第十四章 招かれざる客
「胸の病です。治癒の魔法では、どうにもなりません」
施療院から来た老いた医者は、マルゴの部屋を出ると、廊下で律にそう告げた。
「傷なら塞げます。折れた骨も繋げます。けれど、体の内側で長い時間をかけて育った病は、魔法では消せない。せいぜい、楽にしてさしあげることくらいです」
「どれくらい」
律の声は、自分でも驚くほど平らだった。
医者は首を振った。
「冬を越せるかどうか。本人の力次第です」
◇
百日目から、ひと月あまりが過ぎていた。
実りの月の第四めぐり。王都の空は少しずつ高くなり、ラシュ川の水も澄みはじめた。朝の市場には、林檎と梨と、新しい麦の粉が並ぶようになった。
冬至亭は、毎晩満席になっていた。
灯流しの晩餐の噂が、川沿いの商人たちのあいだで広まったのだ。塩樽通りの潰れかけの宿に、羊毛の大店の主人が二度も足を運んだ。それだけで、店の格が変わった。
ナディアの予約の帳面は、二めぐり先まで埋まっていた。
けれど、マルゴは寝台から起き上がれない日が増えていた。
律は毎朝、仕込みの前にマルゴの部屋に寄った。塩と蜂蜜の湯を置き、窓を少し開け、寝具の湿り具合を確かめる。マルゴはそのたびに、うるさそうに手を振った。
「店に戻りな。あたしは庫の中の肉じゃないよ」
「肉なら、もっと丁寧に扱います」
「口の減らない子だね」
マルゴはそう言って、目を閉じた。その口元が、わずかに笑っていた。
◇
その日の昼過ぎ、ナディアが青い顔で厨房に入ってきた。
手に、一枚の紙を持っていた。
「予約のお手紙が届きました」
「誰から」
ナディアは、紙を律に差し出した。
上質な羊皮紙だった。封蝋に、銀の秤の紋章。
白秤商会会頭、ニシナ。
風の日の夜、七の鐘。一名。
厨房の空気が、凍りついた。
オーギュストが、竈の前から振り返った。
「断れ」
低い声だった。
「あいつに出す皿は、一枚もない」
ナディアは紙を胸に抱いたまま、律を見た。
律は、紙の上の字を見つめていた。
几帳面な字だった。日付の欄だけが、この国の書き方で書いてある。実りの月 第五めぐり 風の日。
わざわざ、合わせてきたのだ。
「ナディアさんは、どう思いますか」
律が訊くと、ナディアは少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくりと息を吸った。
「お受けするべきだと思います」
オーギュストが何か言いかけた。ナディアは、静かに続けた。
「冬至亭は、食堂です。お代を払って、お行儀よく食べてくださる方は、お客さまです。お客さまを選ぶ店になったら、それはもう、塩樽通りの食堂ではありません」
ナディアの手が、紙の端を握りしめていた。
「私の家を潰した商会の方でも、です」
厨房が静かになった。
オーギュストが、舌を打って竈に向き直った。
「……好きにしろ。皿は、いつもどおり作る」
◇
風の日の夜、七の鐘ちょうどに、仁科は冬至亭の扉をくぐった。
一人だった。供も連れていない。紺の上着に、銀の秤の留め具。
戸口にはベルナールが立っていた。片腕の大男は、仁科の頭からつま先までを、一度だけゆっくりと見た。
仁科は、にこやかにうなずいた。
「いい用心棒だ」
ベルナールは答えなかった。ただ、道を空けた。
ナディアが一礼した。
「いらっしゃいませ、ニシナさま。お席をご用意しております」
ナディアは仁科を、窓際から二つ目の卓に案内した。壁を背にして座れる席だ。食堂全体が見渡せる。
仁科は、少し意外そうに眉を上げた。
「よく分かったね。俺が、壁を背にしたがるって」
「商いをなさる方は、たいていそうです。入口と、ほかのお客さまの両方が見える席を好まれます」
仁科は、ふっと笑った。
「君は、ファルケ男爵家の娘さんだね」
ナディアの指先が、ほんのわずかに強張った。
「お父上のことは、残念だった」
仁科の声には、何の悪意もなかった。天気の話でもするような声だった。
ナディアは、一礼した。
「本日のお品書きです。お飲み物は、酒番がお伺いいたします」
その背筋は、最後まで真っ直ぐだった。
◇
厨房に戻ってきたナディアは、パスの陰で一度だけ深く息を吐いた。
