第三章 塩樽通り
「頭の上に気をつけな。朝は降ってくるからね」
マルゴがそう言った直後、二階の窓が開いた。
木桶が傾き、茶色い水が石畳に叩きつけられる。律の靴の先、拳ひとつ分の距離だった。飛沫がふくらはぎに跳ねた。
臭いで、それが何なのか分かった。
「水にご注意を、って叫ぶ決まりなんだけどね。守る奴は半分もいない」
マルゴは杖をつき、平然と水たまりを避けて歩いていく。
律はしばらく、自分の足を見下ろしていた。
◇
冬至亭で迎えた二日目の朝だった。
若葉の月 第二めぐり 水の日。一の鐘が鳴る前に起き、律はマルゴに頼んで市場へ連れていってもらった。
何がいくらで売られているのか。どこの肉が新しく、どこの魚が古いのか。それを知らなければ、店の数字は一つも組めない。
塩樽通りは、名前のとおりの通りだった。
道の両側に、塩漬けの魚や肉を詰めた樽が積まれている。樽のあいだを、荷車と人と犬が押し合いながら抜けていく。石畳の真ん中には細い溝が掘られていた。さっきの茶色い水も野菜の屑も鶏の羽も、みんなそこを流れて川のほうへ向かっていた。
臭いは、層になっていた。
一番下に汚水の臭い。その上に、獣の脂を焦がした臭い。軒先で燃える安いろうそくの煤。焼きたてのパン。干した魚。酸っぱいエール。
律は鼻で息をするのをやめ、口で呼吸した。
「すぐ慣れるよ」
マルゴが言った。
「慣れないほうがいい気がします」
「慣れなきゃ、ここじゃ生きていけないのさ」
◇
市場は、川沿いの広場に開かれていた。
雑多な露店が、見渡すかぎり並んでいる。籠に盛った葉野菜と、泥のついた根菜。首を落とした鶏に、樽の中で跳ねる川魚。
律は一軒ずつ値段を訊いた。
黒パンが一つ銅貨二枚。卵が三つで銅貨一枚。鶏が一羽で銅貨十五枚。豚の脂身が一塊で銅貨八枚。
マルゴの説明によれば、金貨一枚は銀貨十枚、銀貨一枚は銅貨十枚。下町の職人の日当がおおよそ銅貨二十枚だという。
律は頭の中で数字を組み替えた。
銅貨一枚が、だいたい百円。日当が二千円。だとすれば卵は一個三十円ほど。パンは安い。肉は高い。
借金は、金貨三百枚。
銅貨にすれば三万枚。円に置き換えれば、三百万。
数字にすると、急に輪郭がはっきりした。下町の食堂が一年がかりで稼ぐ額だというマルゴの言葉は、大げさではなかった。
「顔が青いよ」
「計算していただけです」
「あんたの国の人間は、みんなそうやって青くなるのかい」
律は答えず、魚屋の樽を覗き込んだ。
川魚の目が、白く濁っていた。
◇
広場の一角に、人だかりができていた。
肉屋の台の前で、紺の上着を着た若い男が、天秤を指差している。
「その分銅を貸せ」
男の声はよく通った。肩幅が広く、背筋がまっすぐに伸びている。上着の胸に、交差した秤と鍵の刺繍があった。
肉屋の主人が渋々、鉄の分銅を差し出す。
若い男は自分の鞄から、真鍮の分銅を取り出した。同じ目方の刻印がある。天秤の両側にそれぞれ載せる。
真鍮のほうが、ぐっと下がった。
人だかりがどよめいた。
「軽い分銅で量れば、客は少ない肉に正しい値を払うことになる」
若い男は淡々と言った。
「市場監督官の名において、この分銅を没収する。罰金は銀貨二枚。三度目なら店を畳んでもらう」
肉屋の主人は顔を真っ赤にして、それでも黙って銀貨を出した。
「レオン・ヴァイスさまだよ」
マルゴが律の耳元でささやいた。
「市場の量りと品物を見張る役人さ。若いけど容赦がない。商人たちには蛇蝎のように嫌われてる」
レオンと呼ばれた男は、没収した分銅を布にくるみ、隣の台へ歩いていった。塩漬け肉の樽が並んでいる台だった。
律の足が、勝手に動いた。
「その樽、日付がありませんね」
言ってから、しまったと思った。
レオンが振り返った。灰色の目が、律の頭からつま先までを一度だけなぞった。
「日付?」
「いつ漬けたのか分からない肉は危ないです。塩が効いていても、古くなれば中から傷みます。夏はとくに」
