第17話 初めて見る王都は、想像よりずっと大きかった
リーデンの東門を抜けてから一刻ほど経つと、街道を行く馬車の数は昨日までとは比べものにならないほど増えていた。
朝のうちは前後に数台見える程度だったものが、太陽が少しずつ高くなるにつれて途切れなくなっていく。王都へ食料を運ぶ荷馬車、布を積んだ商隊、屋根にまで荷物を括りつけた乗合馬車、馬に乗った冒険者らしい一団までが同じ方向へ進み、反対側の車線では王都から各地へ向かう人々が次々とすれ違っていった。
シュウは馬車の窓を開けたまま、その光景を飽きずに眺めていた。
「昨日より多いどころじゃないな」
「この辺りまで来れば、ほとんど王都圏内ですからね」
馬上のハンスが速度を合わせながら答える。彼の向こうを大きな荷馬車が通り過ぎ、その荷台にはアルヴェイン領ではあまり見ない鮮やかな色の果物が木箱いっぱいに積まれていた。
「王都で暮らす人間だけでも相当な数です。そこへ周辺の町や村、各領地から商人や旅人が毎日出入りします。学院の入学時期だから多少は増えていますが、普段から人通りの多い街道ですよ」
「これが普段から……」
シュウは思わず窓枠へ腕を置いた。
アルヴェイン領都にも人はいる。市場の日になれば中央通りは賑わうし、祭りのときには歩く場所を探すほど混雑することもあった。
だが、ここでは祭りでも何でもない。
ただの朝だ。
それなのに街道だけでこの人数がいる。
《十四歳当時のマスターが設定された帝都人口より、現実の王都人口の方が多い可能性があります》
『今その比較いる?』
《王都規模の把握に有用かと》
『比較対象が黒歴史なんだよ』
《では帝都ノクス・アルカディアの――》
『名前まで出さなくていい!』
昨日、途中まで聞かされてしまった帝都名が再び脳内へ響き、シュウは額を押さえた。
その動きを見たカイルが、前方から少しだけ馬を寄せてくる。
「馬車酔いですか?」
「違う。十四歳の俺に酔ってる」
「……昨日の国家運営ですか?」
「覚えなくていいからね?」
「はい。詳しく聞くのはやめておきます」
カイルは妙に理解のある顔で頷き、元の位置へ戻っていった。
《賢明な判断です》
『お前が言うな』
シュウは息を吐き、改めて外へ目を向けた。
後ろには、セシリアたちの馬車がいる。
朝一番にダンが「競争だ」と宣言したわりには、相手側の護衛から止められたあと素直に諦めたらしい。二台の馬車は一定の距離を保ったまま、流れに合わせて街道を進んでいた。
もっとも、ときどき窓から赤茶色の頭が出てくるので、ダンが大人しくなったわけではない。
ちょうど今も顔を出した。
こちらを見つける。
手を振る。
シュウも振り返すと、なぜかダンが親指を立てた。
「何だろう」
《不明です》
「だよな」
それでも、昨日の朝なら少し戸惑っていたであろうやり取りが、今日はもう自然になっている。
まだ知り合って二日目だ。
それなのに不思議だった。
学院へ着いてからも、こうして話せるだろうか。
クラスや寮が別になれば、会う機会は減るのかもしれない。それぞれ新しい友人ができれば、街道で偶然知り合った相手など自然と離れていく可能性もある。
そう考えた瞬間、胸の奥へ小さな引っかかりが生まれた。
シュウはそれを感じたまま、少しだけ考える。
別に、今ここで答えを出す必要はない。
友達かどうかを決める必要もない。
学院に着いて、また会ったら話せばいい。それだけのことなのだろう。
「……うん」
《何か結論が出ましたか?》
『会ったら話す』
《非常に単純ですね》
『ダン方式』
《一定の有効性は実証されつつあります》
『だろ?』
本人へ言えば調子に乗りそうなので、黙っておくことにした。
◇
王都へ向かう街道は、ただ広いだけではなかった。
しばらく進むと左右に一定間隔で背の低い石柱が現れ、その上には淡く光る透明な石が埋め込まれていた。昼間なので光はほとんど分からないが、シュウが興味深そうに見ていると、御者が「あれは夜間用ですよ」と教えてくれた。
「街道に明かりがつくの?」
「王都から近い区間だけですがね。日が落ちると灯り石が光ります。全部ではありませんが、主要な分岐や橋の周辺には多いですよ」
「すご……」
思わず声が漏れる。
アルヴェイン領でも、領都の中心部には魔導灯がある。しかし街道そのものへ一定間隔で設置するとなれば、必要な数も維持費も桁違いだろう。
昨日は風航術。
その前は温熱石や方位盤。
今日は街道照明。
旅へ出てから、魔法が戦うためだけのものではないと何度も見せつけられている。
「これ、誰が魔力入れるんだろ」
「専門の管理人がいると聞いております」
ハンスが答えた。
「王都周辺の街道設備は、王家直轄の管理局が担当しています。定期的に魔石を交換するものもあれば、周囲の魔力を少しずつ蓄積する型もあるそうですが、私も詳しくはありません」
「周囲から勝手に?」
