第22話
王立魔法学院の図書館へ足を踏み入れた瞬間、シュウは無意識に歩みを止めた。
外から見た時点でもかなり大きな建物だとは思っていたが、内部は想像していた以上だった。正面玄関から続く吹き抜けは三階まで届き、壁際には天井近くまで本棚が並んでいる。高い位置の本を取るためだろう、棚には細い梯子が取り付けられ、ところどころには閲覧用の机や長椅子が置かれていた。
夕方の柔らかな光が高窓から差し込み、宙を漂う細かな埃を照らしている。古い紙と革表紙、木製の棚が混ざった独特の匂いの中を学生たちが行き交っているものの、中央広場や食堂のような騒がしさはなく、聞こえてくるのは本をめくる音と抑えられた話し声ばかりだった。
「……でかい」
結局、口から出たのは先ほどと同じ言葉だった。
「さっきも言ってた」
隣でエリオットが笑う。
「外から見たのと、中に入ったのじゃ違うって」
「確かにこれは大きいですね」
セシリアも入口付近から奥を見渡していた。普段は落ち着いている彼女でさえ、次々と並ぶ本棚を追うように視線が動いている。
一方で、ユリウスだけは少し様子が違った。
目を見開いている。
普段から表情の変化が少ないユリウスが、明らかに驚いていた。
「ユリウス?」
「……すごい」
小さな声だった。
「珍しく分かりやすい反応だな」
ダンが面白そうに顔を覗き込む。
「何が?」
「いや、お前でもそんな顔するんだと思って」
「どんな顔?」
「本がいっぱいあって嬉しい顔」
「普通」
「普通じゃないだろ。いつもより目が開いてるぞ」
言われたユリウスは一度瞬きをしてから、ダンへ視線を向けた。何か言い返すのかと思ったが、そのまま再び奥の本棚を見る。
「本が多いから」
「認めた!」
「静かにしてください」
少し離れた受付から注意が飛んできた。
ダンの肩が跳ねる。
「……すみません」
今度はきちんと声を落とした。
シュウは笑いを堪えながら受付へ向かった。
入口正面には長い木製のカウンターがあり、その後ろにも大量の本が並んでいる。受付を担当しているのは学院職員らしい中年女性と、胸元へ図書委員を示す銀色の徽章を付けた上級生二人だった。
「一年生ですね?」
中年女性がシュウたちの制服を見て尋ねた。
「はい。今日入学したばかりです」
「それなら、まず学生証をお願いします。入学初日は貸出登録が必要になります」
五人はそれぞれ学生証を取り出した。
シュウが今朝受け取ったばかりのカードを差し出すと、職員はカウンターへ置かれた四角い魔導具の上へ学生証を載せた。薄い青色の光がカード表面を走り、少し遅れて魔導具の側面に小さな文字が浮かぶ。
「シュウ・アルヴェイン。一年三組ですね」
「はい」
「登録します。一般書架からの貸出は一度に五冊まで、期間は十四日です。返却期限を過ぎた場合は、新規貸出を一時停止することがあります」
「分かりました」
「閲覧だけなら冊数制限はありません。ただし、二階奥の研究資料区画と三階の特別書庫については別途許可が必要です」
シュウの耳が反応した。
「特別書庫?」
「古い史料や希少本、危険な魔法術式を含む資料などを保管しています。新入生が自由に入れる場所ではありませんので、今は気にしなくて結構ですよ」
「あ、はい」
あまり露骨に食いつくのも変だ。
シュウは頷いて学生証を受け取った。
《マスター》
『言わなくていい』
《まだ何も申し上げておりません》
『絶対、特別書庫に北の森関係あるかもとか言おうとしただろ』
《候補の一つとして記録することを推奨しようとしました》
『ほぼ同じだよ』
《否定はしません》
相変わらずだった。
ただし、今すぐ特別書庫へ行こうとは思わない。
そもそも許可が必要だ。
