第十五章 鍵束の来歴
王宮の裏門は、夜明け前の霧の中にあった。
「こちらへ」
灰色の頭巾をかぶった娘が、小さな通用口の扉を開けて手招きした。その後ろに、手紙を届けに来た大柄な男が控えている。
律は、手紙に書かれていたとおり、一人で来ていた。
陽の日の、一の鐘の前。
手紙の文面は短かった。
宮廷の食料庫を、見ていただきたいの。誰にも知られないように。
◇
通用口をくぐると、石の廊下が長く続いていた。
壁に灯された魔石灯が、青白い光を落としている。床は磨かれ、塵ひとつない。けれど、奥へ進むにつれて、匂いが変わっていった。
律の足が、自然と速くなった。
知っている匂いだった。
冬至亭に来た最初の朝、氷室の奥の扉の向こうから漂ってきた匂い。
甘く、重い。
「ここよ」
娘が、大きな樫の扉の前で足を止めた。
「大膳寮の、食料庫」
扉の鍵は、大柄な男が持っていた。音を立てないように、ゆっくりと回す。
扉が開いた。
◇
広かった。
冬至亭の食料庫の、十倍はある。石造りの天井は高く、壁際に棚が何列も並んでいる。床には樽と麻袋が、所狭しと積み上げられていた。
そして、そのどれにも、秤の焼き印があった。
律は、樽の一つに近づいた。
焼き印の下に、日付が刻まれていた。
数字と、斜めの線で。
「白秤商会から、全部まとめて納められているの」
娘が小声で言った。
「三十年前から、宮廷の食料は商人にまとめて任せるようになったんですって。十年ほど前から、それが全部白秤になった。大膳頭のグリモー伯爵が、そう決めたの」
律は、棚を見て回った。
肉と野菜が、同じ棚に並んでいる。生の鶏の下に、焼き菓子の箱が置かれている。樽は、新しいものが手前に積まれ、古いものが奥で埃をかぶっていた。
棚の隅で、何かが走った。
鼠だった。
娘が、小さく悲鳴を飲み込んだ。
「帳面は、ありますか」
律が訊くと、娘は首を振った。
「入ってきたものの帳面は、商会の手代が持っているの。何が、いつ、どれだけ入ったか。宮廷の側には、何も残っていない。大膳寮の者は、商会の帳面を信じて、そのまま使っているだけ」
律は、壁際の一番奥の棚の前で足を止めた。
小さな樽が、六つ並んでいた。
蓋の隙間から、煙の匂いが漏れていた。燻製の匂いだ。その奥に、海の匂いが混じっている。
律は、樽の焼き印を見た。
秤の印。その下に、燻製牡蠣、と商会の字で書かれていた。
樽は、竈の熱が壁越しに伝わってくる、一番暖かい場所に置かれていた。
◇
「殿下」
律が振り返ると、娘は少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくりと頭巾を下ろした。
淡い金色の髪が、魔石灯の光を受けて揺れた。
「知っていたのね」
「市場監督官の方が、教えてくれました」
第二王女ルシールは、小さくため息をついた。
「ルシールでいいわ。ここでは」
律は、牡蠣の樽を指で示した。
「王太后さまは、牡蠣がお好きですか」
ルシールの顔色が変わった。
「……どうして」
「この樽だけ、宮廷の食料庫の一番奥に、六つも置いてあります。普通の厨房なら、燻製の牡蠣をこんなに抱えません。誰か一人のために、特別に取り寄せているものです」
ルシールは、しばらくじっと黙っていた。
「お祖母さまは、燻製牡蠣のムースが大好きなの。冷たくして、宴の最初にお出しする。昔から、お祖父さまとの思い出の味なんですって」
「倒れられたのは、いつも宴のあとですか」
ルシールの唇が、小さく震えた。
「……ええ」
「その宴で、ムースは出ていましたか」
ルシールは答えなかった。
答えなくても、分かった。
「わたくしは、子どもの頃から貝が苦手だった。でも、本当は」
ルシールは、自分の両手を見下ろした。
「お祖母さまが倒れるたびに、ムースの皿が出ていたことに、気づいていたの。怖くて、それから貝を食べられなくなった。でも、誰に言っても信じてもらえなかった。大膳頭は、商会の品は全部日付つきで確かなものだと言うし、お医者さまは呪いだと言う。わたくしが何を言っても、子どもの好き嫌いだと」