人だかりの何人かが、くすりと笑った。
塩漬け肉の主人が鼻で笑う。
「お嬢ちゃん、塩漬けは腐らないから塩漬けなんだよ」
レオンは笑わなかった。
樽の一つに手を置き、蓋を少しずらして、中の匂いを嗅いだ。眉間に皺が寄る。
「……君は」
「冬至亭の者です」
マルゴが杖の先で律の踵をつついた。余計なことを言うな、という合図だった。
レオンはしばらく律を見ていた。
それから、短く言った。
「覚えておく」
◇
市場の外れまで歩くと、急に通りの雰囲気が変わった。
石畳がきれいに掃かれている。荷車が三台、きっちりと列を作って停まっていた。どの荷車にも同じ焼き印のついた麻袋と樽が積まれている。
秤の形の焼き印だった。
荷車の前に、子どもたちの列ができていた。
みんな小銭を握りしめている。荷台の上で、揃いの白い前掛けをつけた男たちがパンを配っていた。
白いパンだった。
この国で白いパンは、本来は金持ちの食べ物だとマルゴは言った。小麦をよく挽いて篩にかけ、ふすまを除いたものだけを使う。手間がかかるから高い。下町の人間が食べるのは、ライ麦や大麦を混ぜた硬い黒パンだ。
だがその荷車の白いパンは、一つ銅貨三枚だった。
パン屋の白パンの、半値だという。
「白秤商会さ」
マルゴの声が、少しだけ硬くなった。
「十年ほど前から急に大きくなった食料商でね。粉も塩も肉も、いまじゃ王都の半分はあそこを通る。あの白パンのおかげで、冬に飢え死にする子どもは減った。それは本当だよ」
律は子どもの一人が、白いパンを両手で抱えて走っていくのを見た。
頬が丸かった。
「うちに金を貸してるのも、あそこだ」
マルゴは荷車に背を向けた。
律はもう一度振り返った。
荷台の端に、樽が並んでいる。樽の側面には、秤の焼き印と、刻みで入れた細かい印があった。日付なのかもしれない。律は目を凝らしたが、荷車はもう動きだしていた。
◇
昼前、二人は料理人組合の建物に寄った。
竈の会、と呼ばれる組合だった。
石造りの立派な建物で、入口の上に鉄の竈の看板が下がっている。中は薄暗く、長い机の向こうに、太った登録係が座っていた。
マルゴが用件を言うと、登録係は帳面をめくりもせずに答えた。
「店を開くには、組合に登録した料理長が一人要る。決まりだ」
「料理長は、これから探します」
律が言うと、登録係は初めて顔を上げた。
「あんたがやるんじゃないのか」
「私は冷たい料理と仕込みの担当です」
「女の料理長は前例がない。そもそもあんた、組合に入る手形がないだろう。どこで修業した」
律は口を開き、閉じた。
港町のフレンチで十四年。そう言ったところで、通じる相手ではない。
「霜の客なんだよ、この子は」
マルゴが代わりに言った。
登録係の顔から表情が消えた。それから、薄く笑った。
「なら、なおさらだ。霜の客は縁起が悪い。氷室から出てきた死人だろう」
マルゴの杖が床を叩いた。
律はその腕に手を添え、首を振った。
ここで揉めても、一枚も得にはならない。
建物を出ると、昼の光が目に刺さった。
「悪かったね。あそこはいつもああさ」
「料理長を探せば、いいんですよね」
律は言った。
「登録した料理長がいれば、店は開ける」
「そういうことだ。ただ、腕のいい奴はみんな宮廷か貴族の屋敷か、商会の店に抱えられてる。料理人に逃げられた店に来てくれる物好きは、そうはいないよ」
◇
物好きの噂は、思いがけないところから転がってきた。
市場の帰り、魚屋の女房がマルゴを呼び止めた。マルゴの昔なじみらしかった。
「冬至亭、料理人を探してるんだって?」
女房は声をひそめた。
「港の『錨と樽』って酒場に、変わった男がいるよ。宮廷の厨房を叩き出されたって話でさ。荷揚げ人相手に煮込みを出してる。それがまあ、腰を抜かすほど旨いんだ」
「宮廷を?」
マルゴが眉を上げた。
「何をやらかしたんだい」
「大膳頭さまに逆らったんだって。詳しいことは知らないよ。でも気が短くて、もう三軒の酒場を追い出されてるらしい。皿を投げるんだってさ」
