第十章 灰色の頭巾
四度目に灰色の頭巾が冬至亭の扉をくぐったとき、窓際の一番明るい卓は、もう空けてあった。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
ナディアが一礼した。
頭巾の娘は、ほんの一瞬足を止めた。それから小さくうなずき、ナディアに導かれて窓際の卓に座った。
花の月 第三めぐり 水の日の、三の鐘を少し過ぎたころだった。
律は冷菜場から、その様子を見ていた。
娘は十六か十七くらいに見えた。頭巾の下からのぞく髪は淡い金色で、顔立ちは整っているが、表情が硬い。服は町娘のような生成りの麻だが、袖口から見える手首が白すぎた。爪が、きれいに揃えられている。
畑仕事も、水仕事もしたことのない手だった。
ナディアが品書きを読み上げる。娘は少し考えて、川鱒の香草焼きを頼んだ。
ナディアは厨房に戻ってくると、パスの釘に木札を刺した。
木札の端に、小さく印がついていた。
貝と海老を除く。
「お伝えしていませんよ」
ナディアが律に耳打ちした。
「ただ、そうしておきました」
◇
客の好みを覚えておくこと。
それを帳面に残して、店じゅうで分け合うこと。律の世界では、それを顧客の管理と呼んでいた。どの客が何を好み、何を避けるのか。どの席に座りたがり、いつ誕生日なのか。
覚えておけば、客は自分が大事にされていると感じる。
だが本当に大事なのは、そこではないと律は思う。
覚えておけば、客を傷つけずに済むのだ。
食べられないものを、食べられないと言わせずに済む。苦手なものを、皿の上から黙って外しておける。人によっては、その食べ物で命を落とすことさえある。
律はパスで、川鱒の皿を確かめた。
ソースの器は、オーギュストが盛り付けの前に取り替えていた。いつもの川海老の出汁を使っていない、香草と葡萄酒だけのソースだ。付け合わせの野菜にも、海老の欠片は一つもない。
「よし」
律は小さく言い、皿をベルナールに渡した。
◇
娘は川鱒を食べた。
ゆっくりと、一口ずつ。
食べながら、何度も厨房のほうを見た。パスの向こうで動く人間を、一人ずつ目で追っている。
半分ほど食べたところで、娘は匙を置いた。
それからナディアを呼び、何かを言った。ナディアは驚いた顔をして、厨房に戻ってきた。
「リツさん。あのお客さまが、厨房の責任者の方とお話しできないか、と」
「料理長なら、ギュスですが」
「いいえ」
ナディアは首を振った。
「食料庫を預かっている方と、とおっしゃいました」
◇
律は前掛けで手を拭い、窓際の卓に向かった。
娘は律を見上げた。間近で見ると、目の色が薄い灰色だった。疲れているような、何かを長いあいだ我慢してきたような目だった。
「冬至亭の、食料庫の番をしている者です」
律が言うと、娘はうなずいた。
「お座りになって」
言葉遣いが、ナディアよりもさらに丁寧だった。命じることに慣れた人の口調だった。
律は向かいの椅子に浅く腰かけた。
娘は、両手を卓の上で組んだ。
「一つ、伺いたいことがあります」
「はい」
「なぜ、この店では誰もお腹を壊さないの」
律は、まばたきをした。
娘は真剣な顔だった。
「花の月に入ってから、この界隈の食堂で、腹を下した人の話を三つ聞きました。市場の屋台でも、宿でも。でも、冬至亭で食べた人の話は一つもない。わたくしは四度ここで食べて、四度とも何ともなかった」
娘の組んだ指に、少し力が入った。
「何か、特別な祓いをしているの。それとも、教会の祝福を受けた水でも使っているの」
◇
律は首を振った。
「特別なことは、何もしていません」
「では、なぜ」
「当たり前のことを、毎日同じようにやっているだけです」
律は指を折った。
「まず、手を洗います。厨房に入るとき、生の肉に触ったあと、別のものに触る前。灰汁と水で、指のあいだまで」
娘は黙って聞いている。
「冷やすものは、冷やします。地下に氷室があって、肉と魚はそこに置きます。冷えているかどうかは、石で確かめます。ぬるいところに置いた肉は、半日で悪くなります」