「正確には自然魔力を集める術式ですね」
「そんなのあるんだ」
シュウは石柱を目で追った。
知りたい。
どういう仕組みなのか。
どれくらい集められるのか。
人の魔力との違いは何か。
戦闘へ使えるほどの出力はあるのか。
疑問が次々と浮かんでくる。
《関心項目へ「自然魔力集積術式」を追加します》
『増えてくなあ』
《現在、王都および学院で確認したい項目は二十七件です》
『そんなに!?』
《昨日からマスターが「見たい」「知りたい」「行きたい」と発言した内容を整理した結果です》
『……全部は無理だな』
《学院在籍期間は一日ではありません》
その言葉に、シュウは少しだけ目を瞬いた。
そうだ。
旅は明日――いや、今日で一区切りになる。
だが、王都での生活は今日から始まる。
数日だけ滞在して帰るわけではない。
学院へ通う間、何年もここで暮らすのだ。
「急がなくていいのか」
《はい》
北部森林でも同じことを学んだはずなのに、知らないものを前にするとすぐに全部知りたくなってしまう。
シュウは自分で可笑しくなり、口元を緩めた。
◇
昼前になると、街道の先に大きな橋が見えてきた。
昨日渡ったラウゼン川より川幅は狭いものの、橋そのものは立派な石造りで、二台の大型馬車が余裕をもってすれ違えるほど広い。両端には王国の紋章が刻まれた柱が立ち、橋のたもとには小規模な休憩所まで設けられていた。
馬を休ませるため、シュウたちもそこで一度停車する。
馬車から降りると、長時間座っていた身体へ一気に血が巡るような感覚があった。シュウは腰を伸ばし、川から吹いてくる少し湿った風を吸い込む。
「んー……」
「もう少しで昼ですね」
カイルも馬から降り、肩を回している。
「ここで食べる?」
「その予定です。王都の門前で混雑する可能性がありますので、早めに食事を済ませておきましょう」
ハンスが答えたところで、後ろから馬車の扉が開いた。
「着いたー!」
ダンが勢いよく降りてくる。
「王都じゃないけど」
「休憩所に!」
「それなら合ってる」
続いてセシリアとユリウスも降りた。
昨日の昼休憩以来、二台の馬車で走っていても移動中に会話することはほとんどできない。そのせいか、ダンは地面へ足をつけるなり真っすぐシュウのところへ来た。
「シュウ、王都見えた?」
「まだ」
「俺も!」
「じゃあ何で聞いたの?」
「そっちの馬車からなら見えたかもしれないだろ」
「同じ道走ってるんだから変わらないでしょ」
セシリアの指摘に、ダンが「あ」と口を開く。
ユリウスはその横を通り過ぎながら、小さく息を吐いた。
「二日目でまだそれに付き合えるシュウはすごいと思う」
「ユリウス、昨日より言葉きつくなってない?」
「慣れた」
「誰に!?」
「ダンに」
「俺!?」
シュウが吹き出す。
セシリアも肩を震わせていた。
周囲には同年代らしい旅人が何組もいて、こちらの騒ぎをちらりと見る者もいる。しかし入学時期の街道では似たような若者が珍しくないのか、すぐに自分たちの会話へ戻っていった。
「昼、一緒に食べる?」
シュウが言った。
三人が一瞬こちらを見る。
昨日はダンが勝手に串を四本買った。
今日はシュウから誘った。
それだけの違いなのに、口に出したあと少しだけ緊張する。
「食べる!」
ダンの返事が早すぎて、その緊張は一瞬で消えた。
「あなたは少し考えてから返事をしなさい」
「昼飯一緒に食うのに何考えるんだよ」
「こちらの護衛の予定などがあります」
セシリアが相手側の護衛へ視線を向ける。
中年の騎士は苦笑しながら頷いた。
「出発予定を守っていただければ構いません」
「だって」
ダンが得意げに言う。
「あなたが許可したわけではないでしょう」
結局、二つの一行は休憩所の端にある屋根付きの卓を使うことになった。
護衛や御者たちは隣の卓へ座る。
シュウたち四人の前には、それぞれ宿で用意してもらった包みが置かれた。
「何入ってる?」
ダンがシュウの包みを覗き込む。
「まだ開けてない」
「俺のは肉だった」
「もう開けたの?」
「さっき」
「馬車の中で?」
「気になったから」
セシリアが何か言いたそうな顔をしたが、諦めたように自分の包みを開いた。
シュウも紐を解く。
硬めのパン。
燻製肉。
チーズ。
干した果物。
旅の昼食としては定番になりつつある。
「家だと昼にこれ食べることないんだよな」
シュウがパンをちぎりながら言う。
「貴族ですものね」
セシリアが答える。
「セシリアもでしょ?」
「うちは騎士爵家に近い家ですが、そこまで裕福ではありませんよ」
昨日、ダンが勝手に彼女の家柄を説明しかけて不快そうにしていたことを思い出し、シュウはそれ以上深く聞かなかった。
代わりに、セシリア自身が少し考えてから続ける。
「父は地方騎士団の仕事が中心です。領地と呼べるほどの土地もほとんどありませんし、家族で食卓を囲むときは普通の料理が多いです」
