第19話 入学式の前に、学院を歩いてみよう
中央広場の噴水を離れた五人は、セシリアが広げた学院案内図を頼りに西側へ向かった。
午後の日差しは春らしく柔らかく、石畳の両脇に植えられた木々の若葉を明るく透かしている。午前中まで目立っていた家族連れはかなり減り、代わりに寮への入居を終えたらしい新入生たちが、数人ずつ固まって学院内を歩く姿が増えていた。
「まず中央講義棟。その先に図書館ですね」
案内図から顔を上げたセシリアが、正面に見える大きな建物を指した。
王立魔法学院の本館ほどではないものの、中央講義棟もシュウがこれまで見た学校施設とは規模が違う。白灰色の石を積み上げた四階建ての建物には等間隔に大きな窓が並び、正面玄関の上には杖と本を組み合わせた学院章が掲げられていた。
「明日からここで授業するのかな」
シュウが建物を見上げると、隣を歩いていたエリオットも同じように首を反らした。
「全部ここってわけじゃないと思う。基礎魔法棟もあるし、実技は実技場だろうし」
「学級編成も明日だよね」
「寮監がそう言ってた」
「俺たち、同じクラスになるかな?」
エリオットが何気なく尋ねた瞬間、前を歩いていたダンが勢いよく振り返った。
「俺は上位組だからな!」
「まだ何も測ってないでしょう」
セシリアが呆れたように眉を寄せる。
「でも入学試験は通った!」
「ここにいる全員が通っています」
「俺は地元で一番だった!」
「それも何度も聞きました」
「セシリアは俺をもっと評価していいと思う」
「入学式の前日から自分で評価を要求する人を、どう評価すればいいんですか?」
セシリアの返しがあまりにも早く、シュウは吹き出した。エリオットも口元を押さえ、ユリウスだけはいつもの落ち着いた顔をしていたものの、その目はわずかに笑っている。
「でも、上位組って本当にあるの?」
エリオットが尋ねる。
「地域ではそういう話だったんだけど」
「正式には能力別授業の一部で分けるらしい」
答えたのはユリウスだった。歩きながら抱えていた本を片腕へ寄せ、空いた手で中央講義棟の掲示板を示す。
「全科目を一つの成績だけで固定する制度じゃない。基礎学科は学級単位、魔法実技や一部の専門科目は習熟度で組み分けされることがある、と入学案内に書いてあった」
「……そんなこと書いてあった?」
ダンが首を傾げる。
「書いてあった」
「どの辺?」
「二十七頁」
「頁まで覚えてるの!?」
シュウも思わずユリウスを見る。
自分も学院案内はかなり読んだつもりだったが、そこまで正確には覚えていない。
「じゃあ、ダンが言ってる『上位組』って」
「地域で勝手に広まっている呼び方に近いと思う」
「えっ」
ダンの足が止まった。
数歩先へ進んだセシリアも止まり、ゆっくり振り返る。
「ダンさん」
「待って」
「はい」
「今、俺の中で大事なものが崩れた」
「そうですか」
「もっと心配してくれよ!」
「明日の説明を聞けば済む話でしょう」
近くを歩いていた別の新入生たちが、何事かとこちらを見ている。その視線に気づいたシュウは笑いを堪えようとしたものの、結局肩が震えてしまった。
「シュウまで笑うなよ!」
「だって……昨日からずっと上位組って言ってたから」
「俺、魔力量測定で勝負するって言ったよな!?」
「言った」
「それはやる!」
「それは残ってるんだ……」
シュウは苦笑しながら歩き出した。
魔力量測定。
その言葉を聞くと、笑いだけでは済まない不安が少しだけ胸の奥へ戻ってくる。
アルカディアからは、普通の魔力出力なら制御できると聞いている。漆黒魔力も意図せず常に外へ溢れているわけではない。
それでも、学院の測定器がどのような仕組みなのかは分からない。
普通に測れば普通の結果が出るのか。
自分が持つ異質な力まで何らかの形で拾うのか。
あるいは。
「シュウ?」
隣から声をかけられ、シュウは顔を上げた。
セシリアがこちらを見ている。
「どうしました?」
「え?」
「急に黙ったので」
「ああ……測定ってどんな感じなのかなって考えてただけ」
「緊張してるのか?」
ダンが意外そうな顔をする。
「シュウ、魔法得意なんだろ?」
「得意だけど、測定は別でしょ」
「そうか?」
「普段使う魔法と、数字で出されるのは違う気がする」
嘘ではない。
むしろ、かなり本音に近い。
「俺も嫌だな」
エリオットが小さく言った。
「魔力制御の測定があるなら、たぶん俺かなり低い」
「まだ分からないでしょ」
「入学試験で水球を指定位置に止める課題があったんだけど、俺だけ通り過ぎた」
「どれくらい?」
「先生の机まで」
「それは……」
シュウが言葉を探していると、ダンが腹を抱えて笑い始めた。
「机まで行ったのか!?」
「笑うなよ!」
「いや、ごめん。でも先生どうしたんだ?」
「避けた」
「避けた!?」
「だから笑うな!」
エリオットが顔を赤くする。
