第六話 副団長と、巡回路
その日の昼下がり、扉の鈴は、昨日までとはまるで違う鳴り方をした。
軽い。弾むような、ちりん、という音だった。
「どうも。お邪魔しますよ」
入ってきたのは、栗色の髪を後ろでひとつに束ねた騎士だった。垂れ目で、口元に笑いじわがあって、制服の襟を少しだけ着崩している。左胸には、灯火と鍵の紋章。
ロイ・フォン・シュタインバッハ。第二騎士団の副団長だ。
そして、わたしはこの人の夜の名も知っている。
夜の九つの鐘で語る、灯り番。騎士団の見回りの知らせを、冗談まじりに下町へ届ける人だ。新月の夜の寄り合いでは、毎月顔を合わせている。語り手どうしは互いの昼の名を知っているけれど、それを外で口にしないのが仲間内の仁義だった。
だから、昼のわたしたちは、ただの薬師と客になる。
次の新月まで、あと十日と少し。月が細くなるにつれて、夜語りの声は少しずつ近くにしか届かなくなる。寄り合いの夜には、鐘守くんがまたお菓子を山ほど持ってきて、水鏡さんに叱られるのだろう。
「いらっしゃいませ」
「いやあ、いい匂いだなあ」
ロイさんは店の中をぐるりと見回して、梁から下がったラベンダーの束に目を留めた。窓辺の笊のカモミール。紙の上のエルダーフラワー。
垂れ目が、ほんの一瞬だけ丸くなった。
「……全部、乾かしてくれたんですね」
「上物でしたから。傷ませたらもったいないので」
「そうですか。そうかあ」
ロイさんは何かを噛みしめるみたいに二度うなずいて、それから懐から一枚の紙を取り出した。
「本題です。団長の署名入りの注文書。化膿止めの軟膏を三壺と、晒しを十巻き。昨日おっしゃってた三人、見つけましたんで」
わたしは紙を受け取った。
角の立った、几帳面な字で品名が並んでいる。末尾に、短い署名。
「三人とも、十日の療養を命じられました。団長が自分で一人ずつ傷を見て回ったんですよ。いやあ、見習いの小僧ども、震え上がってました」
「……そうですか」
見つけたなら、最初から気づいていればよかったのに。
そう思ったけれど、口には出さなかった。代わりに軟膏の壺を並べ、晒しを数える。ロイさんはカウンターに肘をついて、楽しそうにわたしの手元を眺めていた。
「それと、昨日の木箱。うちの団長がすみません。驚いたでしょう」
「驚きました。代金は要らないとおっしゃるので」
「ええ、まあ」
「予算、余ってるんですか?」
ロイさんの笑顔が、きれいに止まった。
灯り番の声でも、昼の声でも、この人がこんなふうに言葉に詰まるのを、わたしは初めて見た。寄り合いで夜鳴き鶯さんに話しかけられたときくらいだ。
「……さあ、どうでしょうね」
ロイさんは視線を天井に逃がして、そう言った。
語り手は嘘をつかない。この人も例外ではない。否定もしなければ、肯定もしない。それはつまり――言えないことがある、ということだ。
やっぱり、予算なのだ。
「騎士団も大変ですね」
「ええ。大変なんですよ、本当に」
なぜか、ロイさんの声には実感がこもっていた。
代金を受け取って包みを渡すと、ロイさんは戸口で振り返った。
「エルナさん。団長、ああ見えて悪い人じゃないんで」
「部下があんなになるまで、気づかない人でした」
「そこは、まったく言い返せないですね」
ロイさんは困ったように笑って、ちりん、と鈴を鳴らして出ていった。
夕方、往診の薬を届けに、わたしは川向こうの外れまで歩いた。
帰り道、井戸端に女房たちが集まっていた。洗い物の手を止めて、誰かの噂で笑っている。
「ほら、毛糸屋のおばあちゃんとこ。お嫁さんが、肩掛けして歩いてたんだって」
「あら、あの二人、口きいてなかったんじゃないの」
「それがさ、おばあちゃんが『風邪ひかないように』って言ったら、お嫁さん、泣いちゃったんだって」
わたしは歩く速さを、ほんの少しだけ緩めた。
編み棒さんだ。
胸の奥が、ふわりと温かくなる。宵待の時間に何を言っても、その先がどうなったかは、わたしにはほとんど分からない。だから、こうして偶然に聞く話は、いつも少しだけ特別だった。
井戸端の話は、すぐに別の噂に移った。
「そういえば昨夜も、石像団長が回ってたよ」
「あの人が通ると、うちの犬、床下から出てこないのよ」
「子どもも泣くしねえ。顔がねえ」