それから、自分の帳面を開いて、何かを書き込んだ。
律は横から覗いた。
ニシナさま。壁を背にした席。入口が見える位置。お一人。葡萄酒は、ヨアキムさんにお任せ。
その下に、もう一行。
ファルケの名をご存じ。
ナディアは帳面を閉じ、律を見て、小さく微笑んだ。
「お客さまのことは、全部書いておきます。どなたであっても」
◇
仁科は煮込みと川鱒の香草焼きと、テリーヌを頼んだ。
ヨアキムが勧めた赤を、一杯だけ飲んだ。
食べ方は、静かだった。一口ずつ、皿の上を確かめるように食べる。テリーヌの断面を、しばらく眺めてから口に運んだ。
食べ終わると、仁科はナディアを呼んだ。
「料理長に、礼を言いたい」
オーギュストは竈の前から動かなかった。
「……行かない」
律が前掛けを外した。
「私が行きます」
オーギュストが振り返った。何か言いたそうだったが、言わなかった。
◇
律が卓の前に立つと、仁科は穏やかに笑った。
「おいしかったよ。本当に」
仁科は、空の皿を指で示した。
「煮込みは、骨からちゃんと出汁を引いてる。うちの粉フォンじゃ、この味は出ない。川鱒は、盛り付けの工程を減らしてるね。ソースと付け合わせを前もって量って、器に分けてある。違うかい」
律は答えなかった。
仁科は、満足そうにうなずいた。
「それからテリーヌ。厚みが全部同じだ。指一本分。ラトリエ・ミナモの冷菜と、同じ切り方だ」
仁科は、杯の残りを飲み干した。
「厨房を、少しだけ見せてもらえるかな。パスの手前から、覗くだけでいい」
律は迷った。
けれど、見られて困るものは何もなかった。
◇
仁科は、パスの手前に立って、厨房を眺めた。
竈の前のオーギュストが、背中で殺気を放っていた。ミラは粉袋の陰に隠れ、ティムはポワンを抱いて洗い場の隅に縮こまっていた。
仁科の目が、冷菜場の棚の上で止まった。
色のついた木札が、日付の順に並んでいる。
茶。青。赤。緑。
壁には、六色の並びを書いた板が掛けてあった。
仁科は、しばらくそれを眺めていた。
それから、くすりと笑った。
「六色か」
律は黙っていた。
「日付も、この国の書き方だ。実りの月 第五めぐり 風の日」
仁科は、木札の一枚を目で読んでから、律を見た。
「郷に入っては郷に従え、か。君らしくないね」
「そうですか」
「君は、正しいやり方を曲げない人だと思ってた」
仁科は、肩をすくめた。
「うちは、自分の暦で回してる。七日で一週。月も日も、数字で書く。そのほうが速いし、間違いがない。最初は手代たちも戸惑ったけど、三年で慣れた。今じゃ、商会の帳面は全部そうだ」
律は、仁科の顔を見つめた。
「この国の人たちが読めなくても、ですか」
「読める人間が、仕組みを回せばいい」
仁科は、こともなげに言った。
「読めない人間は、仕組みの外で、出来上がったものを受け取ればいい。それで十分、腹は膨れる」
ナディアの父の、読めなかった約束の書付。
あの腸詰めの、彫り直された日付。
律は、拳を握っていた。
◇
仁科は代金を払い、ナディアに銀貨を一枚多く渡した。ナディアはそれを受け取らず、丁寧に返した。仁科は笑って、それをしまった。
扉の前で、仁科は振り返った。
「そうそう。一つ、面白い話を教えてあげよう」
律は、パスの前に立ったまま仁科を見ていた。
「宮廷の大膳頭のグリモー伯爵が、近ごろ頭を抱えてる。王太后さまが、また倒れられたそうだ。今年に入って、もう五度目だよ。宮廷の食事が原因じゃないかって、陰で噂になってる」
仁科は、銀の留め具を指で撫でた。
「宮廷の食料は、全部うちが納めてる。困ったものだね」
仁科は、扉を開けた。
「ごちそうさま。また来るよ、霜村さん」
扉が閉まった。
ベルナールが、戸口に立ったまま、閉まった扉を長いあいだ睨んでいた。
◇
その夜、閉店のあとで、律は全員を厨房に集めた。
「明日から、少しやり方を変えます」
律は、作業台の上に帳面を広げた。
「マルゴさんの薬代と、医者に払うお金が、ひと月で金貨三枚かかります。それと、冬に向けて、氷室の氷を買い足さなければなりません。だから」
律は、帳面の一行を指で押さえた。
