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潰れかけの異世界食堂に転生した元冷菜係です。差し押さえまで百日なので、まず食材庫にラベルを貼ります  作者: もしものべりすと


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第二十章 闇夜の庫

牢の鉄格子の向こうに、紺の上着が立った。


「ひどい顔だね、霜村さん」


仁科恭平は、牢番に銀貨を一枚握らせ、手燭を受け取った。牢番は黙って階段の上へ消えていった。


手燭の灯りが、石の壁を橙色に照らした。


律は、膝を抱えたまま顔を上げなかった。


「宮廷御用達ってのは便利でね。王宮の中なら、だいたいどこにでも入れる」


仁科は鉄格子の前にしゃがみ込んだ。手燭を床に置く。


「王太后さまは、まだ息がある。でも危ないそうだ。熱が高くて、水も吐いてしまう。治癒魔法の司祭が三人がかりで祈ってるが、効かない。腹の病だからね」


律の肩が、わずかに動いた。


「隣の卓の伯爵家の連中も、寝込んでる。王の母君を毒で殺しかけた。それが、今の君にかかってる罪だ」


◇


「取引をしよう」


仁科の声は、穏やかだった。


「毒じゃなかった。管理の手落ちだった。冷菜の仕込みで温度を誤った。そう認めるんだ。そうすれば、毒殺の罪にはならない。宮廷を追われて、冬至亭を畳んで、王都を出る。それで済む」


律は、黙っていた。


「認めなければ、毒殺未遂だ。王族に毒を盛った者は、この国では縛り首と決まってる。君だけじゃない。冷菜場にいた全員だ。あのソースの料理長も、粉屋の娘も、片腕の用心棒も」


