第23話 初めての授業で、俺は自分の魔法を知らないと気づいた
王立魔法学院で迎える、最初の授業日の朝。
シュウが目を覚ましたとき、窓の外には既に薄い朝日が差し込んでいた。王都の朝はアルヴェイン領よりもずっと早く動き始めるらしく、遠くから荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえ、学院寮の廊下でも扉の開閉や足音が少しずつ増えている。
昨日は入学式から能力測定、その後は図書館まで一日中動き回ったため、身体には僅かな重さが残っていた。それでも眠気より先に、今日から本格的な授業が始まるという意識が浮かび、シュウは布団の中で天井を見ながら小さく息を吐いた。
「……授業か」
前世でも学校には通ったし、この世界でも家庭教師や父、兄から様々なことを教わってきた。しかし今日から始まるのは、数学でも国語でも領地経営の基礎でもなく、一限目から魔法について学ぶ学院生活である。
転生して十七年、この世界で魔法を使うこと自体にはとっくに慣れているはずなのに、「学校で魔法を勉強する」という状況には今さらながら妙な非現実感があった。前世の中学生だった自分が知れば、間違いなく目を輝かせたあと、頼んでもいない学院設定を何十頁も黒歴史ノートへ追加したことだろう。
《おはようございます、マスター》
『おはよう』
《現在時刻から逆算すると、あと十分程度は寝床で過ごしても遅刻する可能性は低いと判断します》
『起きるよ。初授業でギリギリは嫌だ』
《賢明です。なお、過去のマスターであれば「真に選ばれし者は鐘に起こされるのではない。世界が我を待つ」と――》
『朝からやめて』
寝起きに過去の自分から攻撃を受けたくない。シュウはアルカディアの続きを遮りながら布団を退け、まだ少し重い身体を起こした。
向かいのベッドを見ると、エリオットはまだ眠っていた。布団を肩まで被ったまま微動だにせず、枕元には昨夜読んでいた魔力制御の本が置かれているため、どうやら消灯直前まで読み続けていたらしい。
「エリオット、朝だよ」
「……起きてる」
少し間を置いて返事だけはあったものの、目は閉じたままである。シュウが制服へ着替え始めても起き上がる気配はなく、呼吸も先ほどまでとほとんど変わっていない。
「頭だけじゃなくて身体も起こして」
「もう少しで起きる……」
「それ、起きてない人が言うやつだから」
もう一度呼んでも、エリオットは布団の中で小さく唸っただけだった。シュウは制服の上着へ袖を通しながら少し考えたあと、窓へ近づいて鍵を外し、朝の冷えた空気が入る程度に隙間を開けた。
春とはいえ、早朝の風にはまだ冷たさが残っている。カーテンがふわりと膨らみ、その冷気が二つのベッドの間を抜けた瞬間、エリオットの布団が大きく動いた。
「寒っ!」
今度は一瞬だった。エリオットが勢いよく上半身を起こし、寝癖であちこち跳ねた髪のまま窓とシュウを交互に見る。
「何するんだよ!」
「起きた」
「もっと普通に起こしてくれよ!」
「二回呼んだよ。二回目は返事までしてた」
「聞こえてなかった」
「返事したのに?」
「寝てる俺が勝手に答えた」
「それは俺のせいじゃないでしょ」
エリオットは反論しようとして口を開いたものの、しばらく考えても良い言葉が浮かばなかったらしい。結局、諦めたように布団から足を出し、まだ眠そうな顔のまま制服へ手を伸ばした。
「明日は三回呼んで」
「二回で起きてよ」
「努力する」
「昨日の測定結果みたいになってるよ。起床、要訓練」
「じゃあ改善可能ってことだな」
「そこだけ前向きなんだ」
二人で笑いながら朝の準備を進める。昨日までなら一人で支度をしていたはずの時間に、同じ部屋で誰かが制服の襟を直したり、鞄の中身を確認したりしていることが、シュウにはまだ少しだけ新鮮だった。
筆記具と教本を鞄へ入れ、昨日図書館から借りた本は授業に必要ないため机へ置いておく。最後にシュウが薬の入った小袋へ触れて確認すると、意識の奥からすぐにアルカディアの声が届いた。
《確認を評価します》
『今日は忘れてないからね』
《はい。二日連続となれば、習慣化への期待値を僅かながら上方修正できます》
『薬を持っただけで評価が細かいんだよ』
返事は心の中だけに留めた。昨日エリオットから「たまに独り言を言う」と指摘されたばかりなので、学院生活が本格的に始まった以上、本当に気をつけなければならない。
◇
朝食を済ませて寮を出ると、学院は昨日とは少し違う顔を見せていた。
入学式の日には新入生の緊張や浮ついた空気が強かったが、今日は上級生も含めて多くの学生が決まった方向へ歩いている。教本を抱えた者、友人と話しながら講義棟へ急ぐ者、パンを片手に走りかけて監督職員から「廊下と中央路では走らないように」と注意される者までいて、学院全体が一つの大きな学校として動き始めたことを実感させた。
空はよく晴れており、朝日を受けた白い校舎の壁が眩しいほど明るく見える。中央広場では魔法噴水から浮かび上がった水球が一定の間隔で朝の光を反射し、その周囲を新入生と上級生が入り交じって行き交っていた。
「昨日より人が多く感じるな」
エリオットが鞄を肩へ掛け直しながら、学生たちの流れを見回した。
「授業が始まったからかな。昨日は入学式だったし、上級生はこっちまであまり来なかったのかも」
「一限は基礎魔法理論だったよな。第三講義棟の二階、二〇三号室」
「ちゃんと覚えてるじゃん」
「昨日、三回確認したからな。学院広すぎるし、初日から迷子になる方が嫌だ」
「緊張してる方向が俺と違うな」
