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潰れかけの異世界食堂に転生した元冷菜係です。差し押さえまで百日なので、まず食材庫にラベルを貼ります  作者: もしものべりすと


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第十一章 夏腹

石が、冬至亭の鎧戸に当たった。


鈍い音がして、木の板が震えた。続けて二つ、三つ。表の通りから、誰かが叫ぶ声がした。


「霜の魔女を出せ!」


律は冷菜場で包丁を握ったまま、動きを止めた。


陽の月の第三めぐりの風の日。夏腹が塩樽通りに広がって、三日目の昼だった。


ベルナールが無言で表に出ていった。片腕の大男が戸口に立つと、叫び声はすぐに散った。足音が遠ざかっていく。


ベルナールが戻ってきた。手に、拳ほどの石を一つ持っていた。


「……子どもだ。誰かに銅貨をもらって投げたらしい」


石を作業台に置く。


その上に、律の木札が一枚落ちていた。鎧戸の隙間から入り込んだのか、表の看板に下げていた開店の札だった。


札には、炭で大きく書き殴ってあった。


呪い。


◇


噂は、三日で通りを一周していた。


冬至亭には霜の客がいる。氷室から這い出てきた死人の女だ。そいつが来てから、塩樽通りで夏腹が流行りだした。冷たい料理を食わせて、腹の中に冷たい呪いを植えつけている。