「それから」
「生の肉と、火を通したものを、同じ皿や同じ板に置きません。生の肉の汁が、すぐ食べるものにつかないように」
律は少し言葉を切った。
「それと、全部に日付をつけます」
「日付?」
「木の札に何をいつ作ったか、誰が作ったかを書いて、全部の食べ物につけます。それから、古いものから先に使います。古いものを奥に置き忘れないように、並べ方で決めてしまう」
娘は、律をまっすぐに見つめていた。
「それだけ?」
「それだけです」
律は少し考えて、付け足した。
「それだけのことを毎日、一日も休まずに店の全員でやる。それが難しいんです」
◇
娘は、しばらく黙っていた。
窓の外を、荷車が軋みながら通り過ぎた。
「見せていただけるかしら」
娘が言った。
「その、日付の札を」
律は少し迷った。食料庫は、客を入れる場所ではない。
けれど娘の目は、好奇心だけでそう言っているようには見えなかった。
「少しだけなら」
律は娘を厨房の奥へ案内した。
石段を下り、地下の食料庫の扉を開ける。ランプを掲げると、棚の上の木札が並んで浮かび上がった。
黄。茶。青。
色の違う札が、日付の順に、手前から奥へと並んでいる。手前の黄色は前のめぐりの陽の日のもの。奥の青が、今朝仕込んだ一番新しいものだ。
娘は一歩、食料庫の中に入った。
棚に顔を近づけ、木札の一枚を読む。
豚肩、塩漬け。花の月 第二めぐり 土の日 二の鐘。霜。
「霜、というのは」
「作った者の印です。私の」
娘は次の札を読み、また次の札を読んだ。
ゆっくりと、棚の端から端まで。
それから振り返った。ランプの光の中で、その目が少し潤んでいるように見えた。
「祖母が、何度も倒れているの」
娘は小さな声で言った。
「食事のあとに。熱を出して、お腹を壊して、何日も起き上がれなくなる。もう四度目よ。お医者さまも、治癒の魔法を使う司祭さまも、原因が分からないと言うわ。だから、呪いだと」
律は黙っていた。
「祖母が食べているものは、どこから来て、いつ作られたのか。誰も知らないの。聞いても、誰も答えられない。答えられる人が、一人もいないのよ」
◇
娘は食料庫を出ると、石段の途中で立ち止まった。
「あなた、お名前は」
「リツです」
「リツ」
娘はその名前を、一度だけ口の中で転がした。
それから、自分の名は名乗らなかった。
食堂に戻ると、娘は卓の上に金貨を一枚置いた。川鱒の皿の代金の十倍だった。ナディアが慌ててお釣りを用意しようとすると、娘は首を振った。
「とても、おいしかったわ。それと」
娘はナディアを見た。
「海老を、抜いてくださったのね」
ナディアは一瞬だけ目を見開き、それから静かに一礼した。
「お客さまの、お好みですので」
娘は頭巾を深くかぶり直し、扉を出ていった。
◇
その少しあとだった。
入れ違いのように、紺の上着の男が店に入ってきた。市場監督官のレオン・ヴァイスだった。
レオンは十日に一度、市場の外の食堂も見回っている。天秤の目方と、品物の産地と、腐ったものを出していないか。冬至亭にも、開店してから二度来ていた。
二度とも、何も言わずに帰った。
「見回りですか」
律が訊くと、レオンは食料庫の帳面を受け取りながらうなずいた。
それから、窓の外に目をやった。
灰色の頭巾が、塩樽通りの角を曲がっていくところだった。その少し後ろを、地味な服を着た大柄な男が二人、つかず離れずについていった。
レオンの顔から、すっと血の気が引いた。
「今の客は」
「お名前は伺っていません。四度目のお客さまです」
レオンは律を見た。それから、もう一度窓の外を見た。
「……ここで、何を食べた」
「川鱒の香草焼きです。海老を抜いて」
レオンは帳面を握ったまま、しばらく動かなかった。
「リツ殿」
初めて、名前で呼ばれた。
「あれは、第二王女ルシール殿下だ」
厨房の奥で、オーギュストが鍋を取り落とす音がした。
ミラが口を開けたまま固まり、ティムが洗い場から首を伸ばした。ヨアキムだけが眉ひとつ動かさず、杯を磨き続けていた。