エリオットは真顔で「迷ったら授業に出られないから」と返したが、その心配はシュウにも分からなくはない。
王立魔法学院は広い。中央講義棟だけではなく、複数の講義棟や実技場、測定棟、図書館、研究施設、医務棟、学生寮まで存在しており、昨日歩いた範囲だけでも相当なものだった。まだ足を踏み入れていない場所の方が多く、四年間通うことになる学院の全体像を、シュウはまだほとんど知らない。
「シュウ!」
中央広場へ差しかかったところで、朝の人波にも負けない聞き慣れ始めた声が飛んできた。
振り向けば、赤茶色の髪を揺らしながらダンがこちらへ走ってくる。その少し後ろをセシリアが普通の速度で歩いており、こちらに気づくと困ったように小さく手を上げた。
「おはよう!」
「おはよう。朝から元気だな」
エリオットが半ば呆れたように返すと、ダンは胸を張った。
「朝飯食ったからな!」
「それと元気なのって関係ある?」
「あるに決まってるだろ。食わないと動けない!」
「そこだけ聞くと正しいんだけどな……」
シュウが苦笑している間にセシリアも追いついた。息が切れるほどではないものの、ダンを追って少し歩調を速めていたらしく、胸元へ手を添えて一度呼吸を整えてから三人へ頭を下げる。
「おはようございます。すみません、ダンさんが皆さんを見つけた途端に走ってしまって」
「セシリアが謝ることじゃないよ」
「俺も謝ってないぞ」
「あなたは少し謝ってください。昨日、中央広場では周囲を見て移動するよう説明されていたでしょう」
「誰にもぶつかってないぞ?」
「ぶつからなければいいという話ではありません」
ダンが納得していない顔をする。昨日の図書館でも声量を注意されていたことを考えると、学院へ来てまだ二日目なのに、彼の中で守るべき注意事項だけが順調に増えている気がした。
「そういえばユリウスは?」
シュウが周囲を見回しても、いつもの黒髪は見当たらない。
「先に行きましたよ。図書館へ寄ってから授業へ向かうそうです」
「朝から図書館?」
エリオットが驚いて聞き返すと、セシリアは頷いた。
「昨日借りた本を一冊返すと言っていました」
「昨日借りたばっかりじゃなかった?」
「読み終わったそうです」
四人の間に短い沈黙が落ちた。
昨日の午後に借りた本を、もう読み終えた。図書館から戻って夕食を食べ、寮へ帰った時間を考えれば、かなりの速さである。
「ちゃんと寝たのかな」
シュウが呟くと、ダンが腕を組んだ。
「絶対、夕飯のあとずっと読んでただろ」
「ユリウスならありそう」
「後で聞いてみましょうか」
セシリアがそう言ったところで、ダンが何かを思い出したらしく、急にシュウへ身体を向けた。
「そうだ、シュウ。昨日の五属性のことなんだけどさ」
「朝からその話?」
「昨日の夜に考えたんだよ。全部使えるなら、俺と模擬戦するときめちゃくちゃ面白そうだなって!」
何を考えたのかと思えば、予想以上にダンらしい結論だった。エリオットは吹き出し、セシリアはまた始まったという顔で額へ指を添える。
「授業が始まってもいないのに、もう模擬戦の話してるの?」
「そのうちやるだろ! 学院なんだから!」
「やるでしょうけれど、まずは授業を受けてください。それにシュウさんは、五属性全てを同じように使えるとは限らないでしょう」
「そうなんだよね。火と風はそれなりに使ってきたけど、水や土は基礎が多いし、光も普通の灯りとか簡単なものが中心だから」
実際には《心装武器》の光形態や、つい先日まで選択していた《生命回帰》がある。しかし、それらは学院でいう通常の属性魔法とは明らかに違うため、五属性適性と同じ枠へ入れて考えるべきではないだろう。
「じゃあ火で勝負しよう!」
「どうして勝負する前提なの?」
「俺が火得意だから!」
「自分に有利な条件を選んでるじゃん」
エリオットの指摘に、ダンは悪びれもせず「得意なもので勝負するのは普通だろ」と言い切った。セシリアが「シュウさん、受けなくていいですよ」と真顔で言うので、シュウも笑いながら頷く。
「今のところ受ける予定ないから大丈夫」
「何でだよ!」
朝の中央広場にダンの声が響き、通り過ぎた上級生たちが何人か振り返って笑った。
学院生活二日目。シュウはまだ慣れないことばかりだったが、この騒がしさについてだけは、少しずつ日常になり始めている気がした。
◇
第三講義棟二〇三号室へ入ると、ユリウスは既に中央付近の席へ座っていた。昨日と同じように教本を開いており、周囲で新入生たちが賑やかに話していても、特に気にした様子はない。
「おはよう。図書館に寄ったんだって?」
シュウが声をかけると、ユリウスは教本から顔を上げた。
「おはよう。昨日借りた一冊を返してきた」
「本当に読み終わったんだ。ちゃんと寝た?」
「寝た」
そこへダンが身を乗り出す。
「何時間?」
「普通」
「普通って何時間だよ」
「ダンよりは長いと思う」
「何で俺基準なんだよ!」
ユリウスはそれ以上答える気がないらしく、再び教本へ視線を戻した。いつもの調子に安心しながら、シュウたちも近くの席へ座ろうとする。
そこでシュウは、当たり前のように一緒に入ってきたダンとセシリアを見て足を止めた。
「……あれ? 二人とも二組だよね?」
「そうだぞ」
「じゃあ何で三組の教室にいるの?」
「一限は二組と三組の合同授業だって、時間割に書いてあっただろ」
ダンに当然のように返され、今度はシュウが黙る番だった。隣でエリオットが「時間割見てなかったの?」と聞いてくるので、鞄から紙を取り出して確認する。