それに北の森については、家に残った父や兄たちも調べている。自分は学院で学びながら、手の届く範囲で情報を集めればいい。
「次の方」
職員に促され、シュウは横へ移動した。
エリオット、ユリウス、セシリア、最後にダンも登録を済ませる。
「五冊かあ」
ダンが学生証をしまいながら呟いた。
「少なくない?」
「二週間で五冊読めれば十分ではありませんか?」
セシリアが答える。
「いや、俺じゃなくてユリウス」
全員の視線がユリウスへ向いた。
ユリウスは真顔だった。
「少ない」
「やっぱり!?」
「必要なら返して借り直せばいい」
「そのための五冊制限でしょうね」
セシリアが苦笑する。
「とりあえず、どこから見る?」
エリオットが館内案内板へ近づいた。
一階は基礎魔法、一般教養、王国史、地理、文学、初級魔導技術。
二階は上級魔法理論、属性研究、魔法史、魔導具、錬金術、薬学、魔物学など。
三階は教員研究資料、希少資料、特別書庫。
その他、地下には大型資料と過年度の学院記録が保管されているらしいが、学生が自由に入れる区画ではない。
「魔力制御は……」
エリオットが案内板を指で追う。
「一階の基礎魔法かな」
「多属性は二階」
ユリウスは既に自分の目的地を見つけていた。
「生活魔法と魔導具も二階ですね」
セシリアが言う。
「俺は?」
ダンが尋ねる。
「知らないよ」
シュウが答えると、ダンは不満そうな顔をした。
「何かないの?」
「ダンが何を調べたいかでしょ」
「強くなるやつ」
「範囲が広すぎる」
「火魔法!」
「それなら属性研究では?」
セシリアが案内板の二階部分を指す。
「よし、二階!」
決断だけは早い。
シュウは自分の目的を考える。
五属性。
測定器の微弱反応。
アルカディア。
北の森。
白樹材。
古い封所。
魔法史。
興味があるものを挙げれば際限がない。
だが、今日は入学初日だ。
夕食までの時間も限られている。
「俺も二階かな」
「多属性?」
ユリウスが聞く。
「まずはそれ。あと魔法史の場所も見たい」
「なら途中まで同じ」
「じゃあ一緒に行こう」
自然にそう言った。
ユリウスも自然に頷く。
「うん」
シュウは一瞬だけ、そのやり取りを意識した。
旅の途中で会ったばかりの頃なら、同じ場所へ行くことになっても「じゃあ途中まで」と言っていただろう。
今は違う。
一緒に行こう。
その一言を、考えずに口へ出せるようになっている。
まだ出会って数日。
けれど、少なくとも。
友達と呼んでもいいくらいにはなってきたのかもしれない。
◇
二階へ続く階段は、吹き抜けを囲むように緩やかな曲線を描いていた。
階段を上る途中から一階の閲覧室を見下ろすことができ、夕方にもかかわらず多くの学生が机へ向かっている。中には何冊もの本を積み上げている者もいれば、数人で一冊の資料を囲み、小声で議論している者たちもいた。
「みんな勉強してるな」
ダンが手すり越しに下を見る。
「学院ですから」
「分かってるって。でも入学初日から図書館来る一年って、俺たち結構真面目じゃない?」
「ダンさんは皆さんについてきただけでは?」
「俺も火魔法の本探すって決めただろ!」
「決めたのは図書館へ来てからでしょう」
「今決めたなら同じ!」
セシリアは小さく息を吐いたが、口元は少し笑っていた。
二階へ上がると、一階よりさらに静かだった。
本棚へ付けられた分類札も専門的になる。
火属性魔法。
水属性魔法。
風属性魔法。
土属性魔法。
光属性魔法。
闇属性魔法。
複合属性。
魔力制御。
術式構築。
魔導工学。
生活魔法。
古代魔法史。
地方魔法史。
魔法災害史。
封印術史。
シュウの足が止まった。
「シュウ?」
エリオットが少し先から振り返る。
「あ、ごめん」