冬至亭で、海老の皿に目を伏せた理由。
ナディアの言ったとおりだった。
言えない理由が、あったのだ。
◇
律は、樽の一つの蓋に手をかけた。
「開けてもいいですか」
ルシールがうなずいた。
蓋をずらした瞬間、煙の匂いの下から、別の臭いが立ちのぼった。
甘ったるい、重い臭い。
律は蓋を戻した。
「この樽は、もう駄目です」
声が、少しだけ硬くなった。
「燻製は、長く持つと思われています。でも、燻した牡蠣も、暖かい場所に置けば傷みます。この場所は、竈の熱で一日じゅう温い。樽の日付が本当に新しくても、ここに置いたら十日で駄目になります」
律は、刻まれた日付を指でなぞった。
木目に沿って、白い削り跡が浮いていた。
「それに、この日付は、たぶん新しくありません」
ルシールの顔から、血の気が引いた。
◇
食料庫を出ると、霧は少し晴れていた。
中庭の隅の、人目につかない石のベンチに、二人は並んで座った。朝露に濡れた芝の向こうで、王宮の厨房の煙突から、最初の煙が細く上がりはじめていた。大柄な男は、少し離れた柱の陰に立っていた。
「どうすればいいの」
ルシールの声は、小さかった。
「わたくしが大膳頭を問い詰めても、商会の帳面を持ち出されて終わりよ。お父さまは忙しいし、大膳寮のことは大膳頭に任せきり。わたくしの言葉は、子どもの言葉なの」
律は、膝の上で手を組んだ。
「宮廷の食料を、宮廷の側で確かめる人が要ります」
ルシールが顔を上げた。
「何が入ってきたか。いつ、誰が、どれだけ。それが本当に新しいか。どこに置いて、いつ使ったか。それを商会の帳面ではなく、宮廷の帳面に書き残す人です」
律は、言葉を続けた。
「昔は、そういう役目があったと聞きました」
ルシールの目が、わずかに見開かれた。
「ガルド・マンジェ」
律は、その名を口にした。
「王家の食料庫番の、官職です」
◇
ルシールは、長いあいだ律を見つめていた。
「聞いたことがあるわ。子どもの頃、古い宮廷の記録で読んだ。三十年前に、なくなった役目よね」
「はい」
「それを、元に戻せと言うの」
「元に戻すかどうかは、私には決められません」
律は首を振った。
「でも、王太后さまの口に入るものを、誰も確かめていない。それだけは、確かです」
ルシールは、組んだ指をぎゅっと握りしめた。
それから、すっと立ち上がった。頭巾をかぶり直す。その横顔が、もう子どもの顔ではなかった。
「お父さまに、申し上げてみる」
ルシールは律を見下ろした。
「今度は、子どもの好き嫌いだと言われないように。あなたが見たものを、わたくしの言葉で」
◇
冬至亭に戻ると、律はまっすぐマルゴの部屋に上がった。
マルゴは寝台の上で、窓の外を見ていた。秋の朝の光が、白い髪を透かしていた。
「宮廷の食料庫を見てきました」
マルゴが、ゆっくりとこちらを向いた。
律は、見てきたものを全部話した。商会の焼き印。日付のない帳面。鼠。竈の熱で温まった燻製牡蠣の樽。王太后のムース。
それから、ガルド・マンジェの名を出したことも。
マルゴは、最後まで黙って聞いていた。
聞き終わると、長く息を吐いた。それが咳に変わり、しばらく止まらなかった。律は塩と蜂蜜の湯を渡した。マルゴは一口飲んで、杯を膝の上に置いた。
「三十年前も、燻製の牡蠣だったよ」
律は、息を止めた。
◇
「先々代の王さまの、生誕の宴だった」
マルゴは窓の外を見ていた。
「冷たい前菜に、燻製牡蠣のムースが出た。そのあとで、貴族が十二人倒れた。三人が死んだ。あたしは、王宮のガルド・マンジェだった。宮廷の食料庫の鍵を持っていたのは、あたし一人だった」
マルゴの指が、上着の胸元を撫でた。そこに、鍵束がある。
「あたしは、その牡蠣を受け取っていなかった。受け入れの検めで、臭いがおかしいと言って、返したんだ。庫帳にも、ちゃんと書いた。返品、臭気あり、とね」
「なら」
「庫帳は、焼けたことになっていた」
マルゴの声は、乾いていた。
「宴の翌朝、大膳寮の小部屋で火が出た。庫帳はそこに置いてあった。一冊残らず、灰になった」
