第二十二章 ガルド・マンジェ
衛兵が、宮廷厨房から型を運んできた。
宴のあと、冷菜場と洗い場に残されていた陶器のテリーヌの型。それを一つ残らず、木箱に詰めて。
謁見の間の真ん中に、長い卓が一つ置かれた。
衛兵たちが、木箱から型を一つずつ取り出し、卓の上に並べていく。
律は、卓の端に立っていた。
「私は、宴の前に、型を四十八個作らせました」
律は言った。
「客は二百四十人。冷たい前菜は、一人に二切れ。合わせて四百八十切れ。型一つから、ちょうど十切れが取れます。だから、四十八個」
律は、玉座を見上げた。
「予備は作りませんでした。余れば、誰の口に入るか分からなくなるからです。四十八個の型に、一から四十八まで番号を焼き付けました。その数は、宴の前の晩の写しにも書いてあります」
ヨアキムが、紙の束から一枚を抜き出して掲げた。
宰相が、それを受け取って読んだ。
「テリーヌ型、四十八。番号一より四十八。収穫の月 第三めぐり 風の日、冷菜場にて検む。霜」
◇
型が、卓の上に並び終えた。
律は、一つずつ番号を読み上げた。
「一。二。三」
謁見の間に、律の声だけが響いた。
貴族たちが、息を詰めて卓を見ていた。王が。司教が。ルシールが。グリモーが。仁科が。
「十五。十六。十七」
律は、十七番の型を持ち上げた。
側面に焼き付けた黒い番号。
それを卓の上に置き直し、次の型を取った。
「十八。十九」
四十八まで、読み終えた。
卓の上には、四十八個の型が、番号の順に並んでいた。
それから、律は銀の盆を指差した。
グリモーが告発の証拠として差し出した、十七番の型。
「宴のあとで集めた型は、ここに四十八個あります」
律は、盆の上の型を手に取った。
「そして、これが四十九個目です」
◇
謁見の間が、大きくどよめいた。
律は、二つの十七番を、卓の上に並べた。
一つは、律が鍛冶場の炉で焼き付けた番号。
もう一つは、盆の上にあった型。
並べてみると、違いがはっきりと分かった。
律の焼き付けた数字は深く黒く、陶器の中まで焦げていた。盆の上の型の数字は、浅かった。黒い色が、表面にだけ乗っていた。
律は、盆の上の型の数字を、親指の腹で強くこすった。
指先が、黒く汚れた。
陶器の表面から、十七の字の端が、わずかに薄れていた。
「焼き付けたものではありません。煤と油で、上から描いたものです」
◇
「なら、どちらが本物の十七番だ」
宰相が言った。
「一つは、四の鐘に洗い場に戻ってきました」
律は、壁際を振り返った。
「ティム」
ティムが、びくりと肩を震わせた。
ナディアに背中を押されて、ティムは一歩前に出た。両腕に、木の板を抱えていた。宮廷の洗い場の流しの下に、ジャック爺さんが隠しておいてくれた勘定の板だった。
ティムの後ろに、白髪の老人が立っていた。ジャックだった。
「陛下の前で、話して」
律が言うと、ティムは板を胸に抱いたまま、玉座を見上げた。
足が震えていた。
「ぼ、僕は宮廷の洗い場で、型を洗いました」
ティムの声は、小さかった。
「型が一つ戻ってくるたびに、番号と戻ってきた鐘をこの板に書きました」
ティムは、板を差し出した。
宰相がそれを受け取ろうとして、手を止めた。
国王が、玉座から身を乗り出していた。
「余に見せよ」
衛兵が、板を玉座へ運んだ。
国王は、板を膝の上に置いた。
棒が四本と、斜めに一本。その塊が、並んでいる。その横に、拙い数字。
十七番、四の鐘。
貴族の一人が、壁際で小さく笑った。
「字もろくに読めなかった孤児の勘定を、陛下の御前で証しにするのか」
国王は、顔を上げなかった。
