第七章 八十六
「昨日の失敗を、全部書き出します」
翌朝は灰の日で、店は休みだった。律は作業台の上に新しい帳面を置いた。
百日帳とは別の、もう一冊だ。表紙に炭で書いてある。
業務日誌。
「昨日、何が起きたか。何がうまくいかなかったか。何を変えるか。毎晩ここに書いて、次の日の朝に読んでから店を開けます」
食堂の長い卓に、七人が座っていた。
誰の顔も疲れていた。ナディアの目は赤く、ティムは欠伸を噛み殺し、オーギュストは腕を組んで天井を睨んでいた。
「誰が悪かったか、を書くんじゃありません」
律は言った。
「どこで流れが詰まったか、を書くんです」
◇
律は帳面の一行目に書いた。
六の鐘。二十八席が一度に埋まった。
ナディアが、膝の上で手を握りしめた。
「私のせいです。お待たせしてはいけないと思って、来た方から順に、全部お通ししてしまいました」
「お通ししたこと自体は、間違いじゃありません」
律は首を振った。
「でも、二十八人に同時に席に着かれると、注文も同時に入ります。厨房の竈は二つしかない。木札が一度に二十枚刺さったら、どれだけ急いでも、最後の卓の料理は半刻遅れます」
律の世界では、それを「オーダーが刺さる」と言った。
注文が一度に押し寄せて、厨房の手が回らなくなる状態だ。客を待たせないつもりで一度に案内すると、かえって全員を待たせることになる。
「じゃあ、どうするんですか」
ナディアが顔を上げた。
「時間をずらします。六の鐘ちょうどに来た方と、少し遅れて来た方。そのあいだに、ほんの少し間を空けてご案内する。入口で待っていただくあいだに、エールを一杯お出しする。そうすれば、注文は波になって厨房に届きます」
「波……」
「一度に来る大波じゃなくて、小さな波が続く。それなら竈は回ります」
ナディアは、律の言葉を自分の帳面に書き写していた。きれいな字だった。
◇
「それと、席は在庫です」
律が言うと、オーギュストが眉を上げた。
「席が?」
「二十八席は、今日一日で売れる量が決まっている在庫です。パンなら明日も売れますが、席は今夜売れなかったら、それで終わりです」
律は食堂の卓の配置を、帳面に描いた。
「昨日、二人のお客さんを四人がけの卓に通しました。そのとき、二つの椅子が空いたままになっていた。あとから四人連れが来て、座れずに帰った」
ナディアが小さく息を呑んだ。
「二人なら、二人の席へ。四人の卓は、四人のために取っておく。予約を受けるときも、何人で何時に来るのかを必ず聞いて、その時間にその卓が空いているか確かめる」
限られた席と時間を、どう埋めれば一番多くの客を迎えられるか。
律の世界では、イールドマネジメントと呼んでいた。もとは船や宿の部屋の売り方から来た言葉だと、昔、店のマネージャーが教えてくれた。
ナディアは帳面に、卓の絵と数字を書き込んでいった。
「卓ごとに、何時から何時まで空いているかを書いておけばいいんですね」
「そうです」
「予約の帳面と、席の帳面。二つ作ります」
ナディアの目から、赤みが少しだけ引いていた。
◇
次に、ベルナールが口を開いた。
「……片付けが、追いつかなかった」
珍しく、自分から喋った。
「片手で三枚が限界だ。運ぶのと下げるのを、同じ手でやるのは無理だった」
「では、分けましょう」
律は帳面に線を引いた。
「運ぶのは、料理が熱いうちに。下げるのは、お客さんが立ったらすぐに。ベルナールさんは、運ぶほうを。下げるのは、ティムに手伝ってもらいます」
「僕?」
ティムが跳ね起きた。
「洗い場が空いているときだけでいい。お客さんが立った卓の皿を下げて、洗い場まで持ってくる。そうすれば、皿が戻ってくる速さが上がる」
食べ終わった卓を片付け、次の客のために整え直す。律の世界には、それだけを受け持つ係がいた。下げる速さが、そのまま次の客を案内できる速さになるからだ。
「それと、下げたあとの卓の整え方を決めます」
律は手順を書いた。
皿を下げる。パン屑を払う。卓を拭く。匙と小刀を置き直す。椅子を戻す。
