↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/63

第18話 今日から、ここが俺の部屋になる

 王都で迎える最初の朝は、アルヴェイン邸とも街道沿いの宿とも違う音から始まった。


 窓の外を行き交う馬車の音は日の出前から途切れず、その合間に、遠くで鳴る鐘や店を開けるために木戸を動かす音が混じっている。宿の廊下からも早くから足音が聞こえ、隣室では荷物を動かしているらしい物音までしていた。


 寝台の上で目を覚ましたシュウは、しばらく天井を眺めたあと、昨夜までとは少し違う緊張が胸にあることに気づいた。


 王都へ向かっていた旅は、もう終わっている。


 今日は王都を見る日ではない。これから自分が何年も通うことになる王立魔法学院へ入り、寮の部屋を受け取り、学生として生活する場所へ足を踏み入れる日だ。


「……朝か」


《おはようございます、マスター》


「おはよう、アルカディア」


 身体を起こすと、窓から差し込む朝日が昨日机へ置いた学院案内書を照らしていた。昨夜寝る前にも確認したはずなのに、シュウは寝台から降りると、もう一度それを手に取る。


 本日の予定。


 午前八時から十一時まで、新入生寮入居受付。


 荷物搬入。


 寮内設備説明。


 昼食。


 午後は学院施設の一部を新入生向けに開放。


 明日、入学式。


「午後二時に中央広場」


《セシリア・ノール、ダン・クレイ、ユリウス・ベルンとの待ち合わせですね》


「うん。忘れてない」


《念のため確認しました》


 案内書を閉じる。


 昨日の別れ際、自分から誘った。


 街道で偶然一緒になったのではなく、今日は約束して会う。


 そのことを思い出すと、学院へ入る緊張とは別のところで少し気持ちが軽くなった。


「まず寮だな」


《はい》


「二人部屋って噂、本当かな」


《本日の確認事項です》


「同室の奴、どんな人だろ」


《現時点で予測する材料はありません》


「分かってるけどさ」


 知らない相手と同じ部屋。


 前世でも、現在の人生でも経験がない。


 会社員時代は一人暮らしをしていたし、この世界では生まれてからずっと自分の部屋があった。旅の宿も当然一人部屋だったため、十七歳にして初めての共同生活になるかもしれない。


「寝言とか言わないよな、俺」


《睡眠中のマスターについて、私は常時詳細観測を行っているわけではありません》


「よかった」


《ただし過去に――》


「待って。やっぱり聞きたくない」


《承知しました》


 危なかった。


 前世なのか今世なのか分からないが、ろくでもない情報が出てくる予感しかしない。


 シュウは着替えを始めた。旅装ではあるが昨日までより少し整った服を選び、学院から指示されている書類一式も鞄へ入れる。


 薬。


 財布。


 入学許可証。


 昨日受け取った到着確認済みの書類。


 筆記具。


 案内書。


「よし」


《薬も確認済みです》


「今日は言われる前に入れたからね」


《成長を確認しました》


「薬を鞄に入れただけで成長扱いされる十七歳ってどうなんだろう」


 母が聞けば喜ぶのか、それとも「最初からそうしなさい」と言われるのか。


 おそらく後者だ。


 そんなことを考えていると、扉が三度叩かれた。


「シュウ様、お目覚めでしょうか」


 ハンスだ。


「起きてる! 薬も持った!」


 扉の向こうで数秒の沈黙があった。


「……まだ本日は薬について確認しておりません」


「先に言っておこうと思って」


「それは結構です」


 声が少し笑っている。


 シュウは鞄を肩へ掛け、扉を開いた。


 廊下には既に身支度を整えたハンスが立っており、その少し後ろにはカイルもいる。二人とも今日までは護衛としてシュウに付き添うが、寮へ入れば役目の大部分は終わる。


「おはよう、二人とも」


「おはようございます」


「おはようございます、シュウ様」


 挨拶を返したカイルが鞄を見る。


「今日は随分と準備が早いですね」


「昨日まで毎朝確認されてたから」


「エレノア様のおかげですね」


「それを認めると、母さんがもっと確認するようになりそうなんだよな……」


 もっとも、次に直接確認されるのは帰省したときだ。


 そう思うと、少しだけ寂しい。


 母の細かい確認を面倒だと思っていたのに、離れて数日でこうなるのだから、人間は勝手なものだと思う。


「朝食へ参りましょう」


 ハンスが歩き出す。


 シュウもその横へ並んだ。


「今日、二人はどこまで一緒?」


「寮の受付と荷物搬入までは同行できます。その後は新入生本人のみ参加する説明がありますので、そこで一度離れます」


「じゃあ、今日で護衛終わり?」


「正式には明日の入学式を確認してからです。ですが学院寮へ入れば、我々が常にお側へいる必要はありません」


「そっか」


 分かっていたことだ。


 それでも、言葉にされると実感が増す。


 家を出たときには父、母、兄と別れた。


 そして今日は、ここまで一緒に来てくれた二人とも少しずつ離れていく。


 寂しい。


 でも、それが学院へ来るということなのだろう。


「帰るのは明日?」


「入学式終了後、もう一泊して明後日の朝を予定しています」


「じゃあ、まだ会えるか」


「はい。何かありましたら《青鈴亭》へお越しください」


 ハンスの言葉に、シュウは頷いた。


 頼れる場所が一つずつなくなるのではない。


 必要なら頼っていい。


 母もそう言っていた。


     ◇


 《青鈴亭》の朝食会場は、昨日の夕食時よりも騒がしかった。


 宿泊している新入生の多くが今日から寮へ移るらしく、食事をしながら家族と最後の確認をしている者があちこちにいる。忘れ物を注意する母親、寮生活での礼儀を語る父親、弟や妹へ土産を約束する少年など、卓ごとに違う会話が飛び交っていた。


 シュウは空いていた席へ座り、運ばれてきた卵料理とパンへ手を伸ばす。


「何か家みたいだな」


「どの辺りがです?」


 カイルが向かいに座る。


「親が子供に色々言ってるところ」


 少し離れた卓では、上品な服装の女性が娘へ「困ったことがあれば先生へ相談するのですよ」と念を押している。娘は恥ずかしそうに周囲を気にしているが、それでも真面目に頷いていた。