だが本気で怒っているわけではないらしく、やがて自分でも思い出したように笑い始めた。
「先生に『威力は十分だが、私は標的ではない』って言われた」
「それは忘れられないな」
シュウも笑う。
セシリアまで口元を押さえている。
「筆記は良かったんですよね?」
「そっちは自信ある。だから余計に悔しくてさ。術式も理屈も分かるのに、実際にやると魔力を出しすぎる」
「それなら学院で習えばいいじゃん」
シュウが言うと、エリオットがこちらを見る。
「午前中にも言ったけど、俺で分かるところなら一緒にやろうよ。俺も洗濯教えてもらうし」
「魔法と洗濯が同じ価値なのか?」
ダンが不思議そうに首を傾げる。
「今の俺には同じくらい大事」
「そこまで?」
「服なくなったら困るでしょ」
「確かに」
妙に納得したダンの横で、セシリアが小さく息を吐いた。
「学院へ入る前日に話す内容とは思えませんね」
「でも寮生活だし」
シュウが答える。
「魔法だけできても、服が全部汚れてたら嫌じゃない?」
「それはそうですが……」
セシリアが自分の服へ目を落とす。
「女子寮にも洗濯場はありました。私も自分で行う必要がありますね」
「セシリアもやったことない?」
「簡単なものならあります。ただ、普段着を最初から最後まで一人で、という経験は多くありません」
「じゃあ同じだ」
シュウが笑うと、セシリアも少しだけ表情を緩めた。
学院へ来れば、魔法を学ぶ。
それは当然だと思っていた。
けれど、どうやら学ぶのはそれだけではない。
洗濯。
掃除。
時間の管理。
知らない相手との共同生活。
家にいたころは誰かが自然にやってくれていたことを、自分でやらなければならない。
そう考えると、学院生活というものが急に身近に感じられた。
◇
中央講義棟は、今日は玄関ホールまで新入生へ開放されていた。
五人が中へ入ると、外の明るさから一転して、ひんやりとした石造りの空気に包まれる。高い天井からは魔導灯がいくつも吊り下げられ、正面には大きな階段、その左右には長い廊下が伸びていた。
壁には学院創立から現在までの歴史を示す絵や、歴代学院長らしい人物の肖像が並んでいる。何十人もの新入生がそれらを眺めており、案内板の前では「明日ここへ集合するのか」と話している者もいた。
「広いなあ」
ダンの声がホールへ響く。
「声」
セシリアがすぐ注意する。
「だって広いだろ」
「広いからといって大声を出す必要はありません」
「反響するか試したかった」
「試さなくていいです」
シュウは二人のやり取りを聞きながら、壁に掛けられた学院の全体図へ近づいた。
昨日も案内図は見た。
だが、壁一面に描かれた大きな地図で見ると、改めて規模が分かる。
中央講義棟。
基礎魔法棟。
各実技場。
研究棟。
図書館。
医務棟。
学生食堂。
複数の寮。
さらに奥には、上級生にならなければ使用しない施設まであるらしい。
「これ全部学院なんだよな……」
「そうみたい」
エリオットも隣へ来る。
「三年いても全部行かない場所ありそう」
「学院って何年?」
「基本四年」
「あ、四年か」
「案内読んでないの?」
「読んだよ! 全部覚えてないだけ!」
エリオットが笑う。
「ユリウスなら覚えてそう」
二人で振り返ると、ユリウスは既に別の掲示を読んでいた。
「ユリウス!」
シュウが呼ぶ。
「何?」
「学院って基本四年だよね?」
「そう。通常課程四年。専門研究課程へ進む場合は別」
「ほら」
エリオットが得意そうに言う。
「何でエリオットが得意そうなの?」
「俺も覚えてたから」
「だったら聞かなくてもよかったじゃん」
「確認」
「俺で確認しないでよ」
そんな会話をしながら、シュウは再び地図へ目を向けた。
四年。
長いように感じる。
十七歳から四年間なら、卒業するころには二十一歳だ。
そのころ自分はどうしているのだろう。
学院を卒業して。
仲間ができて。
冒険者になって。
世界を旅する。
それが今の目標だ。
もちろん北の森のこともある。
白樹材。
北の封所。
森底の鐘。
曾祖父たちよりさらに前から続いていた管理の記録。
学院や王都の図書館なら、それらへ繋がる何かを見つけられるかもしれない。
ただ。
それだけのために、ここへ来たわけではない。
「……四年か」
今度は小さく呟いた。
《長いと感じますか?》
控えめにすると約束したアルカディアの声が、意識の奥へ静かに届く。
『分かんない』
シュウは地図を眺めたまま答える。
『でも、楽しそうだなって思う』
《それは何よりです》
アルカディアは、それ以上何も言わなかった。
シュウも少しだけ笑って、皆のところへ戻った。
◇
中央講義棟を出て、さらに西へ歩く。
図書館へ近づくにつれて、周囲の木々が少し増えていった。学院の中央部より静かで、石畳の脇には学生が座れるベンチがいくつも置かれている。
そして木立が途切れた先に、その建物はあった。
