第十八章 返品
「受け取れません」
律がそう言うと、搬入門の内側の空気が、ぴんと張りつめた。
セルジュの薄い笑みは、少しも崩れなかった。
「まだ蓋も開けておられませんが」
「今から開けます。そのうえで、受け取れないと言うことになると思います」
律は、ゴドフロワとエメに目で合図した。
二人が、樽の一つを荷台から下ろして、検品台の上に置いた。
樽は、小さかった。両腕で抱えられるくらいの大きさだ。秤の焼き印と、その下の日付の刻み。
律は、まず樽の側面に手のひらを当てた。
ぬるかった。
秋の朝の、冷たい空気の中で運ばれてきたはずの樽が、人の肌に近い温かさを持っていた。
「どこから運んできましたか」
「商会の、川沿いの倉庫からです」
「倉庫のどこに、置いてありましたか」
セルジュは答えなかった。
律は、冷却石を樽の側面に当てた。
石の表面に、霜はほとんど浮かばなかった。
◇
その朝、搬入門の検品台の脇には、紺の上着の男が立っていた。
市場監督官のレオン・ヴァイスだった。
宴の準備が始まってから、律はレオンに頼んでいた。宴までの毎朝、搬入門の検品に立ち会ってほしい、と。宮廷の外の人間が、宮廷の帳面を見ていること。それが、何より強い証しになる。
レオンは、一度も欠かさずに来ていた。
今も、腕を組んだまま、律の手元を見ていた。
◇
律は、樽の蓋の縁に、平らな鉄のへらを差し込んだ。
ゆっくりと、こじ開ける。
蓋が浮いた瞬間、空気の抜ける音がした。
しゅう、と。
樽の中から、何かが押し出されるように、生温い気が噴き出した。
燻製の煙の匂い。
その下から、甘く重い臭いが立ちのぼった。
エメが一歩後ずさった。ゴドフロワが顔をしかめて、鼻を手で覆った。
「樽の中で、気が出ています」
律は、蓋を少しだけ持ち上げたまま言った。
「中のものが傷みはじめると、気が出て、樽が内側から膨らみます。樽の底を見てください」
ゴドフロワが樽を傾けた。
底板が、わずかに外側へ丸く膨らんでいた。
「蓋を開けたときの音も、そのせいです」
律は、樽の中を覗き込んだ。
燻された牡蠣が、油に沈められて詰まっていた。表面の油が、薄く濁っている。牡蠣の身の縁が、灰色にくすんでいた。
律は蓋を閉じた。
それから、樽の焼き印の下の日付の刻みに、顔を近づけた。
◇
刻みは、二重になっていた。
あの腸詰めの樽と、同じだった。
元の数字を刃物で削って平らにし、その上に新しい数字を彫り直してある。木目に沿って、削った跡が白く浮いていた。
新しい数字は、四日前の日付だった。
その下に、薄く残った元の数字は、ふた月近く前のものだった。
「レオンさん」
律が呼ぶと、レオンが検品台の前に来た。
律は、刻みを指で示した。レオンは身をかがめ、刻みの縁を指の腹でなぞった。
その眉間に、深い皺が寄った。
「……橋のたもとの腸詰めと、同じ手口だ」
セルジュの笑みが、ようやく消えた。
◇
「何事だ!」
搬入門の奥から、怒鳴り声が響いた。
大膳頭のグリモー伯爵だった。金の鎖を揺らし、太った体を揺すりながら、肩で息をして歩いてくる。後ろに、若い給仕を一人従えていた。
「その牡蠣は、王太后さまのために、わしが特別に頼んだものだ。何十年も続いてきた宴のしきたりだぞ。冷菜係の分際で、勝手に突き返すとは何事だ」
律は、グリモーに向き直った。
「この牡蠣は、傷んでいます」
「燻製だぞ。燻製が傷むものか」
「燻製でも、温かいところに置けば傷みます。樽が膨らんでいます。臭いが出ています。日付も、彫り直されています」
グリモーの顔が、赤から紫に変わった。
「日付が、どうしたと」
「ふた月前の樽を、四日前の樽に見せかけています」
グリモーの口が、開いたまま止まった。
一瞬だけ、その目がセルジュのほうへ動いた。
律は、それを見逃さなかった。
◇
律は、検品台の帳面を開いた。
新しい頁に、羽ペンで書いていく。
返品。
品名、燻製牡蠣。数、樽四つ。届け先、大膳寮。届けた者、白秤商会手代セルジュ。
返品の理由。
一、樽の温み。冷却石の霜なし。
