第七話 君の調合は正確だ。以上
乳鉢の底で、乾いたセージが細かく砕けていく。
ごり、ごり、と規則正しい音。窓から差す朝の光の中で、緑の粉がかすかに舞った。喉の薬を頼んでいった鍛冶屋の奥さんの分だ。乾かしたエルダーフラワーを少し混ぜれば、熱の出はじめにも効くと言われている。
扉の鈴が、重たく鳴った。
顔を上げなくても分かった。店の中が、また暗くなったからだ。
「……いらっしゃいませ」
「邪魔をする」
石像団長は、昨日までと同じ外套で、同じ顔で、戸口をくぐってきた。今日は木箱を抱えていない。わたしはそれだけで、少し肩の力が抜けた。
「ご注文でしたら、昨日、副団長さんからいただきました」
「それとは別の話だ」
団長はカウンターの前に立って、わたしの手元に目を落とした。
「詰所の常備薬を、この店から定期的に買いたい。月に一度、品目と数をこちらで書き出して届ける。足りないもの、余計なものがあれば、薬師殿の判断で直してほしい」
わたしは乳棒を持つ手を止めた。
「……わたしの判断で、ですか」
「薬のことは、薬師殿のほうが正しい」
当たり前のことを言うような口調だった。
当たり前のことなのだけれど、騎士の人から、それも団長と呼ばれる人から、そう言われたのは初めてだった。騎士団の人たちはたいてい、欲しいものを欲しい数だけ言って、それ以外は聞かない。
「署名のない注文は受けないでくれ。隠れて痛み止めを買いに来る者がいたら、追い返して構わない」
「追い返したら、傷が隠れたままになります」
「では、手当てをしてから追い返してくれ」
わたしは、思わず団長の顔を見た。
相変わらず何も読めない。冗談なのか本気なのかも分からない。たぶん、本気なのだと思う。この人が冗談を言うところは、あまり想像できなかった。
「……承りました」
「感謝する」
団長は梁のほうへ、ほんの少しだけ目を上げた。逆さに吊るしたラベンダーの束が、まだ揺れている。
「あの花は、使えるか」
「上物でしたから。乾いたら、夜の勝手口の分に回します」
「勝手口」
「夜に来る人のための薬です。お代はいただいていません」
団長は、それきり何も言わなかった。耳の先が、また少し赤かった。今日もよく晴れている。
用件は済んだはずだった。
なのに、団長は帰らなかった。カウンターの前に立ったまま、わたしの手元をじっと見ている。
仕方がないので、わたしは調合の続きに戻った。セージを砕き、エルダーフラワーをひとつまみ、指先で量を確かめて、乳鉢に落とす。蜂蜜を少し垂らして練る。
視線が重い。
背中にも、うなじにも、指先にも、石の重さが乗っているようだった。ほかの人に見られて調合するのは慣れている。でも、この人の視線は、何を見ているのかがまったく分からない。分からないから、どこまでも見られている気がする。
手が、わずかに震えそうになった。
わたしは息を吸って、いつもより丁寧に練った。
ここで量を誤ったら、この人の目の前で、わたしの何かが崩れてしまう気がした。
胸元で、語り灯がことりと鳴った。
――また?