 さらに向こうでは父親らしい男性が、息子の荷物から勝手に何かを取り出している。


「あれは?」


「酒ではないでしょうか」


 ハンスが声を潜める。


 見ると、父親が小さな瓶を持ち上げ、息子が必死に取り返そうとしていた。


「入学前から何持ってきてるんだよ……」


「地方によっては十七歳でも少量の酒を許す家庭はありますが、学院寮への持ち込みは禁止だったはずです」


「そりゃ没収されるね」


 案の定、息子が肩を落とし、周囲から笑いが起こった。


 家柄も出身地も違う。


 それでも親に心配されるところは同じだ。


「母さんがここにいたら、何回鞄見るかな」


「少なくとも三回は」


 カイルが即答する。


「そんなに?」


「宿を出る前、馬車へ乗る前、学院受付前」


「……ありそう」


「そして薬を確認されます」


「それもある」


 三人で笑う。


 その笑いが収まったところで、シュウはパンをちぎりながら少し考えた。


「手紙、今日も書こうかな」


「昨日出したばかりでは?」


「王都着いたって書きたい」


 昨日出した手紙には、まだ王都到着は書けていない。


 家族が最初の手紙を受け取るころには、二通目も途中まで来ているかもしれない。


「良いと思いますよ」


 ハンスが穏やかに頷く。


「エレノア様は特にお喜びになるでしょう」


「父さんと兄さんもでしょ?」


「もちろんです」


「じゃあ今日、寮入ったら書く」


《予定へ追加します》


『頼んでないけど、今回はお願い』


《承知しました》


 食事を進める。


 昨日までは「王都まであと何日」という話をしていた。


 今日はもう、その言葉がない。


 代わりに「寮」「学院」「入学式」という言葉が会話へ混ざる。


 旅が終わったことを、朝食の何気ない会話からも感じた。


     ◇


 朝食後、荷物を積んだ馬車は《青鈴亭》を出た。


 学院までの距離はそれほど遠くない。


 それでも大きな荷箱があるため、今日は馬車で向かう。


 王都の朝は既に活気に満ちていた。通りには通勤する職人や店員らしい人々が行き交い、昨日は眺めるだけで精いっぱいだったシュウも、今日は少しずつ店の種類を見分ける余裕が出ている。


「あ、昨日の魔導具屋」


 窓の外を指す。


 青い杖を看板にした店。


 その隣には書店。


 向かいには薬草店。


「ここ覚えとこう」


《位置を記録しました》


「便利だな、お前」


《今さらでしょうか》


「確かに」


 王都の地理を全部覚えるのは大変そうだが、アルカディアがいるなら迷子になる可能性はかなり下がる。


 もっとも。


《なお、マスターが十四歳当時に設定した《絶対迷宮踏破》を使用すれば――》


『そういう能力もあるの!?』


《候補設定として存在します》


『いらない! 道に迷わないためだけに二十四時間枠使いたくない!』


 選択可能枠は、今も空いている。


 生命回帰が解除されてから、まだ何も選んでいない。


 旅の途中で危険が起きれば必要な能力を選ぶつもりだったが、幸いなことにその必要はなかった。学院へ入ってからも、すぐ何かを選ぶ理由はない。


『このまま空けとく』


《承知しました》


『何があるか分からないし』


《状況に応じて選択する方針を継続します》


 力を持っているから、常に何かを装備していなければならないわけではない。


 北部森林へ入る前の自分なら、空欄がもったいないと考えていたかもしれない。


 今は違う。


 必要になったときに選ぶ。


 それでいい。


 馬車が曲がる。


 視界の先へ、昨日見た王立魔法学院の正門が現れた。


「……来た」


 昨日は門の外にある臨時受付までだった。


 今日は。


 あの門を通る。


     ◇


 学院正門前は、昨日よりさらに多くの新入生と家族で混み合っていた。


 大型馬車が次々と指定された搬入口へ誘導され、正門近くでは学院職員が声を上げて案内している。貴族らしい一団もいれば、大きな鞄を一人で背負って歩いてくる少年もおり、その服装や荷物だけでも出身の違いが見て取れた。


「新入生寮へ荷物を搬入される方はこちらです! 男子寮は青札、女子寮は赤札をお受け取りください!」


「保護者・護衛の方は寮玄関まで同行可能です! 居住区画への立ち入りは本日午前中のみとなります!」


「昨日到着確認がお済みでない方は、先に臨時受付へお願いします!」


 複数の声が重なる。


 それでも混乱していない。


 昨日の王都北大門と同じだ。


 人が多いからこそ、流れを作る仕組みがある。


「俺は青札?」


「そうですね」


 ハンスが受付へ向かう。


 シュウも続いた。


 昨日押印された書類を見せると、担当の職員が名簿を確認し、青い木札を一枚差し出した。


「シュウ・アルヴェインさん。男子第一寮、東棟三階、三一七号室です」


「三一七……」


「こちらが部屋鍵です。紛失時は寮監室へ申し出てください。寝具、机、収納棚は備え付けです。持ち込み荷物は一人につき大型箱二つまで、その他の手荷物は各自の収納へ収まる範囲でお願いします」


 鍵を受け取る。


 小さな金属製。


 番号が刻まれている。


 三一七。


「同室の人って、もう分かりますか?」


「部屋へお名前が掲示されています。本年度の第一寮は原則二名一室です」


 噂は本当だった。


 シュウの背筋に、少しだけ緊張が走る。


「二人部屋……」


 分かっていたはずなのに、正式に言われると違う。


「問題が生じた場合は寮監へ相談してください。生活習慣や相性によっては、事情を確認したうえで部屋替えを検討することもあります。ただし、最初から希望による変更はできません」


