第四章 ソースの男
「投げるなら、その皿は私にください」
律の声は、静まり返った酒場によく通った。
皿を振りかぶったまま、男が動きを止めた。荷揚げ人たちの視線が、ゆっくりと入口の律に集まる。
「……誰だ、お前」
「通りすがりの、冷菜担当です」
男の眉が寄った。
その隙に、尻もちをついていた商人が床を這って立ち上がった。帽子を拾い、裾の泥を払いもせずに扉へ走る。律の脇をすり抜けながら、捨て台詞を吐いた。
「覚えておけ、ラヴァル。白秤に逆らって、この街で鍋を振れると思うなよ」
扉が乱暴に閉まった。
男は皿を下ろした。湯気はまだ立っていた。
◇
男はオーギュスト・ラヴァルと名乗った。
二十六歳。三か月前まで宮廷の厨房で、ソースと肉の火入れを任されていたという。
ソシエ、と彼は自分の持ち場を呼んだ。律の世界でも同じ名前だった。フランス料理の厨房で最も格の高い持ち場で、ソースを作り、肉を焼く。料理の命を預かる場所だ。
「宮廷で、何があったんですか」
律は卓の端に座り、木の椀を抱えていた。オーギュストが投げそこねた煮込みを、そのまま貰い受けたのだ。
「大膳頭が、商会の粉を使えと言った」
オーギュストは竈の前に立ったまま答えた。
「骨を焼いて、野菜を炒めて、半日かけてフォンを引く。それをやめて、商会が売ってる乾いた粉を湯で溶けと。そのほうが安くて早い、だとさ」
「断ったんですね」
「鍋ごと大膳頭の足元にぶちまけた」
荷揚げ人の誰かが、ひゅうと口笛を吹いた。
律は匙を椀に入れた。
仔羊の肩肉だった。指で押せば崩れるほど柔らかい。茶色いソースは艶があり、匙の背にとろりと絡む。
口に入れた。
まず赤葡萄酒の酸味が来た。それがすぐに丸くなり、焼いた骨の香ばしさに変わる。玉ねぎの甘さが追いかけてきて、最後に、ほんのわずかな香草の青さが鼻へ抜けた。
律は匙を置いた。
もう一口食べた。
それから、もう一口。
気づくと、椀の底が見えていた。
「……おいしいです」
律は顔を上げた。
「とても。ちゃんと骨から出汁を取っていて、火の入れ方に迷いがない。肉の繊維が切れずに、ほどけています。たぶん、煮込む前に表面を強火で焼いてから、低い火でずっと見ていた」
オーギュストの目が、わずかに見開かれた。
荷揚げ人たちが顔を見合わせる。一番手前の、髭面の大男が口の中のものを飲み込んで言った。
「おいラヴァル。この嬢ちゃん、お前の鍋の中を見てたみたいに言い当てたぞ」
「黙って食え」
オーギュストは大男を睨んだが、その耳の先がわずかに赤かった。
「分かるのか」
「分かります。私の世界にも、こういう料理を作る人がいました」
オーギュストはしばらく黙っていた。それから腕を組んで、壁にもたれた。
「で? 褒めに来たわけじゃないだろう」
◇
律は胸ポケットから手帳を出した。
「この煮込み、一杯いくらですか」
「銅貨八枚」
「仔羊は一頭で仕入れていますか」
「当たり前だ。部位ごとに買えば高くつく」
「一頭、いくらでした」
「銅貨二百四十枚」
律は手帳に書いた。
「一頭から、何杯の煮込みが取れますか」
オーギュストが鼻白んだ顔をした。
「三十杯ってところだ。肩と腿しか使わない。あとはスジだらけで煮込みに向かない」
「骨と、残りの肉は」
「捨てる」
律のペンが止まった。
「……捨てる」
「骨は焼いて少しはフォンに使う。残りは犬にやる」
律は手帳のページをめくった。
「葡萄酒は、一回の仕込みでどれくらい使いますか」
「上等の赤を、壺に二つ。銅貨六十枚分」
「薪は」
「八刻煮込む。銅貨四十枚ってところか」
「玉ねぎと香草は」
「二十枚もいかない」
律はペンを走らせた。
荷揚げ人の何人かが、首を伸ばして手帳を覗き込もうとした。読めない字に、首をかしげる。
律は顔を上げた。
「一回の仕込みで、かかるお金は銅貨三百六十枚です」
オーギュストは何も言わない。
「それで三十杯作るなら、一杯あたり銅貨十二枚かかっています。それを銅貨八枚で売っている」