仁科は、手燭の炎を見つめていた。


「俺が大膳頭に口をきけば、仲間は解放させられる。君一人が責めを負えば、それで終わる」


律は、ゆっくりと顔を上げた。


手燭の灯りの向こうで、仁科の顔が揺れていた。


「……私の帳面は」


「大膳寮だ。グリモーが預かってる」


仁科は、肩をすくめた。


「たぶん、もう灰になってるだろう。宴の混乱で、大膳寮の小部屋から火が出た。そういう話になるんじゃないかな」


律の指が、膝の上で強張った。


三十年前と、同じだった。


日本と、同じだった。


「夜明けまで待つよ」


仁科は立ち上がり、手燭を拾った。


「よく考えるといい。君が守りたいのは、自分の正しさか。それとも、仲間の首か」


手燭の灯りが遠ざかり、牢は再び暗くなった。


◇


律は、暗闇の中で座っていた。


認めればいい。


そう思った。


オーギュストが縛り首になる。ミラが。ベルナールが。リュックが。冷菜場にいた全員が。


それに比べれば、自分一人が罪を負うことなど、何でもない。


冷凍庫の中で死んだときも、一人だった。


日本で罪を着せられたときも、一人だった。


最初から、ずっと一人だった。一人で書いて、一人で守って、一人で負ける。それが、律の知っているやり方だった。


それで、仲間が助かるなら。


律は、胸に手を当てた。


上着の内側に、硬いものがあった。


衛兵は、鍵の紐は引きちぎったが、律の体までは探らなかった。黒い手帳は、まだそこにあった。


律は、手帳を取り出した。


格子窓から差し込む月の光に、手帳の頁をかざした。


最後の頁。


震えた字。


庫内マイナス十八度。在庫数一致。異常なし(扉以外)。霜村。


律は、その字を指でなぞった。


祖母の声がした。


冷蔵庫の中はね、その家の手紙なんだよ。


何をいつ買って、誰のために取っておいたか。ちゃんと並べておけば、次に開けた人に伝わるの。


それから、別の声がした。


文書庫の、冷たい空気の中で読んだ、百五十年前の料理人の言葉。


記すのは、己を守るためではない。次に皿を受け取る者へ渡すためである。


律は、手帳の頁をめくった。


余白に書き込んできた、走り書きの列。


ティムの勘定の板。ナディアの配膳表。ヨアキムの写し。修道院の受付簿。ゴドフロワとエメとレオンの署名。ルシールの承認。


律が書いたものは、律一人の手の中には、もうなかった。


◇


階段の上で、扉の開く音がした。


足音が下りてくる。手燭ではなく、ランプの灯りだった。


「リツ殿」


レオン・ヴァイスだった。


紺の上着の襟が乱れ、息が切れていた。牢番を一人連れている。牢番は、ランプをレオンに渡すと、階段の途中まで下がった。


「王女殿下の命で、冬至亭の者の言い分を聞きに来た。市場監督官として」


レオンは鉄格子の前に膝をついた。


「時間がない。先に、言わなければならないことがある」


レオンの灰色の目が、律を見た。


「王太后さまが、危ない」


律は、鉄格子を掴んでいた。


「熱が上がり続けている。腹を下し、水を飲んでも吐いてしまう。唇が乾いて、ひび割れている。司祭の治癒魔法は、何の効き目もない。医者は、あと一晩持つかどうかだと」


律の頭の中で、何かが一つ、かちりと嵌まった。


塩樽通りの、仕立て屋の坊や。


ひび割れた唇。落ちくぼんだ目。


◇


「レオンさん」


律は、鉄格子に顔を押しつけた。


「湯を沸かして、冷ましてください。井戸の水を、必ず一度沸かして」


レオンが目を見開いた。


「冷めた湯に、塩をひとつまみ。蜂蜜を、ひと匙。それを溶かして、王太后さまに飲ませてください。匙で、少しずつ。一度に飲ませると吐きます。吐いても、また少しずつ。夜通し、根気よく」


レオンは、律の顔を見つめていた。


「夏腹のときの、あの水か」


「はい。王太后さまは、たぶん体から水と塩が出ていきすぎています。魔法では、出ていった水は戻りません。戻すのは、水と塩です」


律は、鉄格子を握る手に力を込めた。


「私の弁明は、あとでいい。先に、それを。ルシール殿下に」


レオンは、一瞬だけ迷った。


それから立ち上がり、階段を駆け上がっていった。


◇


足音が消えると、隣の牢から、壁を叩く音がした。


こつ、こつ。


「……リツ」


石の壁の向こうから、くぐもった声がした。


オーギュストだった。


「起きてたんですか」


「寝られるか、こんなところで」


壁越しの声は、かすれていた。


「さっきの話、聞こえた。あの野郎の取引も」


律は、壁に背中をつけた。冷たかった。けれど、その向こうに誰かがいると思うと、少しだけ違って感じられた。


「ギュス」


「なんだ」


「もし私が、取引を受けたら」


壁の向こうで、オーギュストが鼻を鳴らす音がした。


「受けたら、俺はお前を一生許さない」


律は黙った。


「俺は宮廷を追い出された。粉のフォンを使えと言われて、断ったからだ。誰も俺の味方をしなかった。洗い場の爺さん以外は」


オーギュストの声が、少しだけ低くなった。


「お前は、俺に泡のすくい方を見せた。誰も見てなくても、すくうんだって。そのお前が、自分で鍋を濁らせるのか」


律は、膝を抱え直した。


「……濁らせません」


「なら、いい」


壁の向こうで、オーギュストが背中を壁に預ける音がした。


「縛り首でも何でもいい。お前の帳面が正しかったって、最後まで言ってやる」


◇


半刻ほどして、レオンは戻ってきた。


額に汗が浮いていた。


「殿下が、自分の手で匙を持っておられる。医者は渋い顔をしたが、殿下が押し切った」


レオンは、鉄格子の前に再び膝をついた。


それから、懐から小さく折りたたんだ紙を何枚か取り出した。


「それと、これを預かってきた」


律は、紙を見た。


「君の仲間からだ」


◇


最初の紙は、ナディアの字だった。


きれいな、整った字。


配膳表は、私が持っています。広間で騒ぎが起きたとき、服の内側に隠しました。五の鐘に、大膳頭付きの給仕のマテオさんが銀の蓋の皿を一つ王太后さまの卓へ運びました。厨房の一覧には、その皿はありませんでした。リツさんのパスを、通っていない皿です。


二枚目は、ヨアキムの字だった。


細く、正確な字。


写しは、宴の前の晩の分まで、すべて灰岩修道院の文書庫にある。四十八の型の数も、そこにある。燻製牡蠣の返品の記録も、王女殿下の承認の署名も、そこにある。受付簿の番号は、一つも飛んでいない。私は今、修道院にいる。夜明けには、院長と一緒に王宮へ向かう。


三枚目は、ヨアキムの字で、誰かの言葉を書き写したものだった。


ティムより。


リツ姉。十七番の型は、四の鐘に、僕が洗った。豚と鴨のやつ。ジャック爺さんと一緒に湯で流して、棚に戻した。板に書いた。板は、ジャック爺さんが洗い場の流しの下に隠してくれてる。僕は子どもだから、牢には入れられなかった。ナディア姉ちゃんと一緒に、修道院に来てる。


