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潰れかけの異世界食堂に転生した元冷菜係です。差し押さえまで百日なので、まず食材庫にラベルを貼ります  作者: もしものべりすと


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第十二章 白秤の会頭

冷凍庫の扉が閉まったとき、仁科恭平は、それが自分の死ぬ音だとは思わなかった。


◇


ラトリエ・ミナモが閉店して、四か月が過ぎていた。


精算は長引いた。オーナーの親族が揉め、什器の買い手がなかなか決まらなかった。厨房の冷凍庫だけは電気を止めずに残してあった。中の在庫に、まだ値がつくからだ。


その夜、仁科は一人で裏口の鍵を開けた。


黒トリュフの瓶が六本。熟成肉の塊が三つ。精算の帳簿から、それを外しておくことは難しくなかった。数字は、書く人間が決める。


厨房は冷え切っていた。


ステンレスの台の上には、埃がうっすらと積もっていた。仁科は台に置かれたままのボールペンを一本、何気なく指で弾いた。


冷凍庫の扉を開ける。


白い冷気が、足元に流れた。


扉の内側の、黒いテープが巻かれたレバーの根元が目に入った。仁科は小さく舌を打った。


四か月前の朝のことを、思い出していた。


警察が来て、厨房に黄色いテープが張られた。中から運び出された担架の上の、白い布。座り込んだ料理長。誰かが、仁科の顔を見た。


事故です、と仁科は言った。扉の故障は、報告書にありませんでした。


業務日誌は、その日のうちに処分した。七回分の修理依頼の頁ごと。


仁科は扉を大きく開け、空の番重を挟んだ。


それから、奥の棚へ歩いた。


トリュフの瓶は、一番奥の棚にあった。


一本ずつ、ラベルが貼ってある。品名。日付。時刻。作業者の欄に、几帳面な字で一文字。


霜。


棚の端から端まで、同じ字が並んでいた。日付の古い順に、手前から奥へ。四か月経っても、一つも乱れていなかった。


仁科は、瓶を一本手に取った。


その瞬間、背後で何かが擦れる音がした。


かちり。


◇


仁科はまず、扉を押した。


それから、レバーの根元を掴んだ。


それから、ポケットの携帯を探った。電波は、厚い断熱材の壁に阻まれて届かなかった。


仁科は扉を叩いた。叫んだ。


誰も来ないことは、分かっていた。精算中の、閉じた店だ。鍵を持っているのは、自分だけだった。


二十分後、仁科は棚のあいだに座り込んでいた。


膝の上に、トリュフの瓶があった。


ラベルの「霜」の字が、白く曇っていった。


仁科は笑った。


声を出して、長く笑った。笑い声は、冷たい金属の壁に吸い込まれていった。


「費用対効果、ね」


それが、日本で仁科恭平が口にした、最後の言葉だった。


◇


律は、白秤商会の本館の前に立っていた。


陽の月の第四めぐりの土の日。夏腹の騒ぎが収まって、四日目の朝だった。


川沿いの一等地に、三階建ての石造りの建物がそびえていた。窓には硝子がはめ込まれ、朝の光を跳ね返している。正面の扉の上に、大きな銀の秤の紋章が掲げられていた。


周りの倉庫から、荷車がひっきりなしに出入りしている。荷車にはどれも秤の焼き印があり、御者はみんな揃いの紺の上着を着ていた。


律は胸ポケットの手帳に、そっと手を当てた。


借金の交渉に来た。


表向きは、それだけだった。百日目まで、残り二十八日。夏腹の騒ぎで客足が落ち、百日帳の貯えの伸びは止まっていた。返済の期限を、ひと月でも延ばしてもらえないか。マルゴの名代として、それを頼みに来たのだ。


本当は、確かめに来た。


◇


本館の中は、外よりもひんやりとしていた。


石の床は磨き上げられ、塵ひとつ落ちていない。壁際の長机では、十人ほどの手代が並んで帳面に向かっていた。羽ペンの擦れる音だけが、高い天井に響いている。誰も顔を上げなかった。


