第十六章 最初の庫帳
「帰ったか、ヨアキム」
灰岩修道院の門の内側で、白い髭の老僧がそう言った。
ヨアキムは、門の敷居の手前で足を止めた。
「帰ってはいません、院長。写しを預けに来ただけです。いつものように」
「いつものように、か」
老僧アンセルムは、杖に両手を重ねて笑った。皺だらけの顔の中で、目だけが少年のように澄んでいた。
「お前が一めぐりごとに門の外で写しを渡して、受付印をもらったら走って帰っていくのを、わしは毎回窓から見ておった。今日は、門をくぐったな」
ヨアキムは、何も言わなかった。
ただ、灰色の長衣の裾を、片手で握っていた。
◇
王都の北の門を出て、一刻ほど丘を登ったところに、灰岩修道院はあった。
名前のとおり、灰色の岩を切り出して積んだ建物だった。高い塀に囲まれ、塀の内側には葡萄畑と小さな菜園と鐘楼。秋の風が、熟れかけた葡萄の甘い匂いを運んでいた。
律がここに来るのは、初めてだった。
坂道の途中で、ヨアキムは何度も足を止めた。息が切れたのではない。丘の上の鐘楼を見上げては、また歩き出す。その繰り返しだった。
「毎めぐり、ここを登っていたんですね」
律が言うと、ヨアキムは前を向いたまま答えた。
「門の前までだ。門の内側には、二年、一歩も入っていない」
「なぜですか」
「醸造の樽の前で、毎晩酔い潰れていた男を、弟子たちはまだ覚えている」
それきり、ヨアキムは黙って坂を登った。
臨時のガルド・マンジェに任じられたその夜、律はヨアキムに頼んだ。
最初の庫帳を、見せてほしい。
ヨアキムは長いあいだ黙っていた。それから、明日の朝なら、と言った。
◇
アンセルムは、二人を修道院の奥の文書庫へ案内した。
石段を下りた先の、天井の低い部屋だった。壁一面に木の棚が並び、革の背表紙と巻物がびっしりと詰まっている。窓は小さく、空気はひんやりと乾いていた。古い羊皮紙と、蝋と、インクの匂いがした。
アンセルムは、入口の脇の書見台に置かれた、分厚い帳面を開いた。
「これが受付簿だ。この文書庫に預けられたものを、預かった日の順に、番号をつけて書いておる」
アンセルムの指が、頁を繰った。
ある頁で、止まった。
「塩樽通り、冬至亭。庫帳ならびに百日帳の写し」
その横に、番号と日付と預けた者の名。
ヨアキム。
次の行も、その次の行も、同じ名前が続いていた。一めぐりに一つずつ。番号が、一つずつ増えていく。
「わしは五十年、これを一日も欠かさずに書いてきた」
アンセルムは言った。
「預けた者が誰であろうと、何であろうと、来た順に書く。番号は飛ばさない。書き直さない。だからこの帳面は、修道院の中で一番退屈で、一番強い」
律は、受付簿の頁を見つめていた。
ヨアキムが毎めぐり、北の門を出て丘を登り、門の外で写しを渡していた。その一つ一つが、ここに番号になって並んでいた。
◇
アンセルムは、文書庫の一番奥の棚へ歩いた。
最下段に、黒ずんだ革で装丁された、一冊の帳面があった。表紙の角は擦り切れ、留め金の真鍮は緑青で覆われている。
アンセルムは、それを両手で抱えるようにして取り出した。
「王家の最初の庫帳だ。百五十年前のものになる」
書見台の上に、帳面が置かれた。
アンセルムが、留め金を外す。
律は、息を詰めて表紙を見た。
この国の字で、題が書いてあった。王家食料庫帳、第一。
その下に、もう一行。
律の世界の、見慣れた綴りだった。
Livre de la Garde Manger.
