第二章 霜の客
「死んだんですね、私」
律がそう言うと、老女は眉ひとつ動かさずにうなずいた。
「たぶんね。冷たいところで死んだ者が、ここに落ちてくる。そういう言い伝えさ」
ランプの灯が、氷の塊に映って揺れている。
老女は石段の途中に腰を下ろした。膝が悪いのか、座るときに小さく舌を打った。灰色の毛織の上着に、洗いざらしの前掛け。皺の深い指に、真鍮の指輪がひとつ光っている。
「あたしはマルゴ。この宿の主だよ。あんたは」
「霜村律です」
「シモムラ・リツ。長いね。リツでいい」
言葉は通じていた。
律の耳に届くのは、知らない響きの言葉だった。それなのに意味だけが、頭の中にすっと落ちてくる。律が口を開くと、自分の舌も同じ響きを紡いでいた。
「霜の客は言葉に困らない。そういうものらしいよ」
マルゴは律の顔を覗き込んだ。
「体も若返るって話は本当だったんだねえ。あんた、いくつで死んだ」
「三十六です」
「今は二十二、三ってとこだ。仕事を始めたころの体に作り直されるんだと。神さまだか氷だか知らないが、気の利いたことをするもんだね」
律は自分の手をもう一度見た。
二十二歳。調理師学校を出て、初めて厨房に入った年だ。
◇
マルゴの話は短かった。
ここはファルネア王国の王都ソルベージュ。大河ラシュ川の水運で栄える都で、この宿は下町の塩樽通りにある。名を冬至亭という。
霜の客、と呼ばれる者がいる。
どこか別の世界の、冷たい場所で死んだ人間が、この国の氷室に落ちてくる。百年に数人。言葉は通じ、体は若い。
「帰った者は」
律が訊くと、マルゴは首を振った。
「聞いたことがないね」
それから少しだけ間を置いて、付け足した。
「十二年ばかり前にも、港の魚問屋の氷室に一人落ちたって噂があった。そいつがどうなったかは知らないよ。あたしが見つけたのは、あんたが初めてだ」
律は手帳を握りしめた。
帰れない。
あの店にも、あの港町にも。もう誰も、律の名前で棚卸しを待ってはいない。
不思議と涙は出なかった。
かわりに鼻が、ある匂いを拾った。
◇
腐敗臭だった。
甘く重い、鼻の奥に貼りつく臭い。肉が傷みはじめたときの臭いだ。それが氷室の奥の、木の扉の向こうから漂ってくる。
「あの扉は」
「食料庫だよ。氷室の隣が一番涼しいからね」
律は立ち上がった。
膝がよろけた。マルゴが眉を上げる。律は壁に手をついて体を支え、木の扉を押し開けた。
ランプを借りるまでもなかった。臭いがすべてを教えていた。
食料庫は六畳ほどの石の部屋だった。棚が三段。床には樽と麻袋。天井から燻製の腸詰めがぶら下がっている。
棚の上では、昨日の肉と今朝の肉が同じ皿に積まれていた。下の肉はもう灰色に変わり、端が粘ついている。玉ねぎの袋の隣に生の鶏が置かれ、鶏の汁が袋に染みていた。
樽には何も書かれていない。
塩漬けの豚が、いつ漬けられたのか誰にも分からない。
隅で、何かが走った。
鼠だ。
律の喉の奥で、音にならない声が鳴った。
「料理人が逃げてから、ずっとこのありさまさ」
マルゴが背後で言った。
「片づけようにも、あたしの膝じゃ棚の上まで届かない。宿の客には外の屋台で食えって言ってる」
律はもう、聞いていなかった。
◇
体が勝手に動いた。
まず棚を空にする。全部だ。床に麻布を広げ、肉と野菜と乾物を分けて並べる。
灰色に変わった肉は、匂いを嗅ぐまでもない。端を指で押して、戻らないものは捨てる側へ。鶏の汁を吸った玉ねぎの袋は、外側の皮を剥いて中を確かめる。中身が無事なら残す。
マルゴが何か言いかけ、口をつぐんだ。
律は井戸の場所を訊いた。
石段を上がると、そこは厨房だった。
煤で黒ずんだ石の竈が二つ。壁には銅鍋が吊るされているが、底に焦げがこびりついたままだ。作業台の上には、乾いたパン屑と、何日前のものか分からない骨が転がっている。
厨房の奥の戸口から、食堂が見えた。
長い木の卓が四つと、小さな卓がいくつか。椅子は全部、卓の上に逆さに上げられている。数えると二十八脚あった。窓の鎧戸は閉じられ、隙間から差す光の筋の中を埃が泳いでいた。
