第九章 酒番の修道士
「この店の葡萄酒は、もう半分死んでいる」
隅の卓から、乾いた声がした。
花の月に入って最初の陽の日だった。昼の営業が落ち着いたころで、食堂には三組の客が残っていた。
声の主は、窓際の一番奥の卓に一人で座っている男だった。
四十代の半ばくらい。灰色の長衣は擦り切れているが、きちんと繕ってある。痩せた頬に、短く刈った髪。前に置いてあるのは、水の入った杯と、黒パンが一切れだけだった。
ベルナールが、ちらりと律のほうを見た。
律は冷菜場から出て、男の卓に歩み寄った。
「死んでいる、とは」
男は顔を上げた。灰色の目が、律をゆっくりと見た。
「隣の卓の客に出した赤だ。注ぐときに、酢の匂いがした。樽の口を開けてから日が経ちすぎている。あと五日もすれば、本物の酢になる」
律は隣の卓の杯を見た。客は気にせず飲んでいる。
「あなたは、飲んでいないのに分かるんですか」
「飲まないから分かる」
男は水の杯を持ち上げた。
「酒を飲む人間は、酔った舌で酒を見る。私はもう二年、一滴も飲んでいない。鼻だけで見ている」
◇
男の名は、ヨアキムといった。
ナディアが顧客の帳面を開いて、小声で教えてくれた。
「この一めぐり、店を開けた日は毎日いらしています。お昼の三の鐘過ぎに。いつも同じ席で、お水と黒パンだけ。お代は銅貨二枚。お釣りを受け取られません」
「毎日、何をしているんですか」
「ずっと、食堂を見ていらっしゃいます。お客さまが何を頼んで、何を残すか」
律は、ヨアキムの卓に椅子を引いた。
「座ってもいいですか」
「ここは君の店だ」
律は座った。ヨアキムは黒パンを小さくちぎって、口に運んでいた。
「なぜ毎日、うちに」
「煮込みの匂いが、修道院の厨房に似ているからだ」
ヨアキムは淡々と言った。
「骨を焼いて、半日煮る。昔は私も、それを手伝っていた。修道院では、葡萄酒もエールも自分たちで造る。私は醸造の係だった。それと、写字生だ」
「写字生」
「書物を書き写す役目だ。修道院の文書庫には、古い記録や祈祷書がある。紙も羊皮紙もすぐ傷む。だから誰かが書き写して、新しい一冊を作る。私は二十年、毎朝それをやっていた」
律の胸の中で、何かが小さく鳴った。
書き写す。
マルゴの言葉が蘇った。昔の王宮の庫帳は、必ず二部作った。
「修道院を、なぜ」
ヨアキムは初めて、口の端を歪めた。笑ったのかもしれなかった。
「神の葡萄酒を、自分の喉で検めすぎた」
それ以上は言わなかった。
◇
律は立ち上がった。
「地下の酒蔵を、見てもらえますか」
ヨアキムが目を細めた。
「なぜ私に」
「うちに、葡萄酒の分かる人がいないからです。あなたは、樽の口を開けてからの日にちを、匂いだけで言い当てた」
ヨアキムは長いあいだ、律を見ていた。
それから、残りの黒パンを口に入れ、ゆっくりと立ち上がった。
◇
冬至亭の地下には、氷室と食料庫のほかに、もう一つ部屋があった。
酒蔵だ。
マルゴの死んだ亭主が、若いころに集めたものだという。樽が二十あまり、壁の棚に瓶が四十本ほど。どれも分厚い埃をかぶり、蜘蛛の巣が樽と樽のあいだに張っていた。
ヨアキムは入口で足を止めた。
ランプを高く掲げ、深く息を吸う。
「……ひどいな」
「ひどいですか」
「樽の半分は、もう酢だ。三つは底が抜けかけている。床の湿りがそれだ」
ヨアキムは樽の間を歩き、一つずつ側面を拳で叩いていった。音を聞き、樽の口の栓の周りを嗅ぐ。
「これは駄目。これも。これは料理用ならまだ使える。煮込みの下ごしらえに回せ」
律は帳面を開き、ヨアキムの言葉を書き留めていった。
樽一、酢。樽二、酢。樽三、料理用。
「売れない酒は、寝ている金だ」
ヨアキムは歩きながら言った。
「樽一つで、銀貨数枚。それが二十。この部屋には、本来なら金貨十枚分の葡萄酒が眠っていた。それが誰にも飲まれずに、少しずつ酢になっていった」
律の世界でも、同じ言葉があった。
デッドストック。