二、樽の膨らみ。蓋を開けた際に気の噴き出しあり。
三、臭気。油の濁り。身の縁の変色。
四、樽印の日付に、削って彫り直した跡あり。元の刻みはふた月前と読める。
日付。収穫の月 第三めぐり 水の日 二の鐘。
律は、作業者の欄に印を書いた。
霜。
それから、ペンをゴドフロワに渡した。
「確かめたことを、確かめたと書いてください」
ゴドフロワは、グリモーのほうを見た。
グリモーは、ゴドフロワを睨みつけていた。
ゴドフロワの手が、ほんのわずかに震えた。
それから、太い字で書いた。
受け入れ係、ゴドフロワ。上記、相違なし。
エメが、続けて書いた。
受け入れ係、エメ。上記、相違なし。
最後に、レオンがペンを取った。
市場監督官、レオン・ヴァイス。立ち会い、上記を確かめる。
◇
グリモーは、何も言わずに踵を返した。
その後ろについていた若い給仕が、ちらりと律を振り返った。細い目をした男だった。給仕は慌てて目を伏せ、グリモーの後を追っていった。
セルジュは、樽を荷車に積み直させた。
一つ残らず。
荷車が門を出ていく前に、セルジュは律の前に立った。
「残念です。王太后さまは、さぞお嘆きになるでしょう」
セルジュの声は、静かだった。
「宴の日まで、まだ三日ございます。お気をつけて」
荷車が、搬入門を出ていった。
律は、その車輪の軋みが聞こえなくなるまで、検品台の前に立っていた。
◇
その日の昼、律は第二王女ルシールに面会を願い出た。
ルシールは、すぐに宮廷厨房の隅の冷菜場まで下りてきた。頭巾はかぶっていなかった。淡い金色の髪を結い上げ、銀の刺繍の入った淡い青の衣を着ていた。
料理人たちが、一斉に手を止めて頭を下げた。
ルシールは、それに軽くうなずいて応え、律の前に立った。
律は、返品の帳面を見せた。
ルシールは、一行ずつ読んだ。読み終えると、長く息を吐いた。
「お祖母さまの前菜は、どうするの」
「ムースのかわりに、川鱒と根菜のテリーヌをお出ししたいと思います」
律は、試しに作った一切れを、小さな皿にのせて差し出した。
淡い桃色の川鱒の身と橙色の人参と白い蕪が、断面に層になって並んでいる。その間を、澄んだ煮凝りがつないでいた。
「川鱒は、冬至亭が直接取引している川漁師から、今朝上がったものを使います。煮凝りは、オーギュストが仔牛の骨から引きます。牡蠣のような、海の香りはありません。でも冷たくてやわらかくて、宴の最初にお出しするのにふさわしい皿です」
ルシールは、皿を受け取った。
一口、食べた。
しばらく目を閉じていた。
「……お祖母さまは、きっと牡蠣がないことを残念がるわ」
ルシールは目を開けた。
「でも、明日の朝も起き上がれるほうを、喜ぶはずよ」
ルシールは、律の帳面の余白に、自分で羽ペンを走らせた。
王太后の冷たい前菜、燻製牡蠣のムースに代え、川鱒と根菜のテリーヌとする。これを承認する。第二王女、ルシール。
◇
その夜、ヨアキムはいつものように、王宮の北の門に来た。
律は、その日の帳面を渡した。
検品の帳面。返品の記録。王女の承認の署名。食料庫の帳面。冷菜の仕込みの帳面。
ヨアキムは、返品の頁を開いて、しばらく読んでいた。
「今夜のうちに写して、明日の朝一番に修道院へ届ける」
ヨアキムは帳面を胸に抱えた。
「アンセルム院長は、この頁を見たら喜ぶだろう。退屈な受付簿に、久しぶりに面白い番号がつく」
ヨアキムは、夜の道へ消えていった。
◇
律は冷菜場に戻り、テリーヌの型を作業台に並べた。
四十八個。
まだ、中は空だった。宴の前の日、風の日の朝に仕込み、陽の日の宴に出す。今夜は、数を確かめておくだけだ。
洗い場から、ティムが来た。ジャック爺さんも一緒だった。
「リツ姉、数えるの?」
「一緒に数えて」
律は、型を一つずつ持ち上げて、側面の焼き印の番号を読み上げた。
「一」
ティムが、勘定の板に棒を一本引いた。
「二。三。四」
棒が四本。
「五」
斜めに一本。
焼き付けた黒い数字を、一つずつ。律が読み、ティムが引き、ジャックが黙ってうなずく。
「四十八」
ティムが、最後の棒を引いた。