「何かあった?」
「いや」
シュウは棚の分類札へもう一度視線を向けた。
封印術史。
それだけで北の森と関係があるとは限らない。
むしろ王国中、あるいは世界中に封印術と呼ばれる技術は存在するだろう。
古いものを閉じ込める。
危険な魔物を封じる。
魔法を保管する。
立入禁止区域を作る。
用途はいくらでも考えられる。
だからこそ。
学ぶ価値はある。
「後で見たい棚があった」
「どこ?」
「封印術史」
隠す必要はない。
エリオットは少し首を傾げた。
「封印魔法に興味あるの?」
「領地でちょっと古い魔法に関係するものを見つけたから。詳しいことはまだ分からないんだけど」
「へえ」
エリオットはそれ以上踏み込まなかった。
「じゃあ後で行く?」
「今日は場所だけでも」
「分かった」
何気ない返事。
シュウは少しだけ安心した。
領地の北の森で起きたことを、学院で出会ったばかりの相手へ全て話すつもりはない。だが、何もかも隠し続ける必要もない。
自分の領地に古い魔法に関係するものがある。
それくらいなら、普通の話として伝えられる。
「俺はこっち」
ダンが火属性魔法の棚を指した。
「セシリアは?」
「生活魔法と魔導工学を見ます」
「私はこっち、俺はこっち、で全員バラバラになるな」
エリオットが笑う。
「図書館だから、それでいいんじゃない?」
シュウが言う。
「じゃあ夕方の鐘が鳴る前に、この階段のところで集合しよう」
セシリアの提案に全員が頷いた。
五人はそれぞれの棚へ散っていった。
◇
「多属性適性……こっち」
ユリウスは迷わなかった。
複合属性と適性研究の棚へ向かい、背表紙を一冊ずつ確認していく。
シュウも隣へ並んだ。
『多属性適性者の基礎訓練』
『属性適性と魔力経路』
『二属性複合術式入門』
『属性反応の強度差について』
『王国魔法学院における適性統計・過去三十年』
「最後の面白そう」
シュウが手を伸ばす。
厚い。
想像以上に厚い。
開いてみると、年度ごとの新入生の適性分布や属性ごとの割合が細かく記録されている。
「統計?」
ユリウスが横から覗く。
「うん。五属性ってどのくらいいるのかなと思って」
「索引」
「あ、本当だ」
巻末を見る。
属性適性数。
単一属性。
二属性。
三属性。
四属性。
五属性。
六属性。
「六もいるんだ」
「過去に、だと思う」
ユリウスが指差した。
シュウは該当ページを開く。
そこには過去三十年間の入学時測定における属性適性数がまとめられていた。細かな人数までは年度ごとに違うが、一属性と二属性が大半を占め、三属性になると数が減り、四属性以上は明らかに少ない。
五属性も。
いる。
非常に少ないが、前例がないわけではない。
「よかった……」
シュウは思わず息を吐いた。
「何が?」
「俺だけじゃない」
「三十年で何人かいる」
「十分だよ」
世界で自分だけ。
そんな結果ではない。
それだけでかなり安心する。
アルカディアという規格外の存在を抱えている以上、自分自身の通常魔力くらいは「珍しいけれど存在する範囲」に収まっていてほしい。
「六属性もいる」
ユリウスがページの下を指す。
「本当だ」
さらに少ない。
だが、記録されている。
「全部適性がある人もいるんだな」
「だから属性数だけで最強にはならない」
「先生が言ってた通りだね」
シュウはページをめくった。
適性数と卒業時成績に明確な比例関係はない。
むしろ多属性適性者は初期段階で学習対象を広げすぎ、各属性の習熟が遅れる例もある。そのため、基礎課程では主軸とする一つか二つの属性を定めつつ、他属性は補助的に学ぶことが推奨される。
「これ、借りようかな」
「いいと思う」
「一冊目」
「あと四冊」