視線を落とさなくても分かる。硝子の中に、淡い黄の光がにじみはじめている。ささめが、起きている。
わたしは乳鉢から手を離さないまま、体の向きを少しずらした。団長の視線から、灯りが外れる角度に。それから、練り終えた薬を小さな壺に移して、蓋をした。
団長が、口を開いた。
「君の調合は正確だ」
……え。
わたしが顔を上げるのと、団長が背を向けるのが同時だった。
「以上だ」
扉の鈴が鳴った。
朝の光が戻ってくる。わたしは、蓋を押さえた手のまま、しばらく動けなかった。
胸元の灯りが、ゆっくり消えていく。ささめは莢の上で、とろけた顔のまま丸くなっていた。
――君の調合は正確だ。
正確。
その言葉を、わたしは頭の中で何度か転がしてみた。
一瞬、胸の奥が温かくなりかけた。調合を正確だと言われたのは、師匠以外では初めてだったから。師匠だって、弟子入りしてからの九年でせいぜい三回だ。
……温かくなりかけて、わたしはそれを押しとどめた。あの人が、わたしを褒める理由がない。
常備薬を任せる店の、調合を見に来た。手順を確かめて、量を確かめて、正確だと判を押して帰った。
「……監査?」
口に出すと、それ以外の意味に思えなくなった。
騎士団が出入りの薬屋を決めるとき、調合の腕を検分する決まりがあるのかもしれない。だから昨日は副団長さんが注文書を持ってきて、今日は団長本人が確かめに来た。そういえば木箱の薬草だって、店の目利きを試すためだったのかもしれない。
わたしは、全部乾かした。
「合格、ってこと……?」
二階から、どすん、と何かが床を叩く音がした。
続いて、押し殺しきれていない笑い声。杖で床を叩きながら、師匠が笑っている。
「師匠! 聞いてたんですか!」
「聞いてないよ。なんにも聞いてないよ」
聞いていた人の声だった。
その夜、月はまだ昇っていなかった。欠けていく月は、日ごとに昇るのが遅くなる。
十一の鐘のあと、屋根裏の窓辺に座ると、光の粒は昨日よりも心なしか近くを流れていた。月が痩せると、夜語りの声も遠くまでは届かなくなる。それでも、窓の灯りは今夜も淡い黄に満ちていく。
「こんばんは。夜更けの薬草相談室、宵待です。眠れない方も、眠りたくない方も、少しだけお付き合いください」
最初の便りは、夜の名「鉄槌」さんからだった。
紙に石の粉が付いている。石工の親方だ。
「『弟子が、辞めると言い出した。腕はいい。だが、わしは褒めたことがない。褒めたら手が緩むと思ってきた。今さら何と言えばいいか分からん』」
わたしは便箋を机に置いた。
褒めたら手が緩む。昔はわたしも、師匠の口からその手の言葉を聞いたことがある。
「鉄槌さん。褒め言葉に、大きな言葉はいりません」
ささめが机の上で、耳をぴくりと動かした。
「ただし、具体的でなければ届きません。『よくやった』ではなくて、どこが良かったのか。継ぎ目なのか、角の立て方なのか。それを、ちゃんと見ていたと伝えてください」
そこまで言って、わたしはふと、今朝のことを思い出した。
「……でも、具体的なだけでも、足りないかもしれません。たとえば『君の仕事は正確だ』と言われても、それは褒め言葉というより、検分の結果のように聞こえてしまいます」
言ってから、我ながら的確な例えだと思った。今朝のわたしが、まさにそれだった。
「だから最後に、ひとこと添えてください。それが嬉しい、と。あなたの仕事を見るのが、自分は嬉しいのだと。お弟子さんが欲しいのは、合格の判ではなくて、たぶんそっちです」
次の便りに手を伸ばす。
青い月石が、ひと粒。
「次のお便りは、夜の名『見習い』さんから」
この人の便りは、いつも短くなっていく。今夜は三行だった。
「『宵待殿。ご助言のとおり、褒めてみました。伝わったかどうかは分かりません』」
……あら。
さっきの鉄槌さんへの答えを、見習いさんも聴いていただろうか。もし聴いていたなら、少し耳が痛かったかもしれない。
「『ひとつ、お伝えしておきます。彼女は、薬草に話しかけるのです。毎朝、店先で』」
――どきり、とした。
指先が、便箋の端で止まる。
薬草に話しかける。毎朝、店先で。
わたしも話しかけている。今朝も月見草に「おはよう」と言った。
……でも、薬師ならよくあることだ。話しかけたほうがよく育つというのは、師匠の世代の薬師ならたいてい言う。王都に薬屋は何十軒もあるし、店先に鉢を置いている店も多い。
それに、見習いさんの想い人は、部下の傷を見て怒るような、ちゃんとした人だ。
「……素敵なところを見ていらっしゃいますね」
わたしは、少しだけ早口になった声を整えた。
「見習いさん。言葉で伝わらなかったなら、次は時間です。一緒に過ごす時間を、少しだけ作ってみてはどうでしょう。言葉が苦手な人ほど、そばにいる時間のほうが、ずっと多くを伝えてくれることがあります」
ささめが便箋に顔を埋めて、とろけていた。
「今夜のお薬は、ペパーミントのお茶です。――おやすみなさい」
灯りが欠けていく。
わたしは便りを箱にしまいながら、窓の外の細い月を見上げた。
薬草に話しかける人なんて、どこにでもいる。
そう思いながら、明日の朝、月見草に声をかけるかどうか、少しだけ迷った。