「騎士なんだ」
「はい」
「だから護衛の人とも慣れてる感じなんだ」
「子供のころから父の部下の方々が家へ出入りしていましたから」
少しずつ知っていく。
昨日は名前だけ。
今日は家のことを一つ。
それでいいのだろう。
「ユリウスは?」
ダンが聞いた。
ユリウスがパンを食べる手を止める。
「何が?」
「家」
「昨日言った」
「平民ってだけだろ」
「それで十分」
淡々と返す。
ダンが口を尖らせかけたので、シュウは何も言わず様子を見た。
昨日なら、ここでダンがさらに聞いたかもしれない。
だが今日は違った。
「そっか」
それだけ言って、自分の昼食へ戻る。
セシリアも何も補足しない。
ユリウスは一瞬だけダンを見て、それからまたパンを口へ運んだ。
シュウはその小さなやり取りを見ながら、二日でも人は相手との距離を覚えるのだと思った。
「シュウは兄弟いるんだよな?」
少ししてダンが話題を変えた。
「兄さんが一人」
「強い?」
「何で最初にそこ?」
「騎士爵家だと強いかどうか気になるんだよ」
「俺は男爵家なんだけど」
「で、強い?」
「強いよ。剣も魔法も俺よりずっと真面目にやってる」
《魔力量および特殊能力を含めた純粋戦闘能力で比較した場合――》
『そういう意味じゃない』
兄の強さは、アルカディアの能力と比べるようなものではない。
レイモンドは領主の跡継ぎとして剣も魔法も学び、領地経営も勉強している。北部森林の事件でも、前へ出たい気持ちを抑えながら領地側に残り、自分の役割を果たした。
「俺、兄さんみたいにはなれないな」
自然と口から出た。
ダンが首を傾げる。
「なる必要ある?」
「え?」
「兄貴は兄貴だろ。シュウはシュウじゃん」
あまりにも簡単に言われ、シュウは返事を忘れた。
ダンは深い意味などなさそうに燻製肉を噛んでいる。
セシリアが少し笑った。
「たまに、とても真っ当なことを言うのよね」
「たまにって何だよ!」
「普段の行動を思い返してください」
「俺いつも真っ当だろ!」
「今朝、馬車で競争しようとして護衛の方に怒られていました」
「それは……」
ダンが言葉に詰まる。
ユリウスが水を飲みながら付け加えた。
「昨日は寝癖」
「寝癖は行動じゃないだろ!」
笑い声が卓を囲む。
シュウも笑った。
それでも、ダンの言葉は胸のどこかへ残った。
兄は兄。
自分は自分。
父からも、兄本人からも似たことを言われてきたはずなのに、家の事情を何も知らない同年代から言われると、少し違って聞こえる。
シュウはパンを一口食べ、噛みながら遠くの街道を眺めた。
王都へ向かう馬車が、今も絶えず流れている。
◇
昼休憩を終えて再び出発すると、景色はさらに変わった。
畑が増えた。
それも、アルヴェイン領で見るような小規模な畑だけではない。見渡す限り同じ作物が並ぶ広大な農地があり、ところどころに大型の水路が通っている。
水路の一部では、水車とは違う装置が回っていた。
「あれ何?」
シュウが身を乗り出しかけ、慌てて窓枠へ手をつく。
「揚水魔導機でしょう」
ハンスが答える。
「川や水路から高い場所へ水を上げる設備です」
「魔法で?」
「水属性と風属性の術式を組み合わせていると聞いたことがあります」
「また知らないやつ出てきた」
《確認希望項目、二十八件目》
『増やさなくていいから!』
それでも目が離せない。
回転する輪。
その横を流れる水。
高い位置へ汲み上げられた水が、別の細い水路へ分かれて畑へ流れていく。
魔法で敵を倒す。
魔法で傷を治す。
魔法で船を動かす。
魔法で街道を照らす。
魔法で畑へ水を運ぶ。
同じ「魔法」という言葉の中に、知らない世界がいくつもある。
「学院、楽しみだな」
誰へ言うでもなく呟いた。
《昨日より発言回数が増加しています》
『数えてたの?』
《厳密には――》
『言わなくていい』
シュウは笑いながら座席へ戻った。
魔法を学ぶ。
最初から楽しみだった。
だが今は、その「魔法」という言葉自体が旅立つ前よりずっと広くなっている。
学院で何を教わるのか。
自分の知っている魔法が、どれほど狭いものだったのか。
それを知ることさえ楽しみになっていた。
◇
午後。
太陽が少し西へ傾き始めたころ、街道の空気が変わった。
最初に気づいたのは、馬車が少しずつ速度を落としたことだった。
「混んできた?」
シュウが前方を覗く。
何台もの馬車が列になっている。
ただ、渋滞というほど止まってはいない。
その向こうに、人の流れ。
さらに先には、背の高い石造りの建物らしきものがいくつか見え始めている。
「そろそろです」
御者が言った。
声に少し笑みが混じっている。
「何が?」
分かっているのに聞いた。
「王都ですよ」
心臓が一度、大きく鳴った。
シュウは窓へ寄る。
だが、まだ建物の一部しか見えない。
「どこ?」
「もう少し先です。あの丘を越えれば」