客のいない食堂は、音がしない。
律はその静けさを知っていた。ラトリエ・ミナモの最後の夜も、こうだった。
「二十八席」
思わず口に出すと、マルゴが後ろで答えた。
「満席になったのは、亭主が生きてたころだけさ」
律は答えなかった。二十八席。昼と夜に二回ずつ埋まれば、一日に百十二人。頭の中で、勝手に数字が回りはじめる。
裏庭の井戸から水を汲み、灰汁の入った桶を借りた。棚を一段ずつ洗う。木の継ぎ目に溜まった黒い汚れを、硬い刷毛でかき出す。
洗い終えた棚に、生の肉を一番下へ置く。
汁が垂れても、ほかの食べ物にかからないように。その上に野菜。一番上に、乾いたものと火を通したもの。
そして、古いものを手前に。
新しいものを奥に。
「そんな並べ方、初めて見たよ」
マルゴが言った。
「先に入れたものから、先に使うんです」
律は手を止めずに答えた。
「それだけで、捨てるものが減ります。腹を壊す人も減ります」
厨房では「先入れ先出し」と呼ぶ。言葉にすれば簡単なことだ。けれど忙しい厨房では、手前にあるものから掴んでしまう。新しいものを手前に置けば、古いものは奥で静かに腐っていく。
だから、並べ方で決めてしまう。人の注意に頼らない。仕組みに頼る。
「炭はありますか。それと、木の札を」
マルゴは黙って竈の灰の中から消し炭を一本拾い、薪の切れ端を何枚か寄越した。
律は木札に炭で書いた。
豚塩漬け。品名の下に、日付。
そこで手が止まった。
「今日は、何月何日ですか」
マルゴが目を瞬いた。
「若葉の月の、第二めぐり。土の日だよ」
めぐり、という言葉の意味が、頭に落ちてくる。この国では六日をひと巡りとして数えるらしい。
律は札に書いた。
若葉の月 第二めぐり 土の日。
それから、作業者の欄に一文字。
霜。
◇
一の鐘から始めた作業は、三の鐘が鳴るころまでかかった。
この国では一日を八つの鐘で区切る。一の鐘が夜明けで、三の鐘は昼の手前だ。そういうことも、マルゴの言葉の端々から少しずつ拾っていった。
棚には、木札のついた食材が並んでいた。
肉は肉、野菜は野菜。それぞれに日付と「霜」の字。捨てる側の麻布には、樽一つ分の傷んだ食べ物が積まれていた。
律は額の汗を袖で拭った。
二十二歳の体は、驚くほど軽かった。腰が痛くない。膝が鳴らない。
マルゴが、捨てる側の山を見下ろしていた。
「これだけ捨てりゃ、銅貨で二百枚にはなるね」
「食べたら、それ以上に高くつきます」
マルゴは鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。
「夏になると、この界隈じゃ毎年のように腹を下した子どもが死ぬ。みんな呪いのせいだって言うけどね」
律は灰色の肉の山を見た。呪いではない。たぶん、この並べ方のせいだ。
それから、上着の内側に手を入れた。
「あんた、どこで庫の番を習った」
取り出されたのは、鍵束だった。
真鍮の大きな輪に、古びた鍵が七本。どれも手のひらほどの長さがあり、頭の部分に蔦の模様が彫られている。輪の留め金に、小さな札がついていた。
札に、文字が刻まれている。
この国の字ではなかった。
律の世界の、律が毎日見ていた言葉の綴りだった。
Garde Manger。
◇
「ガルド・マンジェ」
律が声に出して読むと、マルゴの手が止まった。
鍵束が、かちりと鳴る。
「なんで霜の客が、その言葉を知ってる」
マルゴの声が低くなっていた。
「私の仕事の名前です」
律は札から目を離さずに言った。
「私のいた世界では、厨房の持ち場の一つをそう呼びます。冷たい料理と、食材の倉庫を守る持ち場です。肉や魚を捌いて、冷蔵庫の中身を全部把握する。何がいつ届いて、いつ使われたかを覚えておく」
言いながら、律は自分の声が少し震えているのに気づいた。
「前に出て、拍手される役じゃありません」
「言葉の意味は」
「守る、と、食べる。食べ物を守る者、です。もとはお城の冷えた食料庫そのものの名前だったと聞いています」
