第二十三章 冬至
冬至の朝、北の塩鉱へ向かう護送車が、王都の北の門の前に停まっていた。
鉄の格子をはめた、黒い箱馬車だった。御者台に衛兵が二人。馬の鼻から、白い息が立ちのぼっていた。
律は、門の脇の石畳の上に立っていた。
両手に、布で包んだ小さな包みを抱えて。
◇
審問から、ひと月と少しが過ぎていた。
あの日、粉屋のハンスに呼ばれて冬至亭へ走った律を、マルゴは寝台の上で待っていた。
顔は紙のように白かった。咳をするたびに、肩が大きく揺れた。
それでもマルゴは、律の顔を見るなり言った。
「宴が終わるまでは死なないって、言ったろう」
それから、ハンスが店先で聞いてきた審問の話を、律の口からもう一度全部聞きたがった。四十九個目の型。ティムの板。ナディアの配膳表。数字と斜めの線の札。
律が話し終えると、マルゴは天井を見上げて、長いあいだ黙っていた。
「三十年かかったね」
それだけ言って、目を閉じた。
その口元が、笑っていた。
それからマルゴは、よく眠るようになった。起きている時間は、日ごとに短くなっていった。それでも、冬至亭の厨房の音が聞こえると、目を開けた。竈の火の爆ぜる音。ティムが皿を重ねる音。オーギュストの怒鳴り声。
「うるさい店だね」
そう言って、また眠った。
国王への答えを、律はまだ返していなかった。
◇
北の門の内側から、衛兵に両脇を挟まれて、一人の男が歩いてきた。
紺の上着は、もう着ていなかった。粗い灰色の毛織の囚人服。銀の秤の留め具もない。手首には、鉄の枷がはめられていた。
仁科恭平は、律の姿を見て、足を止めた。
衛兵が背中を押そうとした。律は、衛兵に一礼した。
「少しだけ、お時間をください」
衛兵は顔を見合わせ、それから一歩下がった。
◇
律は、布の包みを差し出した。
「賄いです」
仁科は、枷のはまった手で包みを受け取った。
包みの結び目に、木札が一枚、紐で括りつけてあった。
冬至亭の、六色の札。
陽の日の、黄色い札だった。
ニシナ様。霜の月 第五めぐり 陽の日 一の鐘。本日中にお召し上がりください。冬至亭。霜。
仁科は、その札をしばらく見ていた。
この国の書き方の、日付を。
「……中身は」
「テリーヌです。豚の田舎風。それと、ギュスの煮込みと、ミラのパン」
仁科は、包みの重さを確かめるように、少しだけ持ち上げた。
「料理長は、毒でも入れてないだろうな」
「入れようとしたので、止めました」
仁科は、ふっと笑った。
声は出さなかった。息だけで笑った。
◇
護送車の馬が、蹄で石畳を叩いた。
仁科は、包みを胸に抱えたまま、律を見た。
「霜村さん」
「はい」
「向こうに、帰りたいと思ったことはあるかい」
律は、少し考えた。
「ありません」
正直な答えだった。
「帰る扉は、一方にしか開かないそうです。百五十年前の霜の客が、そう書き残していました」
「そうか」
仁科は、北の空を見上げた。灰色の雲が、低く垂れこめていた。
「俺は、ずっと帰りたかった」
仁科の声は、静かだった。
「十二年、ずっとだ。この国で何を作っても、何を握っても、帰りたかった。帰って、あの店をやり直したかった。俺の洋食屋だ。三年で潰れた」
仁科は、包みの黄色い札を指で撫でた。
「君は、ここで店を持った」
律は、何も言わなかった。
仁科は、護送車のほうへ一歩踏み出した。
それから、振り返った。
「冷凍庫の扉」
律は、仁科を見た。
「直しとけよ」
律は、静かに答えた。
「あなたが、直さなかった扉です」
仁科は、しばらく律を見ていた。
それから、小さくうなずいた。
「……そうだな」
仁科は、衛兵に背中を押されて、護送車に乗り込んだ。
鉄の格子の扉が閉まった。
かちり、と軽い音がした。
律は、その音を聞いても、もう震えなかった。
護送車は北の門をくぐり、灰色の雲の下の街道へゆっくりと遠ざかっていった。
律は、それが見えなくなるまで、門の脇に立っていた。
◇
昼過ぎ、冬至亭の扉を、灰色の頭巾が叩いた。
ナディアが、迷わず窓際の一番明るい卓を空けた。けれど頭巾の娘は、卓には座らなかった。
「マルゴさんに、お会いできるかしら」