街道は緩やかな上り坂になっていた。
前を走る馬車が次々と丘の向こうへ消えていく。
シュウは無意識に姿勢を正した。
後ろを見る。
セシリアたちの馬車もいる。
ダンが窓からこちらを見ている。
向こうも同じらしい。
シュウと目が合うと、珍しく何も叫ばず、ただ前方を指差した。
分かってる。
シュウも頷いた。
馬車が進む。
坂を上る。
少しずつ視界が開けていく。
空が広がる。
遠くの山。
平原。
そして、その中央に。
「……うわ」
それ以外の言葉が出なかった。
王都があった。
最初に見えたのは、巨大な外壁だった。
リーデンの城壁も大きいと思った。
だが比較にならない。
遠くからでも分かるほど長い灰白色の壁が地平線に沿って伸び、その内側には無数の屋根が密集している。赤、青、灰、茶。大小様々な建物が重なり、そのさらに奥には複数の尖塔が空へ突き出していた。
中心部には、ひときわ高い白い建物群。
「あれが王城です」
ハンスの声が聞こえた。
シュウは返事ができなかった。
王城のさらに右。
北東側。
少し離れた位置に、大きな塔がいくつも見える。
「あっちは?」
「おそらく学院区でしょう」
「……学院」
まだ遠い。
それなのに見える。
どれだけ大きいんだ。
馬車の中で見た案内図。
文字。
挿絵。
それらでは全く伝わっていなかった。
前世でも大都市は見たことがある。
高層ビル。
電車。
高速道路。
人の海。
その記憶を持っていても、この景色は別物だった。
石の城壁。
魔法塔。
王城。
何百、何千という屋根。
その上を飛ぶ鳥。
遠くからでも分かる街道の馬車列。
ファンタジーの王都。
そんな言葉で簡単に想像していたものが、今、本当に目の前にある。
「シュウ様」
カイルの声。
「はい。驚きましたね?」
楽しそうだ。
昨日の会話を覚えている。
シュウは少しだけ悔しくなり、口を閉じた。
「……まだ驚いてない」
「先ほど『うわ』と」
「感想」
「同じでは?」
「違う」
「では、王都へ入ってから改めて聞きます」
「絶対認めないから」
そう言いながらも、視線を外せない。
後ろから声が飛んできた。
「でっけええええええ!」
ダンだ。
街道を歩いていた旅人まで振り返るほどの大声だった。
セシリアの「ダンさん!」という声が続く。
シュウは堪えきれず笑った。
「俺より驚いてる人いた」
「比較対象がダン殿でよろしいのですか?」
ハンスが珍しく冗談を言う。
「今日はそれでいい」
胸が高鳴っている。
認めたくないわけではない。
むしろ逆だった。
もっと近くで見たい。
早く入りたい。
でも、少しだけこの遠景を眺めていたい。
そんな相反する気持ちが同時にあった。
《マスター》
『ん?』
《王都到着前の記録として、現在の感想を保存しますか?》
『何で?』
《将来、初めて王都を見た際の感情を振り返る可能性があります》
シュウは少し考えた。
目の前の王都を見る。
『じゃあ……想像より、ずっと大きかった』
《記録しました》
『あと』
風が窓から入る。
知らない街の匂いがする。
『早く行きたい』
《はい》
◇
丘を下り始めると、王都は見えなくなるどころか、進むたびに巨大になっていった。
城壁へ近づくにつれて視界の大半を灰白色の壁が占め、遠くから細い線に見えた塔も、実際にはかなりの高さがあることが分かる。街道沿いには王都へ入る前の商人を相手にする宿や厩舎、荷物預かり所が並び、そこだけで小さな町ほどの規模があった。
さらに驚いたのは、門が一つではなかったことだ。
「どれ入るの?」
「北大門です」
ハンスが前方を示す。
城壁には複数の門が並び、荷馬車用、徒歩用、騎乗者用らしい列が分けられている。衛兵の数もリーデンとは桁違いで、紺色を基調とした制服の兵士が何十人も動いていた。
それでも混乱していない。
標識。
誘導する兵士。
順番に進む馬車。
人が多いからこそ、それを動かす仕組みが作られている。
「すごいな……」
今度は素直に声が出た。
「何がです?」
カイルが聞く。
「人が多いのに、ちゃんと進んでる」
カイルは少し意外そうな顔をしたあと、笑った。
「そこですか」
「だって、これだけいたらもっとぐちゃぐちゃになると思ってた」
「王都ですから」
その一言で済ませるには、かなりの努力が必要なはずだ。
兵士。
役人。
道。
門。
規則。
兄なら、やはりこういうところを見るのだろうか。
「兄さんにも見せたいな」
「レイモンド様もいずれ来られる機会はあるでしょう」
「うん」
列が少しずつ進む。
セシリアたちの馬車も後ろにいる。
門が近づくにつれ、シュウの緊張も別の形へ変わってきた。
ここから先は王都だ。
初めて家族のいない場所で暮らす。
ハンスとカイルも、学院へ送り届ければいずれアルヴェイン領へ戻る。
完全に一人になるわけではない。
寮には学生がいる。
学院には教師もいる。