「王女さまが、なんで塩樽通りの食堂に」
ミラがようやく声を出した。
レオンは答えなかった。ただ、受け取った帳面を、いつもよりずっと丁寧にめくりはじめた。
◇
その夜、店を閉めたあとで、律はナディアと二人で食堂の椅子を上げていた。
ほかの者は、もう二階に上がっていた。ベルナールは宿の戸締まりを見に行き、ティムはポワンを抱いて眠っていた。
「ナディアさん」
律が言った。
「どうして、海老を抜くと決めたんですか。お客さまは、一度も嫌いだとは言っていなかったのに」
ナディアは椅子を持ち上げたまま、少し考えた。
「三度とも川海老の皿をお勧めしたときに、ほんの少しだけ目を伏せられたんです」
ナディアは椅子を卓の上に置いた。
「好き嫌いなら、首を振るだけです。でも、目を伏せるのは、言えない理由があるときです。誰かに、自分が何を食べないかを知られたくない人の顔でした」
律は手を止めた。
ナディアは、窓の外の暗い通りを見ていた。
「私の家が潰れたとき、父は誰にも相談できなかったんです」
穏やかな声だった。
「白秤商会との約束の書付を、父は一人で抱え込んでいました。私はあとから、それを読もうとしました。でも、読めなかったんです」
「読めなかった?」
「日付が、変わった書き方で書いてありました。数字と、斜めの線で。どの月のことなのか、期限がいつなのか、父にも本当は分かっていなかったのかもしれません。気づいたときには、もう期限が過ぎていました」
律の胸の中で、何かが冷たく固まった。
数字と、斜めの線。
あの出荷票と、同じ書き方だった。
「名を忘れられた家の娘だから、人の名前は忘れないようにしている。前に、そう言いましたね」
ナディアは律を振り返り、小さく微笑んだ。
「本当は、もう一つあるんです。読めない約束で、誰かが一人で困っているのを、見過ごしたくない」
律は、何も言えなかった。
ただ、椅子を一つ、ナディアの代わりに卓の上へ上げた。
◇
その夜遅く、律は手帳を開いた。
日本から持ってきた、黒い手帳だ。最後のページの、あの一行の手前の余白に、小さく書き込む。
数字と斜線の日付。白秤商会。
十二年前、港の魚問屋の氷室に一人落ちた。
二つの点を、線で結ぶことはまだしなかった。結んでしまえば、それが本当になる気がした。ペン先が紙の上で止まり、インクが小さな染みになって広がった。
律は手帳を閉じ、ランプを吹き消した。暗闇の中で、しばらくじっと目を開けていた。
◇
それから一めぐり、また一めぐりと、日が過ぎた。
花の月が終わり、陽の月が来た。
王都の空は日ごとに白く焼け、ラシュ川の水は濁りを増して、岸辺に死んだ魚が浮くようになった。塩樽通りの溝の臭いは、朝から晩まで消えなくなった。
冬至亭は、少しずつ客を増やしていた。
昼は荷揚げ人と職人で埋まり、夜は二回転する日も出てきた。ナディアの予約の帳面は、陽の日の夜だけでなく、風の日の夜まで先に埋まるようになった。二階の宿の六部屋も、遠くの村から市に来る商人たちで、空く日がなくなった。
ヨアキムは一めぐりに一度、写しを抱えて北の門を出ていき、夕方には受付印の押された控えの紙を持って戻ってきた。控えの番号は、一枚ごとに一つずつ増えていった。
灰色の頭巾は、あれきり姿を見せなかった。
ナディアは毎日、窓際の一番明るい卓を、三の鐘を過ぎるまで空けておいた。
百日帳の貯えの欄は、金貨にして百三十八枚になっていた。
残りは百六十二枚。
冬至亭の百日帳の残り日数は、三十三になっていた。
陽の月の第三めぐりの水の日の朝だった。
律が市場から戻ると、塩樽通りの角で、魚屋の女房が青い顔をして立っていた。
「リツさん。うちの向かいの、仕立て屋の坊やが」
女房の声が震えていた。
「ゆうべから、腹を下して止まらないんだよ。熱も出て。隣の家の爺さんも、その向こうの子も」
律の手の中で、籠の取っ手がきしんだ。
塩樽通りのあちこちの戸口に、教会の祓い札が貼られはじめていた。
夏腹が、来たのだ。