律の手が、膝の上で強張った。
「昔は、庫帳は必ず二部作る掟だった。一部は庫に、一部は修道院の文書庫に」
マルゴは、律を見た。
「でもね、その前の年に、当時の宰相が写しを廃したんだよ。羊皮紙代の節約だとさ。写字生の給金も浮く。あたしは反対した。でも、たかが庫の番の言うことなんか、誰も聞かなかった」
マルゴは、ふっと笑った。
「あたしは証明できなかった。牡蠣を返したことも、自分が正しく書いていたことも。責めを負わされて、宮廷を出された。そのうち、ガルド・マンジェの官職そのものが、要らない役目だとして廃された。食料は商人にまとめて任せたほうが安い、ってね」
律は、しばらく言葉が出なかった。
同じだった。
正しく書いていた。書いていたものを、消された。一冊しかなかったから。誰かの手の中にしかなかったから。
書いてないことは、なかったことになる。
マルゴは、三十年前にそれを知っていたのだ。
◇
「あんたが最初にこの宿の氷室に落ちてきたとき」
マルゴは、律の顔を見た。
「食料庫の棚を、勝手に全部並べ直したね。古いものを手前に、新しいものを奥に。木札に、日付と、自分の印を書いて」
「はい」
「あれを見たとき、あたしは三十年ぶりに、庫の番の手を見たと思った」
マルゴは、上着の内側に手を入れた。
鍵束を取り出す。真鍮の大きな輪に、古びた鍵が六本。七本目は、今は律が持っている。
マルゴは、留め金の札を指でなぞった。
Garde Manger。
「この官職を作ったのも、霜の客だったって話は、したかね」
律は首を振った。
「百五十年前の話さ。ある王さまが、毒を盛られて死にかけた。そのとき、王宮の氷室に一人の男が落ちてきた。フランスという国の料理人だったそうだ。名前は、ジュール・アヴリル」
律の背中に、細かい震えが走った。
フランス。
律の世界の国の名だった。
「その男が、王家の食料庫番という役目を作った。何がいつ入って誰が確かめたか。どこにしまって、いつ使ったか。全部を帳面に書き残す決まりを作った。帳面は必ず二部。一部は修道院へ。全部、その男が決めたことだ。この鍵束の札の字も、その男の国の字だよ」
マルゴは、鍵束を膝の上に置いた。
「最初の庫帳は、今も灰岩修道院の文書庫に眠ってる。あたしも、若い頃に一度だけ見せてもらった。読めなかったけどね。あの男の国の言葉と、この国の字が混じってた」
律は、鍵束の札をじっと見つめていた。
百五十年前。
自分と同じように、冷たい場所で死んで、この国の氷室に落ちてきた料理人がいた。
その人が、ガルド・マンジェという言葉を、この国に残していったのだ。
◇
その日の夕方、冬至亭の前に一台の馬車が停まった。
黒塗りの車体に、王家の紋章。冠と、麦の穂。
降りてきたのは、宮廷の使者だった。銀の飾り紐のついた上着を着た、痩せた男だった。
使者は、食堂の真ん中に立ち、羊皮紙の巻物を広げた。
厨房から、全員が顔を出していた。オーギュスト。ナディア。ミラ。ベルナール。ヨアキム。ティム。二階の窓から、マルゴの咳が聞こえていた。
使者は、咳払いを一つして、読み上げた。
「国王陛下の名において。来たる収穫の月 第三めぐり 陽の日。白麦の宴を催す。その宴に限り、塩樽通り冬至亭の霜村律を、王家の臨時ガルド・マンジェに任ずる。宮廷の食料の受け入れと検めと保管、ならびに冷たい前菜の一切を、その者に預ける」
食堂が、静まり返った。
律は、自分の名が読み上げられるのを、どこか遠くで聞いていた。
臨時の、ガルド・マンジェ。
ルシールが、本当に父王に申し上げたのだ。それも、たった半日のうちに。
使者は、巻物を巻き戻そうとして、手を止めた。
「なお、この任命は宮廷御用達である白秤商会会頭ニシナ殿の、強いご推薦によるものである」
厨房の誰かが、息を呑む音がした。
使者は巻物を律に手渡し、一礼して、馬車へ戻っていった。
律は、巻物を握ったまま立ち尽くしていた。
推薦者の名の横の、几帳面な署名。
その日付だけが、数字と、斜めの線で書かれていた。