それでも家とは違う。
「……緊張してきた」
今度は隠さず言った。
「正常ですよ」
ハンスが答える。
馬上から振り返った彼の顔は、いつもの落ち着いたものだった。
「私も初めて王都へ来たときは、門をくぐるだけで緊張しました」
「ハンスでも二回目」
「何度でも申し上げます。私は何でも平然とこなせる人間ではありません」
「そう見えるんだよ」
「年齢を重ねると、そう見せる技術が身につくのです」
「……それ覚えたい」
「学院で学ぶ内容ではないでしょうね」
二人で少し笑う。
肩の力が抜けた。
やがてシュウたちの順番が来た。
◇
「通行証を」
王都北大門。
馬車が検査区画へ入る。
ハンスがアルヴェイン家の通行証と、シュウの学院入学許可を衛兵へ渡した。
衛兵は一枚ずつ確認する。
「アルヴェイン男爵家。シュウ・アルヴェイン殿。王立魔法学院新入生で間違いありませんか?」
「はい」
自分の名前を呼ばれ、シュウは窓越しに答えた。
衛兵は顔と書類を見比べ、それから小さく頷く。
「入学時期につき、学院関係者は北東区の学院受付所で到着確認を行ってください。入学前日までですが、本日中でも受け付けています」
「分かりました」
「王都内では馬車の速度制限があります。学院区へ向かう場合は青い案内標識に従ってください」
説明は手慣れていた。
毎日何人もの新入生へ同じ案内をしているのだろう。
荷物も簡単に確認される。
特に問題なし。
書類が返される。
「ようこそ、王都レグナスへ」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が少しだけ熱くなった。
王都の名前は知っていた。
地図でも見た。
父や兄から話を聞いたこともある。
それでも、門番から「ようこそ」と言われるまで、本当に自分がここへ来たという実感が薄かった。
「……ありがとうございます」
シュウは自然と頭を下げた。
衛兵が次の馬車へ視線を移す。
御者が手綱を動かした。
馬車が進む。
巨大な門の下へ入る。
頭上を石造りの天井が覆い、一瞬だけ日差しが消えた。
車輪の音が壁へ反響する。
カラカラという普段なら聞き慣れた音が、今だけは妙に大きく聞こえた。
暗い門洞の向こうに光がある。
少しずつ近づく。
そして。
馬車が王都の内側へ出た。
「……え」
シュウは、また言葉を失った。
大通り。
人。
店。
建物。
音。
色。
匂い。
何もかもが一度に押し寄せてくる。
三階、四階建ての建物が当たり前のように並び、その一階部分には商店の看板が隙間なく続いている。パンを焼く香りの隣から香辛料の強い匂いが流れ、その向こうでは鍛冶場の金属音が響く。
歩道には人。
車道には馬車。
路地から子供が飛び出しかけ、母親に腕を掴まれている。
旅装の冒険者。
立派な服の商人。
神官。
騎士。
杖を持った魔法使い。
見たことのない衣装の外国人らしき一団。
頭上を見ると、建物と建物の間へ細い金属線が渡され、その下に小型の魔導灯が吊られている。
「……多い」
やっと出た感想がそれだった。
「何がです?」
カイルが聞く。
「全部」
カイルが笑った。
「驚きました?」
昨日から待っていた質問。
シュウは少しだけ抵抗しようとした。
だが、目の前を小型の荷車が自力で動いていくのを見た瞬間、その気が消えた。
「……驚いた」
「勝ちました」
「何に!?」
「昨日の勝負です」
「勝負になってたの!?」
ハンスまで笑っている。
シュウは悔しい。
でも楽しい。
窓から顔を出したくなるのを我慢しながら、右も左も見る。
《マスター》
『今忙しい』
《確認希望項目が――》
『増やさなくていい! 絶対増えるから!』
《既に三十五件です》
『七件も増えてる!?』
王都へ入って数分だ。
先が思いやられる。
◇
北大門から学院区へ向かうには、王都北部を東へ進む必要があった。
馬車は青い標識に従って大通りを進む。
最初のうちは商店と倉庫が多かったが、しばらくすると街並みが少しずつ変わり始めた。建物の間隔が広くなり、書店や魔導具店、薬草店、それに「術式用品」「実験器具」と書かれた看板が増えていく。
「学院区に近づいてる?」
「はい」
ハンスが答える。
「この辺りから研究施設や学生向けの店が増えます」
「学生向け?」
「安い食堂や文具店、貸本屋などですね」
「見たい」
「今日はまず宿です」
「分かってるよ」
答えながらも視線は忙しい。
店先へ並ぶ杖。
魔石。
ローブ。
知らない器具。
教本。
小さな魔導具。
前世で大学街へ初めて行ったときに少し似ている。
学校を中心に町の一部が作られている。
ただし、ここでは魔法がある。
それだけで全てが新鮮だった。
やがて前方に広い交差点が現れた。
その中央には噴水。
水がただ上へ噴き出しているのではない。
いくつもの水球が空中へ浮かび、一定の軌道を描いて回転している。
