第八章 一皿の値段
肉屋の次は、塩問屋だった。
その次は、八百屋。
三日のうちに、冬至亭に品を卸していた店の半分が、申し訳なさそうな顔で取引をやめに来た。理由はみんな同じだった。白秤商会に借金がある。冬至亭に卸すなら、返済を早めろと言われた。
「卑怯な真似を」
オーギュストが、空になった肉の棚を蹴った。
「蹴っても肉は出てきませんよ」
律は帳面を開いたまま言った。
「残っている仕入れ先を、全部書き出しました。粉はミラのお父さんの粉屋。卵と鶏は、宿の泊まり客の紹介の養鶏場。エールは錨と樽の親父さんの伝手。肉と野菜と魚と塩が、ありません」
「ないなら、どうする」
「探しに行きます。市場の外へ」
◇
翌朝、律は一の鐘の前に冬至亭を出た。
ベルナールが一緒だった。片腕でも、荷車を引く力は律の倍ある。それに、王都の外の道を知っていた。傭兵だったころ、この辺りの村はみんな歩いたという。
南門をくぐると、景色が一変した。
石畳が土の道に変わり、両側に麦畑が広がっていた。若葉の月の終わりの麦は、膝の高さまで伸びて、風が吹くたびに銀色に波打つ。遠くに丘があり、その斜面に羊が白い点になって散らばっていた。
空気が、違った。
汚水と煤の臭いがない。土と、草と、どこかで焚いている薪の匂いだけがする。
律は思わず、深く息を吸った。
「……町より、ずっといい」
「ああ」
ベルナールが短く言った。
「だが町の連中は、ここまで来ない。一刻歩いて、野菜を一籠買って、また一刻歩いて帰る。それより市場で買うほうが楽だ」
市場の野菜が高いのは、そのせいだった。
村から町まで運ぶ手間と、そのあいだに挟まる仲買の取り分。それが値段に乗っている。
◇
最初に訪ねたのは、ローザという寡婦の農家だった。
ベルナールが昔、この家の納屋で雨宿りをしたことがあるという。豚を六頭と、鶏と、畑を一枚。夫を三年前に亡くし、十歳の息子と二人で切り盛りしていた。
ローザは最初、律を胡散臭そうに見た。
「町の食堂が、わざわざうちまで何の用だい」
「野菜と豚を、直接買わせてください」
律は畑の端にしゃがみ込み、根元から葉物を一本抜かせてもらった。
葉の裏を見る。虫食いはあるが、少ない。根の土の匂いを嗅ぐ。湿って、甘い。茎を指で折ると、ぱきりと澄んだ音がした。
「水をやる時間を、決めていますね」
ローザの目が、少し変わった。
「夜明け前と、日暮れにね。昼に水をやると、葉が焼ける」
「豚も見せてもらえますか」
豚舎は、思っていたより清潔だった。藁が新しく、餌の桶が洗ってある。豚の肌に張りがあった。
律は帳面を開いた。
仕入れ先を選ぶとき、律はいつも三つのことを見る。
品の良さ。値段。届く速さと確かさ。
どれか一つだけでは決めない。どんなに安くても、届く日がばらばらなら、厨房の仕込みは組めない。どんなに品が良くても、値段が高すぎれば、皿の値段に乗せられない。
ローザの野菜は、良い。豚も良い。値段は、市場の仲買から買うより三割は安い。
問題は、届け方だった。
「町まで運んでもらえますか。一の鐘までに」
ローザは首を振った。
「荷車が一台しかないんだよ。息子は小さいし、あたしが町まで往復したら、畑と豚の世話が回らない」
律は帳面に目を落とした。
それから、隣のベルナールを見上げた。
「ベルナールさん。二日に一度、ここまで荷を取りに来てもらえますか」
ベルナールは豚舎の柵にもたれたまま、空を見た。
「……二日分を、一度に運ぶのか」
「冬至亭の地下には、氷室があります。二日分なら、あそこで十分に持ちます」
「……ああ」
ローザが、二人を交互に見た。
「本当にそれでいいのかい。二日に一度、こんな遠くまで」
「その分、市場で買うより安くなります。ベルナールさんの手間の分を引いても、まだお釣りが来ます」
律は帳面の数字をローザに見せた。ローザは字が読めなかった。けれど律が指で一つずつ数を示すと、彼女はゆっくりとうなずいた。
◇
川沿いの漁師の兄弟からは、川魚と川海老を。
峠を越えてくる塩売りの男からは、海の塩を。
二日がかりで、律は仕入れ先を四つ見つけた。どこも小さく、どこも商会と取引をしていなかった。商会に売るほどの量がないから、相手にされなかったのだ。