「……でかい」
シュウより先に、ダンが呟いた。
王立魔法学院図書館。
中央には丸い屋根を持つ三階建ての本館があり、その左右へ二階建ての長い棟が伸びている。正面玄関へ続く階段は幅広く、扉の上には開かれた本と杖を組み合わせた紋章が刻まれていた。
窓の数だけでも、アルヴェイン家の書庫とは比較にならない。
「本、何冊あるんだろ」
エリオットが足を止める。
その声には、今までで一番分かりやすい興奮が滲んでいた。
「案内には約十二万冊」
ユリウスが答える。
「十二万!?」
シュウとエリオットの声が重なった。
「全部読める?」
ダンが聞く。
「無理」
ユリウスが即答した。
「ユリウスでも?」
「一日十冊読んでも三十年以上かかる」
「一日十冊読む前提なのもすごいな……」
シュウは笑いながら階段を上った。
十二万冊。
その中に。
白樹材について書かれた本はあるだろうか。
古い封印術。
北方の伝承。
アルヴェイン家が知らない記録。
もしかすると、前世の知識では想像もできない魔法理論だってある。
知りたい。
その気持ちが胸の中で膨らんでいく。
だが同時に、シュウは自分へ言い聞かせる。
急がない。
北の森では、父たちが監視を続けている。
二度目の鐘は、少なくとも出発まで鳴っていなかった。
異変があれば知らせてもらうことになっている。
今、自分が学院へ来た初日に焦って古い記録を漁り始める必要はない。
「シュウ?」
セシリアが階段の途中で振り返った。
「来ないんですか?」
「あ、行く」
シュウは少し遅れて四人を追った。
◇
図書館へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
紙と革。
古い木。
わずかな埃。
それらが混じった独特の匂いがする。
正面には受付台があり、その向こうに書架が並んでいた。天井は高く、上部の窓から入った午後の光が細長く床へ落ちている。
声も自然と小さくなる。
「……すご」
エリオットが呟いた。
先ほどまで大声だったダンさえ、少し圧倒されたように周囲を見回している。
「本当に全部本なんだな」
「図書館ですから」
セシリアの声も控えめだ。
「いや、分かってるけど」
一階閲覧室のみ開放。
そう説明されていた通り、二階へ続く階段にはロープが張られ、その前に「新入生の利用登録は入学式翌日より」と書かれた札が置かれている。
受付にいた年配の女性職員が、五人へ目を向けた。
「新入生ですね?」
「はい」
セシリアが代表するように答える。
「本日は一階の閲覧室と公開書架のみ利用できます。本を外へ持ち出すことはできません。明後日以降、学生証へ貸出登録を行ってから通常利用が可能になります」
「蔵書の探し方は?」
ユリウスがすぐ尋ねた。
職員が少しだけ口元を緩める。
「入口右手に分類目録があります。分野別、著者別、題名別です。特殊資料や古文書は通常目録とは別管理ですので、必要な場合は司書へ相談してください。ただし閲覧制限のある資料もあります」
シュウの耳が、最後の言葉へ反応した。
特殊資料。
古文書。
やはりある。
「古い地方記録もありますか?」
気づけば尋ねていた。
職員がシュウを見る。
「地方史ですか?」
「あ……はい。領地の古い記録とか、昔の建築とか、そういうものです」
「ございますよ。学院が直接収集したものだけでなく、王都の公文書館や各地の研究機関がまとめた写本もあります。ただし地方史資料の多くは二階ですので、本日は閲覧できません」
「そうなんですね」
「入学後、探している地域や年代が分かれば司書へ相談してください。蔵書番号を調べます」
「ありがとうございます」
シュウは頭を下げた。
今すぐではない。
それでいい。
むしろ、探す方法があると分かっただけで十分だった。
「シュウ、地方史好きなの?」
エリオットが小声で尋ねる。
「最近ちょっと気になることがあって」
「アルヴェイン領の?」
「うん。昔の建物とか」
嘘ではない。
北の封所の全てを、会って数時間の相手へ話す必要はない。
「俺も地方の魔術史は好きだよ」
エリオットが棚を眺めながら言った。
「同じ魔法でも、地域によって術式の組み方が少し違ったりするんだ。古い生活魔法なんかは、今の教科書に載ってない形も残ってる」
「そんなに違うの?」
「あるよ。たとえば――」
「エリオット」
ユリウスが呼ぶ。
「第三版」
「えっ!?」
エリオットの首が勢いよく動いた。
ユリウスが一冊の本を持っている。
表紙には『基礎術式構造論 第三改訂版』。
「どこにあった!?」
「基礎理論、三列目」
「見せて!」
エリオットが飛んでいく。
シュウは思わず笑った。
「本当に好きなんだな」
「シュウも似た顔してましたよ」
セシリアが言う。
「俺?」
「地方史の話を聞いたときです」
「そんな顔してた?」
「していました」
「……恥ずかしいな」