確かに、一年二組・三組合同。基礎魔法理論、第三講義棟二〇三号大講義室と書かれている。
「本当だ。教科しか見てなかった」
「俺でも教室まで見たのに」
「エリオットは迷子になるのが怖かったからでしょ」
「理由はどうでもいい。見たことが大事」
「昨日の夜、何してたんだよ」
ダンまで聞いてくるため、シュウは時間割を畳みながら答えた。
「家への手紙を書いて、そのあと図書館で借りた本を読んでた」
「真面目なのか抜けてるのか分かんねえな」
「ダンには言われたくない」
「何でだよ!」
また声が大きくなったところで、前方の扉が開いた。
教室に残っていた雑談が少しずつ小さくなる。入ってきたのは五十代ほどの男性で、灰色がかった髪を後ろへ撫でつけ、紺色の長いローブを着ていた。
手には分厚い教本を一冊だけ持っている。男性は教壇へ上がると教室全体をゆっくり見渡し、騒いでいた学生が自分から静かになるまで数秒待ってから口を開いた。
「席についてください」
大きな声ではない。それでも不思議と教室の奥までよく通り、立っていた学生たちも慌てることなくそれぞれの席へ戻っていく。
男性は持っていた教本を教卓へ置き、黒板へ名前を書いた。
「一年二組、三組合同の基礎魔法理論を担当する、グレイ・ハルバートです。最初に一つだけ言っておきますが、私の授業では魔法を上手く使える学生も、上手く使えない学生も、同じところから始めます」
教室のあちこちで僅かなざわめきが起こった。
「昨日、皆さんは基礎能力測定を受けたはずです。魔力量が高かった者、属性が多かった者、制御精度を評価された者もいるでしょう。反対に、魔力量が自分の期待より低かった者、適性属性が少なかった者、制御に課題があると書かれた者もいるはずです」
シュウは昨日受け取った簡易結果を思い出す。
基礎魔力量は高。魔力制御精度も高。五属性に明確な適性があり、闇だけは判定保留。
さらに、既存六属性分類と一致しない微弱反応を一時検出。再確認予定。
「昨日の結果は、あくまで皆さんの現在地点です。身分でもなければ才能の序列でもなく、ましてや四年後の卒業時にどうなっているかを決めるものでもありません」
グレイは黒板の中央へ、大きく一つの言葉を書いた。
――魔力。
「ここではまず、皆さんが普段当たり前のように使っているものが、そもそも何なのかを理解してもらいます。では質問です。魔力とは何ですか?」
教室が静まった。
一見すると簡単な質問なのに、いざ答えようとすると難しい。シュウも教本へ置いていた手を止め、頭の中で答えを探した。
魔法を使うための力。
身体の中にある力。
自然界にも存在するもの。
どれも間違ってはいない気がするが、それだけで「魔力とは何か」と聞かれると、急に自信がなくなる。
「答えられる人は?」
数人の手が上がった。
グレイが前方の女子学生を指すと、その学生は少し緊張した声で「魔法を発動するためのエネルギーです」と答えた。
「間違いではありません。他には?」
「生物の体内と自然界に存在する力です」
「それも正しい。他には?」
「術式へ流すことで、現象へ変換されるものです」
「良いでしょう」
グレイは三つの答えを黒板へ書き並べた。
エネルギー。体内と自然界。術式による変換。
「どれも正しい答えです。ただし、どれも魔力の全てを説明してはいません。現在、王国で一般的に採用されている魔法理論では、魔力を『意思や術式によって性質を変え、現象へ干渉できる力』と定義します」
学生たちのペンが一斉に動き始める。シュウもその文章を書き写しながら、家で受けてきた教育との違いを感じていた。
「重要なのは、魔力そのものと魔法現象を区別することです」
グレイが指先へ淡い光を灯す。教室の窓から朝日が入っているため目立つほど強い光ではないが、指の周囲に白い輝きが生まれたことは後ろの席からでも分かった。
「これは光です。しかし、私の体内へ最初から光そのものが入っていたわけではありません」
光が消え、同じ指先の周囲へ小さな風が巻いた。近くに置かれていた紙の端が僅かに揺れる。
「同じ魔力を、異なる性質へ変換しただけです。昨日の属性適性測定で複数属性が出た者もいるでしょうが、体内に火の魔力、水の魔力、風の魔力が別々に詰め込まれているという意味ではありません」
シュウのペンが一瞬止まった。
五属性。
昨日、自分に出た結果がある。
「基本的には一つの魔力を、どの性質へ変換しやすいか。それが属性適性です。もちろん、これにも例外は存在します」
グレイは風を消すと、教室の学生たちを見回した。
「特殊な血統魔法、先天的な魔力変質、契約による外部魔力、魔物由来の魔力器官、呪いや祝福による性質固定。魔法を学べば、例外はいくらでも出てきます」
その言葉に、シュウは無意識に背筋を伸ばした。
《マスター》
『うん。俺も聞いてる』
アルカディアも同じところへ意識を向けたらしい。
「だからこそ、基礎が必要です。例外を例外として理解するためには、まず普通を知らなければならない。今日から皆さんが学ぶのは、その『普通』です」
普通。
その言葉が、シュウの中へ妙に残った。
◇
授業は、シュウが思っていた以上に面白かった。
魔力は身体のどこに存在するのか。魔力経路とは何か、術式は何をしているのか、詠唱は必須なのか、属性適性と実際の習熟度はどう違うのか。
アルヴェイン領でも習った内容は多い。しかし家での教育は実践寄りで、火を出すなら魔力を集めて性質を変え、術式を維持して暴発させないことを重視していた。
