第十一話 好きなものは、何ですか
わたしは如雨露を抱えたまま、店の中に逃げこんだ。
扉を閉め、窓の脇の壁に背中をつける。心臓が、昨夜からずっと同じ速さで打っている。そっと首を伸ばして、窓の端から小路を覗いた。
手帳の騎士は、まだパン屋の前にいた。
ひょろりと背が高く、制服の袖が少し短い。おかみさんの話を聞きながら、鉛筆を舐めては何か書きつけている。おかみさんのほうは、粉だらけの手を振りまわして、ずいぶん楽しそうに喋っていた。
騎士はぺこりと頭を下げ、隣の肉屋へ移った。
店先に、親方が出てきた。濃い眉、鋭い目、頬の古い火傷の痕。騎士は一歩下がりかけて、踏みとどまった。偉い。泣かなかっただけ偉いと思う。親方は腕を組み、少し考えてから、何か短く答えている。騎士はそれを、震える手で書きとめた。
次は、三軒先の毛糸屋だった。おばあさんの隣に、肩掛けをしたお嫁さんが並んで立っている。二人とも、なぜか顔を見合わせて笑っていた。
毛糸屋を出た騎士は、手帳をめくりながら、こちらへ歩いてきた。
わたしは息を止めた。
騎士は月見草薬房の前で立ち止まった。扉の取っ手に手を伸ばしかけて――引っこめた。何かを思い出したように首を振り、手帳に目を落とし、それから回れ右をして、小路の角へ去っていった。
本人には聞くな、と言われているのかもしれない。
――まずは、周りの者に尋ねてみるつもりです。
昨夜の便りの一行が、頭の中でぐるぐる回る。
周りの者。わたしの周りの者。蝋燭小路の、わたしを知っている人たち。
「エルナちゃん!」
勝手口のほうから、パン屋のおかみさんが飛びこんできた。息を切らして、目をきらきらさせている。
「聞いた? 見た? 騎士さんがさ、あんたのこと聞いて回ってるよ」
「……見ました」
「好きな食べ物は何ですかって聞かれたから、蜂蜜って言っといたよ。あんた、いつも飴舐めてるもんね」
「おかみさん」
止めようとしたけれど、おかみさんの口は窯の火みたいに勢いがついていた。
「好きな色は、って聞かれたから、緑だって。エプロン緑だし。嫌いなものは、って聞かれたから、愛想笑いって言っといた。あんた笑うの嫌いでしょ」
「嫌いなわけでは」
「あと、怒ると怖いって」
わたしは、カウンターに両手をついた。
「……どうして、全部答えちゃうんですか」
「だって騎士さん、真剣だったんだもの。何の事件か知らないけど、協力しなきゃ悪いじゃない」
事件ではない。たぶん、事件ではない。
でも、事件ではないと言ったら、では何なのかを説明しなければならない。説明できるわけがなかった。どこかの見習いさんが、わたしに恋をしていて、わたしに恋の相談をしていて、わたしが「周りの人に聞いてみたら」と言ったのです、なんて。
おかみさんはパンを一つ置いて、上機嫌で帰っていった。
昼前に、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのは、女の人だった。
日に焼けた頬に、赤茶の髪を後ろで短く縛っている。腰に剣。左胸に、灯火と鍵の紋章。背はわたしより頭ひとつ高く、肩幅はわたしの倍くらいありそうだった。
「第二騎士団のグレタだ」
女の人は、カウンターの前で足を止めて、そう名乗った。
「単刀直入に聞く。好きな花は」
「……月見草です」
答えてしまった。
あまりにまっすぐ聞かれたので、考えるより先に口が動いた。グレタさんは「月見草」と繰り返し、懐から小さな帳面を出して書きつけた。字が速い。
「好きな菓子は」
「蜂蜜飴……いえ、待ってください」
グレタさんの鉛筆が止まらないうちに、わたしは慌てて付け足した。
「嫌いなもの、とかも聞くんですか」
「聞く。嫌いなものは」
「……大丈夫って言って、無理をする人です」
言ってから、しまったと思った。また答えてしまった。
グレタさんの鉛筆が、一瞬だけ止まった。目の奥の何かが、わずかに揺れたように見えた。誰かの顔を思い浮かべた人の目だった。けれど彼女は何も言わずに、その一行を書きつけた。
わたしは両手を上げた。