ガルド・マンジェの帳面。
◇
表紙をめくると、最初の頁に、長い文章が書かれていた。
この国の字と、律の世界の言葉が、行ごとに入り混じっている。調理場で使う言葉は、ほとんどがフランス語だった。律が十四年間、厨房で毎日聞いてきた言葉ばかりだった。
律は、ゆっくりと読んだ。
わからない単語は飛ばし、この国の字の部分で前後をつなぐ。
わたしは、ジュール・アヴリル。
かつて、ある国のある館の厨房で、冷たいものと食料庫を預かっていた。
ある夜の宴で、客が倒れた。わたしは、その魚を受け取るなと言った。帳面にも書いた。だが帳面は、主人の手で暖炉にくべられた。誰かの責めが要ったからだ。
わたしは館を追われ、冬の夜、凍った川に落ちた。
目を開けると、この国の王宮の、氷の部屋にいた。
律の指が、頁の端で止まった。
ヨアキムが、横で小さく息を呑んだ。
律は、次の行を読んだ。
◇
この国の王は、毒を盛られて死にかけていた。誰がいつ何に毒を入れたのか、誰にも分からなかった。何が厨房に入り、誰の手を通ったのか、誰も書いていなかったからだ。
わたしは王に申し上げた。
食べ物を守る者を、置いてほしいと。
庫の番とは、ただ鍵を持つ者ではない。
庫の番とは、食べる人の名を知る者のことである。
この肉は、誰の口に入るのか。この魚は、誰の皿にのるのか。それを知る者だけが、本当に食べ物を守ることができる。
ゆえに、わたしは記す。
記すのは、己を守るためではない。
わたしは一度、己を守るために記した。そして、その帳面は燃やされた。己を守るための記録は、己と一緒に燃える。
記すのは、次に皿を受け取る者へ渡すためである。
次にこの庫を開ける者へ。次にこの肉を焼く者へ。次にこの皿を食べる者へ。
そのために、帳面は必ず二つ作る。一つは庫に、一つは神の家に。わたしが倒れても、わたしの手が燃えても、次の者に渡るように。
◇
律は、しばらく頁から顔を上げられなかった。
文書庫の小さな窓から、秋の光が斜めに差し込んでいた。光の中を、細かい埃がゆっくりと漂っていた。
記すのは、己を守るためではない。
律は、ずっと逆だった。
日本で手帳を奪われてから、律はずっと、自分を守るために書いてきた。書いてないことは、なかったことになる。だから全部書く。自分が正しかったと、いつか証明できるように。
誰にも見せずに一人で数えて、一人で書いて一人で決めた。
ミラに一言もなく、給金の上乗せを止めた。オーギュストに一言もなく、品書きを書き直した。マルゴの病のことも、誰にも言わなかった。
書けば、守れると思っていた。
でも帳面を一冊、自分の胸ポケットに入れていたから仁科に奪われたのだ。
一人で抱えていたから、奪われたのだ。
ヨアキムが毎めぐり丘を登って、写しを修道院に預けてくれた。ナディアが客の名を帳面に書き、店じゅうに分けてくれた。ティムが銅鍋を数えて、板に線を引いてくれた。
律の記録は、とうに律一人のものではなかった。
それなのに律は、自分の手の中にだけ、全部を握りしめようとしていた。
◇
アンセルムが、最後の頁を開いた。
そこには、ほかの頁より新しいインクで、短い覚え書きがあった。字が震えている。年老いた手で書かれたものだった。
霜の客について。
この国には、わたしのほかにも、冷たいところで死んで氷の部屋に落ちてくる者がいると聞く。
扉は、一方にしか開かぬ。
わたしの知るかぎり、戻った者はいない。
だが、残した者はいる。
わたしは、この帳面を残す。
次に落ちてくる誰かが、もしこの頁を開くことがあるなら。
あなたの手で、次の者に渡してほしい。
◇
律は、長いあいだその頁を見ていた。
戻った者はいない。
だが、残した者はいる。
目の奥が、熱くなった。けれど、涙は出なかった。
かわりに胸の真ん中に、何か重くて温かいものが静かに置かれた気がした。
百五十年前に、同じように冷たい場所で死んだ料理人が、この頁を書いた。誰が読むかも分からないまま。それでも、次の誰かのために書いた。
それが今、律の目の前にあった。
ヨアキムが、静かに言った。
「その人の帳面を百五十年、誰かが写して守り続けてきた。写字生の仕事は、退屈だ。誰にも礼を言われない」
ヨアキムは、自分のペンだこのある指を見下ろした。
「だが、これを見ると、悪くない仕事だと思える」
アンセルムが、ヨアキムの肩に手を置いた。