「分かりました」


「寮規則の説明は午前十時から一階食堂で行います。それまでに荷物を入れてください」


「ありがとうございます」


 青札。


 鍵。


 案内紙。


 手元に学院生活の道具が増えていく。


 シュウはそれらを落とさないよう鞄へ収めた。


「では、行きましょう」


 ハンスの声に頷き、正門へ向かう。


 一歩。


 もう一歩。


 門の前には学院章が刻まれた石柱がある。


 杖。


 本。


 星。


 昨日は外から見上げた。


 今日はその間を通る。


 シュウはほんの一瞬だけ足を緩めた。


「シュウ様?」


 カイルが振り返る。


「いや」


 息を吸う。


「行こう」


 正門を越えた。


     ◇


 門の内側へ入った瞬間、昨日まで遠くから見ていた学院が一気に現実の場所になった。


 正面には幅の広い石畳の道が伸び、その先に巨大な本館がある。左右には手入れされた芝生と並木が続き、少し離れた場所には別の講義棟らしい建物が何棟も並んでいた。


 学生だけではない。


 職員。


 使用人。


 荷物を運ぶ作業員。


 新入生。


 家族。


 あちこちで人が動いている。


「……広い」


 昨日も言った気がする。


 でも、門の内側から見るとさらに広い。


「寮は東側です」


 ハンスが案内図を見る。


「中央広場を通り、二つ目の道を左ですね」


「中央広場って、今日待ち合わせするところだ」


「噴水前でしたね」


「うん」


 歩き始める。


 石畳の両側には、学院の各施設を示す標識が立っていた。


 中央講義棟。


 基礎魔法棟。


 第一実技場。


 第二実技場。


 図書館。


 研究棟。


 医務棟。


 学生食堂。


 男子寮。


 女子寮。


「図書館、あっちか」


 思わず足が少し遅くなる。


 木々の向こうに、他より少し古そうな建物の上部が見えていた。中央に丸い屋根があり、その両脇へ長い建物が伸びている。


《ユリウス・ベルンとの本日の訪問候補ですね》


『うん』


 北の封所についてすぐ調べ始めるつもりはない。


 だが、どんな図書館なのかは見てみたい。


 蔵書の探し方も知りたい。


 そのうち、白樹材や古い封印術について調べる日が来る。


「シュウ様、前です」


「え?」


 ハンスに言われ、視線を戻す。


 危うく前を歩いていた少年へぶつかるところだった。


「ご、ごめん!」


「いや、大丈夫」


 大きな箱を抱えた少年が苦笑する。


「図書館見てた?」


「分かった?」


「俺もさっき同じことしたから」


 少年が顎で図書館の方向を示す。


「でかいよな」


「うん」


「入学式終わったら行きたいんだよ」


「俺も」


 それだけの短い会話。


 名前も聞かない。


 少年は荷物を抱え直し、そのまま別の寮へ向かっていった。


 シュウは後ろ姿を見送る。


「……こういうの増えるのかな」


「学院では毎日でしょうね」


 カイルが答えた。


 毎日。


 知らない人とすれ違う。


 話す。


 名前を知ることもあれば、知らないまま終わることもある。


 アルヴェイン領とは違う。


 それも少し楽しみだった。


     ◇


 中央広場へ着くと、シュウは思わず足を止めた。


 昨日、案内図で見ただけの場所だ。


 広場の中央には大きな円形噴水があり、普通の水が噴き上がる中央部の周囲を、いくつもの小さな水球がゆっくり浮遊している。昨日街中で見た学院区の魔法噴水とは別物だが、こちらも明らかに魔法が組み込まれていた。