律は手帳をオーギュストのほうへ向けた。
「一杯売るたびに、銅貨四枚の赤字です」
酒場の空気が、ぴんと張った。
◇
「つまり、何が言いたい」
オーギュストの声が低くなった。
「俺の煮込みが、高すぎるってことか。客に出す値じゃないってことか」
「違います」
律は首を振った。
「煮込みは、このままでいいです。値段も、作り方も」
「は?」
「看板の皿は、損をしてもいいんです」
律は手帳の新しいページを開いた。
「お店に来てもらう理由になる皿を、看板と呼びます。看板は、材料にお金をかけていい。そのかわり、ほかの皿で儲けを取り返す。お店全体で帳尻を合わせるんです」
オーギュストの眉が動いた。
「私の世界では、それをメニューミックスと呼んでいました」
律は数字を書きながら続けた。
「売値のうち、材料にいくら使ったかの割合を、原価率と言います。この煮込みの原価率は、十二を八で割って、百五十。売値より材料のほうが高い。でもお店全体でこの割合を三割くらいに収められれば、お店は続きます」
「どうやって」
「捨てているものを、売るんです」
律は指を折った。
「骨は全部焼いて、フォンにする。肩と腿以外の肉は、細かく刻んでスープに入れる。この国ではポタージュと言うんですよね。豆と野菜と一緒に煮込めば、一頭から六十杯は取れます。一杯銅貨三枚。材料は一杯一枚もかかりません」
荷揚げ人の一人が、腹をさすった。
「三枚で、あの煮込みと同じ骨の出汁のスープか」
「同じ出汁です。だって同じ羊ですから」
酒場のあちこちで、低い笑い声が起きた。
律は続けた。
「葡萄酒は、煮込みの下ごしらえには安いものを使って、仕上げにだけ上等の赤を入れる。風味は仕上げで決まります。それで銅貨三十枚浮きます」
「仕上げにだけ……」
オーギュストが呟いた。何かを思い出すような顔だった。
「薪は、この酒場がパンを焼いたあとの窯の余熱を借りる。夜のうちに鍋を入れておけば、朝には煮込みが仕上がっています。薪代が半分になる」
律は最後に、手帳の数字を指でなぞった。
「一頭あたりのかかりが、銅貨三百七十枚くらい。売り上げは煮込みが二百四十枚、スープが百八十枚で、四百二十枚。一頭で銅貨五十枚の儲けになります」
酒場は静かだった。
誰かが、ごくりと唾を飲む音がした。
◇
オーギュストは、長いあいだ律を見ていた。
それから吐き捨てるように言った。
「お前は、料理を数字にした」
その声には、怒りと、もう少し別のものが混じっていた。
「宮廷の大膳頭もそうだった。いつも帳簿ばかり見ていた。この骨は高い、この葡萄酒は無駄だ、粉で十分だ。料理を、紙の上の数字でしか見ない」
律は手帳を閉じた。
「数字にしないと、料理は続けられません」
オーギュストの目が細くなった。
「大膳頭は、たぶん数字が好きなんじゃないです」
律は静かに言った。
「安く見せたい数字が好きなんです。粉のフォンが安いのは、それを作る人の手間と、食べる人の舌を勘定に入れていないからです。本当の数字は、嘘をつく人を嫌います」
言ってから、律は自分の言葉に少しだけ驚いた。
数字は嘘をつかない。
仁科の口癖と、同じことを言っている。
いや、違う。仁科は数字を盾にして、嘘をついた。
律はそれ以上、何も言わなかった。
◇
オーギュストは竈の火を見ていた。
鍋の中で、煮込みがことことと音を立てている。
「お前、どこの店の人間だ」
「冬至亭です。塩樽通りの」
「あの潰れかけの宿か」
「料理長を探しています」
オーギュストは鼻で笑った。
「俺に、あそこの竈に立てって言うのか」
「はい」
律はまっすぐ彼を見た。
「冬至亭には、百日後に返さなければならない借金があります。それまでにお店を立て直したい。私は冷たい料理と仕込みと在庫の管理はできます。でも、お客さんを呼べる皿は作れない。あなたの煮込みなら、呼べます」
「断ったら?」
「ほかを探します。でも、あなたほどの人はたぶんいません」