「別に恥ずかしいことではないでしょう」
セシリアはそう言って、近くの書架へ目を向ける。
「何かを知りたいと思えるのは、良いことだと思います」
穏やかな言い方だった。
シュウは少しだけ意外に思い、セシリアの横顔を見る。
「セシリアは何か読みたいものある?」
「私ですか?」
「うん」
聞かれたセシリアは、すぐには答えなかった。
並んだ本の背を眺め、少し考える。
「……魔法だけではありませんね」
「というと?」
「礼法や政治、領地経営についても興味があります。父から、学院へ行くなら魔法以外のものも見てきなさいと言われました」
「へえ」
「もちろん魔法も学びたいです。ただ、私が将来何をするのかは、まだ決めていませんから」
昨日までのセシリアは、ダンを止める人という印象が強かった。
でも当然、それだけではない。
彼女にも家族がいて。
学院へ来た理由があって。
将来を考えている。
「シュウは?」
逆に聞かれる。
「将来?」
「はい」
「俺は……」
冒険者。
世界を旅する。
それは決めている。
少なくとも、今はそうしたい。
「学院卒業したら、冒険者になりたい」
「冒険者?」
セシリアが少し目を見開く。
「貴族家へ戻るのではなく?」
「兄さんが跡継ぎだから。もちろん家のことも手伝えることがあればするけど、俺は色んなところを見たいんだ」
街道。
ベルク。
ミレア。
ラウゼン川。
王都。
家を出てから数日だけでも、知らないものをたくさん見た。
もっと見たい。
「海も見たことないし」
「海ですか」
「うん。あと他の国も。魔法が全然違う場所とか、獣人が多い国とか、でっかい遺跡とか」
話しているうちに、自然と声が弾んでいた。
「冒険者になって、仲間と旅できたら楽しそうだなって」
言い終えてから、少し照れる。
まだ仲間さえいない。
冒険者登録もしていない。
学院へ入学すらしていない。
それでも。
「いいと思います」
セシリアが微笑んだ。
「シュウらしい気がします」
「まだ会って三日くらいなのに?」
「三日でも、旅の途中で何度も寄り道した人だということは知っています」
「それは……」
反論できない。
「何の話?」
ダンがやって来た。
「シュウが卒業したら冒険者になりたいという話です」
「冒険者!?」
図書館だというのに声が大きい。
受付から視線が飛んでくる。
「静かに」
セシリアが即座に注意した。
「ごめん」
ダンが珍しく素直に声を落とす。
「俺も冒険者ちょっと興味ある」
「ダンも?」
「騎士もいいんだけどな。親父は、学院出てから決めろって言ってる。強くなったら色んな魔物と戦いたいし」
「戦う方なんだ」
「当然だろ!」
また声が上がりかけ、ダンは自分で口を押さえた。
シュウとセシリアが同時に笑う。
「でも、まだ決めてない」
ダンは珍しく少し真面目な表情になった。
「うちは騎士家だから、兄貴は騎士になるって決めてる。でも俺まで同じじゃなくていいって親父が言ってた。だから学院で色々見てから考える」
「ちゃんと考えてるんだ」
シュウが言う。
「どういう意味だよ」
「ずっと上位組の話してたから」
「それとこれは別!」
小声で言い返すダンを見て、また笑いそうになる。
少しずつ。
本当に少しずつだ。
街道で名前を知っただけの三人について、昨日より多くのことを知っている。
今日会ったばかりのエリオットについてもそうだ。
こうやって相手のことを一つずつ知っていくのが、友達になるということなのかもしれない。
◇
「シュウ」
しばらくして、ユリウスが一冊の本を持ってきた。
「これ」
「俺?」
「地方魔術史」
差し出された本を見る。
『北部諸領における古式魔術建築概論』。
心臓が、一度だけ少し強く鳴った。
「北部……」
「さっき探してたから」
「ありがとう」
本を受け取る。
それほど厚くない。
表紙も新しい。
古文書そのものではなく、過去の建築様式をまとめた研究書らしい。
シュウは近くの閲覧卓へ座った。
皆もそれぞれ本を持ってくる。
エリオットとユリウスは当然のように『基礎術式構造論』。
セシリアは王国各地の行政制度について書かれた本。
ダンだけはしばらく棚を歩き回った末、魔獣図鑑を持ってきた。
「結局それなんだ」
「面白そうだろ」
「まあね」
五人で同じ卓を囲む。
さっきまで話していたのが嘘のように静かになる。
頁をめくる音。
遠くで椅子が動く音。
窓から入る風が薄いカーテンを揺らす音。
シュウも本を開いた。
北部諸領。
石造建築。
古い防御施設。
魔力を通す木材。
古代王国期の術式。
気になる単語はいくつもある。
だが、白樹材という言葉は、ざっと目次を見た限りではない。
封所も。
森底の鐘も。
当然だ。
最初に手に取った一冊で全てが分かるほど、都合よくはいかない。
それでも。
「……面白い」
小さく呟く。
古い魔術建築では、建物そのものを術式の一部として利用する場合があるらしい。
