第十七章 宮廷厨房
「冷菜係が、宮廷の庫番気取りか」
大膳頭グリモー伯爵は、宮廷厨房の入口で律を見下ろして、鼻で笑った。
太った男だった。絹の上着の胸に、大膳寮の長を示す金の鎖を下げている。指には指輪が四つ。その指で、律の差し出した任命の巻物を、汚いものでもつまむように受け取った。
「陛下のご命令とあれば、仕方がない。宴のあいだだけ、食料庫の鍵を預けよう。ただし」
グリモーは、巻物を律の胸に押し返した。
「わしの厨房の料理人に、余計な口を出すな。冷たい前菜だけ作っていろ。宮廷には宮廷のやり方がある」
律は、巻物を受け取った。
「食料の受け入れと検めは、私の役目だと陛下の書状にあります」
「受け入れなど、白秤の手代がやっている」
「これからは、私がやります」
グリモーの顔が、赤くなった。
律は一礼し、厨房の中へ足を踏み入れた。
◇
宮廷の厨房は、冬至亭の厨房の二十倍はあった。
天井の高い石造りの広間に、竈が十二並んでいる。壁際には銅鍋が何十と吊るされ、中央には長い作業台が三列。窓から差し込む光の中で、白い湯気と煙が渦を巻いていた。
人も、多かった。
律は入口に立ったまま、厨房を見渡した。誰が、どこで、何をしているのか。
広間の奥、一段高くなったところに、パスがあった。そこに立っている四十がらみの痩せた男が、副料理長だろう。料理長の下で、現場の指揮を執る役だ。律の世界では、スーシェフと呼ばれていた。
一番大きな竈の前で、ソースの鍋を見ている男たちがいる。ソシエの持ち場だ。
隣の竈では野菜を茹で、卵を割り、スープを煮ている。温かい野菜と卵とスープを受け持つ持ち場を、アントルメティエと呼ぶ。スープだけを専門にする者は、ポタジエ。
別の竈では、串に刺した鶏と豚が回っていた。焼き物の係、ロティスール。
窓際の大理石の台では、菓子職人たちが粉を練っている。パティシエの持ち場だ。
その間を、十代の見習いたちが走り回っていた。野菜の皮を剥き、鍋を運び、床を掃く。コミと呼ばれる、一番下の料理人たち。
そして、厨房の一番奥に、洗い場があった。
湯気の立つ大きな石の流しの前で、白髪の老人が一人、銅鍋の底を磨いていた。
◇
冷たい前菜を受け持つ持ち場、ガルド・マンジェの台は、厨房の隅にあった。
空いていた。
台の上には埃が積もり、包丁差しには刃の欠けた包丁が一本だけ刺さっていた。何年も、誰も使っていないのが一目で分かった。
「冷たい料理は、宴の前の日に、それぞれの竈の者が手の空いたときに作っていたんだ」
後ろから、オーギュストの声がした。
オーギュストは律と並んで、宮廷厨房の中を眺めていた。冬至亭の煤けた前掛けではなく、真新しい白い前掛けを締めている。
「誰の持ち場でもないから、誰も責任を持たない。宴のたびに、前菜の皿は一番後回しだった」
律は、空の台の上の埃を指でなぞった。
「なら、今日からここが持ち場です」
◇
律が最初にしたのは、検品の台を据えることだった。
宮廷の食料は、王宮の北側の搬入門から入ってくる。白秤商会の荷車が、毎朝そこに着く。これまでは商会の手代が荷を下ろし、商会の帳面に印をつけていた。大膳寮の下働きが、それを食料庫に運び込むだけだった。
宮廷の側で、誰も確かめていなかった。
律は、搬入門の内側に、冬至亭から運んできた作業台を一つ置いた。
天秤。分銅。冷却石。白紙の帳面。インク壺。
それから、大膳寮の受け入れ係を二人、呼んでもらった。
一人は、ゴドフロワという名の、五十過ぎの頑固そうな男だった。もう一人はエメという、二十代半ばの女だった。二人とも、商会の荷を食料庫へ運ぶ指図をしてきた下役だった。
「今日から、届いた荷は全部、この台の上で確かめます」
律は二人に言った。
「数。重さ。冷え。臭い。樽印と、刻まれた日付。それを一つずつ帳面に書いて、確かめた人が名前を書きます。お二人と、私と」
ゴドフロワが、眉をひそめた。
「商会の帳面があるのに、また書くのか」
「商会の帳面は、商会のものです」
律は帳面を開いた。
「宮廷の食料は、宮廷の帳面に書きます。何が来て、誰が確かめて、どこにしまったか。宮廷の人間が、宮廷の手で」
エメが、帳面を覗き込んだ。
「字が、下手でもいいですか」
「読めれば、いいんです」