受付の手代は、律の名を聞くと、すぐに奥へ引っ込んだ。


戻ってきたときには、顔つきが変わっていた。


「会頭が、直接お会いになるそうです」


三階の奥の部屋に通された。


広い部屋だった。床には厚い絨毯。壁一面の棚に、帳面がびっしりと並んでいる。背表紙には、全部数字が書いてあった。数字と、斜めの線で。


窓際の大きな机の向こうに、男が座っていた。


四十前後に見えた。白髪の混じった髪を短く整え、仕立てのいい紺の上着を着ている。机の上には羽ペンと天秤と、小さな砂時計。


男は帳面から顔を上げた。


律を見た。


一瞬、その目が見開かれた。


それから、男はゆっくりと、口の端を持ち上げた。


「霜村さん」


日本の発音だった。


この国の誰も、律の名前をそう呼んだことはなかった。


「君も、あの冷凍庫か」


◇


律は、立ったまま動けなかった。


膝の裏が、冷たくなっていた。冷凍庫の床に座り込んだときの冷たさが、足の裏から這い上がってくる。


仁科恭平は、机の上で指を組んだ。


日本で見たときより、むしろ若かった。霜の客の体は作り直される。それでも目の下の皺だけは、十二年分深く刻まれていた。けれどその声と首を傾げる癖は、少しも変わっていなかった。


「座りなよ。立ってると疲れるだろう」


律は座らなかった。


「……どうして、ここに」


声がかすれた。


仁科は肩をすくめた。


「君と同じだよ。あの冷凍庫で死んだ」


律の息が止まった。


「君が見つかった四か月後だ。精算の前に、在庫を確かめに入った。トリュフと熟成肉だよ。覚えてるだろう。番重を挟んだのに、閉まった。換気扇が止まった拍子にね」


仁科は、自分の手のひらを見下ろした。


「レバーは、折れたままだった」


律は、何ひとつ言えなかった。


「目が覚めたら、港の魚問屋の氷室だった。鱈の樽のあいだに転がってた。それが十二年前だ。この国ではね」


「十二年……」


「時間がずれるらしい。俺が死んだのは君より後なのに、こっちに落ちたのは十二年も前だった。おかげで、君が来るまでにずいぶん準備ができた」


仁科は笑った。


日本で何度も見た、相手の言葉を待たずに次へ進む笑い方だった。


◇


「この国は、ひどいところだったよ」


仁科は椅子の背にもたれた。


「最初の冬に、港で子どもが三人飢えて死ぬのを見た。粉は高い。パン屋はギルドで値を決めて、絶対に下げない。白いパンは貴族のもので、下町の人間は石みたいな黒パンをかじってる」


仁科は、机の上の天秤を指で弾いた。


「だから、変えた。水車の挽き方を変えて、篩を変えて、白い粉を安く大量に作った。仕入れを全部まとめて、仲買を飛ばした。日付と数字で全部の品物を管理して、無駄を削った。今じゃ、俺の白パンは一つ銅貨三枚だ。この十二年で、冬に飢え死にする子どもは半分以下になった」


仁科は律をまっすぐに見た。


「それは、嘘じゃないよ」


仁科は窓の外に目をやった。


「俺も昔、厨房にいたことがある。言ってなかったかな。二十代のころ、自分の店を持った。小さな洋食屋だ。客は来た。でも三年で潰れた。仕入れ先の肉で食中毒が出てね。俺のせいじゃなかった。でも、誰も俺の言うことなんか聞かなかった」


仁科は、乾いた声で笑った。


「そのとき分かったんだ。正しいことをしてても、守ってくれるものは何もない。守ってくれるのは、自分の握った数字だけだって」


律は、すっかり言葉を失っていた。


この男も、同じところから来たのだ。


同じ傷を、反対の方向に抱えて。


律は、市場で見た子どもを思い出していた。


白いパンを両手で抱えて走っていった子ども。頬が丸かった。


「霜村さん。君の帳面、見せてもらったよ。いや、見たのは写しだけどね」


律の背中が強張った。


「監督官の書記は、口が軽い。君の庫帳の話は、市の役所じゅうで評判だ。肉の一塊ごとに、届いた鐘の刻まで書いてあるって」


仁科は身を乗り出した。


「俺と組もう」


◇


「君の帳面と、俺の金と仕組みがあれば、この国の台所を全部回せる」


仁科の声には、熱がこもっていた。


「王都だけじゃない。地方の町も、村も。全部の倉庫に君のやり方を入れる。日付をつけて、古いものから使って、冷やすものは冷やす。夏腹で死ぬ子どもを、今の半分にできる。十分の一にだってできるかもしれない」