柱。
壁。
床。
扉。
使用する素材。
それぞれへ役割を持たせ、長期間にわたって魔法的な機能を維持する。
シュウの脳裏へ、森の古い監視小屋が浮かぶ。
白樹材。
内部へ入らなかった黒い根。
床下の黒い液体を抑えていた淡い魔力。
あの小屋も。
建物そのものが術式だったのかもしれない。
ただし。
今ここで結論を出すべきではない。
《関連可能性は存在しますが、情報不足です》
アルカディアが必要最低限の言葉だけを送ってくる。
『うん。分かってる』
シュウは頁をめくった。
似ている。
だから同じ。
そう決めつけない。
北の森で何度も学んだことだ。
知らないことは、知らないまま置いておく。
情報を集める。
父たちの記録とも照らす。
必要なら専門家にも聞く。
学院へ来た意味が、一つ増えた気がした。
「シュウ」
向かいからエリオットが呼ぶ。
「ん?」
「すごい顔してる」
「どんな?」
「めちゃくちゃ集中してる顔」
「エリオットに言われたくない」
「俺?」
「さっきユリウスと二人で第三版読んでるとき、俺たちの声全然聞こえてなかったよ」
「……本当?」
ユリウスを見る。
「三回呼ばれてた」
「誰に?」
「ダン」
「気づかなかった」
「だろ?」
ダンが得意そうに腕を組む。
「俺なんか最後、目の前で手振ったぞ」
「それでも気づかなかったの?」
シュウが聞く。
「気づかなかった」
「すごいな……」
「だから俺、同室で夜中まで読んでたら止めて」
「止まる?」
「本を閉じて」
「勝手に?」
「頼む」
「怒らない?」
「怒るかもしれない」
「じゃあ嫌だよ!」
声を抑えながら言い合っていると、セシリアが本から顔を上げた。
「同室初日から、ずいぶん仲良くなりましたね」
「そう見える?」
「見えます」
シュウはエリオットと顔を見合わせる。
「朝会ったばっかりなんだけど」
「俺もシュウが貴族だって知って謝ったばっかり」
「何それ?」
ダンが食いついた。
エリオットが朝の出来事を説明する。
怖くて偉そうな貴族だったら嫌だと言った直後に、シュウが男爵家の息子だと知ったこと。
慌てて謝ったこと。
同級生だから普通に話そうと言われたこと。
「それは面白い」
ダンが笑う。
「笑うなよ」
「でも俺もシュウが男爵家って聞いても何とも思わなかったぞ」
「ダンは最初からそうだったよね」
「だって同じ新入生だろ?」
あっさりした答え。
シュウは少しだけ目を瞬いた。
「家のことは家のことだろ。学院じゃシュウはシュウじゃん」
深く考えているようには見えない。
たぶん、本当にそう思っているだけなのだろう。
「ダンさんにしては良いことを言いますね」
セシリアが感心したように言う。
「俺にしてはって何だよ!」
「褒めています」
「絶対褒めてない!」
また司書の視線。
五人全員が一斉に口を閉じた。
数秒。
そして、誰からともなく笑った。
◇
図書館を出たとき、時計塔の鐘は午後三時半を告げていた。
「一時間以上いたのか」
ダンが大きく伸びをする。
「俺、途中から魔獣図鑑全部見たぞ」
「読んだ、じゃなくて見た?」
セシリアが確認する。
「絵も大事だろ」
「否定はしませんが」
「訓練場行こう!」
図書館を出た途端、ダンの声量が元へ戻る。
「中で我慢していた分を出さないでください」
「午後は見学できるんだろ?」
「外側だけね」
シュウが案内書を確認する。
「第一実技場は観覧通路まで。訓練区域には入れないって」
「それでもいい!」
「じゃあ行こうか」
今度はダンが先頭になった。
図書館へ向かうときとは明らかに歩く速度が違う。
「分かりやすいな」
エリオットが笑う。
「本当に」
ユリウスが短く同意した。
図書館から第一実技場までは、中央広場を挟んで反対側だった。
同じ道を戻るのではなく、五人は少し南側の遊歩道を選んだ。途中には小さな庭園や屋外講義に使うらしい円形の石段があり、学院が単なる建物の集合ではなく、一つの町のように感じられる。
途中、上級生らしい男女数人とすれ違った。
制服。
シュウたち新入生はまだ着ていない。
濃紺を基調にした上着の胸へ学院章が刺繍されている。
「明日からあれ着るんだよな」
ダンが振り返る。
「制服は部屋へ届いてた?」
「届いてた」
シュウが答える。
「俺も」
エリオットも頷く。
「女子寮にも届いていました」
「俺、まだ着てない」
ダンが言う。
「入学式の朝に初めて着る!」
「今日のうちにサイズ確認した方がいいですよ」
セシリアが即座に返した。
「大丈夫だろ」
「裾が長かったら?」
「折る」
「袖が短かったら?」
「……腕まくり?」
「式典で?」
「今日着ます」
「そうしてください」
ダンが素直に頷いた。
シュウはその横で、自分の制服について思い出す。
荷物の中に入っている。
母が出発前に何度も寸法を確認していた。
おそらく問題はない。
