第九話 ……まさかね
その夜の屋根裏は、妙に静かだった。
窓の外に、月はまだない。半分に欠けた月は、真夜中を過ぎないと昇ってこない。それでも今夜は月のある夜だから、光の粒は路地の上を低く、ゆっくりと流れていく。月が痩せる時期の夜語りは、声が遠くまで届かないぶん、近くの窓だけがぽつぽつと満ちていく。小さな、淡い黄の灯りが、手の届きそうな距離に並んでいた。
わたしは蜂蜜飴を舐めながら、今日一日のことを考えないようにしていた。
考えないようにしているということは、考えているということだ。
――何見てるんですか。
――失礼した。
あの人は、わたしの眉を見ていた。
怒っている女が珍しかったのだろうか。それとも、怒った顔を覚えておいて、報告書にでも書くのだろうか。蝋燭小路の薬師、反抗的。眉が上がる。
……ありそうで、嫌だ。
胸元の語り灯がともって、ささめが目を覚ました。今日は一日じゅう起きていたくせに、夜になってもちゃんと起きる。精霊の体の仕組みは、よく分からない。
「こんばんは。夜更けの薬草相談室、宵待です。眠れない方も、眠りたくない方も、少しだけお付き合いください」
今夜の便りは、三通だった。
一通目は、夜の名「焦げたパン」さんから。窯に最初の火を入れていたのは、やっぱりご亭主だったそうだ。三十年、毎朝。おかみさんが寝坊した朝も、風邪をひいた朝も。
「『腹は立ったままです。でも、今朝、ありがとうと言ってやりました。亭主は窯の前で固まって、パンを一枚焦がしました』」
わたしは声を出して笑ってしまった。宵待の時間に笑うのは、少し久しぶりだった。
「焦げたパンさん。それはきっと、三十年でいちばんおいしい焦げ目です」
二通目は、子どもの夜泣きの相談。カモミールを薄く煎じて、母親のほうが飲むように勧めた。母親が眠れると、子どもも眠りやすくなると言われている。
そして、三通目。
青い月石が、ころんと机の上を転がった。
「最後のお便りは、夜の名『見習い』さんから」
封を開くと、いつもの角の立った字が並んでいた。
「『宵待殿。ご助言のとおり、共に過ごす時間を作っています』」
まあ、とわたしは心の中で声を上げた。この人は本当に、言われたことをすぐにやる。
「『ただ、彼女は怒っているようです。私がそばにいると、迷惑なのかもしれません』」
……そうなのか。
一緒に過ごす時間を、と勧めたのはわたしだ。そばにいて迷惑がられるのは、さすがに少し気の毒だった。きっと、そばにいる、のやり方が、どこかずれているのだろう。この人は、言葉も贈り物も、少しずつずれている。
「『怒ると、彼女は眉が片方だけ上がるのです。右のほうが、わずかに高い』」
声が、止まった。
自分でも、止まったのが分かった。窓の外の光の粒が、ふっと流れを緩めた気がした。聴き灯の向こうで、何人もの聴き手が、わたしの次の言葉を待っている。
わたしの指は、勝手に、右の眉に触れていた。
――怒ると、右の眉だけが上がる。
今日の夕方も、上がった。
師匠には「器用だねえ」と笑われる。子どもの頃、兄にも真似をされた。わたしの癖だ。
「……失礼しました。便箋が、少し読みにくくて」
嘘ではない。今は、字がよく見えなかった。
ささめが、便箋の上でとろけている。いつもの、蜂蜜に溺れたような顔で。
わたしは息を吸った。宵待の声を、もう一度喉の奥に呼び戻す。
「見習いさん。眉の片方が上がるくらい怒っているなら、その方は、たぶん本気です。どうでもいい相手に、人はそこまで怒りません」
言いながら、自分が何を言っているのか分からなくなりかけた。
「だから、焦らないでください。そばにいるのは、今はいったんお休みしてもいいかもしれません。その代わりに――まず、相手の好きなものを知るところから始めてみてはどうでしょう。何が好きで、何が苦手か。それが分かれば、そばにいるときに何を言えばいいかも、きっと見えてきます」
締めの言葉を、いつもより少しだけ丁寧に言った。
「今夜のお薬は、ラベンダーのお茶です。――おやすみなさい」
灯りが欠けていく。窓の外の淡い黄が、ひとつ、またひとつと三日月に戻っていく。
わたしは便箋を箱にしまおうとして、手を止めた。
