第五章 百日帳
「勅許状のどこに、商会の印が要ると書いてあるんだい」
マルゴの杖が、竈の会の長い机を叩いた。
太った登録係の顔から、血の気が引いていくのが見えた。
翌朝のことだった。オーギュストから話を聞いたマルゴは、杖をついて竈の会に乗り込んだ。脇に、羊皮紙の巻物を一本抱えていた。
「料理人組合の決まりは、全部、先々代の王さまが下さった勅許状に基づく。勅許状にない印を求めるのは、勅許に背くってことだ。あんた、それを分かって言ってるのかい」
「そ、それは、組合の上の方から」
「なら、その上の方をここに呼びな。あたしが一から読み聞かせてやる」
マルゴは巻物を机に広げた。古い羊皮紙に、細かい字がびっしりと並んでいる。
「三十年前まで、あたしはこれを毎年読まされる立場だったんだよ。どこに何が書いてあるかは、目をつぶってても言える」
登録係は額の汗を拭った。
建物の奥から、別の職員が何人か顔を出していた。誰も口を挟まない。
「……今回は、印なしで受け付けます」
「今回は、じゃない。今後も、だ」
マルゴは巻物を巻き戻した。
「それと、市場監督官のヴァイスさまは、勅許に背く組合の話がお好きでね。あたしの口が滑らないように祈っておくんだね」
◇
オーギュスト・ラヴァルは、その日のうちに冬至亭の料理長として登録された。
帰り道、オーギュストが呆れた顔でマルゴを見下ろした。
「婆さん、何者だ」
「宿屋の婆さんだよ」
マルゴはそれ以上、何も言わなかった。
律はマルゴの背中を見ていた。
三十年前に廃された、王家の食料庫番。勅許状を目をつぶっても読める老女。
聞きたいことは山ほどあった。けれど今は、聞く時間がなかった。
◇
冬至亭に戻ると、律は一冊の帳面を作業台に置いた。
マルゴが市場で買ってきてくれた、粗い紙を麻糸で綴じたものだ。銀貨一枚。この国では、紙は本当に贅沢品だった。
律はその表紙に、炭で書いた。
百日帳。
「なんだそれは」
オーギュストが覗き込んだ。
「毎日の数字を書く帳面です」
律は最初のページを開いた。
左から順に、欄を引く。日付。客の数。売り上げ。一人あたりの売り上げ。材料に使ったお金。人に払ったお金。その日の儲け。借金の残り。そして、期限までの残り日数。
「毎晩、店を閉めたあとで、この欄を全部埋めます。月の終わりにまとめて数えるのではなく、毎日締めるんです」
「毎日?」
「毎日です。私の世界では、日次決算と呼んでいました」
律は残り日数の欄に、最初の数字を書いた。
九十一。
マルゴと取引をした日から、もう九日が過ぎていた。
「一日数字を見逃すと、取り返すのに三日かかります。百日しかないなら、一日も見逃せません」
オーギュストは何か言いかけて、やめた。
マルゴが竈のそばの椅子で、小さく鼻を鳴らした。
◇
料理長は決まった。
だが、二十八席の食堂を回すには、二人では足りない。
律は作業台に板を一枚立て、炭で枠を描いた。
客席側。厨房側。営業の外側。
この三つに分けて、それぞれに要る仕事を書き出していく。
客を迎えて、席に案内する。予約を受ける。注文を取る。料理を運ぶ。食べ終わった卓を片付けて、次の客のために整える。酒を勧める。
肉を焼く。ソースを作る。冷たい皿を作る。菓子とパンを焼く。野菜の皮を剥く。皿と鍋を洗う。
仕入れる。検品する。在庫を数える。お金を数える。帳面をつける。
板は、すぐに字で埋まった。
「これを全部、二人でやる気か」
オーギュストが言った。
「やりません」
律は板の横に、小さな丸を四つ描いた。
「あと四人、探します」
◇
一人目は、すぐ近くにいた。
冬至亭の斜め向かい、塩樽通りの角に、毎朝花を売りに来る娘がいた。籠に季節の花を挿し、通りがかる人に小さく頭を下げる。
律がこの国に来て三日目の朝、その娘は律を見て言った。
「おはようございます。冬至亭のリツさん、ですよね」
律は足を止めた。
名乗った覚えはなかった。
「マルゴさんが、市場でそう呼んでいらしたので」
娘は微笑んだ。栗色の髪をきちんと結い、擦り切れてはいるが清潔な灰色の服を着ていた。言葉遣いが、通りの誰とも違っていた。
それからしばらく、律は毎朝その娘を観察した。
娘は、通る人の名前を全部覚えていた。魚屋の女房、樽職人の親方、荷車引きの兄弟。それぞれの好きな花も、家族の名前も、先週の具合が悪かった誰それの様子まで。
百日帳を作った翌朝、律は花を一本買い、銅貨を渡しながら訊いた。