律の胸の中で、何かがかすかに揺れた。


十分の一。


塩樽通りの仕立て屋の坊や。ひび割れた唇。落ちくぼんだ目。


「品質管理の長として、うちに来てほしい。給金は、今の冬至亭の売り上げの十倍出す。冬至亭の借金は、もちろん帳消しにする」


仁科は両手を広げた。


「君の正しさを、国じゅうに広げられるんだよ」


律は、仁科の後ろの棚を見ていた。


背表紙に、数字と斜めの線。


あの腸詰めの樽の刻みと、同じ書き方だった。


「橋のたもとの屋台の、腸詰めの樽」


律が言うと、仁科の眉がわずかに動いた。


「日付が削られて、彫り直されていました。ひと月以上前の樽です。子どもが十人以上倒れました」


「ああ、あれか」


仁科は小さくため息をついた。


「下の手代が、古い在庫を勝手に払い下げたんだ。小遣い稼ぎにね。俺も報告を聞いて驚いたよ。その手代は、もう辞めさせた」


仁科は、穏やかに首を振った。


「大きな仕組みには、どうしてもそういう漏れが出る。だから、君みたいな人が要るんだ」


◇


律は、長いあいだ黙っていた。


窓の外で、荷車の車輪が石畳を叩く音が続いていた。


「牡蠣の箱にも」


律は言った。


「ラトリエ・ミナモに届いた牡蠣の箱にも、日付を書き直した跡がありました。数字の上に、数字を重ねて。あれも、下の誰かが勝手にやったことですか」


仁科の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。


それから、また元に戻った。


「昔の話だ。もう、どっちの世界にも残ってない話だよ」


仁科は机の上の砂時計をひっくり返した。


さらさらと、砂が落ちはじめた。


「霜村さん。この国で、記録が何の役に立つか分かるかい。字を読める人間は、十人に一人もいない。帳面より身分を信じる。証文より、誰が言ったかを信じる。だから俺は、数字を握った。数字を握れば、身分のある連中が俺の言うことを聞く」


仁科は、砂の落ちる音に耳を傾けるように、少し目を細めた。


「君の正しさも、俺の仕組みに乗せなきゃ、誰にも届かない」


◇


律は手帳を胸ポケットから出した。


開かずに、その表紙を手のひらで押さえた。


「あなたの仕組みは、たくさんの人を食べさせたと思います」


仁科の目が、律を見た。


「それは本当だと思います。白いパンを持って走っていく子どもを見ました」


「なら」


「でも、あなたの仕組みには、食べる人の名前がありません」


部屋が静かになった。


「何を、どれだけ、いくらで。あなたの帳面には、全部書いてあるんだと思います。でも、それを誰が食べるのかは、書いていない。だから、古い腸詰めの日付を書き換えても平気でいられる。食べるのは、帳面の外の誰かだから」


律は、自分の声が震えていないことに、少しだけ驚いた。


「私は、冬至亭の帳面をつけます。お断りします」


◇


仁科は、しばらく律を見ていた。


それから、ふっと息を吐いて笑った。


「変わらないね、君は」


仁科は砂時計を指で押さえ、落ちる砂を止めた。


「じゃあ、百日目に店ごと買うよ」


律は立ったまま、仁科を見下ろした。


「期限の延長は」


「しない。証文どおりだ」


仁科は帳面の一冊を棚から抜き、ぱらぱらとめくった。


「おとといの冬至亭の客は、五十八人。夏腹の騒ぎの前は、一日九十人を超えていた。騒ぎのあいだに予約が消えて、まだ戻りきっていない。貯えの伸びは、ここ六日で半分以下になっている」


律の背中に、冷たいものが走った。


「どうして」


「通りに一人立たせておけば、客の数くらい数えられる。数字は嘘をつかないからね」


仁科は帳面を閉じた。


「今のままだと、百日目に金貨四十枚ほど足りない計算だ。違うかい」


律は答えなかった。


答えられなかった。


それは、律がゆうべ百日帳で出した数字と、ほとんど同じだった。


「残念だよ、霜村さん」


仁科は、羽ペンを手に取った。もう律のほうを見ていなかった。


「気が変わったら、いつでもおいで」


◇


商会の本館を出ると、真昼の日差しが石畳を白く焼いていた。


律は川沿いの道を、塩樽通りのほうへ歩いた。


一歩、また一歩。


足が、少しずつ速くなった。


荷車を避け、人を避け、角を曲がった。息が上がる。汗が背中を伝う。それなのに、指先だけがずっと冷たかった。


塩樽通りの入口で、律は立ち止まった。


自分の手を見た。


震えていた。


止めようとして拳を握ると、今度は腕ごと震えた。


耳の奥で、音がした。


かちり。


あの冷凍庫の扉が閉まる、軽い音。


真夏の真昼の通りの真ん中で、律はその音を、何度も何度も聞いていた。


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