父ローデリックや兄レイモンドは、実際に使えること、安全に扱えること、戦闘や生活の中で判断を誤らないことを重点的に教えてくれた。それに対して学院では、「なぜそうなるのか」「何が起きているのか」「失敗したなら、どの段階で崩れたのか」を理論と言葉にして整理していく。
同じ魔法を学んでいるのに、入口がまるで違う。
「では、ここで簡単な実験をしましょう」
授業が半ばまで進んだところで、グレイが教壇の下から透明な球体を取り出した。昨日の測定で使用した水晶とは違い、拳二つ分ほどの大きさがあり、内部には色も模様もない。
「これは魔力可視化球です。術式へ変換する前の魔力を流すと、その揺らぎを色と動きで視覚化します。今日は実技授業ではありませんから全員には行いませんが、何人か協力してもらいましょう」
学生たちが一斉に身を乗り出す。
その様子を見ながら、シュウは何となく嫌な予感がした。
「昨日の測定結果から、特徴の異なる学生をこちらで選んであります。一年二組、ダン・クレイ」
「はい!」
ダンが待っていましたとばかりに立ち上がった。
「一年三組、エリオット・ファーレン」
「は、はい」
対照的に、エリオットの声が少し硬くなる。
「同じく三組、シュウ・アルヴェイン」
「……はい」
やはり逃げられなかった。
周囲から一斉に視線が集まる中、エリオットが立ち上がりながらシュウへ顔を寄せた。
「何で俺?」
「たぶん制御の特徴じゃない?」
「それ、嫌な予感しかしないんだけど」
「失敗させるために呼ぶわけじゃないと思うよ。先生、さっきからずっと結果は現在地点だって言ってるし」
「そうだといいけど……」
三人は教壇の前へ移動した。
ダンは楽しそうで、エリオットは目に見えて緊張している。シュウも昨日の測定水晶に現れた黒い点を思い出し、表情には出さないまま右手の指を軽く握った。
『アルカディア』
《観測しています》
『何か変だったら教えて』
《承知しました。ただし、昨日とは対応を変更します。今回は明確な危険が生じない限り、マスターの許可なく外部干渉を遮断しません》
シュウは一瞬だけ返事を忘れた。
昨日の基礎魔力量測定では、測定器の探索魔力が通常の魔力経路より深い領域へ触れようとした瞬間、アルカディアがシュウの指示を待たず遮断した。属性測定で同じ現象が起きた際には、今度は「遮断しますか」と確認してきた。
そして今日は、事前に自分から対応方針を伝えてきた。
『……分かった。それでお願い』
《はい、マスター》
短い返事のあと、アルカディアは黙った。
「まずはクレイ君から」
「はい!」
ダンが可視化球へ右手を置く。
「通常魔力を少量だけ流してください。火へ変換しないように」
「分かりました」
ダンが魔力を流すと、透明だった球体の内部へ赤みを帯びた光が広がった。薄い赤色は中心から外側へゆっくり揺らぎ、炎そのものではないのに、どことなく熱を思わせる色合いをしている。
「おお、俺の魔力、赤い!」
本人が一番嬉しそうだった。
教室から笑いが起こる。
「これは火属性魔法ではありません。クレイ君は火属性への適性が強いため、通常状態でも魔力の揺らぎが火属性方向へ僅かに偏っているのです」
「やっぱり俺、火が得意なんですね!」
「昨日の測定結果にも書いてあったはずですが」
「あ、はい」
「それから、色そのものに優劣はありません」
「……はい」
嬉しそうな顔をした瞬間に釘を刺され、また笑いが広がった。ダン自身も照れたように頭を掻きながら席へ戻っていく。
「次、ファーレン君」
「はい」
エリオットが前へ出た。
右手を球体へ置き、ゆっくり魔力を流す。内部へ現れたのは青と緑の中間のような光で、色そのものは穏やかだったが、ダンのときとは違って明るさが一定にならなかった。
弱くなったかと思えば急に強くなり、また弱くなる。エリオット自身もそれに気づいたらしく、唇を結んで球体を見つめていた。
「これが昨日の制御測定でも確認された、ファーレン君の現在の特徴です」
グレイの声は穏やかだった。
それでも自分の苦手な部分を大勢の前で見せることになったエリオットの肩は、僅かに硬くなっている。
「ファーレン君。今、少し恥ずかしいですか?」
「……はい。少し」
正直に答えたエリオットへ、グレイは「そうでしょう」と頷いた。
「ですが、皆さんもよく見てください。魔力そのものは十分にあり、属性傾向も明確です。現在の課題は、供給量を一定に保つことが難しい。それだけです」
グレイはあえて「それだけ」と言った。
「これは訓練できます。私はファーレン君の欠点を皆さんへ見せるために呼んだのではありません。どこを訓練すれば変わるのかを、本人にも周囲にも目で見てもらうために呼びました」
エリオットが顔を上げる。
「もう一度やってみましょう。今度は球体の色を気にせず、自分の手から出ていく魔力の量だけを意識してください」
「……はい」
エリオットは一度深く息を吸い、肩の力を抜いてから再び魔力を流した。
青緑の光はまだ揺れている。しかし先ほどよりも明るさの変化は小さく、急激に強くなる回数も減っていた。
「今のでいい。今日一回で直す必要はありません。今の一度だけでも、意識によって変化することが確認できました。自分で変えられるものだと知ることが、最初の一歩です」
「はい」
エリオットの返事は、最初より少し強かった。
席へ戻る途中でシュウとすれ違う。その瞬間だけ、エリオットは周囲に聞こえない程度の声で「頑張れ」と言った。
「うん」
シュウも小さく頷き、可視化球の前へ立った。
「シュウ・アルヴェイン君。昨日の測定では、火・水・風・土・光の五属性に明確な適性が確認されています」