エメは少し笑った。ゴドフロワは不満そうに腕を組んでいたが、最初の荷車が門に着くと、黙って天秤の前に立った。
◇
最初の朝の検品で、律は荷の三割を返した。
腐りかけた鶏。日付の刻みが二重になった塩漬けの樽。底の湿った麦の袋。
それから律は、食料庫の奥で竈の熱に温められていた燻製牡蠣の樽を、六つとも検品台に出させた。ルシールと見た、あの樽だった。六つとも底が膨らみ、日付に彫り直しの跡があった。律は六つとも廃棄と書き、裏庭の穴に埋めさせた。
商会の手代は、真っ青になって抗議した。だが律は一つずつ理由を帳面に書いた。ゴドフロワとエメに確かめさせ、二人の名前を書かせた。
二人とも、最初は躊躇った。
商会に逆らえば、何が起きるか分からない。大膳頭に睨まれれば、職を失う。
けれど、律が返した鶏の腹を割って中の臭いを嗅がせると、エメは口を押さえて顔を背けた。ゴドフロワは長いあいだ黙って鶏を見ていた。
それから、ゴドフロワは帳面に、自分の名前を太い字で書いた。
「……わしの孫も、去年の夏に夏腹で死にかけた」
ゴドフロワは、ペンを置いた。
「宮廷の残り物を、家に持って帰って食わせた後だった」
◇
その夜から、ヨアキムが毎晩、王宮の北の門に来た。
律はその日の検品の帳面と食料庫の帳面と、冷菜の仕込みの帳面を写しのためにヨアキムに渡した。ヨアキムは冬至亭の厨房で夜通し写しを作り、翌朝一番に丘を登って、灰岩修道院の受付簿に番号をもらう。
その足で王宮に戻り、前の日の原本を律に返す。
宴までの、毎日。
「眠っていますか」
三日目の夜、律が訊くと、ヨアキムは目の下に隈を作ったまま肩をすくめた。
「修道院では、朝課のために夜中に二度起きていた。それに比べれば楽なものだ」
◇
五日目の朝、厨房の真ん中で、オーギュストが一人の男と向かい合っていた。
副料理長だった。
痩せた男で、細い口髭を生やしている。名を、バスティアンといった。
「まだ王宮の門をくぐれる顔があったとはな、ラヴァル」
バスティアンは、腕を組んで笑った。
「大膳頭の足元に鍋をぶちまけた男が、今度は霜の客の小間使いか」
厨房のあちこちで、料理人たちが手を止めていた。
オーギュストは、何も言わなかった。
かわりに、ソシエの竈の前に立ち、そこにかかっていた大鍋の蓋を開けた。
湯気が立った。
匂いが、厨房に広がった。
律は、冷菜場の台の前で、その匂いを嗅いだ。
薄い。骨の香ばしさがない。表面に、粉のようなざらつきが浮いている。商会の粉フォンを、湯で溶いたものだった。
オーギュストは、鍋の中身を一匙すくい、口に含んだ。
それから、竈の脇の桶に、黙って吐き出した。
「……バスティアン」
オーギュストは匙を置いた。
「今夜、俺に竈を一つ貸せ。明日の朝、お前に一匙飲ませてやる」
◇
その夜、オーギュストは厨房に残った。
律も、冷菜場で仕込みをしながら残っていた。
オーギュストは、王宮の食料庫から仔牛の骨を運び出し、鉈で叩き割った。窯で焼き、香味野菜を炒め、大鍋に水を張る。
浮いてくる灰色の泡を、一つ残らずすくった。
厨房の奥から、足音がした。
洗い場の、白髪の老人だった。
老人は、オーギュストの鍋の横に立ち、黙って泡をすくう網杓子を差し出した。オーギュストの網杓子より、目の細かいものだった。
オーギュストは、老人を見た。
それから、網杓子を受け取った。
「……ジャック爺さん。まだいたのか」
「洗い場に、定年はない」
老人は、皺だらけの顔で笑った。
「お前が門を出ていった日から、ソシエの鍋の底が、毎晩粉臭くてかなわんかった」
律は、仕込みの手を止めて、二人を見ていた。
オーギュストが宮廷を追い出された日、門まで見送りに来た洗い場の老人。錨と樽の窯の前で、オーギュストが話していた人だった。
ジャックは、律のほうを見た。
「あんたが、冷菜の嬢ちゃんか。ラヴァルから、手紙で聞いとった」
「手紙?」
律がオーギュストを見ると、オーギュストは鍋の中を睨んだまま言った。
「……字は、ヨアキムに書いてもらった」
◇
翌朝、オーギュストはバスティアンの前に、小さな杯を一つ置いた。
一晩かけて引いた、仔牛のフォンだった。
琥珀色に澄んでいた。湯気の中に、焼いた骨と玉ねぎの甘い香りが立ちのぼる。