「その数え方するとすぐ埋まりそう」
「だから五冊は少ない」
「ユリウス基準にしないで」
シュウは苦笑しながら本を抱えた。
そのとき、ユリウスが少し離れた棚へ移動した。
闇属性。
自分の適性が出たからだろう。
シュウも少し気になってついていく。
闇属性魔法については、アルヴェイン領でほとんど正式に学んでいない。一般的な属性魔法の一つだという知識はあるものの、自分の《漆黒魔力》がそれと同じなのか、これまでは深く考えたことがなかった。
「これ」
ユリウスが初級者向けらしい薄い本を抜く。
『闇属性魔法の基礎』
二人で開く。
最初に書かれていたのは、闇属性への一般的な誤解だった。
闇という名称から犯罪や呪術と結びつけられることがあるものの、属性そのものに善悪はない。光属性が必ずしも治癒や聖性だけを意味しないのと同様、闇属性も遮光、隠蔽、魔力吸収、影の操作など幅広い術式へ応用される。
「普通なんだな」
シュウが呟く。
「普通の属性」
ユリウスは気にしていない。
自分に闇適性があると分かっても、不安そうな様子はなかった。
「ユリウス、闇って出たときどう思った?」
「何で?」
「怖いとか、嫌だとか」
「別に」
本当に何とも思っていないらしい。
「使えるなら覚える」
「そっか」
「シュウは?」
「俺?」
「黒い魔力使うって言ってた」
属性測定のとき、担当教員へ説明した言葉を思い出す。
ユリウスはその場にはいなかったはずだ。
「いつ聞いたの?」
「さっきシュウが闇保留って言ったとき、黒い魔力の話も少ししてた」
「ああ……」
測定後の会話で、無意識に触れていたらしい。
「俺も、まだ分からない」
「じゃあ調べればいい」
ユリウスは本へ視線を戻した。
「分からないなら」
あまりにも単純だった。
でも。
その通りだ。
「ユリウスって、そういうところすごいよね」
「何が?」
「分からないことに対して、変に決めつけないところ」
ユリウスは少し考えた。
「分からないのに決めたら間違うから」
「うん」
「間違ってから直すの面倒」
「理由そこ?」
「大事」
シュウは笑った。
ユリウスらしい。
◇
闇属性の本を戻したあと、シュウは一人で魔法史の棚へ向かった。
ユリウスはもう少し闇属性を調べたいらしい。
棚の並びを辿る。
王国魔法史。
大陸魔法史。
古代術式。
失伝魔法。
封印術。
結界術。
特殊建築材料。
「……特殊建築材料?」
シュウの足が止まる。
北の森。
白樹材。
通常の木材の三倍近い費用を掛けて、百八十年ほど前に古い石室を覆うよう建てられた監視小屋。
その白樹材自体に、淡い魔力が残っていた。
『アルカディア』
《はい》
『これ、見てもいいよね』
《当然です》
『何か急に北の森ばっかり調べる感じになってない?』
《現在マスターが興味を示した資料を閲覧することと、学院生活を北部森林調査のみに費やすことは同義ではありません》
『まあ、そうだけど』
《むしろ、目の前に関連する可能性のある一般資料が存在するにもかかわらず、意図的に避ける必要はないと判断します》
「……それもそうか」
小さく口へ出てしまった。
近くにいた上級生が一瞬こちらを見る。
シュウは何でもないような顔をして棚へ向き直った。
危ない。
学院ではアルカディアへの返事を口に出さないようにしなければならない。
以前から何度もやっているのに、気が緩むと出る。
シュウは『特殊建築材料と魔力保持』という本を抜いた。
かなり古い。
表紙の角が擦れている。
目次を確認する。
魔力伝導木材。
結界用石材。
属性鉱石。
術式保持金属。
長期魔力保存素材。
そして。
樹木系魔力保持材。
ページをめくる。
いくつかの木材が載っている。
銀葉樹。
赤芯樹。