「でも、あの人が夜番の晩は、銀の莢亭の前の喧嘩がぴたっと止むんだよ。うちの亭主が言ってた」
――喧嘩が、止む。
わたしは少しだけ振り返りかけて、やめた。
小路の角を曲がったところで、ちょうどその人を見かけたからだ。
濃紺の外套が、川沿いの道を歩いている。その足元に、小さな男の子が転がした木の球が、ころころと当たって止まった。
団長は立ち止まった。身をかがめて、球を拾い上げる。
男の子は、追いかけてきた勢いのまま凍りついた。
団長は球を差し出した。無言で。石の顔で。
男の子の顔が、くしゃりと歪んだ。
団長は――球をそっと地面に置いて、一歩、二歩と下がった。男の子が泣きながら球を抱えて走り去るのを、その場に立ったまま見送っていた。
……石像。
わたしはそう思って、店へ向かって歩き出した。歩き出したけれど、さっきの一歩、二歩の下がり方が、なんとなく目の裏に残っていた。
◇
――幕間
「全部、乾かしてありましたよ」
詰所の団長室で書類を片づけていると、戻ってきたロイが開口いちばんに言った。
「店じゅう花だらけでした。梁にも窓にも。上物だから傷ませたらもったいない、だそうです」
「……そうか」
私は書類から目を上げなかった。上げなかったが、ペン先が同じ文字を二度なぞっていた。
ロイは私の机の端に腰を引っかけて、腕を組んだ。この男は、私の部屋の椅子に座ったことがない。いつも机のどこかに腰掛ける。
「で、団長。昨日の木箱、あれ何だったんです?」
「花だ」
「……はい?」
「花だ」
ロイは三つ数えるくらい黙った。
「団長。うちの薬の予算、去年からまた削られてますよね」
「知っている」
ロイは腕を組んだまま、私の顔を覗きこんだ。この男は、数字の話になると急に目が据わる。
「あの量の上物、うちの予算じゃ買えませんよね」
「私の金だ。問題ない」
「問題しかないですね」
ロイは天井を仰いだ。それから、急に何かに思い当たったような顔をして、口元を手で押さえた。肩が震えている。
「……何がおかしい」
「いえ。なんでもないです。本当に」
なんでもない男の笑い方ではなかった。
「ついでに聞きますけど。巡回路、蝋燭小路を二本ぶん足しましたよね」
「監督のためだ。ティモの傷の具合を確かめる必要がある」
ロイは、わざとらしく首をかしげた。
「ティモは詰所で寝てますけど」
「…………」
「はい。監督のためですね。了解です」
ロイは机から腰を上げて、扉に向かった。出ていきぎわに、一度だけ振り返る。
「団長。俺、口は堅いほうなんで」
「何の話だ」
「さあ、何の話でしょうね」
扉が閉まった。あの男は時々、私に分からないことを言う。
私は書類の山を脇へよけ、引き出しから便箋を取り出した。
昨夜は夜番だった。路地を回りながら、懐の聴き灯で宵待殿の声を聴いた。
――次にお会いになったら、何か、ひとつ褒めてみてはどうでしょう。その方が大切にしているものを、さりげなく。
褒める。
部下を褒めることなら、ある。剣の筋がいい。報告が正確だ。持ち場を守った。どれも事実を述べるだけで済む。
だが、薬師殿に何を言えばいいのか。
私は便箋に、候補を書き出してみた。
美しい。――不適切だ。根拠を問われたら答えられない。いや、答えられるが、口に出せない。
優しい。――根拠が足りない。私は彼女に怒られただけだ。
怒り方がいい。――意味が分からない。自分でも分からない。
ペン先が止まる。
夕方、川沿いの道で、また子どもを泣かせた。転がってきた木の球を拾っただけだ。
慣れている。国境の村でも、王都の路地でも、私の顔を見て泣かない子どものほうが珍しい。泣かれたら、物を置いて下がればいい。それで済む。
済むのだが、今日は少しだけ、あの小路の角のほうを見てしまった。薬師殿に見られていなかったことを、私は祈った。
彼女が大切にしているもの。それは、あの店と、薬だ。部下の傷を見て、十日と言い切った。三包までと言い切った。花の切り口ひとつ無駄にせず、すべて乾かした。
私は、ひとつだけ残した言葉に線を引かなかった。
――君の調合は正確だ。
正確であることは、薬師にとって最高の賛辞のはずだ。
これでいい。これなら、嘘はひとつも含まれていない。
私は便箋を折りたたみ、明日の巡回の順を頭の中で組み直した。蝋燭小路は、朝いちばんに回る。