五の塊が九つと、棒が三本。
「四十八個。全部ある」
ティムが、板を律に見せた。
「宴の日は、ティムが洗い場で、戻ってきた型を数えて」
律は言った。
「型が一つ戻ってくるたびに、番号と戻ってきた鐘の刻を板に書いて。数字は書けるよね」
「書ける。ヨアキムさんに習った」
ティムは、胸を張った。
ジャックが、ティムの頭に皺だらけの手をのせた。
「この子の板は、わしの帳面より正確だ」
◇
七の鐘が鳴る前に、冬至亭から使いが走ってきた。
ナディアだった。髪が乱れ、息が切れていた。
「リツさん。マルゴさんが」
律の手の中で、型が一つ、ことりと音を立てた。
「お夕食のあとで、急に。咳が止まらなくて、血を、たくさん」
律は、前掛けを外していた。
外してから、手が止まった。
冷菜場。四十八個の型。明日の仕込み。返品した牡蠣。セルジュの、お気をつけて、という声。
ここを、空けていいのか。
ナディアが、律の顔を見ていた。
「……行けよ、早く」
オーギュストの声だった。ソシエの竈の前から、こちらを見ていた。
「型は、ティムとジャック爺さんが見てる。冷菜場には、俺が今夜ここで寝る。誰にも触らせない」
律は、黙ってオーギュストを見た。
「行け、リツ」
◇
宮廷の決まりで、夜に王宮を出る者は、預かった鍵を大膳寮の鍵番に預けていかなければならなかった。
律は、冷菜場の保冷庫の鍵を、鍵番の小部屋に預けた。
それから、走った。王宮の門を出ると、秋の夜気が頬を刺した。
夜の王都を、塩樽通りまで。石畳を蹴る足音が、自分のものではないように遠く聞こえた。
冬至亭の二階の、マルゴの部屋の扉を開ける。
マルゴは、寝台の上で、枕を背に起きていた。ミラが傍らで、塩と蜂蜜の湯の杯を持っていた。床の洗面器は、もう片付けられていた。
マルゴの顔は、紙のように白かった。
それでも律の顔を見ると、眉を吊り上げた。
「庫を空けて来たのかい」
かすれた声だった。
律は、寝台の脇に膝をついた。
「マルゴさん」
「戻りな」
マルゴは、律の手を、骨ばった指で握った。
冷たい指だった。
「宴を三日後に控えて、庫の番が庫を空けてどうするんだい」
「でも」
「庫の番はね、庫にいるんじゃないよ」
マルゴの指に、少しだけ力がこもった。
「仕組みの中にいるんだ。あんたがここにいても、あの坊やは型を数えてる。修道士は写しを作ってる。料理長は冷菜場で寝てる。あんたの庫は、あんたがいなくても回ってる。そうなるように、あんたが組んだんだろう」
律は、言葉が出なかった。
「あたしは、あと少しは持つよ。宴が終わるまでは、死んでやらない」
マルゴは、律の手を放した。
「戻りな、ガルド・マンジェ」
◇
律が王宮に戻ったのは、八の鐘を過ぎた夜更けだった。
鍵番の小部屋で、預けた鍵を受け取った。
冷菜場の保冷庫の鍵。真鍮の、小さな鍵だった。
受け取ったとき、指先に、何かがかすかに引っかかった。
ランプにかざすと、鍵の歯の隙間に、白いものがわずかについていた。
蝋だった。
燭台の蝋が垂れたのだろう、と律は思った。鍵番の小部屋には、太い蝋燭が何本も灯っていた。
律は前掛けの端で、鍵の歯を拭った。
冷菜場では、オーギュストが作業台の脇に毛布を敷いて眠っていた。四十八個の型は、きちんと並んだままだった。
洗い場の隅では、ティムがジャック爺さんの膝に頭をのせて眠っていた。勘定の板を、両腕でしっかりと抱えたまま。ジャックは壁にもたれて目を閉じていたが、律の足音に気づくと、片目だけを開けた。
「誰も来んかった」
ジャックは小声で言った。
「ラヴァルが、竈の火を落としてからずっと、そこで目を開けて座っとった。さっき、ようやく寝た」
律は、オーギュストの寝顔を見た。眉間に皺を寄せたまま眠っている。その手が、毛布の上で、鉈の柄を握っていた。
律は、自分の上着をオーギュストの肩にかけた。
律は、その数を、もう一度だけ数えた。焼き付けた黒い番号を、一つずつ指でなぞりながら。
四十八。
律は手帳に一行だけ書き、冷菜場の椅子に座って目を閉じた。
宴まで、あと三日。