売れずに、死んだように眠っている在庫のことだ。高いワインほど、店はそれを寝かせたがる。寝かせているあいだに飲み頃を逃し、売り物にならなくなる。在庫は、ただ置いておけば価値が上がるものではない。
「在庫は、回してこそだ」
ヨアキムが言った。律が言おうとしたことと、同じだった。
◇
奥の棚の前で、ヨアキムの足が止まった。
一番下の段に、ほかの瓶とは形の違うものが並んでいた。首が長く、硝子が濃い緑色をしている。数えると、十二本あった。
ヨアキムは一本を、両手でそっと持ち上げた。
埃を袖で拭う。
瓶の肩に、小さな封蝋が押してあった。白い丘の紋だった。
ヨアキムの手が、わずかに震えた。
「……白丘の赤だ」
「それは、良いものですか」
ヨアキムはランプを近づけ、封蝋の下の刻みを読んだ。
「二十年前の年だ。あの年は夏が長く、秋が乾いていた。白丘の修道院の葡萄が、百年に一度と言われるほど実った年だ。私が修道院にいたころ、院長が一本だけ持っていて、祭りの日に一口だけ分けてくれた」
ヨアキムは瓶を元の場所に、慎重に戻した。
「これは、まだ生きている。瓶の向きが正しい。横に寝かせて、栓が乾かないようにしてある。誰だか知らないが、これを置いた人間は葡萄酒を分かっていた」
「マルゴさんの、亡くなったご主人です」
「なら、その男に感謝するといい」
ヨアキムは律を振り返った。
「十二本。貴族の屋敷なら、一本に金貨三枚は出す」
律の手の中で、ペンが止まった。
十二本。金貨三十六枚。
借金の、一割を超える額だった。
「今は、売るな」
ヨアキムが言った。
「この酒は、もう少し寝かせたほうがいい。それに、売るなら売り方がある。値打ちの分かる客に、値打ちの分かる時に。それを見極めてから出せ」
◇
その日の夕方、律はヨアキムに頼んだ。
冬至亭の酒番になってほしい、と。
酒を選び、仕入れ、蔵を管理する。客に料理に合う酒を勧める。それが仕事だ。
律の世界では、その役をソムリエと呼んでいた。
ヨアキムは、しばらく黙っていた。
「酒を飲まない男に、酒を売らせるのか」
「飲まない人だから、頼みたいんです」
ヨアキムは自分の指を見下ろした。
長い指だった。ペンだこが、中指の横に固く残っていた。
「……試しに一晩だけだ」
◇
その夜の営業から、ヨアキムは食堂に立った。
最初の客は、樽職人の親方だった。ナディアの帳面によれば窓際の席が好きで、いつも煮込みを二杯頼み、エールを三杯飲む。
親方が煮込みを頼むと、ヨアキムはその卓に歩み寄った。
「煮込みには、今夜は赤を一杯どうだ」
親方は面倒くさそうに手を振った。
「俺はエールでいい。葡萄酒なんて、貴族の飲むもんだ」
「この赤は、料理長が煮込みの仕上げに使っているのと同じ樽だ」
ヨアキムは杯を一つ置き、ほんの指一本分だけ注いだ。
「一口だけ、煮込みを食べたあとで飲んでみろ。気に入らなければ、代金はいらない」
親方は疑わしそうに杯を見た。
それから煮込みを一匙すくい、口に入れ、杯を傾けた。
親方の眉が、ぴくりと上がった。
もう一匙食べ、もう一口飲む。
「……煮込みの味が、口の中で長くなる」
「そういう酒を選んだ」
ヨアキムは淡々と、静かに言った。
「煮込みの中の赤と、杯の中の赤が、同じ山の葡萄だからだ」
親方はしばらく黙って杯を見ていた。
それから、無言で銅貨を置いた。
「……一杯、ちゃんと注いでくれ」
◇
料理と酒の組み合わせを、律の世界ではペアリングと呼んだ。
皿の味を酒が引き立て、酒の味を皿が引き立てる。うまく組めば、一つずつ食べるよりも、ずっと豊かになる。
ヨアキムは、それを一つずつ組んでいった。
川鱒の香草焼きには、川向こうの村の、酸味の強い白を。
テリーヌには、苦みのあるエールを。
ミラのタルトには、蜂蜜で造った甘い酒を、小さな杯で。
客は最初、戸惑った。だがヨアキムは決して押しつけなかった。一口だけ試させ、気に入らなければ下げる。気に入れば、一杯を勧める。気に入った客には、次に来たとき、少しだけ上の酒を勧める。