「お名前を、教えてもらえますか」
「ナディアと申します」
「ナディアさん。冬至亭で、お客さんを迎える仕事をしてもらえませんか」
ナディアの手が止まった。
「……私が、ですか」
「人の名前と顔と好みを、一度で覚えられる人が要るんです。予約を受けて、席を割って、常連さんの好みを帳面に残す。お店の顔になる仕事です」
ナディアはしばらく、手の中の銅貨を見ていた。
「私は、ファルケ男爵家の三女でした」
声は穏やかだった。
「父が商会と取引をして、騙されて、全部なくしました。屋敷も、名前も。いまでは、ファルケという家を覚えている人はいません」
ナディアは顔を上げた。
「名を忘れられた家の娘だから、人の名前だけは忘れないようにしているんです」
律は、何も言えなかった。
ナディアは花籠を抱え直し、小さく頭を下げた。
「お受けします。リツさん」
◇
二人目は、オーギュストが連れてきた。
錨と樽の用心棒をしていた男で、名をベルナールといった。
五十八歳。白髪混じりの短い髪と、日に焼けた顔。左腕は肘から先がなく、袖が結ばれていた。元は傭兵で、二十年前の国境の戦で腕をなくしたという。
ベルナールは冬至亭の食堂に入ると、黙って卓の一つを見た。
それから、片手で卓の端を掴んで持ち上げた。
四人がけの重い樫の卓が、床から浮いた。ベルナールは脚の一本を覗き込み、短いことを確かめると、卓を下ろした。
「……がたつく」
それだけ言って、厨房から薪の切れ端を一枚持ってきた。短い脚の下に噛ませる。卓はぴたりと止まった。
「喋らないけど、目はいい」
オーギュストが言った。
「酔っ払いが暴れる前に、もう首根っこを掴んでる」
律はうなずいた。
「料理を運んで、食べ終わった卓を片付けて、次のお客さんのために整える。それから、困ったお客さんを外へ。お願いできますか」
ベルナールは律を見下ろした。
「……ああ」
それが、承諾だった。
◇
三人目は、夜中に食料庫で見つけた。
その晩、律は眠れずに地下へ下りた。木札の並びを確かめるのが、いつの間にか寝る前の癖になっていた。
食料庫の扉に手をかけたとき、中で物音がした。
鼠にしては大きい。
律はランプを掲げ、そっと扉を開けた。
子どもがいた。
痩せた男の子だ。十二かそこら。棚の一番下に頭を突っ込み、何かを口に詰め込んでいる。ランプの光に気づいて振り返った顔は、煤だらけだった。
手には、昼に捨てる側に分けた、パンの耳が握られていた。
「……ごめんなさい」
男の子は小さく言った。
「捨てるやつだと思ったから」
律は男の子の足元を見た。
排水の溝の格子の上で、何かが光っていた。透き通った、半透明の塊。拳二つ分ほどの大きさで、ぷるぷると震えている。
塊は、溝にこびりついた油を、ゆっくりと吸い込んでいた。
「それは」
「ポワン」
男の子は塊を両手で掬い上げた。
「僕のスライム。油が好きなの。汚いところをきれいにするんだ」
律はしばらく、そのスライムを見ていた。
厨房の排水に溜まる油は、放っておけば腐って臭い、虫を呼ぶ。律の世界では、それをせき止める箱を毎晩掃除した。この世界では、それを食べる生き物がいるのだ。
「名前は」
「ポワン」
「あなたの名前」
「……ティム」
律はしゃがみ込み、ティムと目を合わせた。
「ティム。この店で、皿と鍋を洗う仕事をしてくれる? ご飯と寝る場所は出す。ポワンも一緒でいい」
ティムの目が、まん丸になった。
◇
四人目は、粉を届けに来た。
ミラ、十六歳。冬至亭がずっと粉を買っている粉屋の娘だった。
ミラは粉袋を作業台に下ろすなり、律が天秤で量りはじめたのを見て、眉を吊り上げた。
「その天秤、右の皿が軽いよ。三粒ずれてる」
律は手を止めた。
「三粒?」
「麦三粒分。うちの粉はちゃんと量って入れてるんだから、そっちの天秤で量られて少ないって言われたら困るの」
ミラは自分の前掛けのポケットから、小さな麦の粒を三つ取り出し、天秤の皿にのせた。
天秤は、ぴたりと水平になった。
律はミラを見た。
ミラはむすっとした顔で、腕を組んでいた。
「あたし、菓子屋になりたかったんだ。でも菓子屋の親方は、女の弟子は取らないって。だから家で、夜中にこっそり焼いてる。粉と砂糖と卵の量を一粒でも間違えたら、膨らまないから」
律の世界でも、菓子とパンを作る持ち場は特別だった。
料理は味を見ながら直せる。菓子は直せない。量った瞬間に、結果がほとんど決まっている。だから菓子職人は、料理人と違う頭の使い方をする。
