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潰れかけの異世界食堂に転生した元冷菜係です。差し押さえまで百日なので、まず食材庫にラベルを貼ります  作者: もしものべりすと


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第十三章 百日目

残り二十日の朝、律は食料庫の床で目を覚ました。


冷たい石が頬に当たっていた。


なぜここにいるのか、すぐには分からなかった。手の中に炭が一本握られている。目の前の棚に、書きかけの木札が一枚。


棚卸しの途中で、眠ってしまったのだ。


いや、眠ったのではない。


立ち上がろうとして、視界が白く揺れた。棚の縁を掴む。膝が言うことをきかない。


「リツ姉!」


石段の上から、ティムの声がした。


ティムは駆け下りてきて、律の腕の下に肩を差し込んだ。小さな体で、懸命に律を支える。ポワンがティムの足元で、心配そうにぷるぷると震えていた。


「ずっと下りてこないから、見に来たんだ。顔、真っ白だよ」


「大丈夫」


「大丈夫じゃない」


ティムの声が、珍しく尖っていた。


「リツ姉、ゆうべ寝てないでしょう。その前の晩も。僕、知ってるよ。洗い場の窓から、ずっと灯りが見えてた」


律は答えなかった。


答えられなかった。


◇


商会の本館から戻って以来、律はほとんど眠っていなかった。


夜は庫帳と百日帳をつけ、ヨアキムの写しを確かめ、翌日の仕込み表を作る。一の鐘の前に起きて市場へ行き、ローザの農家から届く野菜を検品する。昼の営業。賄い。夜の営業。閉店。棚卸し。


その合間に、仁科の言葉が頭の中で繰り返された。


今のままだと、金貨四十枚ほど足りない計算だ。


通りの角には、毎日同じ男が立っていた。紺の上着ではない。ただの町人の服を着て、果物をかじりながら、冬至亭の戸口を眺めている。客が入るたびに、男の指がかすかに動く。


数えているのだ。


市場では、冬至亭の料理は霜の客の呪いだという噂が、まだ消えきっていなかった。レオンの布告を読める人間は、下町には多くない。


ミラの父の粉屋には、商会の手代が三度来た。冬至亭に粉を卸すなら、来年から商会は粉屋の小麦を買わない、と。


ミラの父は、三度とも追い返した。


「娘が働いてる店に、粉を売らない親がどこにいる」


そう言って、店先に塩を撒いたという。


けれど律は知っていた。粉屋の小麦の半分は、商会が買い取っている。来年、それがなくなれば、粉屋は苦しくなる。


全部、自分のせいだ。


だから、全部、自分が何とかしなければならない。


◇


ティムに支えられて厨房に上がると、全員が揃っていた。


オーギュストが腕を組んで、竈の前に立っていた。ナディアが心配そうに眉を寄せ、ミラは粉袋を抱えたまま固まっていた。ベルナールは戸口にもたれ、ヨアキムは隅の卓で羽ペンを置いた。


マルゴが、帳場の椅子から律を見ていた。


「座りな」


律は首を振った。


「仕込みが」


「座りなって言ってるんだよ」


マルゴの声は低かった。咳がひとつ、その後に続いた。


律は、作業台の脇の椅子に腰を下ろした。


ナディアが、冷ました湯に塩と蜂蜜を溶かした杯を持ってきた。律が夏腹の家々に配ったのと、同じものだった。


律はそれを、黙って飲んだ。


「リツ」


オーギュストが言った。


「お前、一人で百日帳を抱えて一人で数字を睨んで、一人で青くなってるだろう」


律は杯を見下ろした。


「金貨が四十枚足りないって話なら、俺たちも聞いてる。婆さんが言ってた」


律は顔を上げた。


マルゴは、そっぽを向いていた。


「あんたが寝言で言ってたんだよ。四十、四十ってね」


◇


「足りないなら、足りない分をどうするか、みんなで考えりゃいい」


オーギュストは作業台に両手をついた。


「俺は竈の前で考える。ナディアは客のことを考える。ヨアキムは酒のことを考える。お前一人の頭より、七つの頭のほうがましだ」


ナディアが小さくうなずいた。


ミラが、粉袋を下ろした。


ベルナールが、戸口から一歩中に入った。


律は、全員の顔を順番に見た。


喉の奥が詰まった。


何か言わなければと思った。けれど、言葉が出てこなかった。


ヨアキムが、ペン先を布で拭いながら、静かに口を開いた。


「白丘の赤を出すときが、来たのかもしれない」


◇


それから半刻、厨房の作業台を七人で囲んだ。


最初に話したのは、ナディアだった。


「暑の月の第三めぐりの水の日に、灯流しがあります」


「灯流し?」


「ラシュ川に、小さな灯りを浮かべて流すお祭りです。亡くなった人を偲んで。その夜は、王都じゅうの人が川沿いに出てきます。お金のある商人の方々は、川の見える店で夕食をとるのが習わしです」