小さいことが、今は強みだった。
冬至亭に戻る荷車の上で、律は帳面に新しい頁を作った。
仕入れ先の帳面だ。
名前。住んでいる場所。何を、いくらで、どれだけ。いつ届くか。誰が運ぶか。品の良し悪しの記録。
市場の外へ出なければ、見つからなかった名前ばかりだった。
◇
仕入れ先が決まると、次は灯りだった。
その晩、律は食堂の卓に、ろうそくを二本並べた。
一本は、黄ばんだ獣脂のろうそく。羊や牛の脂を固めたもので、下町ではどこでも使っている。一本、銅貨一枚。
もう一本は、淡い金色の蜜蝋のろうそく。蜂の巣から採った蝋で作る。一本、銅貨八枚。
律は二本に火を灯した。
獣脂のほうから、すぐに黒い煙が立ちのぼった。
臭いが広がる。焦げた脂の、獣の臭いだ。食堂の天井の梁は、もう何十年もこの煙を吸って黒くなっていた。
蜜蝋のほうは、煙がほとんど出なかった。
かわりに、ほのかに甘い香りがした。
「ギュス、こっちへ」
律はオーギュストを呼んだ。ミラが言い出したその呼び名を、いつの間にか店の全員が使うようになっていた。
「煮込みを一杯、この二本のあいだに置いてください」
オーギュストは怪訝な顔で、湯気の立つ椀を卓に置いた。
律は獣脂のろうそくの側から、椀の匂いを嗅いだ。
それから、蜜蝋の側から嗅いだ。
「嗅いでみてください」
オーギュストは鼻を近づけた。一度、二度。
その顔色が、変わった。
「……獣脂の側だと、葡萄酒の香りが死ぬ」
「香草もです。煮込みの一番上の香りを、獣の臭いが全部塗りつぶしています」
オーギュストは黙って、もう一度椀の匂いを嗅いだ。
それから、天井の黒い梁を見上げた。
「錨と樽でも、ずっとこの臭いの中で鍋を振ってた」
「お客さんも、ずっとこの臭いの中で食べていたんです」
◇
問題は、値段だった。
夜の営業は六の鐘から八の鐘まで。そのあいだ、食堂を灯すには獣脂のろうそくが十五本要る。一晩で銅貨十五枚。
同じ明るさを蜜蝋で出そうとすれば、一晩で銅貨六十枚かかる。
一めぐりの営業日は五日。差額は、銅貨二百二十五枚。
「高すぎる」
マルゴが帳場から首を伸ばした。
「三百枚の借金を返そうってときに、灯りに金を払ってどうするんだい」
「減らします」
律は食堂の壁を指差した。
「窓の鎧戸を全部開けて、日が沈むまでは外の光で営業します。今は日が長いから、七の鐘の手前まで明るい。それから、卓の上にだけ蜜蝋を一本ずつ。後ろの壁に、磨いた銅の皿を立てます」
「銅の皿?」
「光を跳ね返して、明るさを倍にします。私の世界では、鏡を使っていました」
律は帳面に数字を書いた。
蜜蝋を卓ごとに一本、八卓で八本。暗くなってからだけ灯すから、一本の半分ほどしか使わない。一晩、銅貨三十二枚。獣脂より十七枚高い。
「十七枚、高くなります」
マルゴが鼻を鳴らした。
「十七枚で、何が買えるっていうんだい」
「煮込みの香りが、買えます」
律はマルゴを見た。
「獣脂の煙の中で食べる煮込みと、香りが立つ煮込み。どちらに銅貨八枚を払いたいか。お客さんは、言葉にしなくても鼻で分かります。二度目に来るかどうかは、そこで決まります」
マルゴはしばらく律を睨んでいた。
それから、ぷいと顔を背けた。
「好きにしな。どうせあんたは、帳面に書いてから決めるんだろう」
◇
灯りの次は、品書きだった。
アイドルタイムに、律は全員を厨房に集めた。
「新しい皿を考えます。季節が変わるので」
若葉の月が終わり、花の月に入っていた。畑の葉物が柔らかくなり、川魚が脂を乗せ始める季節だ。旬のものを使えば、値段は下がり、味は上がる。
「試作をして、みんなで食べて、決めます」
試作。試食。
律の世界の厨房でも、新しい皿は必ずそうやって決めた。料理長が一人で決めるのではない。食堂で客に出す人間も、洗い場で皿を洗う人間も、みんなで食べる。それぞれの持ち場から、それぞれに気づくことがある。
オーギュストが、最初に皿を出した。
「川鱒の香草焼き、春の野菜のソースで」
全員が息を呑んだ。
皿の上に、小さな庭があった。
皮をぱりっと焼いた川鱒の切り身。その下に、緑のソースが流してある。周りに細く切った人参と薄く削った蕪と茹でた豆が、花びらのように散らされていた。ソースの上には、刻んだ香草が点々と置かれている。