それでも。
『今日着とこう』
《推奨します》
明日の朝になって何か問題が見つかったら困る。
母なら絶対に前日に確認する。
離れていても、結局やることは同じだった。
◇
第一実技場が見えた瞬間、ダンが走り出しかけた。
「走らない!」
セシリアに止められ、ぎりぎりで歩調を戻す。
「まだ走ってない!」
「今から走る顔でした」
「顔で分かるの?」
「昨日から見ていれば分かります」
実技場は巨大な楕円形の施設だった。
周囲を高い石壁が囲み、その外側には観覧用の通路が設けられている。今日は訓練区域へ入れないものの、新入生向けに一部の観覧席だけが開放されていた。
五人は階段を上る。
視界が開けた。
「うわ……」
今度はシュウが声を漏らした。
中央に広い土の訓練場。
その周囲には石造りの標的。
木製の人型標的。
巨大な岩。
水を張った区画。
さらに端には、何に使うのか分からない金属製の柱が何本も立っている。
「ここで魔法使うのか!」
ダンの目が輝いている。
「すごいな」
エリオットも本を見たときとは別の意味で興奮しているようだった。
「実技試験もここかな」
「全部ではないと思う」
ユリウスが答える。
「訓練場は複数あるから」
「それでも、ここ使うことはあるだろ!」
ダンは柵へ近づき、身を乗り出さない程度に中を見る。
現在、訓練場では職員らしい数人が明日の準備をしていた。
標的の位置を変え。
地面を確認し。
魔導具らしい装置を運んでいる。
その一つを見て、シュウの視線が止まった。
透明な柱状の結晶。
人の背丈ほどある。
「何だろ、あれ」
「魔力測定器じゃない?」
エリオットが言った。
「え」
シュウの声がわずかに硬くなる。
「地域の試験場にあったのと似てる。あそこまで大きくなかったけど」
ダンも振り返る。
「あれで測るのか!?」
「たぶん違う」
ユリウスが装置を見る。
「あれは標的用の魔力計測柱だと思う。放った魔法の出力を測るやつ」
「詳しいな」
「本で見た」
やはり本。
シュウは少しだけ息を吐いた。
だが、その瞬間。
《マスター》
アルカディアの声が入る。
『何?』
《あの装置から、ごく微弱な探査魔力を確認しました》
シュウは表情を変えないようにする。
『危険?』
《いいえ。構造確認用の自己診断魔力と推定します。こちらへの干渉はありません》
『そっか』
《ただし、学院内には今後、同種またはより高精度の測定機器が存在する可能性があります》
『……だよな』
避けて通ることはできない。
学院へ来たのだ。
魔法を測る。
実技をする。
それは当然だ。
隠し続けることだけを考えるのも違う。
ただ、アルカディアの正体や黒歴史ノートのことまで全て話す必要もない。
どこまで普通の魔法として扱えるのか。
何を見せるのか。
それはこれから考える。
「シュウ」
ダンが隣へ来た。
「明日か明後日か分かんないけど、勝負な!」
「まだ言ってる」
「逃げるなよ!」
「逃げないけど、測定器壊したらどうする?」
冗談半分。
けれどシュウとしては半分以上本気だった。
ダンは一瞬黙ったあと、にやっと笑った。
「それくらい出たら、俺の負けでいい」
「そういう問題じゃない!」
シュウが思わず声を上げる。
近くにいた新入生たちが振り返り、何人かが笑った。
セシリアも額へ手を当てている。
「どうして壊す前提で話を進めるんですか」
「俺じゃなくてダンに言って!」
「シュウも言いました」
「冗談!」
「じゃあ壊さない程度に勝負な!」
「ダンも!」
エリオットが隣で笑っている。
ユリウスも口元を僅かに緩めていた。
明日の測定が少し怖い。
何が起きるか分からない。
でも。
さっきまで一人で考えていたときより、不思議と重く感じなかった。
◇
実技場を出たころには、日が少し傾き始めていた。
学院の建物が長い影を落とし、昼間より涼しい風が通り抜ける。寮へ戻る新入生の姿も増え、中央広場では職員が明日の入学式について書かれた案内板を設置していた。
「明日、何時集合?」
ダンが案内板を見る。
「午前八時半までに中央講義棟前」
セシリアが読む。
「式は九時からですね」
「八時半……早いな」
「普通でしょ」
シュウが言う。
「寮から近いし」
「朝飯食わないと」
「そこは忘れないんだ」
「大事だろ」
「それは同意」
エリオットが頷く。
その後ろでユリウスが掲示の続きを読んでいる。
「入学式後、学級発表。午後に基礎能力確認」
シュウの耳が反応した。
「明日?」
「そう書いてある」
「魔力量も?」
「詳細は式後に説明」
ダンの顔が輝く。
「来た!」
「まだ勝負の話はしないでください」
「でも明日だぞ!」
「分かりましたから」
シュウは案内板を見る。
入学式。
学級発表。
基礎能力確認。
いよいよ始まる。
今日までは新入生。
明日から正式な学院生。
「……明日か」
胸の奥が少し騒がしい。
楽しみ。