ヨアキムは、何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。文書庫の冷たい空気の中で、その横顔が初めて年相応に疲れて穏やかに見えた。
◇
冬至亭に戻ったのは、昼を少し過ぎたころだった。灰の日で、店は休みだった。
律は、厨房の作業台の前に立った。
休みの日だというのに、全員がそこにいた。オーギュストは明日のフォンのために竈の火を起こし、ミラは粉を量り、ナディアは予約の帳面を開いていた。ベルナールは卓の脚を直し、ティムは銅鍋を磨いていた。
ミラは、あの夜から律と目を合わせていなかった。
翌朝、何も言わずにいつもの時間に出てきて、何も言わずに粉を量っていた。その背中が、律にはずっと痛かった。
律は、帳面を三冊、作業台の上に並べた。
百日帳。庫帳。業務日誌。
それから、もう一冊。
日本から持ってきた、黒い手帳を。
「みんなに、話があります」
全員が、手を止めた。
◇
「マルゴさんは、胸の病です」
律は言った。
声が、少しだけ震えた。
「お医者さまは、冬を越せるかどうか分からないと言いました。治癒の魔法では、治りません。薬と、暖かい部屋と、栄養のある食事が要ります。そのお金が、ひと月で金貨三枚かかります」
ナディアが、手で口を押さえた。
ミラの手から、粉の匙が落ちた。
「それを、私は誰にも言いませんでした。言わずに、ミラの給金を止めて、ギュスの品書きを勝手に変えました。一人で数えて、一人で決めれば、早いと思ったからです」
律は、ミラを見た。
「ごめんなさい」
ミラの唇が、震えた。
「帳面に全部書くと、約束しました。だから、全部見せます」
律は、百日帳をミラの前に置いた。開いて、最後の頁を見せた。
この一めぐりの売り上げ。マルゴの薬代。医者の払い。氷室の氷の買い足し。冬に向けた薪の蓄え。
それから、ミラの給金の上乗せの分。
「上乗せは、今月から払います。そのかわり、氷室の氷を買う時期を、少し遅らせたい。それでいいか、ミラにもギュスにも、みんなにも決めてほしいんです」
ミラは、帳面の数字を見ていた。
一つずつ、指でなぞりながら。
それから、顔を上げた。目が赤かった。
「……氷は、あたしの父さんの粉屋の裏に、冬の初めに川から切り出した氷を貯める穴がある。そこから分けてもらえば、商会から買うより半分で済むよ」
律は、ミラを見つめた。
「最初から、そう言ってくれればよかったのに」
ミラは、袖で目をこすった。
「……そうだね。最初から、聞けばよかった」
◇
オーギュストが、竈の前から振り返った。
「品書きは」
「ギュスが決めてください。鯉でも鱒でも。値段の話は、私が数字を出します。どの皿を作るかは、料理長が決める」
オーギュストは、しばらく律を見ていた。
それから、鼻を鳴らした。
「秋は鯉だ。泥抜きに三日かかるが、脂が乗ってる。お前の言うとおり、安い」
「……はい」
「最初からそう言え」
オーギュストは、竈に向き直った。その耳の先が、少しだけ赤かった。
◇
律は、最後に、全員の顔を一人ずつ見た。
「白麦の宴まで、あと十七日です」
声を出すと、喉が少しだけ詰まった。
「宮廷の食料庫は、ひどい状態でした。帳面がなく、日付が嘘で、燻製の牡蠣が竈の熱で温まっていました。王太后さまは、それで何度も倒れています。私は、宴の食料を全部確かめて、冷たい前菜を全部作らなければなりません」
律は、拳を握った。
「推薦したのは、ニシナです。何かを企んでいると思います。でも、何をするつもりなのかは、分かりません」
律は、頭を下げた。
深く。
「ひとりでは、宴を守れません」
厨房が、静かになった。
「手を貸してください」
◇
最初に返事をしたのは、ティムだった。
「ウィ!」
洗い場から、少し裏返った声で。
ミラが、鼻をすすりながら続いた。
「ウィ」
ナディアが、帳面を胸に抱いて、静かに微笑んだ。
「ウィ、リツさん」
ベルナールが、低く言った。
「……ウィ」
ヨアキムが、ペン先を拭いながら、肩をすくめた。
「写しは、毎晩だ。宴までの十七日間、一晩も欠かさずに修道院へ届ける」
最後に、オーギュストが言った。
竈の前で、背中を向けたまま。
「宮廷の厨房には、俺も行く。俺を追い出した連中の鍋が、どれだけ濁ってるか見てやる」
オーギュストは、肩越しに振り返った。
「ウィ、だ。リツ」
律は顔を上げられなかった。
作業台の上に、ぽたりと、一つだけ染みが落ちた。