青霊木。
知らない名前が続く。
白樹。
指が止まった。
「……あった」
声を抑える。
項目は長くない。
白樹。
寒冷地域を中心に生育する白色樹皮の樹木。加工後も外部から与えられた魔力を長期間保持しやすく、結界設備や魔力安定化設備の補助材として古くから利用される。
希少性と加工難度から、現在では大規模施設への使用例は少ない。
シュウはゆっくり文章を読み直した。
外部から与えられた魔力を長期間保持する。
結界。
魔力安定化。
北の監視小屋で感じた淡い魔力。
百八十年近く経ってなお残っていたもの。
『アルカディア』
《記録します》
『これ、結構近くない?』
《既知情報との整合性は高いと判断します。ただし、北部森林の白樹材が本書に記載された素材と完全に同一であることは、現物比較を行わない限り確定できません》
『うん』
確定ではない。
でも。
一つ。
白樹材が使われた理由として考えられる情報が増えた。
監視小屋そのものを強くするためではない。
地下の何かへ作用する魔力を、長期間保持させるため。
あの淡い魔力が黒い液体を抑えていたこととも繋がる。
シュウは続きを読んだ。
白樹材自体が特定の属性を持つわけではない。
事前に刻まれた術式や注入された魔力の性質を維持する「器」に近い。
長期間利用する場合は、一定周期で魔力を補充する必要があるとされる。
「補充……」
そこが引っかかった。
北の監視小屋は。
誰が補充していた?
アルヴェイン家が代々管理していた。
エドワルド。
グレゴル。
アーネスト。
アルバート。
そして。
オスカーの代で知識が途切れた可能性が高い。
もし。
管理というのが、ただ小屋を見ることではなかったとしたら。
白樹材へ魔力を補充することも含まれていたのだとしたら。
『待って』
《はい》
『これ、父さんに伝えた方がいいかな』
《推奨します》
即答だった。
『でもまだ本に書いてある一般論だけだよ』
《それで十分です。確定情報としてではなく、「学院図書館の一般資料に白樹材の性質としてこのような記述があった」と伝達すれば、ロデリック様側で現地記録と照合できます》
『そっか』
次の手紙。
レイモンドへ伝えたいことが一つ増えたと思っていた。
魔力制御を褒められたこと。
それから。
父へ伝えることもできた。
白樹材。
シュウは本を閉じず、該当ページの位置を覚える。
借りる。
二冊目だ。
まだ夕食前なのに、既に五冊のうち二冊が埋まった。
「ユリウスのこと笑えないな……」
小さく呟く。
「何が?」
「うわっ!?」
すぐ横から声がして、シュウは本気で肩を跳ねさせた。
ユリウスが立っていた。
「いつからいたの!?」
「今」
「声かけてよ!」
「かけた」
「その前!」
「何で?」
「びっくりするから!」
ユリウスは少し首を傾げた。
「ごめん」
「いや、いいけど……」
心臓に悪い。
北の森について考え込んでいたせいで、近づいてくる気配に全く気づかなかった。
「それ借りる?」
ユリウスがシュウの本を見る。
「うん。領地で使われてた木材が載ってた」
「古い魔法の?」
「そう」
「見つかってよかった」
「まだちょっとだけだけどね」
それでも。
何もないよりずっといい。
◇
集合時間が近づき、シュウとユリウスが階段付近へ戻ると、既にエリオットが待っていた。
腕には三冊の本を抱えている。
「結構借りるね」
「魔力制御の入門と、魔力操作練習法と、初級術式構造」
「三冊」
「シュウは二冊?」
「今のところ」
「今のところって、もう集合時間だよ」
「それはそう」
少し遅れてセシリアも戻ってきた。
彼女が抱えているのは二冊。
『生活補助魔法の基礎』と『家庭用魔導具入門』。
「見つかった?」