女房は肩をすくめた。
「腕はいいけど、ありゃ雇うもんじゃないね」
律はその言葉を、頭の中の棚にしまった。
宮廷の厨房にいた料理人。腰を抜かすほど旨い煮込み。皿を投げる。
ラトリエ・ミナモにも、そういう料理人がいた。腕は一番で、口は最悪で、二年で辞めていった。辞めたあと、厨房の空気が少しだけぬるくなった。
◇
冬至亭へ戻る途中、小さな教会の前を通った。
石の階段の上に、白い衣の修道女が台を出していた。台の上には、手のひらほどの羊皮紙の札が積まれている。赤い蝋で封がしてあり、表に見慣れない紋が押されていた。
女たちが列を作って、それを買っていた。
一枚、銅貨五枚。卵十五個分だ。
「祓い札だよ」
マルゴが言った。
「夏腹除けさ。夏になると腹を下して、熱を出して、ひどいと干からびて死ぬ。とくに年寄りと子どもがね。悪い風に当たったとか、誰かの呪いだとか言われてる。それを札で祓うのさ」
律は列の後ろに並ぶ、赤ん坊を抱いた若い母親を見た。
母親は大事そうに札を胸元にしまい、その手で、屋台の串焼き肉を買った。串は前の客が食べ残したものと同じ桶に立ててあった。
律の口の中が、からからに乾いた。
「呪いじゃありません」
小さく言うと、マルゴが横目でこちらを見た。
「なら、なんだい」
「食べ物の扱い方です。手を洗わないこと。生の肉と火を通した肉を同じ皿に置くこと。古いものを古いと分からずに食べること。たぶん、ほとんどがそれです」
マルゴは何も言わなかった。
ただ、杖を握る手に少し力が入ったのが見えた。
「それを言うのは、店を立て直してからにしな。教会の前で言ったら、石が飛んでくるよ」
律は黙ってうなずいた。
祓い札の赤い封蝋が、夕方の光の中で血のように光っていた。
◇
その日の夕方、律は一人で港へ下りた。
マルゴの膝は、市場の往復でもう限界だった。
港は、塩樽通りよりもさらに騒がしかった。大きな平底船が何艘も岸に着けられ、男たちが掛け声とともに荷を担ぎ下ろしている。川の水は茶色く濁り、腐った藻と魚と汗の臭いが風に乗ってくる。
「錨と樽」は、桟橋の付け根にあった。
傾いた木造の二階建て。軒先に錆びた錨がぶら下がっている。扉は開け放たれていて、中から男たちの笑い声と、獣脂ろうそくの黒い煙が溢れていた。
それから、匂いがした。
律は足を止めた。
焦がした玉ねぎの甘さ。骨から煮出した脂の厚み。赤い葡萄酒が煮詰まって、角が取れていく匂い。ほんのわずかに、香草の青さ。
鼻の奥が、熱くなった。
これは、ちゃんとフォンを引いている。
骨を焼いて、香味野菜と一緒に何時間も煮出して、出汁を取っている人間の匂いだ。この国に来て二日、律が一度も嗅いでいなかった匂いだった。
律は扉をくぐった。
床は踏み固められた土で、こぼれたエールで黒く湿っている。長い卓には、日焼けした荷揚げ人たちが肩を寄せて座り、木の椀を抱え込んでいた。笑いながらも、誰ひとり匙を止めていなかった。
その瞬間、何かが頭の横をかすめて飛んでいった。
背後の柱に当たり、派手な音を立てて砕け散る。木の皿だった。肉と茶色いソースが、柱に放射状に貼りついている。
店の中が静まり返った。
奥の竈の前に、男が立っていた。
背が高い。袖をまくった腕に、細い火傷の跡がいくつも走っている。黒い髪を後ろで乱暴に束ね、前掛けはソースの染みで地図のようになっていた。
男の前で、身なりのいい商人風の男が尻もちをついていた。
「俺の鍋に、二度とその粉を入れるな」
男の声は、低く、よく響いた。
「粉のフォンを入れたら、俺の煮込みは死ぬ。何度言わせる」
「ば、馬鹿な。白秤の粉フォンは宮廷でも使ってる品だぞ」
「だから俺は宮廷を出たんだ」
男はもう一枚、皿を掴んだ。
律は反射的に、その皿を見た。
煮込みが盛られている。湯気が立っている。
投げられたら、もったいない。
それが、霜村律がオーギュスト・ラヴァルに抱いた、最初の感想だった。