ルシールは、小さな陶器の壺を両手に抱えていた。
「お祖母さまから。宮廷の庭の蜂の巣から採った蜂蜜よ。塩と蜂蜜の水の、お礼だって」
律は、ルシールを二階のマルゴの部屋へ案内した。
マルゴは、目を覚ましていた。頭巾を下ろしたルシールの顔を見て、しばらく黙っていた。
それから、寝台の上で、ゆっくりと頭を下げようとした。
ルシールが、慌ててその肩を押さえた。
「お祖母さまが、言っていたわ」
ルシールは、マルゴの手を取った。
「三十年前の宴のことを、ずっと覚えていたって。あのとき、牡蠣を返した庫の番がいたことを。その人の言うことを、誰も聞かなかったことを。お祖母さまも、その一人だったって」
マルゴの目が、わずかに見開かれた。
「ごめんなさい、と伝えてほしいと」
マルゴは、長いあいだ天井を見ていた。
それから、かすれた声で言った。
「……蜂蜜は、ありがたくいただくよ。王太后さまに、そうお伝えしておくれ」
ルシールが帰ったあとで、マルゴは律に壺を渡した。
「今夜の賄いに、使いな」
◇
冬至の夜は、一年でいちばん長い。
冬至亭は、いつもより早く店を閉めた。
宿の泊まり客が二階の部屋に引き上げると、ベルナールが表の扉に閂をかけた。食堂の椅子を、卓の上に一つずつ上げていく。片腕で、黙って。
それが、ベルナールの一日の終わりの仕事だった。
ナディアは、帳場で予約の帳面を閉じた。明日の客の名前を、もう一度だけ指でなぞってから。
ミラは、翌朝のパンのための粉を、天秤で量っていた。麦三粒の狂いもなく。
ヨアキムは、厨房の隅の卓で、今日の庫帳の写しを作っていた。羽ペンの擦れる音が、規則正しく続いていた。
ティムは、洗い場で最後の皿を拭いていた。拭き終わると、勘定の板に棒を一本引いた。ポワンが、排水溝の格子の上で、満足そうにぷるぷると震えていた。
オーギュストは、竈の火を少しだけ残して、小さな鍋でスープを温めていた。仔羊の骨から引いたフォンに、冬の根菜を溶かしたスープ。賄いの鍋だった。
律は、食料庫の棚卸しを終えて、石段を上がってきた。
それぞれの持ち場の、それぞれの締めの仕事。
全部が終わってから、全員で、厨房の竈のそばに集まった。
◇
竈のいちばん近くに、寝台が一つ置いてあった。
マルゴの寝台だった。
夕方、マルゴが言ったのだ。
「今夜は、厨房で寝たいね」
ベルナールが二階から寝台ごと運び下ろし、竈のそばに据えた。ナディアが毛布を三枚重ね、ミラが温めた石を布で包んで足元に入れた。
マルゴは、枕を背にして、厨房を眺めていた。
竈の火。吊るされた銅鍋。作業台の上に並んだ、明日の仕込み表。洗い場の勘定の板。壁の役割表。
「いい厨房だね」
マルゴは言った。
かすれた声だった。
「あたしの宿の厨房が、こんなにうるさくなるとは思わなかったよ」
オーギュストが、スープを椀に注いで差し出した。マルゴは一匙だけすすり、目を細めた。
「……泡を、ちゃんとすくってるね」
「当たり前だ」
オーギュストは、そっぽを向いた。その目が、赤かった。
ミラが、焼きたての白パンを薄く切り、王太后の蜂蜜をひと匙ずつ垂らして皿に並べた。ティムが、それをみんなに配って回った。ヨアキムには、水の杯と一緒に。
マルゴは、パンの端を少しだけかじった。
「甘いね」
マルゴは、目を細めた。
「宮廷の蜂は、いいものを食べてるんだね」
ベルナールが、珍しく声を出して笑った。つられて、全員が少しだけ笑った。
◇
マルゴは、律を手招きした。
律は、寝台の脇に膝をついた。
マルゴは、毛布の中から、骨ばった手を出した。
その手に、真鍮の鍵束が握られていた。
大きな輪に、古びた鍵が六本。七本目は、律がずっと預かっている食料庫の鍵だ。留め金の札に、刻まれた文字。
Garde Manger。
マルゴは、鍵束を律の手のひらに置いた。
重かった。
真鍮は、マルゴの体温を吸って、温かかった。
「三十年、誰にも渡せなかった」
マルゴは言った。
「宮廷を出されたときも、これだけは返さなかった。返したら、全部なかったことになる気がしてね」