シュウが尋ねると、セシリアは嬉しそうに頷いた。
「はい。思っていたよりたくさんありました。医療用の魔導具については専門区画に多いようですが、まずは基礎から読んでみます」
「よかったね」
「シュウさんも?」
「多属性と、領地で気になってた材料の本」
「皆さん、きちんと目的の本を見つけたのですね」
セシリアはそこで周囲を見回した。
「……ダンさんは?」
四人が黙る。
いない。
「火属性の棚」
ユリウスが言った。
「まだいるのかな」
「呼びに行く?」
エリオットが尋ねた直後。
「待った!」
遠くから抑えた声が聞こえた。
ダンが早足でやってくる。
走れば怒られると思ったらしく、妙に大股だ。
その腕には。
一冊。
「見つけた!」
得意げに本を掲げる。
「何の本?」
シュウが表紙を見る。
『実戦火炎魔法――威力を上げる前に覚える十のこと』
「意外と堅実!」
「何だよ意外って!」
「もっと『最強火炎魔法百選』みたいなの持ってくると思った」
「それもあった!」
「あったんだ……」
「でもこっちの最初に、『大火力を求める前に自分の魔力を燃やし切らない方法を覚えろ』って書いてあってさ」
ダンは少しだけ照れたように鼻の下を擦った。
「今日、測定で俺の魔力量は高いって出たけど、制御は普通だったから。だったら、先にこっちかなって」
シュウは目を瞬いた。
セシリアも少し驚いたようだった。
「ダンさん」
「何だよ」
「いえ」
セシリアの表情が柔らかくなる。
「とても良いと思います」
「だろ?」
「ただし、読まずに借りただけで満足しないでくださいね」
「読むよ!」
「最後まで?」
「読む!」
「本当に?」
「何で信用ないんだよ!」
また声が大きくなりかけ、五人全員が同時に口元へ指を立てた。
「静かに」
「……はい」
ダンは小さくなった。
シュウは笑いながら、自分の二冊を抱え直した。
少しずつ。
本当に少しずつ。
ダンのことも。
セシリアのことも。
ユリウスのことも。
エリオットのことも。
知っていく。
旅の途中で出会ったときには分からなかった部分が、学院へ来てから毎日のように増えていた。
◇
貸出手続きを終えて図書館を出ると、ちょうど夕方の鐘が鳴り始めた。
低く澄んだ音が学院内へ広がり、校舎の壁や塔の間で柔らかく反響する。北の森で聞いた「森底の鐘」とはまったく違う、時刻を知らせるための普通の鐘だった。
シュウは一瞬だけ足を止めたが、今度はすぐに違いを受け入れられた。
怖くはない。
隣には四人がいる。
「夕食!」
ダンが真っ先に反応した。
「本当に食事のことになると早いね」
エリオットが呆れる。
「昼から結構経ってるだろ!」
「午後ずっと測定して、その後は本を探していましたから、お腹が空くのは分かります」
セシリアがそう言った途端、ダンが勝ち誇った顔になる。
「ほら!」
「大声を出していいとは言っていません」
「そこまで言ってない!」
図書館前の階段を下りる。
空は夕焼けに染まり始めていた。
王都へ来て。
学院へ入り。
入学式を終え。
測定を受け。
図書館で本を借りた。
まだ授業は一度も受けていない。
それなのに。
「学院、面白いな」
シュウはぽつりと言った。
「まだ初日だぞ」
ダンが振り返る。
「初日だからじゃない?」
「明日から授業」
ユリウスが言う。
「そうなんだよな」
ダンが少しだけ顔をしかめた。
「何ですか、その顔は」
「授業は楽しみだけど、朝早いのがな」
「学院へ何をしに来たのですか」
「強くなるため!」
「なら起きてください」
「起こしてくれる?」
「嫌です」
「即答!?」
また笑いが起きる。
シュウもその中で笑った。
明日から授業が始まる。
どんな先生がいるのか。