「……何あれ」
「学院区の目印として有名な魔法噴水です」
「どうやって浮いてるの?」
「知りません」
「ハンスでも知らないんだ」
「私は騎士ですので」
当然の返答だった。
シュウは噴水を振り返り続け、見えなくなるまで眺めた。
《三十六件目》
『もう好きにして』
◇
学院区へ入ってから、新入生らしい姿が一気に増えた。
家族と歩く者。
護衛を連れた貴族。
大きな荷物を自分で背負う平民の少年。
緊張した顔で地図を見る少女。
何人かは既に知り合いなのか、笑いながら歩いている。
シュウは無意識に彼らを目で追った。
この中の誰かと、同じ教室で学ぶかもしれない。
一緒に訓練するかもしれない。
友人になるかもしれない。
あるいは、ただ名前だけ知って卒業するかもしれない。
まだ何も決まっていない。
だからこそ、不思議な期待がある。
「シュウ様」
ハンスが呼ぶ。
「前方です」
「え?」
視線を戻す。
そして。
今度こそ、息を呑んだ。
大きな鉄柵。
その向こうに広がる、ひとつの街のような敷地。
中央には白い石造りの巨大な建物。
左右へ伸びる講義棟。
奥には複数の塔。
さらに離れた場所には円形の建造物と、広大な訓練場らしき空間。
木々の向こうには別の建物も見える。
正門上部には、王国紋章とは異なる意匠。
杖。
本。
星。
それらを組み合わせた学院章。
そして金属製の文字。
王立魔法学院。
「……ここが」
声が小さくなる。
家で何度も名前を聞いた。
入学許可証を受け取った。
荷物を用意した。
父と母と兄に送り出された。
何日も馬車に揺られた。
それでも、実物を前にするまでどこか現実感がなかった。
「王立魔法学院……」
《到着しましたね、マスター》
『うん』
まだ入学式ではない。
今日は到着確認と、宿泊先への移動だけ。
寮へ正式に入るのも、案内に従って手続きをする必要がある。
学院生活は始まってすらいない。
それなのに胸がいっぱいになる。
シュウは正門を見つめた。
十七歳。
前世では会社員だった自分が。
異世界で生まれ直し。
剣と魔法を学び。
十四歳の黒歴史を抱え。
今、魔法学院の前にいる。
『人生って分かんないな』
《前世のマスターが現在の状況を予測することは極めて困難だったでしょう》
『中学生の俺なら喜びそう』
《十四歳のマスターであれば、学院正門を見た時点で二つ名を――》
『今はやめよう。感動してるから』
《承知しました》
珍しく素直に引いた。
そのことが少し可笑しくて、シュウは笑った。
◇
学院正門の手前には、入学時期だけ設けられる臨時受付所があった。
複数の天幕と簡易建物が並び、「新入生到着確認」「寮案内」「保護者・護衛受付」などの札が掲げられている。
「今日はここまで済ませます」
ハンスが言う。
「宿へ行く前に?」
「はい。到着確認だけならそれほど時間はかからないでしょう。明日へ回して混雑するより、本日済ませた方が安心です」
「分かった」
馬車を指定された待機場所へ止める。
シュウが降りると、足元の石畳が今までの街道とは違って見えた。
学院の正門がすぐそこにあるからだろう。
少し遅れて、セシリアたちの馬車も入ってくる。
「シュウ!」
ダンが降りてきた。
いつもなら大声で何か言うところだが、今日は一度学院を振り返った。
「……でかいな」
「さっき王都見たときも同じこと言ってたよ」
「王都は王都。学院は学院だろ」
「まあ、分かる」
セシリアも学院を見上げている。
昨日まで落ち着いて見えた彼女の表情にも、はっきり緊張があった。両手を身体の前で重ね、指先がわずかに動いている。
「セシリア」
シュウが呼ぶ。
「はい?」
「緊張してる?」
一瞬、彼女の目が丸くなる。
昨日なら「していません」と言ったかもしれない。
けれど今日は、小さく息を吐いた。
「……しています」
「俺も」
「俺も!」
ダンが入ってくる。
「あなたは楽しそうですけど」
「楽しみなのと緊張するのは別だろ」
珍しくまともなことを言う。
「ダン方式だ」
シュウが呟く。
「何だそれ?」
「こっちの話」
ユリウスは学院を見上げたまま黙っていた。
だが、本を持つ手がいつもより少し強く表紙を掴んでいる。
彼も同じなのだろう。
出身も。
家柄も。
目的も違う。
それでも今だけは、四人とも同じ場所の前で緊張している。
「行くか」
ダンが言った。
「そうですね」
セシリアが答える。
ユリウスも頷く。
シュウは一歩進みかけた。
そのとき。
「新入生の方ですか?」
受付所の職員らしい女性が近づいてきた。
紺色のローブ。
胸元には学院章。
「はい」
四人の声が、少しずれて重なる。
女性は慣れた様子で微笑んだ。
「では、入学許可証をご準備ください。家名のある方も、こちらではご本人のお名前から確認いたします」
シュウは鞄へ手を入れた。
入学許可証。
何度も確認した書類。
取り出す。