誰が言い出したのか、誰にも分からなかった。


分かっているのは、昼の客が三人しか来なかったことだ。夜の予約は、ナディアの帳面から一つ残らず消えていた。


「馬鹿げてる」


オーギュストが竈の縁を拳で叩いた。


「うちで食った奴は、一人も腹を下してない。それどころか、うちに来なくなった奴から先に倒れてる」


「それを、どうやって分かってもらうかです」


律は包丁を置いた。


「噂に、噂で言い返しても勝てません」


◇


その日の夕方、市場監督官のレオン・ヴァイスが冬至亭に来た。


いつもの見回りとは違った。後ろに、市の書記を一人連れていた。


「苦情が出ている」


レオンは扉をくぐるなり言った。


「市の参事会に、冬至亭の料理で夏腹が広がっているという訴えが七通。調べるよう命じられた」


ナディアの顔から血の気が引いた。


マルゴが帳場の椅子から立ち上がろうとして、咳き込んだ。


律は、作業台の上の帳面を三冊、レオンの前に並べた。


「全部、見てください」


レオンは律を見た。


「庫帳です。何がいつ届いて、誰が検品してどこに置いたか。いつ使って、いつ捨てたか。開店してから、一日も欠かさず書いています」


律は二冊目を開いた。


「こっちは業務日誌。毎日の店の出来事。三冊目は百日帳。毎日の客の数と、売れた皿の数です」


レオンは庫帳を手に取った。


一頁目から、ゆっくりとめくっていく。


書記が、横から覗き込んで目を丸くした。


「肉の一塊ごとに、届いた鐘の刻まで……」


レオンは何も言わなかった。


指が、頁の端を一枚ずつ繰っていく。陽の月の第一めぐり。第二めぐり。豚肩と川鱒。鶏と葉物。その横に、冷却石の霜の厚さ。捨てたものには、捨てた理由。


「この、霜の厚さというのは」


「冷え具合です。石の霜が薄いほど、よく冷えています。豚と鶏は、薄い霜の場所にしか置きません」


レオンは顔を上げた。


「同じものを、もう一部、灰岩修道院の文書庫に預けています」


律は言った。


「一めぐりに一度。受付印と番号がついています。私たちが今日、慌てて書き直したものではないことは、修道院が証してくれます」


レオンの灰色の目が、わずかに細くなった。


◇


「帳面が正しくても、それだけでは足りない」


レオンは庫帳を閉じた。


「冬至亭が原因ではないと言うなら、何が原因なのか。それを示さなければ、参事会は納得しない。噂も消えない」


律はうなずいた。


「なら、調べます」


「どうやって」


「倒れた人に、聞きに行きます」


律は前掛けを外した。


「何を、どこで、いつ食べたか。一人ずつ」


◇


ナディアが一緒に来た。


塩樽通りの誰が、どこに住んでいるか。家族は何人で、誰が倒れたのか。ナディアは全部覚えていた。


一軒目は、仕立て屋だった。


戸口に、教会の祓い札が三枚貼られていた。中に入ると、狭い寝台の上で、五歳の男の子がぐったりと横たわっていた。唇がひび割れ、目が落ちくぼんでいる。


母親が、律の顔を見て体を強張らせた。


「霜の客……」


「お話を伺いに来ました」


ナディアが前に出て、静かに頭を下げた。


「坊やが倒れる前の日に、何を召し上がったか。どこで買ったものか。それだけ、教えていただけませんか」


母親は、ナディアの顔を見た。


花売りの娘だった頃から、毎朝この家の前で挨拶をしていた顔だった。


母親の肩から、少しだけ力が抜けた。


「……いつもと同じものよ。朝は黒パンと、豆のスープ。昼は」


母親は少し考えた。


「昼は、橋のたもとの屋台で、腸詰めを焼いたのを買ってやったの。安かったから。一本、銅貨一枚で」


律は手帳に書いた。


仕立て屋。五歳男児。前日昼、橋のたもとの屋台、焼き腸詰め。


◇


二軒目は、魚屋の向かいの老人の家。


三軒目は、樽職人の弟子たち。


四軒目、五軒目。


律は一軒ごとに手帳に書き、市場で買った安い紙の裏に、塩樽通りの地図を描いた。倒れた人の家に印をつける。その人が前の日に食べたものと、買った場所を書き込む。


日が暮れるまでに、十四軒を回った。


律は冬至亭に戻り、作業台の上に地図を広げた。


レオンが、腕を組んでそれを見下ろした。


印は、通りのあちこちに散らばっていた。家と家のあいだに、決まった並びはない。


けれど印の横に書き込んだ言葉を読んでいくと、一つだけ何度も出てくるものがあった。


橋のたもとの屋台。焼き腸詰め。


十四軒のうち、十一軒。


残りの三軒は、腸詰めを食べた家の子どもが、同じ皿を分けてもらっていた。


冬至亭で食べた人は、十四軒のうち一人もいなかった。


◇


レオンが、地図の上の一点を指で押さえた。


橋のたもと。


「……確かめる」


「私も行きます」


律が言うと、レオンは一瞬だけ迷い、それからうなずいた。


◇


橋のたもとの屋台は、夜になっても火を焚いていた。


鉄板の上で、腸詰めが脂を弾いている。屋台の主人は、太った赤ら顔の男だった。腸詰めを一本、銅貨一枚で売っている。客は途切れなかった。


レオンが紺の上着の襟を正し、屋台の前に立った。


「市場監督官だ。腸詰めの元の樽を見せてもらう」


主人の顔が引きつった。


屋台の裏に、樽が二つ置いてあった。一つは空。もう一つには、塩に漬けた生の腸詰めが、まだ半分残っていた。


律は樽の蓋を開けた。


臭いが、鼻を打った。


塩の匂いの奥から、甘ったるく、重い臭いが立ちのぼってくる。冬至亭に来た最初の日、食料庫で嗅いだのと同じ臭いだった。


「腐っています」


律は樽の縁を指で示した。


「塩が足りていません。それと、この暑さで日なたに置いていた。中から傷んでいます」


主人が声を上げた。


「そんなはずはない。まだ日付が新しいんだ。樽にちゃんと書いてある」


レオンが樽を傾け、側面をランプで照らした。


樽には、焼き印があった。


秤の形の焼き印だった。半分ほどが、刃物で削り取られている。それでも、秤の皿の片方が残っていた。


焼き印の下に、刻みで日付が入っていた。


律は、その刻みに顔を近づけた。


刻みは、二重になっていた。


最初に刻まれた数字の上を、刃物で削って平らにし、そこに別の数字を彫り直してある。削った跡が、ランプの光の中で、木目に沿って白く浮いていた。


新しく彫られた日付は、十日余り前のものだった。


その下に、薄く、元の数字が残っていた。


ひと月以上前の日付だった。


◇


律の手が、樽の縁で止まった。


指先が冷たくなっていった。


あの牡蠣の箱と、同じだった。


ラトリエ・ミナモの冷菜場で、律が指で叩いて確かめた牡蠣。箱のラベルの日付の数字の上に、別の数字が重ねて書かれていた。古いものを、新しいものに見せかけるために。


ここでは紙ではなく、樽の木に刻まれていた。


だが、やり方が同じだった。


数字と、斜めの線で書かれた日付。古い数字を消して、新しい数字を上に置く。書き換えたことが分からないように、元の数字の形に沿って彫り直してある。


慣れた人間の手だった。


「リツ殿」


レオンの声で、律は我に返った。


「この刻みの書き方は、何だ。数字と、斜めの線は」


「日付です」


律は、自分の声が乾いているのを聞いた。


「月と日を、数字で書いて、間に線を引く。この国の書き方ではありません」


レオンは黙った。


屋台の主人が、青い顔で二人を見比べていた。


◇


主人は、問い詰められるまでもなく白状した。


腸詰めの樽は、十日ほど前に、ある男から買った。紺の上着を着た、愛想のいい男だった。古くなった品を、半値以下で払い下げてやると言われた。日付が書いてあるから大丈夫だと。


