第十話 どう聞いてもわたしです
その日は一日じゅう、何をしても手につかなかった。
セージを砕けば粒が揃わず、晒しを巻けば端がよれる。軟膏の壺に蓋をしたつもりが、蓋だけ別の壺に乗っていた。師匠は二階から三度下りてきて、三度ともわたしの手元を見て、黙って上がっていった。黙っているときの師匠ほど、うるさいものはない。
夕方、勝手口のランプを灯した。
来たのは指に棘を刺した子どもがひとりと、咳の止まらない荷運びの親方がひとり。どちらも大したことはなかった。大したことがないのはいいことだ。ランプを消して梯子を上がるとき、わたしは自分に言い聞かせた。
昨夜のことは、もう考えない。
右の眉が上がる女なんて、王都にいくらでもいる。薬草に話しかける薬師も、たぶん、いくらでもいる。
十一の鐘が鳴った。
今夜も、月はまだ昇っていない。昨夜より、また少し痩せているはずだ。光の粒は低く流れ、近くの窓からひとつずつ、淡い黄が満ちていく。
「こんばんは。夜更けの薬草相談室、宵待です。眠れない方も、眠りたくない方も、少しだけお付き合いください」
声はいつもどおり出た。それだけで、少し安心した。
一通目は、夜の名「桶底」さんから。膝の布の当て方が効いたという、短いお礼の便りだった。
「『鳴らないふりは、しておらん。安心しろ』」
ヴィリ爺さんの字は、昔より少しだけ大きくなった。目が遠くなったのだ。わたしは便箋を両手で持って、しばらく眺めていた。
「桶底さん。それを聞いて、宵待はとても安心しました」
二通目は、新しく字を習いはじめた子どもからの便りだった。宵待さんはどんな顔ですか、と書いてある。わたしは少し笑って、「眠そうな顔です」と答えた。嘘ではない。
そして、三通目。
青い月石が、机の上で小さく光った。
わたしは息を一度だけ整えてから、封を開いた。
……字が、いつもより丁寧だった。
角の立った几帳面な字が、今夜はさらに一画ずつ、定規を当てたみたいに揃っている。行の頭はぴたりと並び、余白まで測ったように等しい。
「最後のお便りは、夜の名『見習い』さんから」
声が、少しだけ硬くなった。
「『宵待殿。先日は読みにくい字で失礼しました。今夜は丁寧に書いたつもりです』」
――丁寧すぎます、と言いかけて、やめた。
「『ご助言のとおり、彼女の好きなものを知ろうと思います。ただ、本人に尋ねる勇気はまだありません。まずは、周りの者に尋ねてみるつもりです』」
本人に聞けばいいのに。
喉元まで出かかったその言葉が、なぜか、いつもより少しだけ苦かった。
「『それから、もうひとつ。彼女について、まだお伝えしていないことがありました』」
便箋の、最後の一行だった。
「『彼女は毎朝、店先の月見草に水をやっています』」
――あ。
声は、今度は止まらなかった。止まらなかったけれど、自分の口から出ている言葉が、どこか遠くで鳴っているように聞こえた。
部下の傷を見て、先に怒った。
毎朝、店先で、薬草に話しかける。
怒ると、右の眉だけが上がる。
毎朝、店先の月見草に、水をやる。
ひとつずつなら、王都のどこにでもいる女の話だ。でも、四つ全部が揃う女は。
わたしは膝の上で、自分の右手を見下ろした。
今朝、この手で如雨露を傾けた。月見草の萎んだ花に、小さな声で「おはよう」と言った。
……どう聞いても、わたしです。
ささめが、便箋の上でとろけていた。いつものように。蜂蜜に溺れたような、満ち足りた顔で。
この子は、最初からずっと、こうだった。
「見習いさん」
自分の声が、宵待の声のまま出たことに、わたしは心の底から驚いた。
「周りの方に尋ねるのも、いいと思います。でも、もしいつか勇気が出たら、ご本人に聞いてあげてください。……聞かれたほうは、たぶん、困ります。困りますけど、嫌ではないと思います」
何を言っているんだろう、わたしは。
これは、見習いさんへの助言だ。見習いさんの想い人への助言ではない。想い人のふりをして、想い人の気持ちを代弁するなんて、宵待の仕事ではない。