バスティアンは、杯を見下ろした。
厨房じゅうの料理人が、遠巻きにそれを見ていた。
バスティアンは、杯を手に取った。
一口、すすった。
その手が、止まった。
バスティアンは、長いあいだ杯の中を見つめていた。それから、もう一口すすった。
杯を置いたとき、バスティアンは何も言わなかった。
ただソシエの竈の前に積んであった白秤商会の粉フォンの袋を片手で掴み、厨房の隅に放り投げた。
「……宴のソースは、骨から引く」
バスティアンは、オーギュストを見ないまま言った。
「竈を三つ、お前に貸す」
◇
律は、宴の冷たい前菜の計画を立てた。
宴の客は、二百四十人。
冷たい前菜は、テリーヌを二種。豚と鴨の田舎風と、川鱒と根菜のもの。一人あたり、二切れ。
二百四十人に二切れずつで、四百八十切れ。
テリーヌの型一つから、きっちり十切れが取れる。
だから、型は四十八個。
「四十九個じゃ駄目なのか。予備に」
型の数を聞いたオーギュストが言った。
「駄目です」
律は首を振った。
「予備を作ると、余ります。余ったものは、誰の口に入るのか分からなくなる。宴の前菜は、二百四十人の口に入る分だけを、ちょうどの数で作ります。一切れも多くなく、一切れも少なく」
その日に必要な、基準の量。
律の世界ではそれを、パレベルと呼んでいた。
律は、王宮の鍛冶場から、新しい陶器のテリーヌ型を四十八個取り寄せた。
それから鍛冶場の炉を借りた。焼いた鉄の印で、型の側面に一つずつ番号を焼き付けた。
一。二。三。
四十八まで。
陶器の表面に、黒い数字が焦げて残る。洗っても、こすっても消えない。
「なぜ、焼き付けるんだ」
鍛冶場の職人が訊いた。
「炭で書いた番号は、洗えば消えます」
律は四十八番の型を炉から取り出し、冷めるのを待った。
「消えない番号なら、どの型がいつどこに行ったか最後まで追えます」
◇
型には、律のいつもの木札を添えた。
六色の札だ。テリーヌを仕込んだ日の色。品名と日付と鐘の刻。そして作業者の印。
日付は、この国の書き方で。宴の前日の朝に仕込む型なら、札はこうなる。
収穫の月 第三めぐり 風の日 二の鐘。冷菜。霜。
そして、型の番号。試しに仕込んだ型にも、同じ札を一枚ずつ添えていった。
宮廷の料理人たちは、最初、その札を物珍しそうに見ていた。何人かは、陰で笑っていた。霜の客の、まじないの札だと。
律は気にしなかった。
かわりに、一人ずつ名前を覚えた。
ナディアに教わったやり方だった。挨拶のときに、相手の名前を必ず一度口に出す。持ち場と、手の癖と、話し方を一つずつ結びつける。翌朝、その名前で呼ぶ。
ソシエの見習いのピエール。左利き。
ポタジエのマルク。鼻歌を歌う。
パティシエの見習いのアニエス。ミラと同い年で、計量が早い。
十日目には、律は宮廷厨房の六十人あまりの名前を、全部言えるようになっていた。
名前で呼ばれた料理人たちは、少しずつ、律の木札を笑わなくなった。
アニエスが、自分の焼き菓子の箱に、真似をして色の札をつけはじめた。マルクが、スープの鍋に日付を書いた板を立てかけるようになった。
ジャック爺さんは、洗い場で銅鍋を数えていた。
ティムが、その隣で棒と斜線を引いていた。
宴のあいだだけ、ティムは宮廷の洗い場を手伝うことになった。ジャックは最初の日にティムの勘定の板を見て、皺だらけの指で一本の線をなぞり、黙ってうなずいた。
それから二人は、並んで鍋を磨くようになった。
◇
宴まで、あと三日。
収穫の月の第三めぐり、水の日の朝だった。
律は搬入門の検品台の前に立っていた。ゴドフロワとエメが、両脇で天秤と帳面を構えている。
その日の最後の荷車が、門に着いた。
白秤商会の荷車だった。
荷台に、小さな樽が四つ積まれていた。蓋の隙間から、煙の匂いが漏れている。
商会の手代が、荷車から降りてきた。
セルジュだった。
セルジュは、律を見て、薄く笑った。
「燻製牡蠣でございます」
セルジュは、一枚の書付を差し出した。大膳寮の印が押してあった。
「大膳頭さまからの、追加のご注文です。王太后さまの冷たい前菜に、例年どおり燻製牡蠣のムースを、と」
律は、樽を見た。
秤の焼き印。
その下に刻まれた、数字と、斜めの線。