どんな魔法を学ぶのか。
実技はどれほど難しいのか。
まだ何も知らない。
だから。
楽しみだった。
◇
夕食を終え、寮へ戻った頃には外はすっかり暗くなっていた。
廊下では同じ一年生たちが今日の測定結果について話している。魔力量が高かった、属性が一つしかなかった、制御で失敗した、基本術式がうまくできたと、あちこちの部屋から声が漏れていた。
シュウは自室へ入り、机の上へ借りてきた二冊を置いた。
エリオットも三冊を並べる。
「どれから読む?」
「制御」
即答だった。
「やっぱり?」
「今日、『要訓練』って書かれたから」
エリオットは結果用紙を机へ置いた。
昼間より、その文字を見る表情は明るい。
「嫌じゃなくなった?」
「嫌ではあるよ」
「あるんだ」
「そりゃ、できれば高って書かれたかった」
エリオットは苦笑した。
「でも、何を練習すればいいか分からないよりはいいかなって」
「うん」
「シュウが言った通りだった」
「俺?」
「苦手って分かった方が、教えてもらいやすいって」
昼食のとき。
確かにそう言った。
「俺も自分に返ってきたけどね」
「変な反応?」
「うん」
シュウは自分の結果用紙を広げた。
再確認予定。
その文字は残っている。
「怖い?」
エリオットが尋ねた。
昼食のときとは逆だった。
今度はシュウが聞かれる側だ。
「……少し」
素直に答える。
「でも、分からないから怖いだけだと思う」
「じゃあ分かればいい」
「ユリウスと同じこと言うね」
「本読んだら分かる?」
「それは分からない」
「じゃあ先生に聞く?」
「必要になったら」
「そっか」
エリオットはそれ以上聞かなかった。
シュウも助かった。
「先に風呂行く?」
「その前に」
シュウは鞄を開いた。
「薬」
「あ」
「忘れるところだった」
母から持たされた薬。
父から毎日飲むように言われ、ハンスにも旅の間ずっと確認されていたものだ。
《マスター》
『分かってるよ』
《まだ何も申し上げておりません》
『今日は先回りできた』
《成長を確認しました》
『薬飲むだけで成長扱いされる十七歳ってどうなの?』
《過去の実績を基準とした客観評価です》
『やめて』
水と一緒に薬を飲む。
エリオットが不思議そうに見ていた。
「何か言った?」
「いや、独り言」
「シュウ、たまに独り言言うよな」
心臓が僅かに跳ねる。
「……そう?」
「うん。でも小さいからよく聞こえない」
「癖かな」
「俺も勉強してるとき言う」
エリオットは気にしていない。
シュウは内心で息を吐いた。
『アルカディア』
《はい》
『学院では本当に気をつけよう』
《以前から推奨しております》
『俺が悪いみたいに言うなよ』
《実際に声へ出しているのはマスターです》
反論できなかった。
◇
風呂を終えたあと。
エリオットが早速魔力制御の本を読み始めた横で、シュウは『特殊建築材料と魔力保持』を開いた。
白樹。
もう一度読む。
魔力を長期間保持する。
結界設備。
魔力安定化。
定期的な補充。
シュウは便箋を取り出した。
家への二通目。
今日すぐ送るわけではない。
だが、忘れないうちに書いておきたい。
父さん、母さん、兄さんへ。
無事に入学式が終わりました。
同じクラスには、寮で同室になったエリオットがいます。
ミレアから王都まで一緒だったダンとセシリアは二組で、ユリウスは僕と同じ三組でした。
午後には魔力測定がありました。
魔力量と制御は高評価でした。
制御については、父さんと兄さんに教えてもらったことがちゃんと役に立っていると言われたようで、嬉しかったです。
そこまで書いて。
シュウは少し笑った。
アルカディアに言われたからではない。
自分で書きたいと思った。
兄へ。
