。昼食どころか、その前にもう一つ授業が残っている。
「学院って一日長いな……」
「昨日までが短かったんじゃない?」
ユリウスが言う。
「そうかな」
「入学式の日は式と測定と図書館。今日は朝から授業」
「そう言われると確かに」
学院へ来るまでの旅も、王都へ着いてからの日々も、シュウにとっては十分に濃かった。それでも「学生として一日を過ごす」というのは、それらとはまた違った密度があるらしい。
中央講義棟が近づくにつれ、別の実技場や教室から移動してきた学生たちが増えていく。廊下には次の授業の話をする声や、先ほどの実技で失敗したと笑い合う声が重なり、朝よりもずっと学院らしい賑わいが生まれていた。
「次は一般教養か」
シュウが時間割を確認する。
「魔法じゃないんだよね?」
「一般教養だからな」
エリオットが答えた。
「何やるんだろ」
「王国の制度とか、地理とか、その辺じゃない?」
「それなら領地で少し習ったけど……学院だと違うのかな」
「僕はそっちも楽しみ」
ユリウスが言う。
「やっぱり?」
「知らないことを教えてもらえるから」
迷いのない返事に、シュウは笑った。
「ユリウス、本当に学院向いてるね」
「シュウも楽しそうだった」
「俺?」
「実技のとき、ずっと」
自分ではそこまで顔に出していたつもりはなかった。
だがガルドにも同じことを言われたので、おそらく本当に分かりやすかったのだろう。
「……まあ、楽しかったよ」
素直に認めると、エリオットも頷いた。
「俺も。最初は嫌だったけど」
「制御だったから?」
「うん。でも今は、もう一回やりたい」
昨日まで苦手だからと避けたがっていたものを、自分からもう一度やりたいと言っている。その変化が何となく嬉しくて、シュウはエリオットの肩を軽く叩いた。
「じゃあ放課後、ちゃんと練習場所探そう」
「頼む」
「俺も自分の練習するけどね」
「シュウは何やるんだ?」
「まだ決めてない。今日やったのをもう一回やってもいいし、五属性のどれを中心にするかも少し考えたいかな」
図書館で読んだ本には、多属性適性者ほど学習対象を広げすぎて進歩が遅くなる場合があると書かれていた。基礎課程では一つか二つを中心に据え、残りを補助的に扱う方法が推奨されていたはずだ。
だからといって、今すぐ決める必要はない。
まだ最初の授業を受けただけなのだから、実際に色々な魔法へ触れてから考えても遅くはないだろう。
《妥当な判断です》
アルカディアが静かに告げる。
『珍しく普通に褒めた』
《私は常に適切な評価を行っています》
『さっき三パーセントの水まで指摘してきたのに?』
《三パーセントも事実です》
『はいはい』
今度は笑わないように気をつけた。
エリオットにまた怪しまれるのも困る。
三人で階段を上がり、三組の教室がある廊下へ入る。
窓から差し込む春の日差しの中を、同じ制服を着た学生たちが行き交っていた。少し前まで知らない場所だった学院の廊下も、昨日と今日で何度も歩いたせいか、ほんの少しだけ見慣れた景色になり始めている。
まだ入ったことのない教室がある。
知らない魔法がある。
図書館には十二万冊近い本があり、その中には北の森へ繋がるかもしれない古い記録も、自分の奇妙な魔力を考える手掛かりになる本も眠っているかもしれない。
けれど、何も特別なものばかりを追いかける必要はない。
同じ火を三回出すこと。
決められた量の水を運ぶこと。
そんな普通の授業の中にさえ、自分が知らなかったことはいくらでもあった。
シュウは教室の扉へ手を掛ける前に、隣を歩く二人へ目を向けた。
「次の授業も面白いといいな」
「寝なければ何でもいい」
エリオットが答える。
「一般教養も大事」
ユリウスは真面目だった。
「分かってるよ。俺もちゃんと受けるって」
笑いながら扉を開く。
王立魔法学院での最初の授業日は、まだ半分も終わっていなかった。