「ここだ」


 午後二時。


 この噴水前。


「分かりやすいですね」


 ハンスが言う。


「これなら迷わない」


《万一迷われた場合も位置記録済みです》


『さすがに大丈夫』


 広場の周囲にはベンチが並び、その外側を複数の道が放射状に伸びている。学生生活が始まれば、待ち合わせ場所としてよく使われるのだろう。


 今は家族連れが多い。


 噴水を背景に記念らしい絵姿を魔導具で残している家族までいた。


「絵を撮ってる?」


「記録板ですね」


 カイルが説明する。


「魔導具店で見たことがあります。光景を一枚だけ薄板へ写す道具です」


「写真じゃん……」


「しゃしん?」


「いや、前……じゃなくて、何でもない」


 危ない。


 前世の言葉がそのまま出た。


《前世記憶由来の概念との類似率は――》


『解説しなくていい』


 記録板。


 覚えておこう。


 母へ送れたら喜ぶかもしれない。


《確認希望項目、三十七件目です》


『昨日からまだ数えてたの?』


《はい》


『……まあいいや』


 諦めた。


     ◇


 男子第一寮は、中央広場から歩いて十分ほどの場所にあった。


 三階建ての石造りで、横へ長い。正面には小さな庭があり、その向こうに第二寮と第三寮も見えるため、男子学生だけでも相当な人数が生活することになるらしい。


 玄関前は荷物を運ぶ新入生たちで混雑していた。


「第一寮、三階の方は右側階段をご利用ください!」


「大型荷物は廊下へ置かず、必ず室内へ!」


「保護者の方は十時までに居住区画から退出をお願いします!」


 寮職員の声が響く。


 シュウたちも馬車から荷箱を下ろした。


「俺持つよ」


「一つは我々が」


「これくらい大丈夫」


 シュウが大きな箱へ手を掛ける。


 恒常的な身体能力強化のおかげで、本来ならかなり重いはずの荷物も軽く感じる。


 ただし。


『普通の十七歳って、これどれくらい重い?』


《内容物から推定して二十五から三十キログラム程度です》


『片手はやめとこう』


《賢明です》


 両手で持つ。


 少し重そうな顔もしておく。


 北部森林での経験から、必要もないのに力を見せる意味はないと学んでいる。


「シュウ様、無理はなさらず」


「大丈夫。階段だけ気をつける」


 ハンスがもう一つの箱を持つ。


 カイルは手荷物。


 三人で寮へ入った。


     ◇


 玄関をくぐると、広い談話室があった。


 長椅子。


 大きな卓。


 掲示板。


 壁際には飲み水を出す魔導具らしい設備もある。


 そこから左右へ廊下が伸び、正面には食堂へ続く扉が見えた。


「寮だけで家より大きいな……」


 アルヴェイン邸も十分広い。


 だが、ここは百人単位で暮らすための建物だ。


「シュウ様、三階です」


「うん」


 階段へ向かう。


 途中、何人もの新入生とすれ違った。


 荷物を抱えた少年。


 父親と何か言い争っている少年。


 母親に何度も抱きしめられ、顔を真っ赤にしている少年。


 その横を通り過ぎたところで、シュウは思わず笑ってしまった。


「笑ったら失礼だよな」


「お気持ちは分かります」


 カイルも声を潜める。


「エレノア様が同行されていれば、シュウ様も同じだった可能性がありますので」


「……否定できない」


 出発時に抱きしめられた。


 ここまで来ていたら、もう一度くらいあったかもしれない。


 そして自分も、本気で嫌がったかと言われれば違う。


「ちょっと羨ましいかも」


 口から出た。


 ハンスとカイルが何も言わない。


 その沈黙がありがたかった。


 家族に会いたい。


 まだ家を出て四日ほどしか経っていない。


 それでもそう思う。


 だからといって帰りたいわけではない。


 王都へ来たかった。


 学院にも入りたい。


 家族と離れる寂しさと、新しい生活への期待は、どちらか一つを消さなければならないものではない。


 シュウは箱を持ち直し、階段を上った。


     ◇


 三階。


 廊下には同じ形の扉がずらりと並んでいた。


 三〇一。


 三〇二。


 三〇三。


 番号を追いながら奥へ進む。


「三一七……あった」


 扉の横に小さな札がある。


 二人分の名前。


 一つ目。


 シュウ・アルヴェイン。


 そして、その下。


「……エリオット・ファーレン」


 知らない名前。


《同室者と思われます》


『だよな』


 名前だけでは何も分からない。


 貴族なのか。


 平民なのか。


 どんな性格なのか。


 魔法は何が得意なのか。


 そもそも話しやすいのか。


 シュウは急に緊張してきた。


「まだ来ていないようですね」


 ハンスが扉の前を見る。


 荷物もない。


「先に入っていいんだよね?」


「割り当て済みですから問題ありません」


 鍵を差し込む。


 回す。


 小さな音。


 扉を開けた。


「……おお」


 部屋は想像していたより広かった。


 左右の壁際に寝台が一つずつ。


 その隣に机。


 収納棚。


 中央には小さな共用卓。


 奥には大きな窓があり、そこから学院の敷地が見える。


 豪華ではない。


 だが清潔だ。


 二人で暮らすには十分な広さがある。


「どっち使えばいいんだろ」


 左右を見る。


 違いはほとんどない。


 窓へ近いか、扉へ近いか程度だ。


《指定表示は確認できません》


「先に選んでいいのかな」


「通常は構わないと思いますが」


 ハンスが言いかけたところで。


「すみません! 三一七ってここで合ってますか!?」


 廊下から声が飛んできた。


 三人が振り返る。


 扉の向こうから、大きな荷箱を抱えた少年が現れた。


 シュウと同じくらいの年齢。


 少し明るい茶色の髪。


 背はシュウよりわずかに高い。


 服装は旅装だが、貴族の子息らしい華美さはない。


 ただ、何より目についたのは。


「ちょ、ちょっと待って……重い……!」


 箱が大きすぎる。


 少年の顔がほとんど見えない。


「置いた方がいい!」


「置く場所が……前、見えなくて……!」


「そこ! もう部屋!」


「え、ここ!?」


 シュウは慌てて自分の荷箱を端へ寄せた。


「真っすぐ! あと三歩!」


「三歩!?」


「一、二……そこで下ろして!」


 少年が箱を床へ置く。


 どん、と鈍い音が響いた。


 寮の廊下にいた何人かが振り返る。


「……重かった」


 少年は腰へ両手を当て、荒い息を吐いた。


「何入ってるの、それ」


「本」


「全部?」


「ほとんど」


 シュウは箱を見る。


 自分の荷物より明らかに大きい。


「持ってきすぎじゃない?」


「家を出てから俺もそう思った」


「出る前に気づこうよ」


「選んだら全部必要に見えたんだよ……」


 少年はそこで初めて、扉横の名札を見る。


 エリオット・ファーレン。


 シュウ・アルヴェイン。


 視線が名札とシュウを往復する。


「あ」


「もしかして」


「シュウ・アルヴェイン?」


「うん」


「じゃあ同室だ!」


 少年の顔が一気に明るくなった。


「俺、エリオット・ファーレン。よろしく!」


 差し出された手。


 シュウは一瞬だけ見つめ、それから握った。


「シュウ・アルヴェイン。よろしく」


 手を握る。


 それだけのこと。


 でも、今日から同じ部屋で暮らす相手との最初の挨拶だと思うと、不思議な感じがした。


「よかった……」


 エリオットが心底安心したように息を吐く。


「何が?」


「怖い奴だったらどうしようって思ってた」


「俺も同じこと考えてた」


「本当?」


「うん」


 二人で顔を見合わせる。


 そして同時に笑った。


「とりあえず、第一関門突破だな」


「まだ会って一分くらいだけどね」


「一分で殴られなかったから大丈夫」


「どんな同室者想像してたの?」


「貴族のすっごい偉そうな奴」


 エリオットが言ったあと、急に固まった。


 視線がシュウの服。


 ハンス。


 カイル。


 そして扉の名札へ移る。


「……アルヴェインって」


「うん?」


「貴族?」


「男爵家」


「……」