教室が少しざわついた。
三組では昨日の測定後に話題になっていたため知っている者も多いが、合同授業の二組には初めて聞いた学生もいるらしい。「五つ?」「多いな」と小さな声が聞こえ、ダンはなぜか自分のことのように得意そうな顔をしている。
「さらに二度の測定で、既存六属性に分類できない微弱反応が記録されています。ただし、今日はその正体を調べる授業ではありません。多属性適性者の通常魔力が可視化球でどう見えるか、それだけを確認します」
シュウは少しだけ肩の力を抜いた。
「手を置いてください」
「はい」
透明な球体へ右手を置く。
昨日の測定水晶とは違い、触れても特に冷たくない。
『アルカディア』
《装置から対象内部へ侵入する探索術式は確認できません。供給された魔力を外部で可視化するだけの構造です》
『じゃあ普通に流して大丈夫そうだね』
《はい》
「少量で構いません。普段の魔力をそのまま流してください」
シュウは意識を集中した。
漆黒魔力ではない。アルカディアが現れる前から使ってきた、父に教わり、兄と何度も練習してきた、この世界で十七年間育ててきた自分自身の通常魔力。
右手からゆっくり流し込むと、透明だった球体の中央へ白に近い淡い光が生まれた。そこから赤、青、緑、黄色、さらに僅かな白金色が広がり、互いに完全には混ざらないまま、薄い布を水の中へ垂らしたようにゆっくりと揺れていく。
「……きれい」
前方のどこかから、小さな声が聞こえた。
シュウ自身も思わず見入っていた。自分の魔力を、こんな形で目にしたことはない。
「これが多属性適性者に比較的よく見られる魔力揺らぎです。複数の性質へ変換しやすいため、通常状態での偏りが一方向へ固定されにくい。ただし、全ての多属性適性者が同じ反応になるわけではなく、複数適性があっても主属性が強ければ一色が目立つこともあります」
グレイの説明を聞きながら、シュウは球体の中を流れる五色を眺めていた。
綺麗だと思う。それと同時に、不思議でもあった。
漆黒魔力はここには現れていない。
自分の中には確かに存在しているのに、今流している通常魔力へ混ざることもなければ、闇属性を示すような反応もない。昨日の測定器が通常魔力経路より深い領域へ触れようとしたときにだけ、初めて別の反応が現れた。
「アルヴェイン君。少しだけ供給量を増やせますか?」
昨日の出来事を思い出し、シュウの指先に僅かな緊張が走った。
『アルカディア、大丈夫?』
《問題ありません。現時点で異常な干渉は確認していません》
「はい」
魔力量を少し増やす。
球体の中で五色の光が強くなったものの、それ以外には何も起こらなかった。黒い点も現れず、水晶が砕けることもなく、ただ綺麗な色が先ほどより明るく揺れている。
「十分です。止めてください」
シュウは魔力の供給を切った。球体に残っていた色彩がゆっくり薄れ、やがて元の透明な状態へ戻っていく。
何も起きなかった。
昨日の黒い点も出ず、ましてや中学時代の自分が書いた設定通りに測定器が砕け散ることもない。
『……よかった』
《何がでしょうか》
『昨日のあれを思い出してたんだよ』
《「凡百の器に我が深淵を量ること能わず。測定の水晶は真実を知った瞬間、自ら砕け散る」でしょうか》
『全文言わなくていいから!』
《幸い、今回も砕けませんでした》
『だから幸いって言うな。最初から砕ける可能性があったみたいになるだろ』
心の中で言い返しているうちに、危うく表情へ出そうになったらしい。グレイが不思議そうにこちらを見た。
「どうしました?」
「いえ、何でもありません」
「そうですか。協力ありがとうございました」
「はい」
席へ戻ると、隣へ座ったダンがすぐに顔を寄せてくる。
「すげえな、五色だったぞ」
「ダンの赤も分かりやすかったよ」
「だろ? やっぱ火だよな!」
自分の魔力が赤く見えたことが相当嬉しかったらしく、ダンは満足そうに頷いている。単純ではあるが、その分だけ他人と自分を比べて落ち込む様子もなく、シュウは少し笑った。
◇
三人が席へ戻ったあと、グレイは再び黒板の前へ立った。
「今見てもらった通り、魔力には個人差があります。しかし、今日覚えてほしいのは、誰の色が綺麗だったとか、誰の魔力が安定していたということではありません」
黒板へ三本の線を描く。
一つは太く、もう一つは上下へ揺れ、最後の一つは途中から複数へ枝分かれしている。その先へグレイは一つの円を描き、中央に『術式』と書いた。
「魔力量が多くても、術式へ適切に流せなければ現象は安定しません。制御が優れていても、術式そのものを理解していなければ応用できない。属性適性が多くても、それぞれを学ばなければ使える魔法は増えません」
シュウはその言葉をノートへ書き込む。
「そして逆もあります。魔力量が少なくても、効率の良い術式と高い制御技術によって優れた魔法を使う者は存在します。だから学院では、測定結果だけを見て自分や他人の将来を決めつけないでください」
昨日の学院長も、測定を担当した教員たちも、似たことを言っていた。
数字が高いことそのものに意味がないわけではない。しかし、大切なのはどう扱うかだ。
「では次に、術式とは何でしょう」
グレイが問いかける。
シュウもノートの上でペンを止めた。
魔力を現象へ変換するもの。道筋。命令。形。
いくつかの言葉が頭へ浮かび、考えているうちに小さく声が漏れた。
「魔力に、何をさせるか決めるもの……?」
「アルヴェイン君」
「はい?」
「今の答えを、もう一度お願いします」
教室中の視線が集まり、シュウは自分が声に出していたことへ遅れて気づいた。