女性が順番に名前を聞いていく。
「セシリア・ノールです」
「ダン・クレイ!」
「ユリウス・ベルン」
そして。
「シュウ・アルヴェインです」
自分の名前を口にした。
女性が書類を確認し、一覧へ目を落とす。
指先が一行で止まる。
「確認しました。シュウ・アルヴェインさんですね」
「はい」
「王立魔法学院への到着を受理します」
紙へ印が押される。
小さな音だった。
たったそれだけ。
けれど、シュウには妙に大きく聞こえた。
「入学式は予定どおり明後日の朝です。明日は新入生向けの寮入居と事前案内を行います。詳しい時間はこちらの案内書をご確認ください」
新しい紙を渡される。
シュウは両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「ようこそ、王立魔法学院へ」
今日二度目の「ようこそ」。
今度は王都ではない。
学院へ。
胸の奥がまた熱くなる。
シュウは案内書を見た。
明日。
寮入居。
学院案内。
そして明後日。
入学式。
ついに始まる。
◇
手続きを終えた四人は、受付所から少し離れた場所で足を止めた。
それぞれ護衛や同行者が宿の確認をしている。
学院正門の前には、今も次々と新入生がやってくる。
「じゃあ、今日はここで解散?」
ダンが言った。
その言葉に、シュウは少しだけ寂しさを覚えた。
昨日から同じ道を走った。
今日も一緒に昼を食べた。
でも、王都へ着いた。
旅は終わった。
「宿は別みたいですね」
セシリアが自分たちの護衛から聞いたらしく答える。
「私たちは東二番通りの宿です」
「俺たちは……」
シュウはハンスを見る。
「北学院通りの《青鈴亭》です」
「別か」
ダンが少し残念そうな顔をした。
その顔を見て、シュウは迷った。
学院で会える。
同じ新入生なのだから、可能性は高い。
でも人数が多い。
クラスも分からない。
寮も分からない。
ここで「じゃあまた」と言って、本当にいつ会うかは分からない。
昨日までの自分なら、たぶんそのまま別れていた。
相手から声をかけてくれるのを待ったかもしれない。
けれど。
昼に思った。
会ったら話す。
なら、その前に。
「明日さ」
三人がこちらを見る。
「寮の手続き終わったあと、時間あったら会わない?」
口に出した。
少しだけ緊張する。
「学院の中、まだ全然見てないし。一緒に見て回れたらって」
ダンの顔が明るくなる。
「行く!」
やっぱり返事が早い。
「だから少しは――」
セシリアが言いかけ、それから止まった。
シュウを見る。
少し笑う。
「私も、予定が合えば」
ユリウスは少し考えた。
「図書館も行く?」
「行きたい!」
シュウの返事が、今度は一番早かった。
ユリウスの口元がほんの少し緩む。
「なら行く」
「決まりだな!」
ダンが嬉しそうに言う。
「待ち合わせどうする?」
セシリアが現実的な問題を出した。
四人で学院案内書を見る。
明日の寮受付。
午前。
事前案内。
午後の一部は自由時間。
「じゃあ……」
シュウは地図を指差す。
学院正門から入った先。
中央広場。
大きな噴水の印。
「ここ。午後二時くらい?」
「分かりやすいな」
「私は大丈夫です」
「俺も」
決まった。
たった一つの約束。
それだけなのに、シュウの胸が少し軽くなる。
旅先で偶然会っただけ。
昨日までなら、そうだった。
でも明日は違う。
偶然ではなく。
自分たちで決めて会う。
「じゃあ、また明日」
シュウが言う。
「おう!」
「また明日」
「明日」
三人が返す。
その言葉を聞いてから、シュウはハンスたちの方へ戻った。
歩きながら、一度だけ振り返る。
三人もそれぞれの馬車へ向かっている。
ダンが途中で振り返り、また手を振った。
シュウも手を上げる。
今度は、別れることが寂しくなかった。
明日会うと決まっているからだ。
◇
《青鈴亭》へ着いたころには、夕方の光が王都の建物を柔らかく染め始めていた。
学院から徒歩でも移動できる距離にある三階建ての宿で、新入生やその家族の利用が多いらしい。入口へ入った瞬間から、同年代の少年少女が何人も目に入った。
受付。
食堂。
階段。
どこからも学院の話が聞こえてくる。
「属性試験って何するんだろう」
「兄さんのときは魔石に触れたって」
「寮の部屋、二人部屋らしいよ」
「魔力量でクラス分けされるって本当?」
「実技試験もあるらしい」
噂。
期待。
不安。
全部が混ざっている。
シュウは受付を待ちながら耳を傾けた。
「魔力量でクラス分け……」
《真偽不明です》
『分かってる』
だが気になる。
何より。
魔力量測定。
昨日から少し引っかかっていた問題だ。
アルカディア。
漆黒魔力。
恒常能力。
それらが学院の測定器へどう映るのか。
普通に測れるならいい。
異常値が出る可能性もある。
何も出ない可能性だって否定できない。
『アルカディア』