不安。
緊張。
全部ある。
でも、それでいい。
「じゃあ今日はここまでにする?」
シュウが皆を見る。
「夕食の時間もあるし」
「そうですね」
セシリアが頷く。
「女子寮の門限も確認しておきたいです」
「俺も制服着てみないと」
ダンが言う。
「絶対やってください」
「分かったって!」
「ユリウスは?」
「寮に戻る」
「どこの寮?」
「第二寮」
「あ、違うんだ」
シュウとエリオットは第一寮。
ダンも第一寮だという。
ユリウスは第二寮。
寮が違えば、夜はそれぞれの生活になる。
「セシリアは?」
「女子第二寮です」
「じゃあ、また明日?」
シュウが尋ねる。
言ってから、少しだけ迷った。
待ち合わせをするのか。
それとも、それぞれ式へ行くのか。
「中央広場」
ダンが即答した。
「八時!」
「早くない?」
式の集合は八時半。
「遅れるよりいいだろ」
「ダンさんが正論を……」
「セシリア!?」
シュウが笑う。
「じゃあ八時、噴水前でいい?」
「私は構いません」
「俺も」
ユリウス。
「俺も行く!」
エリオット。
自然に五人の予定が決まった。
明日も会う。
それだけの約束。
なのに、シュウは少し嬉しかった。
◇
女子寮方面へ向かうセシリアと別れ、第二寮へ向かうユリウスとも途中で別れた。
「また明日!」
ダンが大きく手を振る。
「八時ですからね!」
セシリアが遠くから念を押す。
「分かってる!」
「あなたに言っています!」
「分かってるって!」
そのやり取りが遠ざかっていく。
シュウとエリオット、ダンの三人は第一寮へ向かった。
「そういえばダン、何号室?」
エリオットが聞く。
「二階の二二四!」
「近くないな」
「でも同じ寮だろ。夜遊びに行っていい?」
「寮規則聞いてた?」
シュウが聞く。
「他室への訪問は消灯一刻前まで!」
「そこは覚えてるんだ」
「大事だからな!」
「何しに来るの?」
「話す!」
「そのままだな……」
三人で笑いながら寮へ入った。
一階談話室では、既に新入生たちがそれぞれの時間を過ごしている。
朝より騒がしい。
カード遊び。
読書。
自己紹介。
故郷の話。
明日の話。
その全部が混ざり合っている。
「じゃあ俺、制服確認してくる!」
ダンが階段へ向かう。
「絶対だよ!」
シュウが声をかける。
「分かってる!」
手だけ振って二階へ消えた。
シュウとエリオットは三階へ上がる。
「ダン、すごいな」
エリオットが言う。
「何が?」
「一日一緒にいると疲れそうなのに、いなくなると急に静かに感じる」
「分かる」
シュウは笑った。
「俺、昨日会ったばっかりだけど、もう慣れてきた」
「セシリアも大変そう」
「でも何だかんだ相手してるんだよね」
「ユリウスも」
「うん」
街道で偶然会った三人。
彼ら自身も、その日の朝まではほとんど知らない相手同士だった。
それが同じ学院へ向かうというだけで話すようになり。
昨日は一緒に王都へ入り。
今日は学院を歩いた。
人間関係というものは、もっと時間をかけて形になるものだと思っていた。
もちろん、本当に大切な関係になるには時間が必要なのだろう。
でも始まりは。
案外、こんなものなのかもしれない。
◇
三一七号室へ戻る。
扉を開けると、午後の光が窓から斜めに差し込んでいた。
朝に荷物を運び込んだばかりなのに、戻ってきた瞬間、ほんの少しだけ安心する。
「ただいま」
シュウが何気なく言った。
エリオットが振り返る。
「誰に?」
「……部屋?」
「部屋に言う?」
「家だと普通に言ってたから」
「ああ」
エリオットは少し考え、それから扉を閉めた。
「じゃあ、おかえり」
「エリオットも一緒に帰ってきたじゃん」
「言ってみたかった」
「何それ」
二人で笑う。
朝は知らない相手だった。
今は。
まだ友達と言っていいのか、シュウには少し分からない。
でも少なくとも、同じ部屋へ戻ってきて「おかえり」と言われても嫌ではない相手になっていた。
「制服確認しよう」
シュウが収納を開ける。
「あ、俺も」
二人で学院制服を取り出した。
濃紺の上着。
白いシャツ。
黒に近い灰色のズボン。
学院章。
「……学生って感じする」
「学生になるんだから」
「明日からね」
「今日からじゃないの?」
「正式には入学式からじゃない?」
「寮には入ってるけど」
「どっちだろ」
どうでもいいことで少し悩む。
制服へ着替える。
シュウは鏡の前へ立った。
「……おお」
自分だ。
でも、少し違って見える。
アルヴェイン家の次男。
それだけではない。
王立魔法学院の学生。
まだ式前なのに、制服一枚でその実感が強くなる。
「シュウ、似合うじゃん」
「エリオットも」
「袖ちょっと長い」
「本当だ」
エリオットの右袖が指の付け根近くまである。
「これ直せる?」
「寮の案内に調整受付なかった?」
「あった!」
「今日中じゃなかった?」
「……何時まで?」