荷揚げ人たちが、面白そうに二人を見比べていた。
オーギュストは腕を組み直した。
「賭けをしよう、冷菜女」
「冷菜女」
「お前のことだ」
オーギュストは律の手帳を顎でしゃくった。
「その数字が本物か、ここで試す。一めぐりだ。灰の日を除いた五日のあいだ、お前のやり方でこの店の煮込みを回してみろ。五日で黒字になったら、冬至亭の竈に立ってやる」
「赤字だったら」
「二度と俺の前で、料理を数字で語るな」
律は手帳を胸に当てた。
「受けます」
◇
それからの五日間、律はほとんど眠らなかった。
朝は冬至亭の食料庫を整え、市場で野菜の値段を調べる。昼過ぎに港へ下り、錨と樽の竈の脇で骨を焼く。
仔羊の骨は、鉈で叩き割ってから窯に入れた。割った断面から髄が溶け出して、こんがりと色がつく。それを大鍋に移し、玉ねぎと人参と香草の茎と一緒に水から煮出す。
浮いてくる灰色の泡を、律は一つ残らずすくった。
オーギュストは横目でそれを見ていた。
「泡まで取るのか」
「取らないと、濁ります。濁った出汁は、えぐみが出ます」
「知ってる。俺もそうする」
オーギュストはそれだけ言って、自分の鍋に戻った。
二日目の夜、いよいよスープを売り出した。
一杯、銅貨三枚。木の椀にたっぷり。
荷揚げ人たちは、最初は様子見だった。三人が頼み、一口すすって、目を丸くした。
「おい、これ」
「あの煮込みの味がするぞ」
翌日には、スープを頼む客が倍になった。四日目には、昼の荷揚げの合間にわざわざ椀を持って並ぶ男たちが出た。
スープを飲んだ客の半分が、次の日には煮込みを頼んでいた。
一杯三枚で骨の出汁を知った舌は、八枚の煮込みを食べたくなる。看板の皿は、損をしても客を連れてくる。
四日目の夜更け、窯に煮込みの鍋を入れたあとで、オーギュストがぽつりと訊いた。
「お前の世界の厨房は、どんなところだ」
律は窯の扉の隙間から漏れる橙色の光を見ていた。
「火は、ここより強いです。冷やす箱があって、肉も魚も何日も持ちます。そのかわり、みんな忙しすぎて、誰も泡をすくう人を見ていません」
「見られてなくても、すくうのか」
「すくわないと、濁りますから」
オーギュストは少しだけ笑った。初めて見る笑い方だった。
「宮廷にも、そういう奴が一人いた。洗い場の爺さんだ。誰にも礼を言われないのに、鍋の底を毎晩鏡みたいに磨いてた。俺が追い出された日、あの爺さんだけが門まで見送りに来た」
窯の中で、薪がぱちんと爆ぜた。
律は毎晩、売り上げを手帳に書いた。
一日目、赤字。二日目、赤字。三日目、わずかに黒字。
四日目。
五日目の夜、律は最後の客が出ていったあとで、手帳の数字を合計した。
オーギュストが、竈の前で腕を組んで待っていた。
律は手帳を差し出した。
「五日分で、銅貨百十二枚の黒字です」
オーギュストは手帳を受け取った。読めない字のはずだ。それでも彼は、長いあいだそのページを見つめていた。
それから、手帳を律に返した。
「明日、竈の会に行く」
「……来てくれるんですか」
「登録の手続きだ。料理長がいなきゃ店は開けないんだろう」
オーギュストは前掛けを外し、竈の縁に掛けた。
「勘違いするなよ。数字に負けたんじゃない。お前が泡を全部すくったからだ」
律は、何と答えていいか分からなかった。
ただ、手帳を胸ポケットにしまった。そこが少しだけ温かい気がした。
◇
翌朝、二人は竈の会の建物にいた。
太った登録係は、オーギュストの顔を見ると露骨に嫌な顔をした。それでも宮廷のソシエだった男の手形は本物で、追い返す理由はない。
登録係は帳面を開き、羽ペンを取った。
そこで、手を止めた。
「ああ、そうだ」
わざとらしく、思い出したような声だった。
「今年から、新しく料理長を登録するには、もう一つ印が要るんだったな」
「印?」
オーギュストが眉をひそめる。
登録係は帳面の端を、指でとんとんと叩いた。
「白秤商会の顧問さまの、承認印だよ」