「ミラ。冬至亭で、菓子とパンを焼いて。それと、仕込みの計量も」
「……給金は」
「最初は少ないです。でも、帳面に全部書きます。お店が立ち直ったら、その分を上乗せします」
ミラは天秤を見て、律を見て、もう一度天秤を見た。
「その帳面、あたしにも見せてよね」
◇
六人になった。
律は板の枠に、名前を書き込んでいった。
ナディア。迎える。予約。席割。顧客の帳面。
ベルナール。運ぶ。片付ける。卓を整える。困った客。
オーギュスト。肉。ソース。温かい皿。料理長。
ミラ。菓子。パン。計量。野菜の下ごしらえ。
ティム。洗う。油。ごみ。床。
律。冷たい皿。仕入れ。検品。在庫。帳面。
マルゴ。宿の帳場、組合と公証人。
書き終えて、律は一歩下がった。
誰が何をするのか。一目で分かる。誰かが休んでも、ほかの誰かがこの板を見れば、どの仕事が空いているか分かる。
人の記憶に頼らない。仕組みに頼る。
◇
その夜、律は食料庫のラベルを作り直そうとしていた。
木札に、色をつける。
律の世界では、曜日ごとに色を変えていた。月曜は青、火曜は赤。日付を読まなくても、色を見ただけで古いものが分かる。忙しい厨房では、それが命綱だった。
律は顔料の小瓶を七つ並べた。
マルゴが安く分けてくれた、布染め用の顔料だ。青と赤と黄。緑と茶と白。それに紫。
木札の端に、青を塗る。次に赤を。
「リツ姉、何してるの」
ティムが、皿を拭く手を止めて覗き込んできた。
「日にちの色を決めてるの。今日はこの色、明日はこの色って。そうすると、古いものがすぐ分かるでしょう」
ティムは七つの小瓶を数えた。
それから、首をかしげた。
「でも、一めぐりは六日だよ」
律の手が止まった。
「七つ目の色は、いつ使うの」
律は、小瓶の列を見下ろした。
そうだった。この国では、六日がひと巡りなのだ。土の日に水の日、火の日。風の日に陽の日、灰の日。灰の日は安息日で、店も市場も休む。
律は七つ目の小瓶、紫を、そっと脇によけた。
「ありがとう、ティム。六つで作る」
土の日は茶。水の日は青。火の日は赤。風の日は緑。陽の日は黄。灰の日は白。
それから、日付の書き方も決め直した。
律の世界の書き方ではなく、この国の書き方で。
若葉の月 第三めぐり 陽の日 七の鐘。
ここで働く誰が見ても、同じように読めるように。ラベルは、自分のために書くものではない。次に手に取る誰かのために書くものだ。
律は手帳に、新しい色の並びを書き写した。
◇
木札を作り終えたころ、マルゴが厨房に下りてきた。
膝をさすりながら竈の前の椅子に座り、律の手元の帳面を見た。
「百日帳は一冊だけかい」
「はい」
「昔の王宮の庫帳はね、必ず二部作った」
律は顔を上げた。
「一部は庫に置く。もう一部は、修道院の文書庫に預ける。火事で焼けても、誰かに盗まれても、もう一部が残るようにね。それが、庫の番の掟だった」
マルゴの声は、静かだった。
律は帳面の表紙に手を置いた。
「私の世界では、記録を一か所にしか置きませんでした」
「ほう」
「だから、負けました」
マルゴは何も訊かなかった。ただ、律の手の上にある帳面を見ていた。
「写しを作れる人がいません。紙は高いし、字を書ける人も少ない。いまは、私の手が足りない」
「なら、いずれ探しな」
マルゴはそれだけ言って、椅子から立ち上がった。
◇
最後に、律はティムを呼んだ。
ティムは字が読めなかった。数も、指で十まで数えるのがやっとだった。
律は作業台の上に、炭で線を引いて見せた。
棒を一本。二本。三本。四本。
五本目は、四本の上に斜めに一本。
「これで五つ。五つの塊がいくつあるか数えれば、字が読めなくても数が分かるの」
ティムは真剣な顔で、炭を握った。
棒を四本。斜めに一本。
「洗い場に戻ってきた銅鍋と、型と、皿。ひとつ戻るたびに、この板に線を一本引いて。銅鍋は高いから、なくしたら大変なの」
「なくなったら、どうなるの」
「誰かが持っていったのか、どこかに置き忘れたのか、数を見れば分かる」
ティムはこくりとうなずいた。
板の隅に、小さな線を練習で引いた。何度も、何度も。
◇
その夜、律は百日帳の最初のページに、開店の日を書き込んだ。
若葉の月 第四めぐり 陽の日。
その日で、残り八十四日。
厨房の窓の外で、遅い月が塩樽通りの屋根を照らしていた。地下の食料庫では、六色の木札が日付順に並んでいる。
律は手帳を閉じた。
明日から、店が動き出す。