ティムが、思わず手を叩いた。
「きれい!」
律も、息を呑んでいた。
一口食べた。
鱒の脂と、香草の青さと、ソースのほのかな酸味。野菜の甘さが、最後に全部をまとめていく。
おいしい。
そして、律は皿の上を、もう一度数えた。
「これ、盛り付けに何工程ありますか」
オーギュストが胸を張った。
「七つだ。鱒を焼く。ソースを温める。ソースを流す。鱒をのせる。人参と蕪と豆を並べる。香草を散らす。最後に油を一滴」
「一皿に、どれくらいかかりますか」
「丁寧にやって、百数えるくらいだ」
律は帳面を見た。
「夜の六の鐘から七の鐘のあいだに、この皿の注文が十入ったら」
オーギュストの顔が、わずかに強張った。
「百を十回。そのあいだ、竈の上の煮込みも仔羊も、全部止まります」
厨房が静かになった。
「おいしいです。本当に。でも、これは今の冬至亭では出せません」
◇
「なら、何なら出せる」
オーギュストの声が尖った。
「煮込みとスープとテリーヌだけ、一年中出し続けろってのか。それじゃ錨と樽と何が違う」
「違わないとは言っていません」
「言ってるのと同じだ」
二人のあいだの空気が、ぴりぴりと張りつめた。
ナディアが困った顔で律とオーギュストを見比べている。ベルナールは腕を組んで、黙って皿を見ていた。
そのとき、ミラが手を挙げた。
「あのさ」
全員がミラを見た。ミラは少し顔を赤くした。
「ソースって、先に量っておけないの」
「量っておく?」
「お菓子はそうするの。粉も砂糖もバターも、焼く前に全部量って、小皿に分けておく。焼き始めてから量ってたら、生地が待ってくれないから」
ミラは皿の上を指差した。
「このソースも、一皿分ずつ小さな器に分けておいたら。野菜も、人参と蕪と豆を一皿分ずつ混ぜて、器に入れておいたら。焼いてるときに並べるんじゃなくて、器をひっくり返すだけ」
オーギュストは、ミラを見つめていた。
律も、ミラを見つめていた。
営業の前に、すべてをあるべき場所に揃えておくこと。律の世界の厨房には、その考え方を表す言葉があった。
ミザンプラス。
料理人が最初に叩き込まれる言葉だ。忙しい時間に考えなくても手が動くよう、前もって全部を整えておく。
「ミラ」
律は言った。
「それ、やりましょう」
◇
翌日の試作で、川鱒の皿は三工程になった。
鱒を焼く。量っておいたソースの器を傾けて、皿に流す。野菜の器をひっくり返して、鱒をのせる。
香草と油の一滴は、パスで最後に加える。
百数えていた皿が、三十で出るようになった。
オーギュストは三回作り直し、三回とも黙って皿を見ていた。それから、四回目の皿を律の前に置いた。
「……食え」
律は食べた。
昨日の皿と、何も変わらなかった。
「同じです」
「当たり前だ。俺が作ってる」
オーギュストはそっぽを向いた。それから、ミラのほうを見て、ぼそりと言った。
「計量女。お前、ソースの量も量れるか」
「ミラ、だよ」
「ミラ。明日から、俺のソースも量ってくれ」
ミラは目を丸くして、それから、ぱっと顔を輝かせた。
「ウィ!」
◇
その夜、百日帳に新しい皿の原価を書いた。
川鱒の香草焼き。売値、銅貨十枚。材料、銅貨三枚。原価率、三割。
テリーヌとスープ。煮込みと香草焼きとタルト。
看板の煮込みが損を出し、ほかの皿がそれを取り返す。灯りに十七枚多く払い、その分の香りで客を呼ぶ。
一皿の値段は、皿の上だけでは決まらない。
律は残り日数の欄を見た。
七十四。
借金の残りは、まだ金貨三百枚のままだった。払うのは百日目にまとめてだ。それまでに貯めなければならない額は変わらない。開店してから貯まったのは、銀貨にして八十枚ほど。金貨にすれば、まだ八枚だった。
あと二百九十二枚。
律は帳面を閉じた。
食堂の奥から、咳の音がした。
乾いた、長い咳だった。何度も、何度も続いた。
律が顔を上げると、帳場の椅子でマルゴが背中を丸めていた。片手で口を押さえている。もう片方の手で、卓の縁を掴んでいた。
「マルゴさん」
「なんでもないよ」
マルゴは手を下ろした。
その指の隙間に、律は一瞬だけ、赤いものを見た気がした。
マルゴはすぐに前掛けで手を拭い、何事もなかったように帳面をめくった。