四枚目には、短い一行だけがあった。


字ではなかった。レオンが、聞いた言葉を書き留めたものだった。


ベルナール。牢の格子越しに。


皿は、一つ多かった。


◇


律は、四枚の紙を膝の上に並べた。


月の光の中で、それぞれの字が、それぞれの形で並んでいた。


ナディアの整った字。ヨアキムの細い字。ヨアキムが書き写した、ティムの言葉。レオンが書き留めた、ベルナールの一言。


律は、自分がいなくても、それが書かれていたことを知った。


律が牢の床に座り込んでいるあいだに。


ナディアは配膳表を服の内側に隠した。ヨアキムは丘を登った。ティムは十七番を数えた。ジャック爺さんは板を流しの下に隠した。ベルナールは、牢の格子越しに、一言だけ伝えた。


律の帳面は、グリモーに奪われた。


けれど、律が組んだ仕組みは、奪われていなかった。


それは、律の手の中ではなく、みんなの手の中にあったからだ。


庫の番は、庫にいるんじゃない。仕組みの中にいる。


壁の向こうで、オーギュストの寝息が聞こえはじめていた。眠れないと言っていた男が、いつの間にか眠っていた。


律は、四枚の紙を胸に押し当てた。


目の奥が熱かった。けれど、今度は泣かなかった。


◇


「リツ殿」


レオンが、低く言った。


「ニシナが、夜明けに答えを聞きに来ると言っていたそうだな」


律は顔を上げた。


「牢番から聞いた。取引の話も」


レオンは、鉄格子越しに律を見た。


「受けるのか」


律は、膝の上の紙を見下ろした。


それから、首を振った。


「受けません」


◇


夜明け前、仁科は再び牢の前に立った。


手燭を持ち、上着の襟を立てていた。牢番に銀貨を渡す手つきは、前の晩と少しも変わらなかった。


「答えは出たかい」


律は、立ち上がっていた。


鉄格子の前に立ち、仁科と向かい合った。


「取引は、受けません」


仁科の眉が、わずかに上がった。


「仲間の首は、どうでもいいのかい」


「どうでもよくないから、受けないんです」


律は、まっすぐに仁科を見た。


「私が罪を認めれば、冬至亭の帳面は全部嘘だったことになります。ティムの勘定もナディアさんの配膳表も、ヨアキムさんの写しもゴドフロワさんたちの署名も。みんなが書いてくれたものを、私が一人で、なかったことにすることになる」


律の声は、震えていなかった。


「それは、できません」


仁科は、しばらく黙っていた。


手燭の炎が、牢の冷たい空気の中で、細く揺れていた。


「審問を求めます」


律は言った。


「王の御前で。私の帳面と、みんなの記録を、全部並べて」


◇


仁科は、長いあいだ律を見ていた。


それから、ふっと息を吐いて笑った。


前の晩の、穏やかな笑いではなかった。どこか疲れたような、乾いた笑いだった。


「君の帳面は、もう灰だよ」


「私の帳面が灰でも、写しがあります」


仁科の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。


「……そうか」


仁科は、手燭を持ち直した。


「なら、審問で会おう、霜村さん」


仁科は踵を返し、階段を上っていった。


足音が遠ざかり、扉の閉まる音がした。


◇


格子窓の外が、少しずつ白んでいった。


鐘楼が、一の鐘を鳴らした。


その鐘の余韻が消えないうちに、階段の上から、軽い足音が駆け下りてきた。


レオンだった。


一晩じゅう王宮の中を走り回っていたのだろう。上着は汗で背中に貼りつき、髪が乱れていた。


それでも、その顔には、初めて見る表情があった。


「王太后さまが、持ち直された」


隣の牢で、オーギュストが跳ね起きる気配がした。


律の膝から、力が抜けた。


鉄格子を掴んだまま、律はその場に座り込んだ。


「明け方に、熱が下がりはじめた。殿下が夜通し匙で飲ませた。先ほど、ご自分から水を欲しいとおっしゃったそうだ。医者は、峠を越したと」


律は、冷たい両手で顔を覆った。指が震えていた。


息が、うまく吸えなかった。


レオンが、鉄格子の向こうで膝をついた。


「それと、もう一つ」


律は顔を上げた。


「殿下が、陛下に奏上された。冬至亭の霜村律に、陛下の御前で、弁明の場を与えてほしいと。司教さまの立ち会いのもとで」


レオンは、静かに言った。


「審問は、今日だ。灰の日の、三の鐘」


格子窓の向こうで、遠くの鐘楼が、もう一度鳴りはじめた。


審問の朝を告げる、鐘だった。


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