板の上の棒と斜線を、指で一つずつなぞっていた。
「……一から四十八まで。番号と鐘が、一つも抜けておらん」
国王の声は、低かった。
「宮廷の大膳寮の帳面より、よほど正しい勘定だ」
笑った貴族が、口をつぐんだ。
ティムが、ナディアのスカートの陰に半分隠れながら、真っ赤な顔をしていた。ジャックが、その肩に皺だらけの手を置いていた。
◇
「十七番の型は、四の鐘に洗い場に戻りました。中身は、豚と鴨の田舎風のテリーヌでした」
律は言った。
「王太后さまの皿に牡蠣のムースが出たのは、五の鐘です。そのとき、本物の十七番は、もう洗い場の棚の上にありました」
律は、壁際を見た。
「ナディアさん」
ナディアが、一歩前に出た。
服の内側から、小さく折りたたんだ紙を取り出した。
「宴の配膳表です。どの皿をどの給仕が、どの卓へ何の鐘に運んだか。宮廷の給仕四十人の分を、全部書きました」
ナディアは、紙を広げた。
その手は、少しも震えていなかった。
「五の鐘。大膳頭付きの給仕、マテオさん。銀の蓋の皿を一つ。厨房から上がった皿の一覧には、ございませんでした。王太后さまの卓へ。大膳頭さまよりの特別の一皿と、申されました」
ナディアは、顔を上げた。
「その皿は、冷菜場のパスを通っておりません」
◇
謁見の間の壁際で、誰かが膝から崩れ落ちた。
細い目の、若い給仕だった。
マテオは、床に両手をついて震えていた。
「お、俺は、運べと言われただけです」
マテオの声が、裏返った。
「大膳頭さまの小部屋で、商会の手代から銀の蓋の皿を二つと空の型を渡されて。一つは、宴の途中で大膳頭さまの卓の配膳台に置いて、隣の伯爵さまの卓にお出ししました。もう一つを、毎年のしきたりだから王太后さまにお出ししろと。型は、皿の脇に置いておけと」
マテオは、床に額を擦りつけた。
「手代は、冷菜の保冷庫の合鍵を持っていました。宴の前の晩に、中の札を見て、同じ札を書いていました」
律は、宴の三日前の夜を思い出していた。
鍵番の小部屋から受け取った鍵の歯に、白いものがついていた。燭台の蝋が垂れたのだと思って、前掛けで拭った。
あれは、燭台の蝋ではなかったのだ。鍵の形を写し取った、型の蝋だった。
グリモーが叫んだ。
「黙れ!」
その声が、謁見の間に虚しく響いた。
衛兵が二人、マテオの両脇に立った。
国王が、ゆっくりとグリモーを見た。
グリモーの顔から、血の気が引いていった。
◇
「それでも」
仁科の声が、静かに割って入った。
仁科は、表情を崩していなかった。
「型は描いたものかもしれません。給仕は大膳頭の命で運んだのかもしれません。ですが、その札は、霜の客のものです。同じ形、同じ色、同じ印。あの女の札を真似られる者は、冷菜場の中にしかおりません」
律は、盆の上の木札を手に取った。
木の札。端に、緑の色。
冷菜。十七。霜。
律は、札の全部を見た。
宴のあの夜、階段の上からは、そこまでしか見えなかった。
札の下の端に、もう一行あった。
小さな字で、日付が書いてあった。
9/14
◇
律は、札を高く掲げた。
「この札を、読んでください」
宰相が、札を受け取った。
目を細めて、読み上げようとした。
そこで、止まった。
「……冷菜。十七。霜。それと、これは」
宰相は、札の端を指でなぞった。
「数字と、斜めの線だ。何のしるしだ、これは」
律は、卓の上に並んだ四十八の型を見た。
その脇には、律の木札が一枚ずつ添えられていた。宴の前の日に、律が書いたものだ。
「こちらが、私の札です」
律は、十八番の型の札を宰相に渡した。
宰相は、読み上げた。
「収穫の月 第三めぐり 風の日 二の鐘。冷菜。霜。十八」