ちゃんと伝えたい。
続ける。
属性は火、水、風、土、光の五つに適性がありました。
少し珍しいらしいですが、図書館で調べたら過去にも同じような人はいるそうです。
学院の図書館はものすごく大きいです。
今日だけで二冊借りました。
そして。
ペンが止まる。
北の森。
どこまで書く。
考えてから。
シュウは続けた。
父さんへ。
図書館の『特殊建築材料と魔力保持』という本に、白樹についての記載がありました。
そこでは、白樹材は加工後も外部から与えられた魔力を長期間保持しやすく、結界設備や魔力安定化設備の補助材として使われるとされています。
また、長期利用では一定周期で魔力補充が必要と書かれていました。
北の監視小屋で使われていた白樹材と同じものかは確認できません。
ただ、何か参考になるかもしれないので伝えます。
これでいい。
断定しない。
分かったことだけ。
その先は父や兄が現地の資料と照らし合わせればいい。
最後に。
明日から授業です。
楽しみです。
皆も元気で。
シュウ。
ペンを置いた。
「手紙?」
向かいからエリオットが聞く。
「うん。家に」
「もう二通目?」
「最初のはミレアから出したから」
「家族と仲いいんだな」
「うん」
シュウは迷わず頷いた。
「かなり」
「いいな」
エリオットの声に、ほんの少しだけ違う響きがあった。
シュウは顔を上げる。
だが、エリオットは既に本へ視線を戻している。
聞いていいのか。
分からない。
出会ってまだ二日目。
だから。
今は聞かなかった。
いつか話したくなったら。
そのとき聞けばいい。
シュウは手紙を折り、封筒へ入れた。
明日の朝。
学院の郵便窓口から出そう。
◇
消灯時刻が近づくと、二人は本を閉じた。
窓の外には王都の灯りが広がっている。
学院区の魔法灯。
遠くの商業区。
さらに向こうには、夜でも輪郭の分かる王城の塔。
アルヴェイン領の夜とは全く違う。
静かではない。
遠くから馬車の音もする。
鐘も鳴る。
人の気配が消えない。
それでも。
昨日より少しだけ、この景色が近く感じた。
「明日、一限何だっけ」
ベッドへ入ったエリオットが尋ねる。
「基礎魔法理論」
「朝から理論かあ」
「得意なんじゃないの?」
「得意と朝眠くないは別」
「それはそうだね」
「シュウ、起きてたら起こして」
「俺も寝てたら?」
「二人で遅刻」
「嫌だよ」
暗い部屋で笑い声が重なる。
しばらくして。
エリオットの声が小さくなった。
「シュウ」
「何?」
「今日、楽しかったな」
シュウは暗い天井を見る。
入学式。
新しいクラス。
食堂。
測定。
五属性。
謎の反応。
図書館。
白樹材。
友達と呼んでもいいかもしれない人たち。
全部まとめて。
「うん」
シュウは答えた。
「楽しかった」
「明日も?」
「たぶん」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
少しずつ部屋が静かになる。
シュウは目を閉じた。
『アルカディア』
《はい、マスター》
『今日、楽しかった?』
第十七話の夜にも。
似たことを聞いた。
あのときアルカディアは、少し間を置いて「はい」と答えた。
今夜は。
《はい》
間がなかった。
シュウは暗闇の中で目を開いた。
『即答だね』
《問題がありますか?》
『いや』
少しだけ笑う。
『ないよ』
《では、明日に備えて睡眠を推奨します》
『分かった』
《おやすみなさい、マスター》
『おやすみ、アルカディア』
返事はなかった。
けれど。
それで十分だった。
学院生活の初日が終わった。
分からないことは増えた。
学びたいことは、それ以上に増えた。
そして明日から。
ようやく本当の授業が始まる。