「えっと……魔力に何をさせるか決めるもの、でしょうか」
「かなり大雑把ですが、本質には近い答えです」
グレイは黒板へ『指示』『構造』『変換』と三つの言葉を書いた。
「術式は、魔力へ目的を与える構造です。火へ変えろ、水を動かせ、空気を押せ、物体を浮かせろ、傷口を塞げ、光を曲げろ。複雑な魔法になるほど、その指示も複雑になります」
傷口を塞げ。
その一言で、シュウの頭へ《生命回帰》が浮かんだ。
――失われしものよ、命ある限り本来の姿へ還れ。傷も穢れも我が前に留まることを許さない――《生命回帰》。
これまでシュウは、生命回帰を「生きている者を完全な状態へ戻す能力」として理解していた。傷だけではなく、骨折や内臓損傷、毒、病気、呪い、汚染、失われた部位、魔力の枯渇まで対象にできる一方、死者だけは蘇らせられない。
それが能力の仕様であり、実際にディーンやミナ、ガレス、エドガーを救った。
だが、学院で習ったばかりの理論へ当てはめてみると、急におかしさが見えてくる。
普通の治癒魔法なら、傷口を塞ぐための術式、骨を修復するための術式、毒を処理するための術式など、それぞれに魔力へ何をさせるのかという指示が必要になるはずだ。
生命回帰は違う。
対象を本来の姿へ還す。
たったそれだけの大きな命令で、まるで途中の過程そのものを飛び越えるように、あらゆる異常を正常な状態へ戻してしまう。
「……考えてみると、無茶苦茶だな」
今度は先ほどより注意して小さく呟いたつもりだったが、隣のエリオットには聞こえたらしい。
「何が?」
「いや、ちょっと自分が知ってる魔法を思い出してただけ」
「授業で習ったのと違う?」
「……かなり違う気がする」
詳しく説明するわけにはいかないため、シュウはそこで言葉を切った。
『アルカディア。生命回帰って、学院の理論で考えるとどうなってるの?』
《回答には詳細な解析が必要です》
『アルカディアでも、すぐには説明できない?』
《能力仕様としての動作原理は把握しております。しかし、この世界で一般化されている魔法理論へ変換し、通常術式との比較として説明する場合、単一の治癒術式として扱うことは困難でしょう》
『だよね……』
これまでシュウは、使えるから使っていた。
黒歴史ノートに書いた能力だから、現実になった力だから。それで済ませていた。
しかし学院へ来て、普通の魔法を理論として学び始めた途端、自分が持っている規格外の力の方が分からなくなってくる。
生命回帰だけではない。
漆黒魔力も、心装武器も、まだ選んだことのない能力も、この世界の魔法理論へ当てはめたときに何として扱われるのか、シュウは何一つ知らない。
それは昨日までなら、あまり気にしていなかったことだった。
◇
一限目の終了を知らせる鐘が鳴ると、教室を覆っていた緊張が一気に緩んだ。学生たちは固くなった肩を回したり、隣同士で授業の感想を話したりし始め、グレイは次回までに教本の指定範囲を読んでおくよう告げた。
「面白かった!」
真っ先に声を上げたのはダンだった。
エリオットが少し意外そうに彼を見る。
「ダン、座学嫌いそうなのに」
「何でだよ! 俺だって魔法の話ならちゃんと聞くぞ!」
「途中で少し眠そうでしたけど」
セシリアが静かに指摘すると、ダンは一瞬言葉を詰まらせた。
「あれは一瞬だけだ!」
「見ていた限り、一瞬よりは長かったですよ」
「セシリア、授業中に俺見てたのか?」
「隣に座っていれば嫌でも視界に入ります」
特に深い意味もなく返され、ダンが微妙な顔になる。シュウは笑いながら教本を閉じ、その向こうで既にノートを見返しているユリウスへ声をかけた。
「ユリウスはどうだった?」
「面白い。属性変換のところ、もう少し詳しく読みたい」
「図書館?」
「行きたいけど、次も授業だから無理」
「今日ずっとそれ言いそうだね」
「たぶん」
ユリウスは否定しなかった。
シュウ自身も、今すぐ図書館へ行きたい気持ちはある。魔力、術式、特殊な魔力、生命回帰、漆黒魔力、心装武器について、知りたいことが一気に増えてしまった。
だが学院生活は始まったばかりであり、一つの疑問を見つけたからといって、今日一日で答えまで見つける必要はない。
「シュウ、次は基礎魔法実技だよ」
エリオットに言われ、シュウは時間割を取り出した。
「もう実技なんだ」
「第二実技場。中央広場の反対側だから、そろそろ移動した方がいい」
「あれ、結構遠くない?」
「だから朝、教室まで確認したんだよ」
「迷子対策が役に立ってる……」
「馬鹿にしてただろ」
「してないって」
教本とノートを鞄へしまい、シュウも席を立った。
そのとき、教壇の方から声がかかる。
「アルヴェイン君。少しだけいいですか」
シュウは動きを止めた。
グレイが教卓の上へ資料を広げたまま、こちらを見ている。
「はい」
何の話なのかは、何となく想像できた。
昨日の測定結果。
特に、二度出た分類不能の反応だろう。
「俺たち先に行ってる?」
ダンが聞いたが、エリオットは少し考えて首を振った。
「外で待ってよう。遅れそうなら先に行けばいいし」
「分かった。シュウ、長くなりそうなら言えよ」
「うん、ありがとう」
四人が教室を出ていくのを見送り、シュウは鞄を持ったまま教壇へ向かった。
「昨日の測定についてです」
予想通りだった。
「はい」
「先ほど授業中にも触れましたが、君には六属性分類と一致しない反応が出ています。担当教員からは、君自身にも黒い魔力を扱う自覚があると聞いています」