マルゴは長いあいだ黙っていた。
ランプの芯がじりじりと鳴った。
「この国でも、同じだよ」
やがてマルゴは言った。
「ガルド・マンジェは、王家の食料庫番の官職の名だ。王さまの口に入るものを受け入れて、確かめて、しまって書き残す役目さ。毒見の手配もした」
「官職」
「だった、だね」
マルゴは鍵束を指で撫でた。
「三十年前に廃された。最後の一人が、あたしだよ」
◇
律は言葉を失った。
マルゴはそれ以上、何も説明しなかった。鍵束を上着にしまい、捨てる側の山を顎でしゃくった。
「とにかく、これは裏の溝に出しておく」
「溝ではなく、埋めてください。鼠が増えます」
「……注文の多い客だね」
マルゴは立ち上がり、膝をさすった。
それから、思い出したように言った。
「ついでに教えておくよ。この宿は百日後に人手に渡る」
律は顔を上げた。
「白秤商会って食料商に、金貨三百枚の借りがある。死んだ亭主の代からの借りだ。公証人の前で交わした証文でね、期限は今日から百日目。払えなきゃ、宿も食堂も土地ごと商会のものになる」
金貨三百枚。
それがどれほどの額なのか、律にはまだ分からない。マルゴの口ぶりから、下町の食堂が一年かかっても稼げるかどうかの額だということだけは伝わった。
「料理人が逃げたのも、そのせいさ。沈む船には誰も乗りたがらない」
マルゴはそう言って、石段を上がりかけた。
律は手帳を開いた。
最後のページ。震えた字。
庫内マイナス十八度。在庫数一致。異常なし(扉以外)。霜村。
その字を見た瞬間、目の奥が熱くなった。
さっきは出なかった涙が、今になってぼろぼろと落ちた。手帳の紙に染みが広がる。律は慌てて手帳を閉じ、胸に押しつけた。
声は出なかった。
ただ、肩が勝手に震えた。
マルゴは石段の上で足を止めていた。振り返らなかった。急かしもしなかった。
氷の溶ける音が、ぽつり、ぽつりと鳴っていた。
◇
どれくらいそうしていたか分からない。
律が顔を上げると、マルゴはまだそこにいた。
「泣き終わったかい」
「……はい」
「なら、一つ取引をしよう」
マルゴは石段に腰を下ろし直した。
「百日でこの店を立て直せるなら、あんたをここに置いてやる。部屋と飯は出す。払えなかったら、そのときはそのときだ。あたしも宿を出る。あんたもどこかへ行けばいい」
律は手帳を握ったまま、首を振った。
「私は、料理人として半端です」
「半端?」
「冷たい料理と、仕込みと、在庫の管理しかできません。肉の火入れも、ソースも、人並みにはできます。でも、人並みです。お客さんを呼べる皿は作れません」
マルゴは鼻で笑った。
「誰があんたに鍋を振れって言った」
「でも」
「料理長は、あんたが探すんだよ」
マルゴは鍵束の入った胸を、拳で軽く叩いた。
「庫の番の仕事は、庫に何を入れるか決めることだ。人も同じさ。いい肉を見分けられるなら、いい料理人も見分けられるだろう」
律は棚を見た。
木札のついた食材が、日付順に並んでいる。手前が古く、奥が新しい。次に開けた誰かが、迷わず手に取れるように。
祖母の声がした。
ちゃんと並べておけば、次に開けた人に伝わるの。
律は袖で顔を拭いた。
「やります」
マルゴは片方の眉を上げた。
「ただし、条件があります」
「言ってごらん」
「この食料庫の鍵を、私に預けてください。それと、帳面を一冊」
マルゴはしばらく律を見ていた。
それから上着の内側に手を入れ、鍵束から一本だけ鍵を外した。食料庫の鍵だった。
「帳面は高いよ。紙はこの国じゃ贅沢品だ」
「では、板と炭でいいです」
「……ほんとに、注文の多い客だね」
マルゴは鍵を律の掌に置いた。
真鍮は、ひやりと冷たかった。
石段の上の扉の向こうから、通りの喧騒が聞こえてくる。荷車の軋み、誰かの怒鳴り声、窓から何かをぶちまける水音。
知らない世界の、知らない朝だった。それでも食料庫の匂いだけは、どこの世界でも同じだった。
律は鍵を握り込んだ。手の中の真鍮が、少しずつ体温を吸っていく。
残り、百日。