マルゴは、律の手の上に、自分の手を重ねた。
「でもね、持ってるだけの番人は、番人じゃないよ」
マルゴの指に、少しだけ力がこもった。
「鍵は、開けるためにあるんだ。次の誰かのために庫を開けて、閉めて、また開ける。そのためにある」
律は、鍵束を握りしめた。
「王さまの話、受けな」
マルゴは言った。
「ただし、あんたのやり方でね。一人で鍵を握りしめるんじゃない。あんたがこの店でやったみたいに、みんなに渡すんだ。あんたが倒れても、次の誰かが開けられるように」
律は、うなずいた。
声が、出なかった。
◇
マルゴは、しばらく目を閉じていた。
厨房に、竈の火の爆ぜる音だけが響いていた。
やがて、マルゴは目を開けた。
「リツ。最後に、一つ頼みがある」
「はい」
「氷室に、連れてっておくれ」
律は、マルゴの顔を見た。
マルゴは、少しいたずらっぽく笑っていた。
「冷たいところで死んだら、向こうに落ちるんだろう。あんたの国に」
律の喉の奥で、何かが詰まった。
「あたしも、見てみたいんだよ。あんたの国の、冷蔵庫ってやつを。中に、家の手紙が入ってるっていう」
律は、泣きながら笑った。
何と答えればいいのか、分からなかった。
ただ、マルゴの手を握った。
「……扉は、内側からも開くようにしておきます」
マルゴは、満足そうにうなずいた。
◇
ベルナールが、マルゴを毛布ごと抱き上げた。
片腕で。驚くほど、そっと。
律がランプを持って先に立ち、石段を下りた。後ろから、全員がついてきた。
氷室の扉を開けると、冷たい空気が足元に流れた。
石の壁。石の床。藁に包まれた、四角い氷の塊。高いところの、小さな格子窓。
律がこの国に落ちてきた場所だった。
ベルナールは、氷の塊のそばに積んだ藁の上に、マルゴを下ろした。
律は、その隣に座った。マルゴの頭を、自分の膝の上にのせた。
みんなが、氷室の入口に並んで立っていた。
ランプの灯りが、氷の表面に映って揺れていた。
「冷たいね」
マルゴが言った。
「冷たいです」
律が答えた。
マルゴは、律の顔を見上げた。
「あんたが最初に落ちてきた朝も、こんなふうに泣いてたね」
「……覚えていたんですか」
「あたしは庫の番だよ。何でも覚えてるさ」
マルゴの手が、律の頬に触れた。
冷たい指だった。
「いい店にしたね、ガルド・マンジェ」
マルゴの指が、ゆっくりと律の頬から離れた。
まぶたが、閉じた。
息が、一つ、長く吐き出された。
それから、もう吸われなかった。
◇
氷室は、静かだった。
光は差さなかった。扉も開かなかった。
格子窓の向こうで、冬至の長い夜が、ただ続いていた。
氷の溶ける音が、ぽつり、ぽつりと鳴っていた。
律がこの国に落ちてきた朝と、同じ音だった。
何も起きなかった。
律は、それでいいと思った。
マルゴは、どこにも落ちていかなかった。自分の宿の氷室で、自分の店の人間に囲まれて眠ったのだ。
入口で、ミラが声を上げて泣いていた。ナディアが、その肩を抱いていた。ティムは、ポワンを胸に抱きしめて、唇を噛んでいた。ベルナールは、壁に額を押し当てていた。ヨアキムは、小さな声で祈りの言葉を唱えていた。
オーギュストが、律の隣に来て、膝をついた。
何も言わなかった。
ただ、律の肩に、自分の前掛けをかけた。
◇
夜更けに、律は厨房に戻った。
作業台の上に、冬至亭の庫帳を開いた。
今日の頁。食料庫の棚卸しの数。検品の記録。廃棄の記録。
その一番下に、律は一行を書き足した。
霜の月 第五めぐり 陽の日 八の鐘。
マルグリット・ヴェルネ。庫の番を終える。
それから、少しだけ迷って、続けた。
異常なし。
霜。
ヨアキムが、その頁を黙って見ていた。
それからいつものように羽ペンを取り、写しの紙に同じ一行を一字ずつ書き写した。
明日の朝、それは丘を登り、灰岩修道院の受付簿に番号をもらう。
百五十年分の帳面の隣に、マルゴの名前が残る。
律は、上着の内側に手を入れた。
真鍮の鍵束が、そこにあった。
もう、マルゴの体温は残っていなかった。冷たかった。
律は、その冷たさを、手のひらでいつまでも握っていた。