昨日、属性測定の担当教員へ話した内容が共有されている。学院で測定した以上、教員同士で必要な情報を共有するのは当然なのだろう。
「あります。ただ、学院でいう普通の闇属性と同じものなのかは、自分でも分かりません」
「実際に見せることはできますか?」
シュウはすぐには答えなかった。
漆黒魔力なら使える。選択能力とは違って常時扱える力であり、今ここでも小さな魔力球程度なら出せるだろう。
問題は、見せてもいいのかということだった。
『アルカディア、どう思う?』
《判断はマスターへ委ねます》
『ここで少し出すだけなら危険は?』
《現在の漆黒魔力を低出力で顕現するだけであれば、周囲への危険性は低いと判断します》
ならば、残るのは秘密の範囲をどこまでにするかだ。
「無理にとは言いません」
シュウが考えていることを別の意味に受け取ったのか、グレイが先に続けた。
「家系の秘術や個人的な事情で公開したくない魔法を、学院が強制的に開示させることはありません」
「……そうなんですか?」
「当然です。貴族家が代々継承している術式もあれば、職人家系が外部へ明かさない技法もある。精霊や魔物との契約に秘密を含む場合もあります。学院は学ぶ場所であって、入学した学生へ全ての秘密を捨てろと命じる場所ではありません」
シュウは右手へ視線を落とした。
アルカディアそのものは話さない。前世の黒歴史ノートだったことも、一日一つの選択能力という仕組みも、今ここで明かす必要はない。
だが漆黒魔力については、既に北の森で使っている。父も兄も、家の騎士たちも知っており、完全に誰にも見せていない秘密ではない。
何より、自分自身がこれを知りたいと思い始めていた。
「見せられます。ただ、自分でも何なのか分かってません」
「それで構いません。低出力であれば、ここで出せますか?」
「はい」
シュウは右手を開き、意識を集中した。
通常魔力ではなく、そのさらに奥へ沈んでいるような感覚を探る。アルカディアが現れた日から自分の中に存在し、意識すれば呼び出せる黒い力を、周囲へ影響しない程度に掌へ集めていく。
やがて手のひらの上に、小さな漆黒の魔力球が浮かんだ。
光を吸い込むような深い黒色をしているが、完全な暗闇ではない。表面には薄い紫色の揺らぎが走り、球体そのものがゆっくり脈打つように形を変えている。
グレイの目が僅かに細くなった。
驚いて後ずさることもなければ、興奮して近づくこともない。一定の距離を保ったまま、教師として観察するように魔力球を見つめている。
「闇属性魔法に見えますか?」
シュウが尋ねると、グレイは少し間を置いて答えた。
「見た目だけなら似ています。しかし、少なくとも私が知る通常の闇属性魔力とは違いますね」
「昨日の測定担当の先生も、同じような判断だったんでしょうか」
「記録を見る限りでは。ところで、この状態にするための術式は?」
「使ってません」
「無詠唱で構築したという意味ですか?」
「いえ。そもそも術式を組んでないです。出そうと思って魔力を出しているだけで」
そこで初めて、グレイの視線が魔力球からシュウの顔へ移った。
「何も?」
「はい。少なくとも、自分では術式を使っている感覚はありません」
「消すことは?」
「できます」
シュウが意識を切ると、漆黒の魔力球は音も残さず掌の上から消えた。
グレイはしばらく何も言わなかった。シュウも急かさず、先ほどまで魔力球が浮かんでいた自分の右手を見ながら待つ。
「アルヴェイン君。今の段階では、私はあれを『魔法』とは呼びません」
「え?」
予想していなかった答えに、シュウは顔を上げた。
「魔法じゃないんですか?」
「正確には、『既存の魔法体系に当てはめて魔法と断定するには情報が足りない』という意味です。先ほど君は、術式を使用していないと言いましたね」
「はい」
「それにもかかわらず、通常状態とは明らかに異なる性質の魔力を直接顕現している。先ほど授業で話した特殊な血統、先天的変質、契約、呪い、祝福などのどれに属するのか、あるいは別のものなのか、現状では判断できません」
グレイの口調はあくまで淡々としていた。
怖がられるわけでもない。だからといって、珍しい力だからと特別に持ち上げられることもない。
「だから、必要なら調べます」
「調べる……」
「君が望むなら、です」
シュウは少し驚いた。
「強制じゃないんですね」
「先ほど言ったでしょう。学院は学生から秘密を奪う場所ではありません」
グレイが僅かに笑う。
その言葉に、シュウの胸の奥で無意識に張っていたものが少しだけ緩んだ。
「ただし、自分で使う力について、自分自身が何も知らない状態を放置することは、教師として勧めません」
シュウはすぐには答えなかった。
その言葉は、今日の授業を受けたあとだからこそ重く感じられた。
漆黒魔力も、心装武器も、生命回帰も、その他のまだ選んだことすらない能力も、元を辿れば中学時代の自分が考えたものだ。強そうだから、格好いいと思ったから、他の能力よりもっと強くしたかったからと、当時の自分が際限なく設定を盛った。
現実になってからは、使えるなら使えばいいと思っていた。
北の森では、その力によって人を救うことができた。生命回帰がなければ助けられなかった者もいるし、漆黒魔力が戦うための力になった場面もある。
だからこそ、便利だからという理由だけで、分からないまま使い続けていいのか。
「……先生」
「はい」
「調べたいです」
自分でも驚くほど、はっきりと声が出た。
「俺、自分の魔力が何なのか知りたいです。全部を話せるかはまだ分からないですけど、それでも調べられるなら」