ナディアは、顧客の帳面を開いた。


「冬至亭の窓からは、川は見えません。でも、灯流しの行列は塩樽通りを通って川へ下ります。窓際の席からなら、行列の灯りが見えます」


「その夜に、特別な晩餐を開くのか」


オーギュストが訊く。


「はい。予約だけの、特別な晩餐を。五の鐘と、七の鐘の二回に分けて。お一人さま、銀貨五枚で」


ミラが息を呑んだ。


「銀貨五枚? 煮込みの六杯分だよ」


「その代わり、冬至亭で一番のお料理を、一番の順番でお出しします」


ナディアは帳面の頁をめくった。


「この帳面に、二百人以上のお客さまのお名前があります。その中で、灯流しの夜に川の見える店で食事をされそうな方を、二十組選びました。この方々に、私がお手紙を書きます。一通ずつ、お名前を入れて」


律は、ナディアの帳面を見つめていた。


花売りの娘だったころから、ずっと溜めてきた名前の列だった。


「席は二十八。二回で五十六人。銀貨五枚なら、それだけで金貨二十八枚」


律は、反射的に頭の中で数を組んだ。


材料と灯りと人の手間を引いて、残るのはおよそ金貨二十二枚。


それでも、まだ十八枚足りない。


「残りは、酒だ」


ヨアキムが言った。


「白丘の赤は十二本。全部は売らない。六本だけだ。灯流しの晩餐に来る客のうち、あの酒の値打ちが分かる人間にだけ勧める。一本、金貨三枚」


「六本で、十八枚」


律が言うと、ヨアキムはうなずいた。


「二十年寝かせた酒を、亡くなった人を偲ぶ夜に開ける。売り方としては、これ以上の時はない」


◇


オーギュストが、品書きを考えた。


前菜は、律のテリーヌを二種。豚の田舎風と、川鱒と根菜のもの。


スープは、仔羊の骨から引いたフォンに、ローザの畑の夏豆を溶かしたもの。


魚は、川鱒の香草焼き。


肉は、オーギュストの煮込み。


最後に、ミラの菓子。蜂蜜と、峠の向こうから来た杏で作るタルト。


「全部の皿を、ミラのやり方で前もって量っておく」


オーギュストが言った。


「ソースも、付け合わせも、器ごとに一皿分。二回転で五十六人だ。パスで詰まったら終わりだからな」


それから、オーギュストは律を見た。


「パスには、お前が立て」


律の手が、作業台の上で止まった。


「五十六人分の皿を、五つの順番で、二回。俺は竈から離れられない。誰かがパスで木札を読んで、火を入れる時を告げて、皿を揃えて出す。それができるのは、この店でお前だけだ」