「どうして答えてるんですか、わたし。それより、何のための聞き込みなんですか。朝からずっと、小路じゅうに聞いて回っていますよね」
「ああ」
グレタさんは帳面を閉じた。表情がほとんど動かない人だ。団長ほどではないけれど、読みにくい。ただ、目の奥が、ほんの少しだけ面白がっているように見えた。
「上からの命令でね。理由は聞くなと言われてる」
「上、って」
「上は上だ」
それ以上は、何を聞いても答えてもらえなかった。グレタさんは梁から下がったラベンダーの束をちらりと見上げ、「いい匂いだな」とだけ言って、帰っていった。
扉が閉まる。
わたしは、カウンターの内側で、ゆっくりと考えをまとめた。
見習いさんは、昨夜、「周りの者に尋ねてみる」と書いた。
今朝、第二騎士団が、わたしの周りの人たちに、わたしの好きなものを尋ねて回っている。
そして、その騎士たちは「上からの命令」で動いている。
……見習いさんは、第二騎士団の人だ。
それも、誰かに聞き込みを命じられる立場の。
……何をしているんですか、見習いさん。
周りの人に聞いてみたら、と言ったのはわたしだ。でも、まさか騎士団ごと動かすなんて思わなかった。手帳を持った騎士が、パン屋と肉屋と毛糸屋を一軒ずつ回るなんて。
しかも、わたしは宵待として、それを止めることもできない。「聞き込みはやめてください」なんて言ったら、宵待がどうして小路の騒ぎを知っているのか、という話になってしまう。
そこまで考えたところで、二階から、杖で床を叩く音がした。とん、とん、とん。三回。それから、押し殺しそこねた笑い声。
「師匠、聞いてたんですか!」
「聞いてないよ! ちっとも聞いてないよ!」
あの人は、昨日からずっと楽しそうだ。
日が暮れて、勝手口のランプを灯すと、最初に肉屋の親方がやってきた。
親指の傷を見せに来たのだという。包帯をほどくと、傷はきれいにふさがりかけていた。
「よく治ってます。もう軟膏だけで大丈夫です」
「そうか」
親方は、なぜか天井ではなく、床を見ていた。
「なあ、薬屋」
「はい」
親方は言いにくそうに口をもごもごさせた。牛を一頭ばらすときより、よほど難しい顔をしている。
「今朝の騎士の坊主にな。お前さんのこと、怒ると怖いって言っちまった」
「……おかみさんも、そう言ってました」
「だろうな」
親方は太い指で頭を掻いた。
「それと、優しいって言っといた。こんな夜に戸を開けてくれる薬屋は、ほかにねえからな。……余計だったか」
わたしは、包帯を巻く手を止めた。
余計です、と言おうとした。言おうとしたのに、喉の奥で何かが引っかかって、うまく声にならなかった。
「……軟膏、朝と晩に塗ってください」
「おう」
そのとき、天井の向こうから、かすかな声が聞こえてきた。
師匠の部屋だ。床板の隙間から、真鍮色の光が細く漏れている。夜の七つの鐘のすぐあと。鐘守の時間だった。
元気のいい、早口の少年の声が、床板越しに降ってくる。
「――続いて、今日のできごとです! 今日の朝、第二騎士団の騎士さんたちが、蝋燭小路で、薬屋さんの好物を聞いて回っていました! 好きな食べ物! 好きな色! 好きな花! いったい何の事件でしょうか! 鐘守は気になって、今夜は眠れそうにありません!」
肉屋の親方が、ぶはっと吹き出した。
わたしは、両手で顔を覆った。
下町じゅうの窓で、今ごろ聴き灯が真鍮色に満ちている。パン屋も、毛糸屋も、井戸端の女房たちも、みんな聴いている。蝋燭小路の薬屋が何かの事件に巻きこまれていると、明日の朝には、川向こうの端まで知れ渡っているだろう。
「……事件じゃ、ないんです」
「わかってるよ」
親方は笑いすぎて涙を拭きながら、軟膏の壺を握って帰っていった。何をわかっているのか、聞く気力もなかった。
ランプを消す。
梯子の下で、わたしは一度だけ深く息を吸った。
あと少しで、十一の鐘が鳴る。
屋根裏に上がれば、わたしは宵待になる。宵待は、昼の騒ぎなど何も知らない顔で、聴き手の便りを読まなければならない。
そして今夜も、きっと、あの青い月石が届いている。
――周りの者に尋ねました。
そう書かれていたら、わたしは、それを自分の声で読み上げるのだ。