でも、口が止まらなかった。
「その方は、たぶん、褒められることに慣れていません。だから、褒められても、うまく受け取れないことがあるかもしれません。それは、あなたのせいではありません」
ささめが、ころんと横に転がった。
「それから、もうひとつだけ。その方が何かに困っているときに、さりげなく手を貸してみてはどうでしょう。重いものを持っているときとか、手がふさがっているときとか。言葉が苦手な方なら、言葉より先に、手のほうが届くこともあります」
……わたし、今、何を頼んだの。
自分の言葉が、自分に向かって跳ね返ってくる。重いものを持っているとき。手がふさがっているとき。それは、毎日のわたしのことだ。
「今夜のお薬は、カモミールのお茶です。――おやすみなさい」
灯りが欠けていく。
わたしは、窓の外の淡い黄がすべて三日月に戻るまで、身動きができなかった。
それから、箱の蓋を開けた。
半年ぶんの便りが、きちんと重なって入っている。いちばん上の一通を取り出して、今夜の便りと並べた。
同じ字だ。角の立った、几帳面な字。
――仕事で関わった女性のことです。
仕事で関わった。わたしが仕事で関わった騎士団の人。部下の傷を見て、わたしが怒った相手の、その上に立つ誰か。
あの日、店にいたのは、ティモさんと――。
わたしは、首を横に振った。
ない。
あの人だけは、ない。
あの人は、わたしの眉を報告書に書くような目で見ていた。三日も店の前に立って、営業妨害をした。木箱の花は予算の消化で、褒め言葉は監査の結果だった。
それに、あの人はきっと、わたしのことを嫌っている。
騎士団長を怒鳴りつけた薬師の噂は、師匠の言ったとおり、あの日の夕方には小路を一周したらしい。だとしたら、騎士団の中でも、話は広まっているはずだ。あの日のことを知っていて、毎朝この小路を通る誰か。わたしが知らないだけで、わたしを見ている誰か。
……誰?
心臓が、うるさかった。
そして、もっと困ったことに気づいた。
語り手は、昼の名を明かさない。精霊は夜の名で声を探すから、昼の名を混ぜると声が迷う。それは師匠から、師匠はその師匠から教わった、夜語りのいちばん古い決まりだ。
だから宵待は、見習いさんに「それはわたしです」と言えない。
言えないまま、この人の恋の相談に、これからも答えつづけなければならない。自分への恋を、自分で励まして、自分で道を示して。この人が次にどこへ向かうのかを、わたしが決めることになる。
便りを読まない、という選択もある。でもそれは、半年間一度も欠かさず月石を添えてくれた常連さんを、黙って締め出すことだ。
「……どうしろっていうの」
ささめは、満腹の寝息を立てているだけだった。
梯子の下から、こん、こん、と杖で床を叩く音がした。
「眠れないのかい」
師匠の声だった。こんな時刻に起きているなんて、珍しい。
「……師匠。知ってたんですか」
「何をだい」
「見習いさんの、便りの」
少しの沈黙があった。
「あたしは、何にも知らないよ。ただね」
杖の音が、ゆっくり遠ざかっていく。
「夜語りの便りってのは、答える側が、いちばん聞かされるもんさ」
師匠の部屋の戸が閉まった。
眠れないまま、空が白みはじめた。
月見草に水をやりに、店先へ出る。声は、かけられなかった。如雨露を持つ手が、少しだけ震えていた。
小路の向こうに、人影が見えた。
濃紺の外套ではない。もっと若い、細身の騎士だった。第二騎士団の紋章をつけた、見覚えのない顔。ひょろりと背が高く、手には小さな手帳と鉛筆を握っている。
その騎士は、向かいのパン屋の前で立ち止まり、店先にいたおかみさんに、何かを熱心に尋ねていた。尋ねては、手帳に書きつけている。まるで、事件の聞き込みみたいに。
おかみさんが、こちらを指さした。
騎士が、わたしを見た。
――周りの者に尋ねてみるつもりです。
如雨露の水が、月見草の鉢からあふれた。