 エリオットの顔から血の気が引いた。


「すみませんでした!」


「何で!?」


 勢いよく頭を下げられ、シュウの方が慌てる。


「いや、別に悪口言われたわけじゃないし!」


「でも今、偉そうな貴族だったら嫌だって!」


「俺も偉そうな奴は嫌だよ!」


「貴族なのに!?」


「貴族でも嫌でしょ!」


 声が少し大きくなり、廊下からまた視線が集まる。


 ハンスが口元を押さえている。


「ハンス、笑ってる?」


「いいえ」


「絶対笑ってる!」


「同室の方と問題なく会話できて安心しているだけです」


 それを笑っていると言うのではないだろうか。


 エリオットが恐る恐る顔を上げる。


「本当に怒ってない?」


「怒ってないよ」


「敬語は?」


「同級生なんだからいらない」


「でも男爵家……」


「学院では身分が違う人も一緒に学ぶんでしょ?」


「そうだけど」


「じゃあ普通でいいよ。俺も普通に話すから」


 父の言葉を思い出す。


 必要な礼儀は守る。


 でも、爵位だけで相手を見ない。


 自分も男爵家の息子だからと上へ立ったつもりにならない。


 学院へ来る前に聞いた言葉が、こんなに早く必要になるとは思わなかった。


「分かった」


 エリオットがまだ少し戸惑いながら頷く。


「じゃあ……シュウ?」


「うん。俺もエリオットでいい?」


「もちろん」


 もう一度、空気が緩んだ。


 シュウは内心で息を吐いた。


 少なくとも、最初の五分で関係が壊れることはなさそうだ。


《対人関係への懸念、さらに低下したと判断します》


『今それ言わなくていい』


     ◇


 部屋の左右については、簡単に決まった。


「俺、扉側でいいよ」


 エリオットが言う。


「いいの?」


「窓際だと本読んで夜更かししそうだから」


「扉側ならしないの?」


「するかもしれない」


「意味ないじゃん」


「でも窓際よりは一刻くらい早く寝る」


「一刻も変わる!?」


 よく分からない理屈だった。


 結局、シュウが窓側。


 エリオットが扉側。


 荷物をそれぞれの収納へ入れていく。


 ハンスとカイルも手伝ってくれたが、途中からシュウはできるだけ自分でやることにした。


 今日からここは自分の部屋になる。


 使用人はいない。


 着替えも。


 荷物の整理も。


 机の管理も。


 基本的には自分でやる。


「シュウ様」


 ハンスが収納棚を見ながら声をかける。


「何?」


「薬はこちらへ置かれるのですか?」


「また薬!?」


「重要です」


「鞄に入ってる」


「日常用と携帯用を分けた方がよろしいかと」


「……なるほど」


 正論だった。


 母から渡された薬は、普段使うものと緊急用がある。


 シュウは棚の一段を空け、そこへ日常用の薬を置いた。


「これでいい?」


「はい」


「母さんみたいになってきたね、ハンス」


「エレノア様よりお預かりした役目ですので」


「いつまで?」


「少なくとも私が王都にいる間は」


「あと二日か……」


 口にしたあと、少しだけ空気が変わった。


 ハンスの手が止まる。


 カイルもこちらを見る。


 エリオットは事情を知らないため、黙って自分の本を棚へ並べている。


「帰るんだよね」


「はい」


 ハンスが答える。


「本来、そのためにお連れしたのですから」


「分かってる」


 シュウは自分の机へ筆記具を置く。


 家族と別れたときほど大きな寂しさではない。


 でも、旅の間ずっと一緒だった。


 街道で馬車を直したときも。


 宿へ泊まったときも。


 王都を初めて見たときも。


 二人がいた。


「ありがとう」


 自然と口から出た。


 ハンスが少し目を見開く。


 カイルも動きを止める。


「まだ帰る前だけど」


 シュウは少し照れながら続けた。


「ここまで連れてきてくれて。俺、旅そのものも楽しかったから」


「……そう言っていただければ、我々も同行した甲斐があります」


 ハンスの声が少し柔らかくなる。


「旦那様からは、シュウ様を無事に学院へ届けることが最優先と命じられておりました」


「父さんらしい」


「エレノア様からは、食事と薬と睡眠を確認するように」


「母さんらしい」


「レイモンド様からは」


 カイルが口を挟む。


「シュウ様が王都を見てどんな顔をしたか覚えて帰ってこい、と」


「兄さん何頼んでるの!?」


「しっかり覚えています」


「忘れて!」


「無理です」


 二人が笑う。


 シュウも笑った。


 少しだけ湿りかけた空気が、いつもの旅の空気へ戻った。


 それでよかった。


     ◇


 荷物整理が一段落したころ、廊下から鐘が鳴った。


 午前十時。


 寮規則説明の時間だ。


「じゃあ行ってくる」


 シュウは鞄を持つ。


 エリオットも慌てて筆記具を探し始めた。


「待って、紙どこ入れたっけ」


「さっき机の二段目に入れてなかった?」


「何でシュウが覚えてるんだよ」


「目の前で入れてたから」


「あった!」


「先が不安だな……」


《マスターも他人のことを言えるでしょうか》


『薬のこと?』


《はい》


『黙って』


 ハンスたちはここで一度離れる。


 玄関付近で待つ必要もないため、荷物搬入が終われば宿へ戻る予定だ。


「それではシュウ様」


「うん」


「説明をよく聞いてください」


「分かってる」


「分からないことがあれば寮監へ」


「うん」


「体調が悪ければ医務室へ」


「うん」


「何か問題が――」


「ハンス」


 シュウが笑う。


「母さんみたいになってる」


 ハンスが止まった。


 カイルが横を向いて肩を震わせる。


「……失礼しました」


「いいよ」


 むしろ嬉しい。


「また明日、入学式で」


「はい」


 ハンスが一礼する。


 カイルも続く。


「入学式、遅刻しないでくださいね」


「しないよ!」


「エリオット殿」


 突然呼ばれ、エリオットが背筋を伸ばす。


「は、はい!」


「シュウ様をよろしくお願いいたします」


「えっ」


 エリオットがシュウを見る。


 シュウもハンスを見る。


「俺が頼まれる側じゃない?」


「同室者同士ですので」


「そういうもの?」


「そういうものです」


 ハンスは最後に少し笑い、カイルと共に廊下を歩いていった。


 シュウはその背中を見送る。


 角を曲がる。


 見えなくなる。


 胸の奥へ、少しだけ空白ができた。


「……行く?」


 横からエリオットの声がした。


「うん」


 シュウは扉を閉める。


 鍵を掛ける。


 三一七号室。


 自分の部屋。


 そして。


 初めて、家族も護衛もいない状態で学院生活へ向かう。


「行こう」


 今度は少し強く言った。


     ◇


 第一寮の食堂には、百人近い新入生が集まっていた。


 長い卓が何列も並び、既に多くの席が埋まっている。あちこちから話し声が上がり、家柄や出身地を尋ねる声、同室者同士で話しているらしい声が重なっていた。


 シュウとエリオットは空いている席を見つけて並んで座る。


「多いな」


「第一寮だけでこれ?」


「たぶん」


 周囲を見渡す。


 貴族らしい服装の者。


 平民らしい者。


 体格のいい少年。


 見るからに緊張している少年。


 既に数人で盛り上がっている者もいる。


「俺たち、遅かった?」


「まだ時間ちょうどだよ」


 シュウが答えたところで、前方へ一人の男性が立った。


 五十代ほど。


 短く整えた灰色の髪。


 学院職員用らしい濃紺の服。


 騒がしかった食堂が少しずつ静かになる。


「全員、席へ着いたな」


 低いがよく通る声だった。


「私は男子第一寮の寮監を務める、グレン・ハーディだ。学院の教員ではないが、少なくとも諸君がこの寮で生活している間は、教師より頻繁に顔を見ることになるだろう」


 数人が小さく笑う。


 グレンは表情をほとんど変えない。


「最初に一つ言っておく。ここへ来るまで、諸君にはそれぞれの生活があったはずだ。貴族家で使用人に身の回りのことを任せていた者もいれば、家業を手伝いながら暮らしていた者もいるだろう。しかし寮へ入った以上、自分のことは基本的に自分で行ってもらう」