「この順番を、毎回同じにする。考えなくても手が動くように」
ベルナールは、その手順をじっと見ていた。
それから、短く言った。
「……ああ」
◇
ティムが、おずおずと手を挙げた。
「お皿がなくなったのは、僕が遅かったから?」
「違う」
律は即座に言った。
「お皿が戻ってこなかったからよ。戻ってこないものは、どんなに速く洗っても足りない」
ティムは少しだけ、ほっとした顔をした。
「でも、一つお願いがある」
律はティムの洗い場の脇の板を指差した。棒と斜線で、昨日戻ってきた皿の数が書いてある。
「棚に残っているお皿が十枚になったら、大きな声で言って。『皿、残り十』って。そうしたら、誰かが下げに走る。なくなってから言っても間に合わないから」
「皿、残り十」
ティムは口の中で繰り返した。
それから、自信なさそうに律を見上げた。
「声、小さいけど大丈夫かな」
「ベルナールさんは、目も耳もいいから」
ベルナールが、ティムの頭に大きな手をのせた。何も言わなかった。
◇
最後に律は、新しい言葉を一つ教えた。
「料理が売り切れたら、厨房から大声でこう言います」
律は息を吸った。
「八十六」
全員が、きょとんとした顔をした。
「はちじゅうろく?」
「私の世界の、売り切れの合図です。由来はいろいろ言われていて、本当のところは私も知りません。でも短くて、叫びやすくて、聞き間違えない」
律は続けた。
「昨日、煮込みは八の鐘の前に全部出ていました。でも誰もそれを知らなくて、ベルナールさんはそのあとも二回、煮込みの注文を取ってきた。お客さんは待たされたうえに、売り切れですと言われた。最初からそう言われるより、ずっと腹が立ちます」
ベルナールの眉間に、わずかに皺が寄った。思い当たるのだろう。
「売り切れたら、八十六。聞こえたら、注文を取る人は、すぐに別の皿をお勧めする」
「八十六!」
ティムが叫んだ。
オーギュストが吹き出した。
「どこの国の数だ、それは」
「私の国でも、たぶん誰も知りません」
◇
話し合いが終わったのは、二の鐘の少し前だった。
律は業務日誌の最後に、もう一行書いた。
申し送り。
次の日の担当に伝えておくこと、という意味の欄だ。昨日起きたことのうち、今日の誰かが知っておくべきことを、ここに残す。
六の鐘の案内は、少しずつ。
二人の客は二人の席へ。
下げるのはティム。
皿、残り十。
売り切れは八十六。
それから、オーギュストのほうを見て、一行足した。
竈の火口、煤を毎朝落とす。
オーギュストが鼻を鳴らした。
「それは俺の仕事だ」
「はい。だから、書いておきます」
◇
休み明けの土の日。二日目の仕込みの量は、開店の日より減らした。
開店の日は六十人と読んで、実際に来たのは六十三人。そのうち四組は、払わずに帰った。悪い噂は、良い噂の三倍の速さで広がる。今日は客が減ると律は読んだ。
天気も見た。
朝から雲が低い。この国の人は、雨の日は外で食べない。市の日でもない。
「今日は四十人です」
「少なくないか」
オーギュストが言う。
「多めに仕込んで余れば、明日の賄いにはなります。でも、肉は二日目には味が落ちる。昨日の煮込みの残りは、今日のスープに回します」
その日の天気と曜日。市の立つ日と祭りと、予約の数。
それを全部足して、その日に仕込む量を決める。
開店の日の失敗は、数字の読み違いではなかった。流れの組み方の失敗だった。数字は、外れても直せる。流れは、決めておかないと直せない。
◇
六の鐘が鳴った。
扉の外に、十人ほどの客が待っていた。
ナディアが入口に立った。
「いらっしゃいませ。四名さまですね。こちらへどうぞ」
最初の四人を、四人がけの卓へ。
次の三人には、にっこりと笑って言った。
「ただいまお席をご用意しております。少しだけお待ちくださいませ。こちら、冬至亭からのご挨拶のエールです」
木の杯を差し出された三人は、顔を見合わせ、まんざらでもない顔で杯を受け取った。
ほんの短い間を空けて、次の卓へ。
木札が、釘に刺さる。
