第十九章 白麦の宴
宴の朝、律は保冷庫の扉を開けて、四十八を数えた。
一から四十八まで。焼き付けた黒い番号を一つずつ読み、型の脇の木札を一枚ずつ確かめる。
黄色い札が並んでいた。
前の日の風の日に仕込んだ印の、緑ではない。律は首を振った。違う。風の日は緑だ。
もう一度見た。
緑だった。ランプの光で、黄色く見えただけだった。
律は、深く息を吐いた。
眠っていない目が、色を取り違えかけていた。
収穫の月 第三めぐり 風の日 二の鐘。冷菜。霜。そして番号。
四十八枚。全部、そろっていた。
保冷庫の中には、冷却石が四つ置いてある。どの石も、表面に白い霜を厚くまとっていた。よく冷えている。
律は扉を閉め、鍵をかけた。
真鍮の小さな鍵を、首から下げた紐に通して、襟の内側にしまった。
◇
白麦の宴は、収穫の月の第三めぐりの陽の日に開かれる。
その年に穫れた新しい麦で焼いた白いパンを、王が自ら割って、客に分ける。豊かな収穫を神に感謝し、冬を越す力を分け合う宴だ。
客は二百四十人。王国じゅうの貴族と、聖職者と、大きな商人たち。
宴は三の鐘に始まり、六の鐘に終わる。
二の鐘が鳴ると、宮廷厨房はもう戦場だった。
十二の竈に火が入り、銅鍋が煮え立ち、焼き串が回る。オーギュストは、バスティアンから借りた三つの竈の前で、仔牛のフォンから引いたソースを仕上げていた。その隣で、バスティアン自身が肉の火入れの指図をしている。
パティシエの台では、アニエスが新しい麦の白パンの最後の焼き上がりを見ていた。
洗い場では、ジャック爺さんとティムが、山のような皿を磨き上げていた。ポワンは、宮廷の洗い場の排水溝の上で、ぷるぷると嬉しそうに油を吸っていた。
◇
食堂の側では、ナディアが動いていた。
宴の広間は、宮廷厨房の階段を上がった先にある。長い卓が五列。上座に、王と王族と王太后の卓。その両脇に、公爵と侯爵の卓。大膳頭のグリモー伯爵の卓は、王族の卓の右隣だった。
宮廷には、給仕を束ねる給仕長がいる。だが宴の席次と敬称の差配は、この数日でナディアに任されていた。
ルシールが、そう頼んだのだ。
ナディアは二百四十人の名前と爵位と、互いの家の仲の良し悪しまで三日で全部覚えた。公爵には閣下。伯爵にも閣下。男爵には卿。いがみ合う二つの侯爵家は、卓の端と端へ。
それから、ナディアはもう一つのことをした。
配膳表を作ったのだ。
どの皿をどの給仕が、どの卓へ何の鐘に運んだか。それを全部書き留める表だった。宮廷の給仕は四十人いる。一人ひとりの名前を、ナディアは前の晩のうちに覚えていた。
「冬至亭では、ベルナールさんが運ぶ皿を全部覚えていてくれます。でも、宮廷の宴は広すぎます」
ナディアは、広間の入口の脇に小さな台を置いた。そこに配膳表を広げ、羽ペンを構えた。
「だから、書きます。お客さまの口に入るものが、誰の手を通ったか」
◇
三の鐘が鳴った。
宴が、始まった。
宮廷楽士たちの笛が、広間に響いた。王が白いパンを割り、最初の一切れを王太后に手渡す。拍手が起きる。
厨房では、パスの釘に、最初の木札が刺さった。
律は、パスの前に立っていた。
宮廷厨房のパスは、一段高いところにある。厨房の全部が見渡せた。十二の竈。三列の作業台。走り回るコミたち。洗い場の湯気。
そして、冷菜場。
冷菜場には、ミラと、宮廷のコミのリュックが立っていた。リュックは十四歳の痩せた少年で、この十七日間、律の隣で一番よく手を動かした子だった。
律は、木札を読んだ。
「王族の卓、冷菜、入ります!」
声が、高い天井に響いた。
「ウィ!」
ミラの声。リュックの声。
ミラが保冷庫から型を出し、リュックがテリーヌを型から抜く。律が十七日かけて教えた手順どおりに、指一本分の厚みで切っていく。
一切れずつ、皿へ。付け合わせの酢漬けの野菜を、律が前もって量っておいた器から添える。
王太后の皿には、川鱒と根菜のテリーヌ。桃色と橙色と白の層が、煮凝りの中で光っていた。
皿が、パスに並ぶ。
律は一皿ずつ、断面と付け合わせを確かめた。
「王族の卓、冷菜、出ます!」
宮廷の給仕たちが皿を受け取り、階段を駆け上がっていった。
◇
律は、パスから一歩も動かなかった。
灯流しの夜には、半分で逃げ出した場所だった。