 シュウは自然と背筋を伸ばした。


「部屋の清掃。衣服の管理。時間管理。体調管理。これらは魔法以前の問題だ。床に脱いだ服を一週間積み上げた者を、火属性魔法で焼却処分したいという相談は受け付けない」


 一瞬の静寂。


 それから笑いが起こった。


 シュウも吹き出す。


「過去にいたのかな」


 小声でエリオットへ聞く。


「絶対いたんだろ」


「静かに」


 前からグレンの声が飛んできた。


 二人とも口を閉じる。


 周囲からまた小さな笑いが起きた。


 見られていたらしい。


「次に、身分について」


 食堂の空気が少し変わった。


「王立魔法学院には、王族、上級貴族、下級貴族、騎士家、商家、職人家、農家、そのほか様々な出自の学生が在籍する。学院外の身分制度を存在しないものとして扱うわけではないが、授業・試験・寮生活において、他の学生へ身分を理由に不当な命令を行うことは禁止されている」


 シュウは静かに聞く。


 隣のエリオットも真剣な顔になっていた。


「逆も同じだ。貴族だからという理由だけで敵視することも認めない。相手を見るなら、本人を見ろ。問題が起きた場合は、拳や魔法を使う前に寮監へ来い」


 父の言葉と少し似ている。


 爵位だけで人を見ない。


 自分の爵位だけで接しない。


 王立学院側も、完全に同じではないにせよ、似た考え方を持っているらしい。


「いいな」


 シュウが小さく呟く。


 エリオットが横を見る。


「何が?」


「ここ」


 それだけ答える。


 エリオットは少し考えたあと、頷いた。


「俺も」


 規則説明は続いた。


 門限。


 外泊申請。


 食事時間。


 共用浴場。


 洗濯設備。


 消灯時刻。


 魔法使用の制限。


 特に寮内での攻撃魔法は禁止。


「火属性の練習を部屋で行うな。風属性で洗濯物を乾かそうとして窓から全て飛ばすな。水属性で浴室を作ろうとするな。過去に全て実例がある」


 今度は食堂全体が笑った。


「学院生って結構馬鹿だな」


 エリオットが呟く。


「俺たちもこれから学院生だけど」


「……気をつけよう」


「うん」


《マスターには特に強く推奨します》


『何で俺だけ?』


《保有能力の規模を考慮した結果です》


『寮で漆黒魔力撃ったりしないよ!』


 心の中で反論する。


 北部森林で戦ってきたせいで感覚がずれそうになるが、ここは生活する場所だ。


 能力実験をするなら訓練場。


 それくらいは分かっている。


「最後に」


 グレンが全体を見る。


「明日は入学式だ。式のあと、学級編成と今後の予定が発表される。本日午後は指定された範囲内で学院施設を見学して構わないが、研究棟の一部、実技場内部、上級生用施設には立ち入るな」