《はい》
『測定器、壊れないよな?』
《測定方式が不明なため回答不能です》
『だよなあ』
《なお、十四歳当時のマスターは「俺の魔力を測ろうとした測定器は例外なく砕け散る」と――》
『書いてるの!?』
思わず声が出た。
食堂前にいた何人かの新入生がこちらを見る。
ハンスとカイルも振り返る。
「シュウ様?」
「……何でもない」
顔が熱い。
《正確には「凡百の器に我が深淵を量ること能わず。測定の水晶は真実を知った瞬間、自ら砕け散る」で――》
『もうやめて!』
最悪だ。
よりによって測定器破壊設定まである。
もちろん、ノートへ書いたからといって必ず現実になるわけではない。
選択能力として登録されていなければ、ただの文章で終わる可能性も高い。
高い、はずだ。
「……大丈夫だよな」
《保証はできません》
「そこは保証してよ……」
小声で呻く。
明日は寮入りと学院案内。
魔力量測定はその後。
まだ時間はある。
その間に学院の測定方式を確認できるかもしれない。
シュウは受付を済ませ、自分の部屋へ向かった。
◇
その夜。
夕食と入浴を終えたシュウは、宿の部屋の窓を開けていた。
眼下には王都の夜景が広がっている。
街道の灯り石とは比較にならない。
通り沿いに魔導灯が並び、店の看板まで淡い光を放っている。遠くには高い塔の先端が青白く輝き、そのさらに向こうでは王城の一部が暖かな光に浮かび上がっていた。
前世の電気で照らされた夜とは違う。
暗さが残っている。
その暗闇の中へ、魔法の光が点々と続いている。
「綺麗だな」
《はい》
アルカディアが短く答えた。
シュウは窓枠へ腕を置く。
今日一日を思い返す。
初めて王都を見た。
門をくぐった。
学院を見た。
到着確認をした。
明日の約束もできた。
「俺、ちゃんと来たんだな」
《はい》
「家から遠い?」
《馬車で数日を要する距離です》
「そうじゃなくて」
言ってから笑う。
「まあいいや」
遠い。
でも、帰れないほど遠くはない。
手紙も届く。
父も母も兄も、自分がここにいることを知っている。
領地では領地の時間が流れている。
北の森の調査も続いているだろう。
そして自分は、ここで自分の時間を始める。
「明日、寮か」
《はい》
「どんな奴と同室になるんだろ」
《現時点では不明です》
「一人部屋の可能性は?」
《宿内で聞こえた会話では二人部屋との噂がありましたが、公式情報ではありません》
「いい奴だといいな」
少し不安。
少し楽しみ。
その両方がある。
「それから、ダンたちと学院見る」
《午後二時、中央広場噴水前です》
「覚えてるよ」
《念のためです》
「ユリウス、図書館行きたいって言ってたな」
《マスターも即答されていました》
「だって気になるし」
図書館。
魔法史。
古代魔法。
封印術。
白樹材。
北の封所。
探したいものはいくつもある。
でも明日は、調査へ行く日ではない。
まず学院を見る。
自分がこれから過ごす場所を知る。
それでいい。
「なあ、アルカディア」
《はい》
「楽しいな」
言ってから、自分でも少し驚いた。
家を出る前は不安もあった。
森のことも気になった。
家族と離れる寂しさもあった。
それでも。
今は楽しい。
知らないものを見ること。
知らない人と話すこと。
道を進むこと。
明日が分からないこと。
全部が。
《それは何よりです、マスター》
「お前も?」
昨日と同じ問い。
少し意地悪だったかもしれない。
アルカディアは数秒黙った。
そして。
《……はい》
昨日より短い。
けれど、昨日よりはっきりしていた。
シュウは少しだけ笑った。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
王都の夜風が部屋へ入る。
遠くで鐘が鳴った。
今度も、ごく普通の時刻を知らせる鐘だ。
森底の鐘ではない。
けれどその音を聞いた瞬間、領地の森が一度だけ頭をよぎった。
忘れない。
でも、今はここにいる。
シュウは窓を閉めた。
「寝よう。明日も早い」
《薬の確認を》
「持ってる!」
《明日の荷物へ移していません》
「……あ」
《エレノア様のご懸念は正しかったようです》
「母さんには言わないで」
《私は直接通信できません》
「なら安心だ」
《次回の手紙へ記載することは推奨します》
「絶対書かない」
机の上に置いていた薬袋を、明日使う鞄へ移す。
その確認を終えてから寝台へ入った。
王都で過ごす、最初の夜。
目を閉じても、昼間に見た学院の姿が頭へ浮かぶ。
明日は正門の向こうへ入る。
今度は見上げるだけではない。
自分が学生として過ごす場所へ、自分の足で踏み込むのだ。
そのことを考えているうちに、シュウの意識は少しずつ眠りへ沈んでいった。
王都までの旅は終わった。
けれど、シュウ・アルヴェインの学院生活は、まだ一日目すら始まっていなかった。