今、律の背中の後ろには、冷菜場がある。三歩下がれば、自分の持ち場に戻れる。テリーヌを、自分の手で切ることができる。
律は、振り返らなかった。
冷菜場には、ミラとリュックがいる。二人とも、律の切り方を覚えた。律がいなくても、指一本分で切れる。
庫の番は、庫にいるんじゃない。仕組みの中にいる。
マルゴの声が、耳の奥で響いていた。
「三卓、冷菜、入ります! 五卓、四卓、続けて!」
「ウィ!」
オーギュストが、竈の前から振り返った。律と目が合った。
オーギュストは、何も言わなかった。
ただ、口の端を少しだけ上げて、また鍋に向き直った。
◇
最初の冷菜は、三の鐘と四の鐘のあいだに、二百四十人全員に行き渡った。
型は、空になったものから順に、洗い場へ運ばれていく。
洗い場の脇では、ティムが勘定の板を膝にのせていた。型が一つ戻るたびに、側面の焼き印の番号を読み、板に書く。番号と、戻ってきた鐘の刻を。
ヨアキムに習った、この国の数字で。
一番、三の鐘半。二番、三の鐘半。
十七番が戻ってきたのは、四の鐘が鳴ってすぐだった。
豚と鴨の田舎風のテリーヌの型だった。中はきれいに空になっていた。ジャック爺さんがそれを湯で流し、ティムが布で拭いて、乾いた型の棚に戻した。
ティムは板に書いた。
十七番、四の鐘。
◇
四の鐘から五の鐘のあいだは、温かい皿の時間だった。
オーギュストのソースを添えた仔牛の焼き物。ポタジエのマルクの、栗のスープ。焼き串の鶏。
厨房の熱気が、いちばん高くなった。
広間からは、笑い声と拍手が絶え間なく聞こえてきた。給仕たちが、空の皿を抱えて階段を駆け下りてくる。どの皿も、ソースまできれいに拭われていた。
バスティアンが、パスの脇を通りながら、オーギュストの背中を軽く叩いていった。
ヨアキムは、広間の酒の卓で、宮廷の酒蔵係と並んで葡萄酒を注いでいた。冬至亭の酒蔵から、白丘の赤を二本だけ持ってきていた。王の卓に、一本。王太后の卓に、一本。
ベルナールは、宮廷の給仕たちに混じって、片腕で皿を運んでいた。
五の鐘が近づいたころだった。
ベルナールが、空の皿を抱えて厨房に戻ってきた。パスの前で足を止め、律の耳元で低く言った。
「……大膳頭の卓だけ、皿が一つ多い」
律は、木札から目を上げなかった。
「多い?」
「卓の脇の、配膳台だ。こっちで出していない皿が、銀の蓋をかぶって一つ置いてある」
「二卓、温菜、出ます!」
律は木札を読み上げながら、頭の片隅でその言葉を聞いていた。
大膳頭の卓。グリモーが自分の卓に、何か別の料理を運ばせたのだろう。宮廷の大膳頭なら、そういうこともあるのかもしれない。
「七卓、温菜、火を!」
「ウィ!」
ベルナールは、律の横顔をしばらく見ていた。
それから、黙って広間へ戻っていった。
◇
五の鐘が鳴った。
広間の入口の脇で、ナディアは配膳表に羽ペンを走らせていた。
温かい皿の最後の一皿が、王族の卓へ運ばれていく。給仕の名前。皿の名前。卓。鐘。
そのとき、一人の給仕が、ナディアの台の前を素通りしようとした。
銀の蓋をかぶせた皿を、両手で捧げ持っていた。
細い目の、若い給仕だった。
ナディアは顔を上げた。
「マテオさん」
給仕は、びくりと足を止めた。
ナディアは、その名を前の晩に覚えていた。大膳頭付きの給仕。いつもグリモーの後ろについて歩いている男だった。
「そのお皿は、どちらへ」
「だ、大膳頭さまからの、王太后さまへの特別の一皿です」
マテオは、目を伏せたまま早口で言った。
「毎年の、しきたりで」
ナディアは、厨房から上がってきた皿の一覧を見た。
特別の一皿は、どこにも書かれていなかった。
「中身を、伺ってもよろしいですか」
「急いでおりますので」
マテオは、ナディアの台を回り込み、王族の卓のほうへ歩いていった。
ナディアは、羽ペンを握ったまま、その背中を見送った。
それから、配膳表に書いた。
五の鐘。大膳頭付き給仕、マテオ。銀の蓋の皿一つ。厨房の一覧になし。王太后さまの卓へ。大膳頭さまよりの特別の一皿と申す。
◇
六の鐘の少し前、宴は最後の菓子の皿を迎えていた。
ミラとアニエスが二人で焼いた、新しい麦と蜂蜜の焼き菓子だった。広間から、ひときわ大きな拍手が聞こえてきた。
