浸食・融解・循環⑨
母親が私にしがみつき、言う。
「が、絡まれてるっ!」
「え?」
「あたしの愛する愛する息子であるショウヘイが、あんたもまた、心の底から愛してやまないはずのお兄様であるショウヘイが、異常者に絡まれてるみたいなの、しかも刃物突き付けられてるみたい、どうしよおおっ! ねえどうすればいいのおぉおおっ! ……そうだっ! 早く、早く助けにいかなきゃッ! そうだ、そんなとこ突っ立ってないで、早く、行ってよッ! 行けよッ!」
非常に深刻そうで、それ自体が「事件」と称されて然るべきほど問題含みな口ぶりで「助けに行かなきゃ」とほざいておきながら、私に繰り返しその旨を訴え、つまり完全な「他力本願」で「救世主」としての役割をこちらに押し付けようとしてくるそのスタンスについては、もはやシャッポを脱ぐよりほかあるまい。一言ごとに一円玉ぐらいのサイズの唾液が飛来してきて、もしかするとお駄賃のつもりで敢えて椀飯振舞をしているつもりかもしれなかったが、残念ながら私には中年女の口の中からに分泌された消化液を収集して喜ぶ性癖はないのであるからして、本来であればその見返りとして自らの喉の奥に手を突っ込み、気道の奥から緑色の痰を掴みだして相手の顔面目掛けて投げつけてやるぐらいが正当な反応のはずだった。
だが結論から申し上げれば、私は少なくとも表面上、確かに母親の要請に従うこととなる。
まずいつまでも手にしたままでいた紙コップを耳に当て直した。するとそれを見て母親も何かを悟ったのか、地面からもう一度それを拾い上げるとやはり耳に当てた。「糸電話」を介して繋がり合う2人が、どちらも端末の紙コップを耳に当てていること……。まさしく「コミュニケーション不能」の状態を体現するかのような絵面を先に壊したのは母親だった。耳から口に紙コップを移動させると、こう言ったのだ。
「死んだ父親の喘ぎ声が聞こえる……」
迷ったが、私は「……なるほど、確かにそうかもしれない……、でもそれにしては今日は父さん、相当機嫌がいいみたいじゃないか」とだけ呟き、地面に仰向けになった。そして脇を絞めると、両の手を胸の前あたりで組み合わせ、再び整地ローラーの物真似を開始した。
「テクッ、テクテクテクテクテクテクテクテクテクテクテクテクテクテクテクテクッ!」
身体全体を上から下まで1つの円筒に擬し、転がりながら縦横無尽に進んでいく。先ほどの整地がまだまだ不十分だったのだろうか、酒の缶、左足だけの靴、紙マスク、バドミントンのシャトルなどがそこらへんにランダムに散らばって行く手を執拗に塞いでくれたが、全て無視して転がり続けた。……たとえただのゴミであろうと、自らの進路を遮ろうとするものを、俺は絶対に許しはしない。
もちろん先に「表面上(~従うこととなる)」との物言いでそれとなく示唆しておいた通り、もはや確認するまでも無かろうが、その時の私を突き動かしていたのは、間違っても母親の願いを叶えてやろうだとか、また兄に対する同情の念だとか、そういう「家族愛」の類いではない。反吐が出る。だからそうではなくて一言で名状すれば、それは「名探偵」としての使命感である。逆に言えば、それ以外の何が、一人の人間をこれほどまでに強く駆り立てることができるというのか?
……要するに、今こそ史上最高の「名探偵」であるこの俺の出番というわけだ、いくら潜入捜査のために存在感を極力抑えることが必要だったとは言え、さすがにこのところ、Hの連中に好き勝手やらせすぎてしまった感がある、どうせ今現れた「刃物男」というのも、Hからの刺客ということなのだろう、「異常者」であるというのが何よりの証拠だ、俺が大人しくしている間に、一気に街全体を手中に収めておこうと、要するにそういうたわけたことを思いついてくれやがりなさったのだろう、たわけている……、それゆえ、ここらで一発かましておくのも悪くあるまい、そう、暗示や示唆の通じない相手なら、残念ながら、より直接的な仕方で身体に教え込んでやるしかないのだ……。
私はそんなことを考えながらあらゆる障害の類いを跳ね飛ばしながら転がり進んだ。
そしてやがて抵抗が無くなったかと思った次の瞬間、身体は宙に浮き、既に落下を開始している。風が耳元で絶叫し、鼓膜を裏返そうとする。口をこじ開けて歯の隙間から肺の中に暴力的に流れ込み、思考を物理的に掻き回す。そんな混沌とした状態の私の耳に、叫び声だけが妙にくっきりとはっきりとした形を伴って届けられて来る。
「惚けるなっ! お前がやったんだろおがぁあぁァっ! お前が、お前えがおまえあえええがあがあががあああがあぁあぁぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁ!」
空の青と、アスファルトの黒と、母親の歪んだ顔が、ミキサーにかけられたように混ざり合い、色の境界が消失する。遠心力で眼球が外側に引っ張られ、視界の端から世界がひび割れていく。そしてちらりと目に入ったのは、兄ではなく、オオタニが、羽交い絞めにされ、刃物を首元に突きつけられる光景……。
……どいつもこいつもイかれてるな。
私はそう思いながら、いつしかたこ焼きほどの大きさになった手紙の残骸を、やはりしばらく舌の上で転がす。インクが唾液に溶け出し、舌の上が鉄錆のような、あるいは誰かの腐った悪意のような味で満たされる。紙の繊維が喉の粘膜に棘のように刺さり、嚥下を。拒絶する肉体と、それを無理やり押し込む意志の衝突……。やはり落下中も握りしめたままでいた紙コップを耳に当てると、自分の葬式の参列者の声が聞こえて気がして、すぐさまそれも口に放り込んだ。
喉を鳴らして口の中のもの全てを思い切り飲み込む。
うみゃあうみゃあ。




