浸食・融解・循環⑧
舌先に触れるざらついた紙の質感と、まさしく救いのない状況そのものを食しているかのように空虚な風味……。繊維細胞が崩壊し、徐々に柔らかさを増していくそれを、やはり舌先で転がしながら、今この窮地をどのように乗り切るべきなのか、頭の片隅で考えていた時、声が聞こえた。
遠くというよりも、建物のかなり下の方から届けられた、それでいて多大なる存在感を伴った叫び声だった。
「オマエガヤッタンダロオガァァァァァァァァァァッ!」
不意に鼓膜を震わせたその大声に、虚を突かれた私だったが、驚いたのはどうやら母親も同じらしかった。存在自体が不幸を大量に詰め込んだ「びっくり箱」同然の代物だというのに、他からの刺激によって驚くというのは実に皮肉でエッジが利いている。だが事実として、母親は私よりも先に動き始めていた。
先ほどまでこだわっていたのが嘘のように、糸電話をその場に叩きつけると、踵を返し、疾走を開始した。なかなかどうして激烈な動きである。対する私自身は相変わらず地面に這いつくばった状態にあって、焦点を合わせるつもりもなくただひたすらぼんやりと眺められたその曖昧な後ろ姿は、大昔に映画のCMか何かで目にした原人の走りを想起させた。髪を振り乱しながら、すごいスピードで遠ざかっていく。もちろん離れていってくれたのは確かな僥倖で、「今のうちに逃げる」という選択肢もなくはなかった。というよりも、それが最大にして唯一の正解だっただろう。だが、肝心の手紙の処理がまだ終わっていなかった時点で、その選択を行うことはできない。
私は柑橘類をイメージして唾液の出る量を増させつつ、シュレッダーの役割にますます自らを同化させていくことにのみに意識を集中させた。
しかしいつも通り、私の意図したことは決して真っ当な実現までこぎつけられない。……いつもの通り?
屋上のヘリまで辿り着いた母親は、私を模倣するかのように四つん這いになった。どうやら建物の下の方の様子を窺っているようだった。見間違いかもしれないが、すかさず双眼鏡を目に当てているようにも見えた。だがしかし、すぐにこの日耳にしたどの音よりも大きな声で「あっ!」とだけ叫ぶと身を起こし、再びすごい勢いでこちらに戻ってきた。もし同じ場に複数人が存在していたとしたら、その母親の動きに対して所謂「ビーチフラッグ」という競技を想起したのは、恐らく私だけとはなるまい。全身剃毛されたカルガモを彷彿させるレベルでガリガリの老婆が、目だけをギラギラ輝かせながらこちらに向かって全力疾走してくる様は、滑稽を通り越してもはや質の悪いトラウマを植え付けるホラー映像でしかない。だが、口の中で行われている手紙の隠滅に夢中になっていた私には、(もちろん暫定的にではあるものの)危機意識の類いが欠如しており、もちろん逃げ遅れることしかできない。