 シュウは少し前のめりになった。


 午後。


 セシリアたちと見て回れる。


「図書館は?」


 どこかから声が上がった。


「本日は一階閲覧室のみ開放されている。貸出登録は入学式後だ」


 シュウとエリオットが同時に反応した。


「行く?」


 エリオットが小声で聞く。


「行く」


 即答。


「俺も」


「じゃあ午後――」


 言いかけて、シュウは思い出す。


「あ、俺、二時に約束ある」


「友達?」


「まだ……知り合い?」


「何で疑問形なんだよ」


「街道で会った三人なんだ。昨日一緒に王都まで来て」


「へえ」


「一緒に学院見ようって話してて、そのうち一人が図書館行きたいって」


 エリオットが少しだけ迷ったような顔をした。


「じゃあ俺は別で行くか」


「一緒に来る?」


「いいの?」


「俺はいいけど、三人にも聞いてみる」


 言ってから、少し不思議な気分になった。


 昨日までは知り合いが増えるか心配していた。


 今は、昨日知り合った三人へ、今日知り合った同室者を紹介しようとしている。


《ダン方式の影響が確認されます》


『言わないで。自覚したから』


 少し悔しい。


 でも悪くない。


     ◇


 規則説明が終わると、そのまま寮内の案内が始まった。


 一階。


 食堂。


 談話室。


 寮監室。


 簡易医務室。


 二階と三階の居住区。


 裏庭。


 共用浴場。


 洗濯場。


 特に洗濯場では、貴族家出身らしい何人かが露骨に困った顔をした。


「洗濯……自分で?」


 近くの少年が呟く。


 案内担当の職員が笑う。


「有料で洗濯を請け負う業者も学院外にあります。ただし下着まで毎回人に頼むかどうかは、各自で判断してください」


 周囲から笑いが起こる。


 シュウも少し困った。


「俺もちゃんと洗濯したことない」


「俺はある」


 エリオットが言う。


「本当?」


「家でやってたから」


「教えて」


「いいよ。その代わり」


 エリオットが少し考える。


「魔法、得意?」


「……まあ」


 答えに迷う。


 得意と言っていい。


 普通の魔法訓練も受けてきた。


 ただしアルカディアの力まで含めると、話が大きく変わる。


「俺、魔力制御が苦手なんだ」


 エリオットが少し声を落とす。


「入学試験でも、筆記は良かったんだけど実技がギリギリで。もし同じ授業になったら、分かるところ教えてほしい」


「それくらいなら」


「じゃあ洗濯と交換」


「成立」


 二人で握手する。


「何の契約だ、それ」


 前を歩いていた別の少年が振り返って笑った。


「生活技能交換」


 エリオットが答える。


「俺も入れてくれよ。裁縫ならできるぞ」


「本当?」


「実家が服屋だからな」


 知らない少年が会話へ入ってくる。


 名前もまだ知らない。


 それでも不自然ではない。


 寮という場所は、こういうものなのかもしれない。


 シュウは少し笑った。


     ◇


 案内が終わったのは昼前だった。


 寮の食堂では今日から新入生も食事を取れる。


 長い卓へ料理が並び、各自で受け取って席へ運ぶ形式だった。


「自分で取るんだ」


「食べ放題?」


 エリオットが目を輝かせる。


「限度あるでしょ」


「パン何個まで?」


「そこ気になる?」


 周囲を見ると、好きな量を取っているようだ。


 ただし食べ残しは禁止と掲示されている。


 シュウは煮込み料理、パン、焼いた鶏肉、野菜を皿へ取った。


 エリオットはパンを四つ取った。


「多くない?」


「朝少なかったから」


「食べきれるならいいけど」


 二人で空いている卓へ座る。


 周囲には、朝の説明で見た顔がいくつもある。


 既に数人の集団になっている者もいれば、一人で静かに食べている者もいる。


 シュウは鶏肉を口へ運ぶ。


「……うまい」


「普通にうまいな」


「毎日これなら大丈夫そう」


《エレノア様への報告事項として有用です》


『書くよ』


 母が一番気にしていたことの一つ。


 ちゃんと食べられるか。


 これなら心配ない。


「シュウって、さっきからたまに黙るよな」


 エリオットに言われ、手が止まった。


「え?」


「何か考えてるみたいな顔する」


「……する?」


「する」


 来た。


 家族やハンスたちはもう慣れている。


 アルカディアと会話しているときの顔。


 学院では当然、誰も知らない。


「ちょっと考え事する癖があって」


「へえ」


 エリオットは深く追及しなかった。


「俺は本読んでると周りの声聞こえなくなるから、似たようなもんか」


「そういうことにしといて」


「分かった」


 助かる。


《将来的には対策が必要でしょう》


『うん』


 何百人もの学生がいる。


 毎回「考え事」で通せるかは分からない。


 アルカディアとの会話頻度を少し抑える必要があるかもしれない。


《必要であれば、緊急性の低い発言を制限します》


 アルカディアから提案された。


『できるの?』


《はい。重大な危険、能力管理上の必要事項、マスターからの呼びかけ、黒歴史に関連する重要事象を優先し、それ以外の発言頻度を低下させることは可能です》


『最後のやつ必要?』


《重要です》


『誰にとって?』


《私にとって》


 シュウは危うく声を出しそうになった。


 慌てて水を飲む。


「むせた?」


「大丈夫」


 エリオットが心配そうに見る。


 やはり対策は必要だ。


『じゃあ学院では少し控えめでお願い。ただし危険とか能力関係は絶対言って』


《承知しました》


『あと黒歴史は』


《重要事象のみ》


『……そこは譲らないんだ』


《はい》


 まあいい。


 完全に黙られるのも、それはそれで寂しい気がする。


 シュウは食事へ戻った。


     ◇


 昼食後。


 三一七号室へ戻ると、午前中とは少し雰囲気が変わっていた。


 シュウの服が収納へ入り、机には筆記具と家族写真代わりの小さな家紋飾りが置かれている。エリオット側の棚には大量の本が並び、入りきらなかった数冊が既に机へ積まれていた。