「ミラの給金の上乗せを、春まで待ってもらいます」
ミラの顔から、表情が消えた。
「それと、ギュス。川鱒の皿を、秋は鯉に替えます。鯉のほうが、仕入れが三割安い。品書きは、もう書き直しておきました」
オーギュストが、ゆっくりと律のほうを向いた。
「……俺に、一言もなしにか」
「数字を見れば、そうするしかないと分かるはずです」
「数字を見ればな」
オーギュストの声が、低くなった。
ミラが、膝の上で拳を握っていた。
「帳面に、全部書くって言ったよね」
ミラの声が震えていた。
「お店が立ち直ったら、上乗せするって。あたし、その帳面、見せてもらうって言ったよね。リツさん、うなずいたよね」
律は、言葉に詰まった。
「借金は返したよ。店は毎晩満席だよ。それでも待てって、あたしに一言も聞かないで、帳面の上だけで決めたの」
「ミラ、それは」
「リツさんは、いつもそうだ」
ミラは立ち上がった。
「全部一人で数えて、全部一人で決めて、決まったことだけあたしたちに言う。あたしたちは、帳面の中の数字なの?」
ミラは粉袋の脇を抜けて、裏口から出ていった。
扉が、大きな音を立てて閉まった。
◇
厨房に、重い沈黙が落ちた。
オーギュストが、竈の縁に寄りかかって律を見た。
「ミラの言うとおりだ」
律は顔を上げた。
「お前は、俺たちを帳簿の数字だと思ってる」
オーギュストの目には、怒りよりも、疲れが滲んでいた。
「マルゴの薬代が要るなら、そう言えばいい。そう言ってくれりゃ、俺は鯉でも鮒でも焼く。ミラだって、待てと言われりゃ待つ。あいつはそういう奴だ。でもお前は、言わない。一人で数えて、一人で決める」
オーギュストは前掛けを外した。
「灯流しの夜、パスから逃げたのも同じだ。お前は、人の前に立つのが怖いんじゃない。人に頼るのが怖いんだ」
オーギュストは、前掛けを作業台に置いた。
「頭を冷やしてくる」
オーギュストも、裏口から出ていった。
ナディアが、何か言いかけて、口をつぐんだ。ベルナールは黙って椅子を卓に上げはじめた。ヨアキムは、写しの帳面を開いたまま、ペンを動かさなかった。
ティムだけが、洗い場の隅から、律を見ていた。
やがてティムは、洗い場の脇の板を両手で抱えて、律の前に来た。棒と斜線が、びっしりと並んだ板だった。
「リツ姉。今日の銅鍋、全部戻ってきたよ。十四個。型も八個」
ティムは板を作業台に置いた。
「僕の数え方、合ってるか見てくれる?」
律は板を見下ろした。
棒が四本と、斜めに一本。その塊が、きれいに並んでいる。最初のころの、震えた線ではなかった。
「……合ってる」
「よかった」
ティムは板を抱え直し、少しだけ笑った。
「僕、一人で数えるの、最初すごく怖かったんだ。間違えたらどうしようって。でも、リツ姉が毎晩見てくれるから、平気になった」
ティムは洗い場に戻っていった。
律は、その小さな背中を見ていた。
◇
律は、自分の部屋に上がった。
寝台の端に座り、黒い手帳を開いた。
日本から持ってきた、あの手帳だ。最後の頁の一行の手前に、これまで書いてきた走り書きが並んでいる。
律は、新しい余白にペンを置いた。
言えなかったことを、書こうとした。
ごめんなさい。
そう書こうとして、手が止まった。
マルゴさんが、冬を越せないかもしれない。
そう書こうとして、また止まった。
私は、誰かに頼り方を知らない。
結局、何も書けなかった。
書いてないことは、なかったことになる。それなら、書けないことは、どうなるのだろう。
律は手帳を閉じ、膝の上で握りしめた。
◇
翌朝、一の鐘より早く、冬至亭の扉が叩かれた。
ベルナールが開けると、戸口に一人の男が立っていた。
地味な服を着た、大柄な男だった。灯流しの夜より前、灰色の頭巾の娘の後ろを、つかず離れずについていった男の一人だった。
男は、懐から一通の手紙を取り出した。
「冬至亭の、食料庫の番の方に」
ベルナールが受け取り、厨房の律のところへ持ってきた。
上質な羊皮紙だった。
封蝋に押された紋章を見て、律の手が止まった。
冠と、麦の穂。
ファルネア王家の紋章だった。
封の脇に、小さな字で書き添えてあった。
灰色の頭巾より。