宰相は、二枚の札を並べて見比べた。
色は同じ。形も同じ。冷菜の字も、霜の印も、似せてある。
日付だけが、違った。
「私は、この国の書き方で日付を書きます」
律は言った。
「月の名前とめぐりと、曜日と鐘で。冬至亭の者が誰でも読めるように。宮廷の厨房の皆さんが、誰でも読めるように。この国に来て最初の月に、そう決めました」
律は、ティムを見た。
一めぐりは六日だよ。七つ目の色は、いつ使うの。
あの夜ティムがそう言わなければ、律は今でも自分の世界の書き方で日付を書いていたかもしれない。
「この国で、数字と斜めの線で日付を書く者は、一つの場所にしかいません」
◇
レオンが、前に出た。
懐から、紙の束を取り出した。
白秤商会の倉庫で押さえた、出荷票の束だった。
宰相の前の台の上に、一枚ずつ並べていく。
日付の欄。
4/17。6/9。8/22。9/11。
どれも、数字と、斜めの線だった。
「王都で、この書き方を使うのは、白秤商会だけだ」
レオンは言った。
「会頭が、自分で決めた書き方だと聞いている。七日を一週とし、月も日も数字で書く。商会の手代は、全員がそう仕込まれている」
レオンは、偽の札を指差した。
「この札を書いた者は、霜の客の札を真似た。色も、形も、印も。だが日付だけは、いつもの癖で書いてしまった」
謁見の間の全員の目が、ゆっくりと、一人の男に向いた。
紺の上着。銀の秤の留め具。
仁科恭平は、長いあいだ、二枚の札を見つめていた。
◇
「……セルジュの癖だ」
仁科は、低く言った。
「あいつは、何でもそう書く。何度言っても、直らなかった」
仁科は、ふっと息を吐いた。
それから、律を見た。
穏やかな顔ではなかった。笑ってもいなかった。
「この国の人間は、記録より身分を信じる」
仁科の声は、静かだった。
「帳面一冊で、国の台所は回らない。字の読めない人間が十人に九人いる国で、日付だの番号だの、誰が気にする。俺は、数で何千人を食わせた。君の六色の札は、何人を食わせた」
律は、仁科を見つめ返した。
「数は大事です」
律は言った。
「私も、毎日数えています。今日、ここで型を数えたように」
律は、卓の上の四十八の型を見た。
「でも、あなたの数には、食べる人の名前がない」
謁見の間が、静かになった。
「誰の口に入るのか、書いていない。だから、古い牡蠣の日付を書き換えても平気でいられる。食べるのは、帳面の外の誰かだから」
律は、ティムの板を見た。ナディアの配膳表を。ヨアキムの写しを。
「記録は、自分を守るために書くんじゃありません」
律の声が、謁見の間に響いた。
「次にその皿を受け取る人へ、渡す手紙です」
◇
仁科は、何も言わなかった。
律は、一歩、仁科のほうへ近づいた。
それから、日本の言葉で言った。
この国の誰にも、意味の分からない言葉で。
「ラトリエ・ミナモの牡蠣も、あなたが日付を書き換えましたね」
仁科の肩が、わずかに動いた。
謁見の間の誰もが、その響きに首をかしげていた。異界の言葉。霜の客の言葉。
仁科だけが、その意味を知っていた。
長い沈黙があった。
窓から差し込む秋の光の中を、埃がゆっくりと漂っていた。
仁科は、目を閉じた。
開いた。
そして、日本の言葉で答えた。
「……ああ」
その声は、乾いていた。
「君の温度記録も、俺が消した。君の手帳は、店の裏の焼却炉で燃やした」
律は、目を閉じなかった。
まっすぐに、仁科を見ていた。
仁科は、自分の手のひらを見下ろしていた。
「冷凍庫のレバーも、七回、俺が却下した」
それから、仁科は顔を上げた。
この国の言葉に戻って、言った。