一枚。また一枚。
開店の日のように一度には刺さらない。間を置いて、波のように届く。オーギュストの手が、竈の上で落ち着いて動いていた。煮込みを温め、仔羊を焼き、スープを注ぐ。
律は冷菜場で、テリーヌを切っていた。
パスには、オーギュストが料理を並べ、自分で木札と照らし合わせていた。竈とパスを一人で往復している。額から汗が滴り、前掛けの紐が背中に貼りついていた。
律は手を止めかけて、また動かした。
ここが、自分の持ち場だ。
◇
八の鐘の少し前だった。
「皿、残り十!」
洗い場から、ティムの声が響いた。
思っていたよりも、ずっと大きな声だった。
食堂から、ベルナールが片手に布巾を持って戻ってきた。立ったばかりの卓から、皿を下げてくる。ティムは洗った皿を拭いて、棚に戻す。
皿は、最後まで尽きなかった。
洗い場の排水の格子の上では、ポワンがひっそりと働いていた。皿から流れ落ちた脂を、端から順に吸い込んでいく。昨日は溝から上がってきた臭いが、今日はほとんどしなかった。
それから少しして、オーギュストが大鍋の底を見下ろして叫んだ。
「八十六、煮込み!」
一拍遅れて、食堂からベルナールの低い声が返ってきた。
「……ウィ」
ベルナールは次の卓で、煮込みを頼もうとした客に言った。
「煮込みは今、売り切れた。仔羊の香草焼きならある。料理長の自慢だ」
客は少し残念そうな顔をして、それから香草焼きを頼んだ。
食べ終わったその客は、席を立つときにベルナールに言った。
「次は早く来るよ。煮込みを食いに」
◇
最後の客が帰ったあと、ナディアが入口から戻ってきた。
手に、小さな布袋を持っていた。
「昨日、お代を払わずに帰られた四組のうち、二組がお見えになりました」
全員が、ナディアを見た。
「今日のお昼に、お宅を訪ねたんです。お名前は、昨日のうちに覚えていましたから」
ナディアは布袋を作業台に置いた。銅貨が触れ合う音がした。
「お待たせしてしまったことを、お詫びしました。もしよろしければ、今夜もう一度来ていただけないかと。昨日の分は、いただかなくて結構ですと申し上げました」
ナディアは少し困ったように微笑んだ。
「そうしたら、お二組とも昨日の分まで払っていかれました。ご主人のお一人は、煮込みのおかげで晩の夫婦喧嘩が収まった、と」
ミラが噴き出した。
ティムがつられて笑った。
オーギュストは腕を組んだまま、口の端を上げていた。
律は、布袋を見つめていた。
客の名前を覚えていて、謝りに行った。それで、怒っていた客が戻ってきた。
律には、できないことだった。
帳面には書ける。数字は数えられる。けれど、人の家の扉を叩いて頭を下げに行くことは、律にはたぶん思いつきもしなかった。
「ナディアさん」
律は言った。
「ありがとうございます」
ナディアは、少し驚いた顔をした。それから、きれいに一礼した。
◇
その夜、律は百日帳の欄を埋めた。
客、四十二人。売り上げ、銅貨三百八十枚。儲け、銅貨百十枚。
業務日誌には、今日の申し送りを書いた。
六の鐘の案内、うまくいった。
皿、尽きず。
八十六、伝わった。
それから少し迷って、もう一行書いた。
パス、まだ誰も立っていない。料理長が竈とパスを兼ねている。長くは持たない。
律はペンを止め、その一行をしばらく見つめていた。
自分が立てばいい。
分かっている。分かっているのに、足が冷菜場から動かない。
◇
翌朝、一の鐘より早く、裏口の扉が叩かれた。
肉屋の小僧ではなかった。
肉屋の親方本人が、空の荷車を引いて立っていた。
「悪いが、冬至亭さん」
親方は律と目を合わせなかった。
「今日から、肉は卸せない」
「理由を、聞いてもいいですか」
親方は帽子を握りつぶすように両手で揉んだ。
「うちの店の借金も、白秤から借りてるんだ。冬至亭に肉を卸すなら、返済を今月中に全部済ませろと言われた」
親方は、ようやく顔を上げた。
「悪いな。うちにも、子どもが五人いるんだ」
空の荷車の軋む音が、夜明け前の塩樽通りを遠ざかっていった。