右のほうが、わずかに高い。
……右の眉が上がる女なんて、王都にいくらでもいる。
それに見習いさんは、どこかの詰所の若い騎士だ。わたしは会ったこともない。会ったこともない人が、わたしの眉の高さまで知っているはずがない。
そもそも。
あんなふうに怒鳴る女を、好きになる人なんて。
「……まさかね」
声に出したら、ずいぶん小さかった。
ささめは便箋の上で丸くなって、満腹の寝息を立てていた。
翌朝、店の前に石像はいなかった。
小路の角まで見渡しても、濃紺の外套はどこにもない。月見草の鉢の前には、朝露が光っているだけだった。
……清々した。
清々した、はずだった。
わたしは如雨露を傾けて、月見草に水をやった。声はかけなかった。かけようとして、昨夜の便りを思い出してしまったからだ。
――彼女は、薬草に話しかけるのです。
――怒ると、眉が片方だけ上がるのです。
「声、かけないのかい」
振り向くと、師匠が戸口に立っていた。丸眼鏡の奥の目が、朝からやけに楽しそうだ。
「……かけます。いつもは」
「今朝は?」
「今朝は、喉の調子が」
「ふうん」
師匠は杖をついて、わたしの横に並んだ。月見草の萎んだ花を、指先でつつく。
「あんたも罪な薬師だねえ」
「何の話ですか」
師匠は答えず、萎んだ花びらをもう一度つついた。
「さあね」
「師匠、昨夜も聴いてましたよね。何か知ってるんですか」
「知らないよ。年寄りは何にも知らない」
師匠は鼻歌まじりに、店の中へ戻っていった。
わたしは月見草の前にしゃがみこんだ。萎んだ黄色い花が、朝の光の中で小さく揺れている。
「……おはよう」
結局、小さな声で言った。言ってから、なぜか顔が熱くなった。
◇
――幕間
三日間で、延べ九時間。
詰所の机で、私はその数字を便箋の端に書きつけた。
薬師殿の店の前に立った時間だ。非番の時間をすべて充てた。夜番の合間に眠ったのは、合わせて六時間ほどだろうか。それでも、国境の冬よりはずっと楽だった。
九時間で交わした言葉は、数えるほどしかない。その半分は、私の「警備だ」だった。残りは、おはようございます。何の警備ですか。営業妨害です。何見てるんですか。
……進展は、ない。
いや、むしろ後退している。宵待殿の助言は正しかったはずだ。共に過ごす時間を作れと言われ、私はそれを作った。作り方が悪かったのだ。
夕べの宵待殿の声が、まだ耳に残っている。
――その方は、たぶん本気です。どうでもいい相手に、人はそこまで怒りません。
本気で怒らせた。それは、喜んでいいことなのだろうか。
分からない。分からないが、あの眉が上がった瞬間を、私はもう一度見たいと思ってしまった。怒らせたいわけではない。ただ、あの人が本気でものを言うときの顔を、覚えていたいと思った。
これは、見習い以下の考えだ。
それから、四日前の夜のことも思い出す。
――『君の仕事は正確だ』と言われても、それは褒め言葉というより、検分の結果のように聞こえてしまいます。
あの夜、私は夜番の路地で立ち止まり、懐の聴き灯をしばらく見つめていた。検分。そう聞こえたのか。いや、そう聞こえるのが普通なのだ。宵待殿が言うなら、間違いない。
……それが嬉しい、と添えるべきだった。
次は添える。添えられるかどうかは、分からないが。
昨夜の宵待殿の声は、一度だけ途中で止まった。便箋が読みにくかったのだと言っていた。私の字のせいだろう。次はもっと丁寧に書かなければならない。
――まず、相手の好きなものを知るところから。
私は便箋をもう一枚引き寄せ、部下の名を書き出した。
ヴェルナーは妻帯者で、女性の好みに詳しいと自分で言っていた。グレタは下町の生まれで、蝋燭小路にも顔が利く。ルッツは足が速い。
団長命令として出すのは、筋が違う気もする。だが、私には他に頼る手段がない。
最後に、次の便りの書き出しを考えた。
彼女について、まだ宵待殿に伝えていないことがある。
『彼女は毎朝、店先の月見草に水をやっています』
ただ、私が店の前に立っていた朝、彼女は月見草に声をかけていなかった。如雨露を傾けるだけで、何も言わずに店へ戻っていった。
なぜなのかは、分からなかった。