厨房の竈の火が、一つずつ落とされていく。
律は、パスの前で、長く息を吐いた。
三の鐘から六の鐘まで。
一度も、パスを離れなかった。
膝が震えていた。喉が痛かった。それでも、立っていた。
オーギュストが、前掛けで額の汗を拭いながら、パスの前に来た。
「……やったな」
律は、オーギュストを見た。
何か言おうとした。
そのとき、広間の階段の上から、悲鳴が聞こえた。
◇
最初の悲鳴は、女の声だった。
続けて、椅子の倒れる音。食器の割れる音。誰かが、医者を呼べと叫んでいる。
律は、パスの脇の階段を駆け上がった。
広間は、混乱していた。
上座の、王族の卓の前に、人の輪ができていた。輪の真ん中で、白髪の小柄な老婦人が、椅子から崩れ落ちるように床に倒れていた。
王太后エレオノールだった。
その傍らに、ルシールが膝をついていた。祖母の手を握り、何度も名前を呼んでいる。
王が立ち上がっていた。その顔から、血の気が引いていた。
輪の向こうで、別の悲鳴が上がった。
大膳頭の卓の隣の、伯爵家の老人が、口を押さえて卓に突っ伏していた。その隣の夫人も。さらにその隣の、太った子爵も。
腹を押さえて、体を折り曲げている。
律の足が、止まった。
◇
人の輪を割って、グリモー伯爵が前に出てきた。
太った体を揺すり、金の鎖を鳴らして、王太后の倒れた卓の前に立った。
グリモーは、卓の上の皿を指差した。
王太后の前に置かれた、食べかけの皿だった。
淡い灰色の、ムースのようなものが、半分ほど残っていた。燻した牡蠣の匂いが、律の立っている場所まで届いた。
その皿の脇に、空になったテリーヌの型が一つ、置かれていた。
陶器の側面に、焼き付けた黒い番号。
十七。
型の脇には、六色の木札が一枚、添えられていた。
律の札と、同じ形だった。同じ色の塗り方だった。
冷菜。十七。霜。
「冷菜だ」
グリモーの声が、広間じゅうに響いた。
「霜の客の魔女の、冷たい前菜だ。あの女が、王太后さまの皿に毒を盛ったのだ」
◇
広間の全員の目が、律を見た。
律は、階段の上に立ったまま、動けなかった。
十七番の型は、四の鐘に洗い場に戻ったはずだ。
中身は、豚と鴨の田舎風のテリーヌだったはずだ。
牡蠣は、三日前に返した。宮廷の食料庫には、一粒も入っていない。
言わなければ。
そう思った。けれど、喉が動かなかった。
二百四十人の目が、律の顔を見ていた。王の目が。ルシールの、涙に濡れた目が。
衛兵が、四方から律に向かってきた。
「待て!」
オーギュストの声がした。階段の下から駆け上がってきて、律の前に立とうとした。衛兵の一人が、その腕を掴んでねじり上げた。
「冬至亭の者も、全員だ」
グリモーが叫んだ。
「冷菜場に関わった者を、一人残らず捕らえろ。それと」
グリモーは、律を指差した。
「あの女の帳面を、全部押さえろ。大膳寮で預かる」
◇
律の両腕を、衛兵が掴んだ。
首から下げた保冷庫の鍵が、紐ごと引きちぎられた。
厨房へ引き戻される途中で、律は見た。
冷菜場の作業台の上に積んであった帳面を、グリモー付きの給仕たちが抱えて運び出していくのを。検品の帳面。食料庫の帳面。冷菜の仕込みの帳面。
ミラが、衛兵の腕の中で泣き叫んでいた。リュックが、床に押さえつけられていた。ベルナールが、四人がかりで壁に押しつけられていた。
ナディアの姿は、見えなかった。
ヨアキムも。
ティムも。
◇
宮廷の地下の牢は、冷たかった。
石の壁。石の床。高いところに、小さな格子窓が一つ。そこから、宴の終わった夜の、青白い月の光が細く差し込んでいた。
律は、石の床の上に座っていた。
膝を抱えて。
冷たさが、床から体の中に這い上がってくる。
冷凍庫の床と、同じだった。
あの夜、律は手帳に最後の行を書いた。書いてないことは、なかったことになる。だから、書いた。それなのに、その手帳は奪われた。
今度は、宮廷の帳面を奪われた。
十七日間、一日も欠かさずに書いた帳面だった。検品の記録。返品の記録。王女の署名。
全部、グリモーの手の中にある。
律は、膝に顔を埋めた。
また、書いたものを奪われた。
また、同じ扉が閉まった。
格子窓の向こうで、遠くの鐘楼が、夜更けの鐘を鳴らしていた。