「本当に今日からここなんだな」


 シュウは部屋の中央で立ち止まった。


 朝はまだ「割り当てられた部屋」だった。


 今は少しだけ「自分たちの部屋」になっている。


「そうだ」


 手紙。


 シュウは机へ座った。


「何するの?」


「家に手紙」


「もう?」


「王都着いたこと、まだ伝えてないから」


「真面目だな」


「母さんが心配するんだよ」


「うちも書こうかな……」


 エリオットも自分の机を見る。


「書けば?」


「何書く?」


「着いた。部屋決まった。同室の奴は今のところ怖くない」


「今のところ!?」


「だってまだ数時間だし」


「じゃあ俺も『同室の男爵家の息子は今のところ偉そうじゃない』って書く」


「今のところ付けるんだ」


 二人で笑う。


 シュウは便箋を広げた。


 父さん、母さん、兄さんへ。


 王都へ無事に着きました。


 昨日は初めて王都を見て――。


 筆が進む。


 北大門。


 王都の人の多さ。


 魔法噴水。


 学院。


 到着確認。


 今日の寮。


 同室のエリオット。


 食堂の料理。


 洗濯を覚えなければならないこと。


 書きたいことが多い。


「……また長くなるな」


「いいんじゃない?」


 エリオットが自分の便箋を前にしながら言う。


「読む方、嬉しいだろ」


「そうかな」


「俺だったら嬉しい」


 何気ない言葉。


 シュウは少し手を止めた。


 家にいる三人の顔を思い浮かべる。


 父。


 母。


 兄。


「じゃあ長くする」


「最初からそうするつもりだっただろ」


「ばれた?」


「もう二枚目じゃん」


 笑いながら、続きを書く。


 最後に。


 学院生活、楽しめそうです。


 そう書いた。


 少し考えてから、もう一行。


 心配しなくて大丈夫です。


 そこで手を止める。


 いや。


 母はこれを読んでも心配するだろう。


 だから書き直した。


 心配はすると思うけど、ちゃんと困ったら誰かに相談します。


「これでいいか」


 母との約束。


 困ったときは、困ったと言う。


 守るつもりだ。


     ◇


 手紙を書き終えたころには、午後一時を少し回っていた。


「待ち合わせ二時だっけ?」


「うん」


「まだ早い?」


「中央広場まで歩いて十分くらいだから、少し余裕ある」


「俺、本当に行っていいの?」


 エリオットが今さら確認する。


「聞いてみるって言ったでしょ」


「嫌がられたら?」


「そのときは俺たちだけで別の場所見る?」


「それでいい」


 エリオットは頷いた。


 シュウは鞄を確認する。


 案内書。


 財布。


 筆記具。


 薬。


「薬よし」


「薬?」


「母さんに言われてるから」


「病気?」


「違う。普通の常備薬」


「ああ」


 何でもない会話。


 こういうことも、少しずつ互いに知っていくのだろう。


「行こうか」


「うん」


 部屋を出る。


 鍵を掛ける。


 朝とは違い、もう手順に少し慣れた。


 三階から階段を下りる。


 談話室には何人もの新入生がいて、既にカード遊びを始めている者までいる。


「馴染むの早いな」


「俺たちも似たようなもんじゃない?」


「確かに」


 寮の玄関を出る。


 午後の陽射し。


 学院の空気。


 朝より家族連れが減り、代わりに新入生だけで歩いている姿が増えていた。


 今日からここで暮らす。


 その事実が、少しずつ身体へ馴染み始めている。


     ◇


 中央広場へ着いたのは、待ち合わせより十五分ほど早かった。


「早すぎた?」


「俺、待つの平気」


 エリオットはそう言うと、鞄から小さな本を取り出した。


「持ってきてるの!?」


「待ち時間用」


「本当に好きなんだな」


「だから箱があんな重かったんだよ」


「納得した」


 シュウは噴水の縁から少し離れたベンチへ座る。


 水球がゆっくり宙を回っている。


 午前中より人が少ない。


 入学前日の午後。


 学院生活が本格的に始まる直前の、少し不思議な時間だ。


《マスター》


 発言頻度を抑える設定にしたアルカディアが、静かに呼ぶ。


『どうした?』


《周辺に危険反応はありません。単なる確認ですが、選択能力枠は現在も空欄です》


『うん。そのままで』


《承知しました》


 危険なし。


 能力も選ばない。


 今日は普通の学院生として過ごす。


 それが少し嬉しい。


「シュウ!」


 聞き慣れ始めた大声が広場へ響いた。


 シュウは顔を上げる。


 向こうからダンが走ってくる。


 その後ろにセシリア。


 さらに少し遅れてユリウス。


「早いな!」


「ダンもね」


「楽しみだったから!」


「声が大きい」


 セシリアが追いつき、少し息を整える。


「走らないでください。こちらまで急がなければならない気になるでしょう」


「別に走らなくていいのに」


「一人だけ先へ行くからです」


 ユリウスはいつものように本を抱えている。


 そして。


 三人の視線が、シュウの隣へ座っているエリオットへ向いた。


 エリオットが本を閉じる。


 少し緊張した顔。


「シュウ?」


 ダンが分かりやすく首を傾げる。


「ああ。紹介する」


 シュウは立ち上がった。


「今日、寮で同室になったエリオット・ファーレン。もしよかったら一緒に学院見て回ってもいいかなって」


 エリオットも立つ。


「エリオットです。急にすみません」


 少し硬い。


 朝、シュウと初めて会ったときより緊張している。


 ダンが数歩近づく。


 じっと見る。


 エリオットの肩が少し固くなる。


 そして。


「俺、ダン・クレイ! よろしく!」


 手を出した。


「……あ、うん。よろしく」


 エリオットが握る。


「魔法何得意?」


「え?」


「俺は強化系と土! あと剣!」


「ダンさん」


 セシリアの声が低くなる。


「最初から一度に聞かない」


「一個だろ?」


「三つ言っています」


 シュウは思わず笑った。


「大丈夫。ダン、俺のときもこんな感じだから」


「そうなの?」


 エリオットの緊張が少し解ける。


 セシリアも近づいた。


「セシリア・ノールです。よろしくお願いします」


「よろしく」


「ユリウス・ベルン」


「よろしく」


 ユリウスの挨拶は短い。


 しかし、エリオットが持っている本へ視線が止まった。


「それ」


「え?」


「『基礎術式構造論』?」


 エリオットの顔が変わった。


「知ってる?」


「読んだ」


「本当!? 第二版?」


「第三版」


「第三版あるの!?」


「去年出た」


「知らなかった……!」


 突然、二人の間だけ空気が変わった。


 シュウ。


 ダン。


 セシリア。


 三人が取り残される。


「第三版は二章の循環式説明が変わってる」


「え、あそこ? 第二版だと補助線の説明分かりにくかったところ?」


「そう」


「読みたい!」


「図書館にあると思う」


「行こう!」


 今度はエリオットの声が一番大きかった。


 ユリウスがほんの少し笑う。


「行くつもりだった」


「……もう仲良くなった?」


 シュウが呟く。


 セシリアが苦笑する。


「好きなものが同じというのは強いですね」


「俺、本読まないんだけど」


 ダンが言う。


「知っています」


「何で!?」


「昨日から見ていれば何となく分かります」


「俺だって読むぞ!」


「何を?」


「……剣の本」


「題名は?」


「えっと」


「読んでないでしょ」


「読む予定はある!」


 また笑いが起こる。


 シュウはその輪の中で、少しだけ周囲を見た。


 昨日まで。


 自分。


 セシリア。


 ダン。


 ユリウス。


 今日。


 そこへエリオットがいる。


 五人。


 だからといって、この五人がこれからずっと一緒にいると決まったわけではない。


 友人関係すら、まだ始まったばかりだ。


 クラスが別になるかもしれない。


 授業で別の相手と仲良くなるかもしれない。


 自然と離れることだってある。


 でも今は。


「じゃあ、行こうか」


 シュウが言った。


「まずどこ?」


 ダンが聞く。


「図書館!」


 エリオット。


「図書館」


 ユリウス。


 二人の声が重なる。


 ダンが顔をしかめた。


「いきなり?」


「約束してたでしょ」


 シュウが言う。


「学院見るって」


「見るけど、もっとこう……訓練場とか!」


「立ち入り禁止って言われなかった?」


「外から見る!」


「それは後でもいいでしょう」


 セシリアが学院案内図を広げる。


「図書館はここから西側です。途中に中央講義棟がありますから、そこも見られますね」


「決まり」


 シュウは歩き出した。


 五人が続く。


 午後の日差しの中、噴水の水音が少しずつ遠ざかっていく。


 今日の朝まで。


 シュウは、この学院に自分の居場所があるのか少し不安だった。


 知らない人ばかり。


 知らない建物。


 知らない規則。


 家族もいない。


 護衛もいなくなる。


 けれど今は。


 同じ部屋へ帰る相手が一人いる。


 明日も会うだろう相手が三人いる。


 まだ、それだけ。


 それだけなのに。


《マスター》


『ん?』


《楽しそうですね》


 アルカディアの声。


 シュウは前を歩く四人を見る。


 本の話を続けるユリウスとエリオット。


 その会話へ何とか入ろうとして失敗しているダン。


 呆れながらも笑っているセシリア。


 シュウも笑った。


『うん』


 短く答える。


『楽しい』


 王立魔法学院。


 まだ入学式さえ迎えていない。


 授業も。


 試験も。


 魔法実技も。


 何一つ始まっていない。


 それでもシュウにとっての学院生活は、もしかすると明日の式典ではなく、今日、三一七号室の鍵を受け取った瞬間から、もう静かに始まっていたのかもしれなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。