一つ上を勧める技を、律の世界ではアップセリングと呼んでいた。
その夜、一人あたりの売り上げが、昨日より銅貨三枚上がった。
一晩で四十人なら、銅貨百二十枚。
律は百日帳にそれを書き、しばらくその数字を見つめていた。
◇
営業のあとで、律はヨアキムを厨房に呼んだ。
「もう一つ、頼みたいことがあります」
律は作業台の上に、二冊の帳面を並べた。
百日帳。そして、庫帳。
庫帳は、律が食料庫のために作った帳面だった。何がいつ届き、誰が検品し、いつ使われていつ捨てられたか。ラベルの木札と同じことが、一冊にまとまっている。
「この二冊の写しを、作ってほしいんです」
ヨアキムが目を上げた。
「写し?」
「同じものを、もう一冊。そして、それを修道院の文書庫に預けたい」
律は、マルゴから聞いた王宮の掟の話をした。庫帳は二部作る。一部は庫に置き、もう一部は修道院に預ける。火事で焼けても、誰かに奪われても、もう一部が残るように。
ヨアキムは黙って聞いていた。
「私のいた世界で、私の書いた記録は消されました」
律は静かに言った。
「一冊しかなかったから。誰かの手の中にしかなかったから。私は正しく書いていたのに、書いていなかったのと同じことにされた」
ヨアキムの指が、帳面の表紙の上で止まった。
「どこの修道院に預ける」
「あなたが一番信用できるところに」
ヨアキムは長いあいだ黙っていた。
食堂のほうから、ティムが皿を重ねる音が聞こえていた。
「灰岩修道院だ」
やがて、ヨアキムが言った。
「北の門の外にある。私が二十年いたところだ。院長のアンセルムは、文書庫に預けられたものに必ず受付印を押し、受付簿に番号をつけて書き込む。一つ残らず、預かった日の順に。あの人は、それを五十年続けている」
「受付簿に、番号」
「預けたものが本物で、いつ預けたか。それを修道院が証してくれる。後から誰かが偽物の写しを持ってきても、番号の順が合わない」
律の背中を、何かが静かに走った。
「……戻りたくない場所では、ないんですか」
ヨアキムは口の端を歪めた。
「戻りたくない場所だ」
それから、帳面を手に取った。
「だからこそ、一番信用できる」
◇
その夜から、ヨアキムは厨房の隅の卓で写しを作りはじめた。
羽ペンを削り、インク壺の蓋を開ける。律の帳面を左に、新しい紙を右に。
律の書いた字は、この国の字だ。けれど癖が強い。ヨアキムはそれを一字ずつ、驚くほど正確に写していった。数字の並びも、線の引き方も、余白の取り方まで同じに。
ペン先が紙を擦る音が、静かな厨房に続いた。
律は、その横顔を見ていた。
修道院を追われた男の指が、一晩も休まずに字を写していく。誰に褒められるわけでもない仕事を、二十年続けてきた指だった。
ときどき手を止めて、律の字の癖を指でなぞる。それから何事もなかったように、また書きはじめる。インクの匂いと、竈の残り火の匂いが混じり合っていた。
一めぐりに一度、ヨアキムは写しを持って北の門を出る。灰岩修道院の文書庫に預け、受付印と番号をもらって戻ってくる。
冬至亭の記録は、こうして二か所に置かれることになった。
◇
ヨアキムが来て三日目の夜、店を閉めたあとで、ナディアが顧客の帳面を持って律のところへ来た。
「リツさん。少し、気になるお客さまがいらっしゃって」
ナディアは帳面を開いた。
「灰色の頭巾をかぶった、若い女の方です。お名前は伺っていません。お連れもいらっしゃいません。いつもお一人で、お昼の早い時間に」
「何度目ですか」
「今日で、三度目です」
ナディアは、帳面の一行を指でなぞった。
「毎回、川海老の入った皿を避けられるんです。お勧めしても、首を振られて。貝や海老の類は、一度も召し上がっていません」
「苦手なんでしょうか」
「たぶん。でも、それだけじゃない気がして」
ナディアは少し言いよどんだ。
「お食事のあいだ、ずっと厨房のほうを見ていらっしゃるんです。お料理より、厨房のほうを。まるで、何かを確かめに来ているみたいに」




