第八話 営業妨害です
翌朝、店の前に石像が立っていた。
比喩ではない。少なくとも、小路を通る人たちにとっては比喩ではなかったと思う。
月見草の鉢から三歩離れたところに、濃紺の外套が、背筋を伸ばして立っている。腕は後ろで組まれ、視線はまっすぐ小路の先に向けられ、まばたきの回数まで少なく見えた。朝の光を背中に受けて、輪郭だけがやけにくっきりしている。
わたしは如雨露を持ったまま、戸口で固まった。
「……おはようございます」
「おはよう」
「何か、ご用ですか」
「警備だ」
それきりだった。
わたしは月見草に水をやった。今朝は声をかけなかった。三歩先に人が立っているところで、花に「おはよう」は言えない。
月見草は、なんとなく寂しそうに見えた。
開店して半刻で、異変ははっきりした。
客が来ない。
正確には、来るのだけれど、入ってこない。小路の角まで来た常連のおかみさんが、店の前の人影を見て、くるりと引き返していく。薬を取りに来た荷運びの若い人は、三度、店の前を往復して、四度目にようやく決死の顔で扉を開けた。
「あ、あの、腹下しの……」
「はい。いつものですね」
薬を包むあいだも、若い人の目は窓の外に釘付けだった。
「外の人、なんかあったんすか」
「……警備、だそうです」
「この店、何か出たんすか」
出たのは、たぶん、あの人だ。
昼過ぎ、パン屋のおかみさんが勝手口のほうから回り込んできた。
「エルナちゃん、あんた何したの」
「何もしてません」
「何もしてない子の店の前に、石像団長が立つもんかね」
「わたしが聞きたいです」
おかみさんはパンを置いて、気の毒そうにわたしの肩を叩いて帰っていった。勝手口から。
わたしはカウンターの中で、ひとつずつ考えた。
監査に合格した店の前に、どうして団長本人が立つのか。名前を言わなかったから、まだ疑われているのか。それとも、常備薬を任せる店に、悪い客が出入りしていないか見張っているのか。
「わたし、疑われてる……?」
口に出すと、ますますそんな気がしてきた。
困ったことは、もうひとつあった。
胸元の語り灯が、朝からずっと、淡くともっている。
ささめが起きているのだ。昼なのに。しかも硝子の内側に顔をぺったりと押しつけて、店の外のほうばかり見ている。毛を膨らませ、短い前足で硝子をかりかりと掻いて、外に出たそうにしている。
窓の向こうには、濃紺の外套しかない。
外套の留め具が、日の光できらりと光った。
……鎧の金属が好きなのかな。
精霊が金物を好むという話は聞いたことがないけれど、ささめは百年以上生きている変わり者だ。何を好きになってもおかしくない。わたしは灯りを手のひらで包んで、店の奥の、外から見えないところに背中を向けて座った。
灯りはそれでも、手のひらの中でほんのり温かかった。
昼を回った頃、階段の軋む音がした。
師匠が、片手に杖、片手に湯気の立つ茶碗を持って下りてくる。そのまま、わたしの前を素通りして、扉を開けた。
「師匠?」
返事はない。師匠は店の前に出ると、軒下の丸椅子を杖の先で引き寄せ、石像の横にとんと置いた。茶碗を差し出す。
「ペパーミントだよ。立ちっぱなしじゃ足が石になる」
団長は茶碗を見て、師匠を見た。
「……感謝する」
「座りな」
「警備中だ」
「じゃあ立って飲みな」
団長は立ったまま、茶碗を受け取った。大きな手の中で、うちの茶碗が子ども用みたいに見えた。
師匠は満足そうにうなずいて、店に戻ってきた。わたしと目が合うと、にんまり笑う。
「なにしてるんですか」
「年寄りの親切だよ」
師匠はそのまま二階へ上がっていった。窓の外では、石像がペパーミントを一口すすっていた。
二日目も、石像は立っていた。
ただ、立つ時刻が違った。初日は朝から昼まで。二日目は昼過ぎから夕方まで。毎日決まった時間に来るのではなく、その日によってずれるらしい。
客は相変わらず、半分しか入ってこなかった。
時計塔の鐘つきの子、ハンネスくんが、配達の帰りに小路を走り抜けようとして、外套の前でぴたりと止まった。団長を見上げ、わたしの店を見て、もう一度団長を見上げる。それから「うわあ」と小さく言って、ものすごい速さで走っていった。