グレイはすぐに答えを急がず、シュウの顔を数秒見た。それから静かに頷く。
「それで十分です。ただし、急ぐ必要はありません。まずは通常授業を受けてください」
「普通の魔法からですか?」
「そうです。普通を知らなければ、自分がどこで普通と違うのかも分からないでしょう」
授業の最初に聞いた言葉だった。
例外を知るには、まず普通を知らなければならない。
今度は一般論ではなく、自分自身へ向けられた言葉として、その意味がよく分かった。
「はい。分かりました」
「それから、今日のところは今の黒い魔力を学院の測定器へ無理に流さないでください。調べるのであれば、専用の準備を整えてからにします」
「分かりました」
「詳細確認については、こちらから改めて連絡します。それまでは普段通り授業を受けて構いません」
今日だけで正体を決めない。
この場だけで全てを調べない。
その進め方に、シュウはむしろ安心した。
「ありがとうございます」
頭を下げると、グレイが壁の時計へ視線を向けた。
「次は基礎魔法実技だったはずですね。そろそろ行かないと遅れますよ」
「……あ」
シュウも時計を見る。
話している間に、休み時間はかなり減っていた。
「失礼します!」
慌てて鞄を持ち直して扉へ向かうと、背後からグレイの声が飛んでくる。
「廊下は走らないように」
「はい!」
返事をして教室を出た。
◇
廊下へ出ると、少し先の壁際で四人が待っていた。
「遅い!」
真っ先にダンが言った。
「ごめん。思ったより話が長くなった」
「次、実技場だぞ。走るか?」
「先生から廊下は走るなって言われたばっかり!」
「じゃあ早歩きだ!」
ダンが先頭へ出るが、勢いだけで曲がり角を間違えそうになり、すぐセシリアに制服の袖を掴まれた。
「そちらではありません。第二実技場は反対です」
「分かってた!」
「今、完全に曲がろうとしていましたよ」
「近道かもしれないだろ」
「行き止まりだと思う」
案内図を確認していたユリウスが淡々と告げ、ダンは何も言えなくなった。
五人は人の流れを邪魔しない程度に歩調を速め、中央広場へ向かう。窓から差し込む朝の光が長い廊下へ四角く落ち、次の授業へ移動する学生たちの足音が周囲に重なっていた。
「何の話だった?」
エリオットが隣へ並び、小さな声で聞いた。
「昨日の測定のこと。やっぱり、あの変な反応についてだった」
「大丈夫だった?」
エリオットの表情には、好奇心より心配の方が強く出ていた。
シュウは少しだけ考えてから頷く。
「大丈夫。ただ、自分の魔力について、もう少し調べてもらうことになりそう」
「先生と?」
「うん。でも今すぐじゃないって。まず普通の授業を受けろって言われた」
「そっか」
エリオットはそれ以上、詳しい内容を聞こうとはしなかった。昨日、シュウの属性測定で変わった反応が出たことは知っているが、無理に踏み込まず、話せる範囲だけを受け取ってくれる。
その距離感が、今のシュウにはありがたかった。
少し前を歩くダンは、次の実技で何をやるのかと楽しそうに話している。セシリアは「まだ基礎実技なのですから、いきなり模擬戦にはなりません」と何度も釘を刺し、ユリウスは歩きながら学院案内図と時間割を見比べていた。
そんな四人の後ろを歩きながら、シュウは一限目の授業を思い返す。
この世界で生まれて十七年、魔法はずっと身近にあった。父や兄に教わりながら通常魔法を覚え、アルカディアが現れてからは、それまでとは比較にならないほど強力で奇妙な力まで扱えるようになった。
けれど、使えることと理解していることは同じではない。
漆黒魔力が何なのか分からない。生命回帰が、この世界の魔法理論でどう説明できるのかも分からない。心装武器がなぜ六つの形態を持ち、一つの能力として成立しているのかも、今のシュウは「昔の自分がそう設定したから」としか説明できない。
昨日までなら、それでも困らなかった。
必要なときに使えて、人を助けられて、自分の身も守れる。それなら十分だと思っていた。
しかし今日、学院で初めて魔力そのものを学び、自分の普通の魔力を目で見て、教師から「自分の力を知らないままにすることは勧めない」と言われたことで、その考えが少し変わった。
知らないことは、少し怖い。
それでも同時に、知りたいとも思う。
前世の自分が勢いだけで書き散らした黒歴史が、どうしてこの世界で本物の力として成立しているのか。その答えまでは、まだ遥か先かもしれない。
今はまず、この世界の魔法を一つずつ知ればいい。
そうすれば、いつか自分の力がどこまで普通で、どこからがおかしいのかも見えてくるかもしれない。
「シュウ、見えたぞ!」
ダンの声に顔を上げる。
中央広場を抜けた先に、第二実技場の大きな建物が見えていた。朝日を受けた石造りの外壁の前では、既に同じ授業を受けるらしい新入生たちが集まり始めている。
「間に合いそうですね」
セシリアが時計を確認し、ほっとしたように息を吐いた。
「だから走らなくても大丈夫だっただろ」
「早歩きしたからだ!」
「最初に道を間違えかけた人が言わないでください」
「まだ言うのかよ!」
また始まった二人のやり取りに、エリオットが笑い、ユリウスも僅かに口元を緩める。
シュウも笑いながら鞄の肩紐を握り直した。
一限目を受けただけで、自分が知らないことは昨日より増えた気がする。
それなのに不思議と、嫌ではなかった。
分からないなら学べばいい。
王立魔法学院へ来たのは、そのためなのだから。
五人は次の授業を受ける学生たちの列へ混ざりながら、第二実技場の入口へ向かった。