「どこの男だ」


レオンが訊いた。


「し、知らない。名前は言わなかった。ただ、樽は川沿いの倉庫から運んできた」


「川沿いのどの倉庫だ」


主人は首を振った。本当に知らないようだった。


レオンは屋台に封をし、主人に罰金と営業の停止を言い渡した。それから、腐った樽を市の役所へ運ぶよう書記に命じた。


主人は地面に座り込み、両手で顔を覆っていた。


律は、その姿を見ていた。


この男は、悪い肉を売った。子どもたちが倒れた。罰を受けるのは当然だ。


けれどこの男に、樽の日付の嘘を見抜く方法はなかった。


書かれた日付を信じて、売っただけだ。


◇


その夜から、律は冬至亭の厨房で湯を沸かし続けた。


井戸の水を沸かし、冷ます。冷めた湯に、塩をひとつまみ。蜂蜜を、ひと匙。


それをかき混ぜて、壺に詰める。


「これを、倒れた人に飲ませてください」


律はティムとミラに壺を持たせ、地図に印をつけた家を回らせた。


「少しずつ、何度も。一度にたくさん飲ませると吐きます。匙で、ゆっくり」


「これ、薬なの」


ティムが壺を抱えて訊いた。


「薬じゃない。夏腹で倒れると、体から水と塩が出ていってしまうの。熱があって、お腹を下して、汗をかいて。それで干からびて、動けなくなる」


律は壺の口に布をかぶせた。


「出ていった水と塩を、戻すの。それだけ。でも、それだけで助かる人がたくさんいる」


律の世界では、経口補水と呼ばれていた。


医者でなくても、家でできる。高い薬も、祓いもいらない。必要なのは湯と塩と甘いもの。それに根気だけだ。


「蜂蜜がなかったら、砂糖でもいい。なかったら、塩だけでも」


ティムがうなずき、壺を抱えて走っていった。


ポワンが、その背中にぴょこぴょことついていった。


◇


翌々日の朝、仕立て屋の母親が冬至亭の裏口に来た。


手に、小さな籠を下げていた。


「坊やが、起き上がったの」


母親の目は、真っ赤だった。


「ゆうべ、自分から水が欲しいって言って。今朝は豆のスープを半分食べたわ」


母親は籠を律に押しつけた。中には、自分の家で焼いたらしい、形のいびつな黒パンが四つ入っていた。


「ごめんなさい」


母親は頭を下げた。


「霜の客だって言って、ごめんなさい」


律は籠を受け取った。


何と答えればいいのか、分からなかった。


「坊やに、もうしばらく塩と蜂蜜の水を飲ませてください。三日は、脂っこいものは食べさせないで」


それだけ言った。


母親は何度も頭を下げて、帰っていった。


◇


その日の昼、レオンが市場の広場に一枚の布告を貼り出した。


市場監督官の名で。


夏腹の元は、橋のたもとの屋台の腐った腸詰めである。屋台は封じた。塩樽通りの冬至亭は関わりない。冬至亭の帳面は、すべて監督官が検めた。


夕方には、冬至亭の夜の予約が三つ戻っていた。


翌日には、七つ。


石を投げに来る子どもは、もういなかった。


◇


その夜、閉店のあとで、レオンが一人で冬至亭に来た。


厨房の作業台に、律と向かい合って座った。ナディアが二人の前に、冷たい湯の杯を置いて下がった。


「屋台の主人に樽を払い下げた男を、追えなかった」


レオンは低く言った。


「川沿いの倉庫を、一つずつ当たった。どこも、そんな樽は知らないと言う。紺の上着の男も、見つからない」


律は杯を両手で包んだ。


「焼き印は、どうでしたか」


「削られていたが、秤の形だった」


レオンは、律の目を見た。


「王都で、秤の焼き印を使う食料商は一つしかない」


律は黙っていた。


「樽の元をたどれば、白秤商会の倉庫に行き着く。だが、焼き印が削られている以上、商会は知らないと言うだろう。払い下げた品が、どう使われたかまでは責任を持てないと」


レオンは杯の湯を一口飲んだ。


「そして、あの数字と斜めの線の書き方」


律は顔を上げた。


「白秤商会の出荷票は、全部その書き方だ。王都で、あの書き方をするのは、商会の者だけだ。会頭が、自分で決めた書き方だと聞いている」


律の手の中で、杯が小さく震えた。


「会頭は、どんな人ですか」


レオンは少し考えた。


「十二年ほど前に、どこからともなく王都に現れた男だ。港の魚問屋に雇われて、三年で問屋を乗っ取り、五年で王都の食料の半分を握った。口がうまく、数字に強い。貴族にも、大膳寮にも顔がきく」


港の魚問屋。


十二年前。


律の頭の中で、手帳の余白に書いた二つの点が、静かに一本の線で結ばれた。


レオンが、最後に言った。


「会頭の名は、ニシナという」


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