今夜の鐘守の時間で、あの子が何を言うのか、少しだけ怖かった。
代わりに、夕方の酔っ払いが来なくなった。いつもは日暮れ前から小路の角で管を巻いて、勝手口の前で用を足そうとする人たちだ。二日目の夕方、その一人が角まで来て、外套を見るなり回れ右をした。
三日目の昼には、小路で財布をすられた人が出た。
すった少年は、店の前を走り抜けようとして、外套の袖に首根っこをつかまれていた。団長は少年を地面に下ろし、財布を持ち主に返し、少年に何か短く言った。少年は真っ青になって、それから、なぜか泣きながら頭を下げて走っていった。
石像は、また元の場所に戻った。
わたしは窓から、そのすべてを見ていた。
……それでも、営業妨害は営業妨害だ。
三日目の夕方、わたしは腕を組んで、店の外へ出た。
西日が小路を橙色に染めている。団長の影が、石畳の上に長く伸びていた。
「団長さん」
「何だ」
「営業妨害です」
言ってしまった。
団長は、ほんの少しだけ首をかしげた。動いたのはそれだけだった。
「警備だ」
「何の警備ですか。この小路には、盗られて困るようなものは何もありません」
「酔漢が減った。すりも捕まえた」
「お客さんも減りました」
団長は黙った。
西日が、その顔を真横から照らしていた。近くで見るのは初めてだった。
目の下に、薄いクマがある。
表情は読めなくても、体のことなら読める。三日で、少なくとも二晩はろくに眠っていない人の顔色だった。唇の端も乾いている。
――眠れていますか。
喉元まで出かかった言葉を、わたしは呑み込んだ。今は抗議をしに来たのだ。
「三日で、半分です。常連さんが角で引き返していくんです。うちは、人に来てもらわないと薬を渡せない店なんです」
言いながら、自分の眉が片方だけ上がっていくのが分かった。昔からの癖だ。怒ると、右の眉だけが勝手に上がる。師匠には「器用だねえ」と笑われる。
団長が、わたしを見ていた。
顔ではない。もう少し上だ。
……眉?
じっと、まっすぐに、わたしの右の眉を見ている。何かを確かめるみたいに。覚えておこうとするみたいに。
「……何見てるんですか」
「…………」
団長は、ゆっくり視線を下ろした。
「失礼した」
声は、石のままだった。
「場所を移す」
「移すって」
団長は外套を翻すと、小路を横切った。そして、ちょうど向かいの家の軒下で、くるりとこちらを向いて、また背筋を伸ばして立った。
わたしは店の中に戻って、窓の外を見た。
窓枠のちょうど真ん中に、濃紺の外套が収まっていた。額縁に入れた肖像画みたいに。
さっきより、目立っている。
「……移した、んですか、それ」
誰に言うでもなくつぶやいたら、二階から、師匠が床を杖で叩く音がした。今日はもう、笑い声を隠す気もないらしかった。
日が沈む頃、扉の鈴が鳴った。
「薬師さん!」
ティモさんだった。肩の包帯は取れて、顔色もいい。療養を終えて、今日から昼の勤めに戻ったのだという。
「傷、見せてください」
「もうふさがってますよ、ほら」
確かめると、腫れは引き、擦り傷にはきれいな薄皮が張っていた。熱もない。
「よかった。でも、夜警は、あと三日待ってください」
「はい。団長にも同じこと言われました」
ティモさんは、ぴかぴかした顔で笑った。この子の笑い方は、もう下手ではなかった。
「団長のおかげで、ちゃんと治りました。僕の夜番、全部代わってくれたんですよ。昼もずっと何か用事があるみたいで、いつ寝てるんだろうって、みんな言ってて」
「……そうですか」
「あ、馬にはまだ乗ってません。ほんとに」
聞いてもいないのに、ティモさんは言った。言ってから、目が泳いだ。
「乗るのが怖いわけじゃないですよ? 薬師さんに止められてるから乗らないだけで」
「十日経ったら、乗っていいですよ」
「…………はい」
返事が、ずいぶん小さかった。
ティモさんが帰ったあと、わたしは窓の外を見た。
向かいの軒下には、もう誰もいなかった。夕闇の中に、軒先の小さなランプがひとつ揺れているだけだ。
わたしは何となく、自分の右の眉に指先で触れた。
……何か、付いてたのかな。
指先には、何も付いてこなかった。