二人が止まる。
シュウは机の案内紙を取った。
「制服調整……午後六時まで、第一寮一階臨時受付」
壁の時計を見る。
「五時四十分」
「行ってくる!」
エリオットが走り出す。
「廊下走ったら怒られるよ!」
扉の向こうで足音が急に遅くなった。
「早歩きにする!」
「いってらっしゃい!」
扉が閉まる。
静かになった。
シュウはもう一度鏡を見る。
制服姿。
明日。
入学式。
学級発表。
能力確認。
「……いよいよだな」
《はい》
アルカディアが答える。
今日は発言を控えめにしていた。
でも、ずっといた。
「どうだった?」
《何がでしょうか》
「学院」
シュウは窓際へ行く。
夕方の学院。
寮の窓からは、本館の上部と時計塔が見える。
「俺、結構好きかも」
《本日の滞在時間のみで結論を出すには早いかと》
「分かってるよ」
《ただし》
アルカディアが少し間を置く。
《マスターが楽しめる環境である可能性は高いと判断します》
「だよな」
シュウは笑った。
図書館。
実技場。
講義棟。
寮。
エリオット。
セシリア。
ダン。
ユリウス。
たった一日で、新しいものがたくさん増えた。
「明日、測定どうしよう」
《通常魔力のみを意識して操作することを推奨します》
「漆黒魔力は?」
《意図的に使用しない限り、表層へ出さない制御は可能です》
「測定器が勝手に拾ったら?」
《現時点では不明です》
「だよなあ……」
少し不安。
でも。
「まあ、明日考えるか」
《それでよろしいかと》
「能力枠も空けたままでいい?」
《はい。現時点で選択を必要とする状況は確認されません》
「じゃあ空欄」
《承知しました》
何かを選ぶのは、必要になってから。
今は。
普通の魔法。
普通の学院生活。
それをやってみたい。
シュウは制服の胸にある学院章へ指先で触れた。
「そういえばさ」
《はい》
「俺、十四歳のとき学院っぽい設定とか書いてないよね?」
沈黙。
アルカディアが黙った。
「……あるの?」
《回答を希望されますか?》
「待って」
嫌な予感がする。
「どれくらい?」
《複数》
「複数!?」
声が出た。
廊下から誰かの足音が止まった。
シュウは慌てて口を押さえる。
《そのうち一つに、マスターが世界最高峰の魔導学院へ身分を隠して入学し――》
「待って待って待って!」
《まだ概要です》
「概要で十分!」
《なお、入学初日に――》
「言わなくていい!」
扉が開いた。
「シュウ?」
戻ってきたエリオットが、不思議そうにこちらを見る。
「誰と話してた?」
「……独り言」
「結構大きかったけど」
「明日のことでちょっと」
「緊張?」
「そんな感じ」
嘘ではない。
別の意味で緊張が増えただけだ。
エリオットは特に疑わず、調整受付でもらった札を机へ置いた。
「明日の朝までに直してくれるって」
「よかったじゃん」
「うん。シュウはサイズ大丈夫?」
「大丈夫だった」
「じゃあ明日だな」
「うん」
二人とも少し黙る。
窓の外では、夕方の鐘が鳴り始めた。
一度。
二度。
学院中へ響く、明るく澄んだ鐘。
北の森で語られた不気味な鐘とは違う。
学生へ時刻を知らせるための、ごく普通の鐘だ。
シュウは窓の外を見た。
明日は。
この学院の学生になる。
どんなクラスになるのか。
誰と一緒になるのか。
授業は。
魔法は。
測定は。
まだ何も分からない。
だからこそ。
「楽しみだな」
シュウが言う。
「うん」
エリオットも答えた。
その夜、シュウは夕食を食べ、共用浴場の使い方に少し戸惑い、部屋へ戻って明日の持ち物を確認した。
制服。
入学許可証。
筆記具。
学院案内。
薬。
忘れ物はない。
寝台へ入ったあとも、しばらく眠れなかった。
廊下から聞こえる新入生たちの声。
隣の寝台で頁をめくるエリオットの音。
窓の外から届く王都の遠いざわめき。
全部が家とは違う。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「エリオット」
「ん?」
「まだ読んでる?」
「あと三頁」
「さっきもあと三頁って言ってなかった?」
頁をめくる音が止まった。
「……ばれた?」
「閉じるって約束だったよね」
「分かった」
本が閉じられる。
魔導灯の明かりが少し落とされた。
「おやすみ、シュウ」
「おやすみ」
静かになる。
《おやすみなさいませ、マスター》
『おやすみ、アルカディア』
目を閉じる。
今日、学院を歩いた。
図書館へ行った。
明日も会う約束をした。
同室者と帰ってきた。
それだけの一日だった。
大きな魔物も出なかった。
誰かを救う必要もなかった。
黒歴史の力を選ぶ必要さえなかった。
それでも。
シュウにとっては、十分すぎるほど新しい一日だった。
そして明日。
王立魔法学院の入学式が始まる。
シュウ・アルヴェインの学院生活は、ようやく本当の最初の日を迎える。