律は口を開いた。


冷菜場が、私の持ち場です。


その言葉が、喉の手前で止まった。


全員が、律を見ていた。


「……やってみます」


◇


灯流しの夜まで、残りの日は仕込みに追われた。


ナディアは二十通の手紙を書いた。一通ずつ、相手の名前と、その人の好きな皿の名を入れて。ベルナールとティムが、それを一軒ずつ届けて回った。


返事は、三日で十八通戻ってきた。


ヨアキムは白丘の赤の瓶を一本ずつ酒蔵から出し、埃を払い、明かりにかざして澱の具合を確かめた。


ミラは、杏のタルトの生地を五十六人分、粉の一粒まで量って小袋に分けた。


オーギュストは竈の火口を全部掃除し、煮込みを三日かけて仕込んだ。


律は、テリーヌの型を二十個並べた。


一つずつ、底に炭で番号を書いた。一から二十まで。どの型の、どの切れが、どの卓に出たか。あとで数えられるように。


◇


灯流しの夜、五の鐘が鳴る前から、冬至亭の前に人が集まりはじめた。


樽職人の親方は、晴れ着の妻を連れていた。仕立て屋の一家は、元気になった坊やの手を引いていた。川沿いで羊毛を商う大店の主人、峠を越える荷の元締め、市の書記。


そして、市場監督官のレオン・ヴァイス。


一人で、紺の上着ではなく、地味な灰色の服を着ていた。


「客として来た」


レオンは入口のナディアに言った。


「代金は、自分で払う」


窓の外の通りを、灯流しの行列が川へ下りていく。手に手に、小さな紙の灯籠を持っている。橙色の灯りが、薄暗い石畳の上を、ゆっくりと流れていった。


食堂の卓の上では、蜜蝋のろうそくが灯っていた。後ろの壁の磨いた銅の皿が、その光を柔らかく跳ね返していた。


◇


五の鐘が鳴った。


最初の木札が、パスの釘に刺さった。


律はパスの前に立っていた。


冷菜場から、三歩の場所だった。けれどこの三歩は、十四年間、一度も越えたことのない三歩だった。


木札を読む。


声が、喉の奥で絡まった。


「……一卓、四名」


小さかった。竈の前のオーギュストに、届いていない。


律は息を吸った。


腹の底から、声を出した。


「一卓、四名、前菜から入ります!」


「ウィ!」


オーギュストの声が返ってきた。ミラとベルナールとティムの声が、それに続いた。


二枚目の木札。三枚目。


「二卓、三名、前菜! 三卓、前菜!」


「ウィ!」


前菜の皿が、冷菜場から律の前に並ぶ。


ミラと、律が前もって切っておいたテリーヌの皿だ。律は一皿ずつ、断面の厚みと、付け合わせの位置を確かめた。指一本分。崩れはない。


「一卓、前菜、出ます!」


ベルナールが片手で皿を受け取り、食堂へ運ぶ。


「一卓、スープの用意を。三つ数えたら、火を」


「ウィ」


律はパスに立ち、木札と皿と、竈と食堂の全部を見ていた。


どの卓が今どの皿を食べていて、次の皿をいつ火にかければ、ちょうど食べ終わる頃に熱々で届くか。それを全部、頭の中で並べていく。


在庫の並べ方と同じだった。


古いものから先に。新しいものを奥に。食べ終わる卓から先に、次の皿を。


◇


十枚目の木札を読んだあたりで、律の膝が震えた。


食堂のざわめきが、急に耳に流れ込んできた。人の笑い声。杯の触れ合う音。誰かが、この店の煮込みの話をしている。


全員が、こちらを見ているような気がした。


パスの向こうの食堂から、律の顔が見えている。


前に出ている。


拍手される場所に、立っている。


律の手から、木札が一枚滑り落ちた。


拾おうとして、身をかがめた。そのまま、足が冷菜場のほうへ一歩下がった。


二歩。


気づくと、律は冷菜場の台の前に立っていた。テリーヌの型を、意味もなく拭いていた。


パスが、空になった。


「リツ!」


オーギュストの声が、竈の前から飛んできた。


「何してる、パスに来い!」


律は布巾を握りしめた。


指が白くなるほど、強く。


◇


パスに戻ったのは、ナディアが食堂から厨房に駆け込んできたときだった。


ナディアは律の前に立ち、何も言わずに、律の手から布巾を取り上げた。


それから、落ちていた木札を拾って、律の手に握らせた。


「五卓のお客さまが、スープをお待ちです」


ナディアの声は、静かだった。


「リツさんが読んでくれないと、誰もスープを温められません」


律は木札を見た。


五卓、四名。スープ。


律はパスの前に戻った。


「五卓、スープ、火を!」


「ウィ!」


オーギュストの声に、ほんのわずかに安堵が混じっていた。


その夜、律は二回の晩餐の、最初の回の半分をパスに立った。


残りの半分は、冷菜場とパスのあいだを行ったり来たりした。二回目の晩餐では、オーギュストが竈とパスを兼ねた。律は、最後まで立ち続けることができなかった。


◇


ヨアキムは、白丘の赤を六本売った。


最初の一本を頼んだのは、羊毛の大店の主人だった。ヨアキムが瓶の封蝋の年を告げると、主人はしばらく黙った。それから亡くなった父親の話をした。父親が、一度だけ口にしたことのある酒だという。