「陛下。今、この霜の客に問われたのは、我らの故郷での話でございます。わたくしは、この者に罪を着せました。この者に罪は、ございませんでした」
◇
謁見の間の隅で、書記が羽ペンを止めていた。
若い書記だった。異界の言葉を、どう書けばいいのか分からずにいた。
書記は、宰相を見た。宰相は、国王を見た。
国王は、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「書け」
書記が、顔を上げた。
「異界のことであっても、この場で語られた真実は、この国の記録に残す。それが、記録というものだろう」
国王は、律を見た。
書記の羽ペンが、羊皮紙の上を走った。
霜村律に、異界における罪なし。
律の目の奥が、熱くなった。
ずっと、どこかに書かれたかった一行だった。
日本では、誰も書いてくれなかった。もう、どこにも残っていないはずの一行だった。
それが今、別の世界の、王の記録に書かれた。
◇
判決は、その日のうちに言い渡された。
国王が玉座から立ち上がり、謁見の間の全員が膝をついた。
「大膳頭グリモー。白秤商会と通じて傷んだ品を宮廷に入れ、王太后と隣の卓の客の皿に盛らせた。また、宮廷の帳面を焼いた。その職を解き、獄に下す」
グリモーが、衛兵に両腕を取られて引きずられていった。金の鎖が、床の上で鳴った。
「白秤商会手代セルジュ。偽りの札を書き、傷んだ品を宴に持ち込んだ。捕らえ次第、獄に下す」
それから、国王は仁科を見た。
「白秤商会会頭ニシナ。商会の品の日付を偽らせ、宮廷の宴を汚し、王太后の命を危うくした。王族の命を脅かした罪は、本来なら死をもって償うべきものだ」
謁見の間が、静まり返った。
「だが、王太后は命を取り留めた。そして、この者は自ら罪を認めた」
国王は、一度だけ律を見た。
「商会は解き、その財は国庫に収める。ニシナは、北の塩鉱へ送る。冬至の朝に」
仁科は、膝をついたまま、深く頭を下げた。
その顔は、律からは見えなかった。
◇
衛兵が、冬至亭の者たちの縄を解いた。
オーギュストが、手首をさすりながら律の隣に来た。ミラが、泣きながらナディアに抱きついていた。ベルナールは、黙ってリュックの肩を叩いていた。
国王が、もう一度、玉座から言った。
「霜村律」
律は、顔を上げた。
「余は今日、三十年前に廃した王家のガルド・マンジェの官職を、元に戻す」
謁見の間が、ざわめいた。
「宮廷の食料を、宮廷の手で確かめる者を置く。帳面は二つ作り、一つは神の家に預ける。この国の、古い掟のとおりに」
国王は、律をまっすぐに見下ろした。
「その官職に、そなたを任じたい。鍵束を、受け取ってくれるか」
律は、しばらく黙っていた。
それから、深く一礼した。
「陛下。その鍵束は、私の師が持っています」
国王の眉が、わずかに上がった。
「三十年前に、最後の王家のガルド・マンジェだった人です。私は、その人から食料庫の鍵を一本、預かっているだけです」
国王は、長いあいだ律を見ていた。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「……では、答えを待とう」
◇
謁見の間を出たとき、廊下の向こうから、誰かが走ってきた。
宮廷の衛兵に止められながら、それを振り切って。
ミラの父の、粉屋のハンスだった。粉まみれの前掛けのまま、息を切らしていた。
「リツさん」
ハンスは、律の前で膝に手をついた。
「冬至亭へ、すぐに。マルゴさんが」
律の手の中で、何かが冷たくなった。
上着の内側の、食料庫の鍵だった。