主人は一本を卓で開け、もう一本を持ち帰りで買った。


残りの四本は、主人の卓の話を聞いた隣の卓の客たちが買った。


閉店のあと、ヨアキムは作業台の上に、金貨を十八枚並べた。


誰も、しばらく口をきかなかった。


◇


百日目の朝、律とマルゴは公証人の役所にいた。


暑の月の第三めぐりの風の日。


石造りの小さな部屋に、長い机が一つ。机の向こうに公証人が座り、その横に白秤商会の手代のセルジュが立っていた。


律は、布袋を三つ机の上に置いた。


金貨と、銀貨と、銅貨。


百日分の、冬至亭の全部だった。


セルジュが、一枚ずつ数えはじめた。


金貨を十枚ずつの山に積む。銀貨を十枚ずつ。銅貨を十枚ずつ。手つきに無駄がなく、速い。指先が、一度も迷わなかった。


部屋の中に、硬貨の触れ合う音だけが響いた。


律は、膝の上で手を握っていた。


マルゴは杖に両手を重ね、目を閉じていた。


最後の銅貨の山を積み終えて、セルジュが顔を上げた。


「金貨にして二百九十九枚と銀貨九枚、銅貨八枚」


セルジュの唇が、薄く笑った。


「銅貨が、二枚足りませんな」


◇


律の頭の中が、真っ白になった。


計算は合っていたはずだ。昨夜、何度も数え直した。


いや、今朝。今朝、荷を取りに行くベルナールに、ローザへの野菜の代金を持たせた。あの支払いを、数え直したあとで袋から出した。


二枚。


銅貨二枚。卵六個分。


「証文には、金貨三百枚と書いてあります」


セルジュが言った。


「一枚でも欠ければ、証文どおりの返済とは申せません。誠に残念ですが」


公証人が、羽ペンを手に取った。


そのとき、部屋の扉が勢いよく開いた。


ティムが、息を切らして立っていた。


両手で、小さな素焼きの壺を抱えている。冬至亭の洗い場の、窓辺に置いてある壺だった。


「リツ姉、これ!」


ティムは壺を、机の上に置いた。


「洗い場の、心付けの壺。お客さんがときどき、お皿きれいだったねって、銅貨を入れていってくれるやつ。僕、使わないで取っておいたんだ」


ティムは、壺を逆さにした。


銅貨が、机の上に転がり出た。


一枚。二枚。三枚。


全部で、七枚あった。


セルジュの笑みが、固まった。


公証人が、眼鏡を押し上げて、銅貨を数えた。


「……金貨三百枚。証文どおり、受け取りを認めます」


公証人の羽ペンが、証文の上を走った。


◇


役所を出ると、朝の光が眩しかった。


マルゴが、杖をついたまま空を見上げていた。目の端が、少しだけ濡れていた。


ティムが、残った銅貨五枚を壺に戻しながら、律の顔を覗き込んだ。


「リツ姉、泣いてるの」


「……泣いてない」


「泣いてるよ」


律は袖で顔を拭った。


そのとき、セルジュが後ろから声をかけた。


「会頭から、ご伝言がございます」


セルジュは、硬い顔で一礼した。


「おめでとう。次は、王宮で会おう、と」


律は振り返った。


セルジュはもう、役所の中へ戻っていくところだった。


◇


その夜、冬至亭は早めに店を閉めた。


オーギュストの煮込みとミラのタルトと、ローザの畑の夏豆。全員で、ささやかな祝いの賄いを囲んだ。ヨアキムだけは、水の杯を掲げていた。


笑い声が、遅くまで続いた。


律は、百日帳の最後の頁を開いた。


残り日数の欄に、零と書いた。


借金の残りの欄にも、零と書いた。


それから、その下に一行だけ書き足した。


みんなで、返した。


二階から、咳の音がした。


マルゴは、祝いの途中で先に部屋に上がっていた。


咳は、長く続いた。止まりかけて、また続いた。それから、何かを吐くような、湿った音に変わった。


律はペンを置き、石段を駆け上がった。


マルゴの部屋の扉を開ける。


寝台の脇に、マルゴが膝をついていた。片手で寝台の縁を掴み、もう片方の手で口元を押さえている。


床の上の洗面器に、赤いものが広がっていた。


ランプの灯りの中で、それは黒く見えた。


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