第十二話 小窓
十一の鐘が鳴った。
窓の外に、月はまだない。痩せていく月は、夜明けが近づかないと昇ってこない。それでも今夜は月のある夜だから、胸元の語り灯はちゃんとともり、ささめは眠そうに目をこすりながら起きてきた。
机の上には、便りが六通。
いつもの倍だった。
「……こんばんは。夜更けの薬草相談室、宵待です。眠れない方も、眠りたくない方も、少しだけお付き合いください」
一通目を開く。
「『宵待さん、こんばんは。鐘守の時間、聴きましたか。蝋燭小路の薬屋さんの事件、何か知っていますか』」
二通目。
「『薬屋さんの好物を騎士団が調べるなんて、毒でも盛られたんでしょうか。心配です』」
三通目も、四通目も、似たような便りだった。下町の人たちは、こういう話が大好きだ。わたしは便箋を重ねて、いつもより少しだけ低い声で言った。
「昼のことは、宵待の時間ではお話ししない決まりなんです。ごめんなさい。ただ――毒ではないと思います。たぶん」
ささめが、机の隅でころりと転がった。笑っているみたいだった。
五通目は、夜の名「小窓」さんからだった。
丸くて小さい字だ。若い娘さんだと思う。
「『今日、パン屋の裏で、同じ工房の男の子たちが話しているのを聞いてしまいました。わたしのことでした。いつもむすっとしていて怖い。でも、笑うとかわいいのに、って』」
わたしは、続きを読む前に、少しだけ息を止めた。
「『聞かなければよかったと思います。聞かなかったことにしたいのに、できません。明日、どんな顔をして工房に行けばいいのか分かりません』」
――聞かなかったことに、したい。
その気持ちは、よく分かった。今のわたしには、痛いほど分かった。
「小窓さん。聞いてしまったことは、なかったことにはできません」
窓の外を、光の粒が低く流れていく。
「でも、聞いたあなたがどうするかは、あなたが決めていいんです。聞かなかったふりをしてもいい。少しだけ笑ってみてもいい。何も変えなくてもいい。噂をしていた人たちのために、あなたが何かを変える必要はありません」
言いながら、これは誰に向けた言葉なのだろう、と思った。
「ひとつだけ。怖い、の後ろに、かわいい、が付いていたこと。それは、覚えておいていいと思います。聞いてしまったあなたへの、ちょっとしたおまけです」
六通目。
青い月石が、ころんと転がり出た。
わたしは、膝の上で手を握った。
「最後のお便りは、夜の名『見習い』さんから」
封を開く。几帳面な字が、今夜はいつもより長く並んでいた。
「『宵待殿。ご助言のとおり、周りの者に尋ねました』」
知っています。ものすごく知っています。
「『彼女は、蜂蜜が好きだそうです。好きな色は緑。好きな花は月見草』」
自分の声で、自分の好物を読み上げている。
耳の奥が、かあっと熱くなった。わたしは便箋を少し顔から離して、できるだけ平らな声を保った。
「『嫌いなものは、愛想笑い。それから、大丈夫と言って無理をする人』」
――グレタさんに言ったやつだ。
「『怒ると怖い、と三人が言いました』」
三人。おかみさんと、親方と、あとは誰だろう。
「『ですが、ひとりは、優しい、とも言いました』」
声が、ほんの少しだけ揺れた。
親方の、太い指で頭を掻く仕草が浮かんだ。こんな夜に戸を開けてくれる薬屋は、ほかにねえからな。
わたしは一度だけ咳払いをした。
「……ずいぶん、細かくお調べになったんですね」
ささめが便箋の上でとろけていた。いつもよりさらに溶けて、ほとんど液体みたいになっている。
「見習いさん。焦らないでください。好きなものが分かったからといって、全部を一度に差し出さなくていいんです。今は、この前お伝えしたこと――困っているときに、さりげなく手を貸すこと。それだけで、十分です」
そこで止めるつもりだった。止めるつもりだったのに、口が勝手に続けた。
「それと……あまり大勢で聞いて回ると、その方が、とても困ると思います。たぶん今ごろ、顔から火が出ています」
嘘は、ひとつもついていない。
「今夜のお薬は、レモンバームのお茶です。気持ちを静めると言われています。――おやすみなさい」
わたしにいちばん必要な一杯だった。
翌日の昼、わたしは川沿いの薬草問屋まで仕入れに出た。
根を干したものは重い。麻袋を二つ、両腕に抱えると、前がよく見えなかった。土手道の砂利が靴の裏でざくざく鳴る。初夏の終わりの日差しが、うなじをじりじり焼いた。
あと少しで蝋燭小路、というところで、両腕がふいに軽くなった。
「――え」
顔を上げると、濃紺の外套があった。
団長が、わたしの麻袋を二つとも、片腕にまとめて抱えていた。重さなどないみたいな顔で。
「店までだな」
それだけ言うと、団長は歩き出した。
速い。
脚の長さが違いすぎる。わたしが三歩進むあいだに、団長は二歩でその先にいる。小走りになっても追いつけない。砂利道を、わたしは息を切らして追いかけた。
「あ、あの、団長さん、それ、うちの――」
返事はない。外套の背中が、どんどん小さくなっていく。
胸元で、語り灯がことりと鳴った。ささめが起きて、硝子に顔を押しつけて、外套のほうへ身を乗り出している。また金物だ。
わたしが店の前にたどり着いたとき、団長はもう麻袋を戸口に下ろし終えていた。
「邪魔をした」
短くそう言って、団長は土手道のほうへ戻っていった。振り返りもしなかった。
わたしは肩で息をしながら、麻袋を見下ろした。
……押収?
いや、ちゃんと置いていった。中身も減っていない。念のため口を開けて確かめたけれど、根の数まで合っている。
じゃあ、検分? 仕入れ先を確かめに?
分からない。あの人のすることは、いつもひとつも分からない。
わたしは麻袋の口を縛り直しながら、昨日からの推理の続きを考えた。
見習いさんは、第二騎士団の人だ。聞き込みを命じられる立場の。
聞き込みを命じられそうな人で、わたしが顔か名前を知っているのは四人。団長と、副団長さんと、グレタさん。それから、井戸端でよく名前の出るヴェルナー隊長。
団長は、ない。今のだって、たぶん押収の練習か何かだ。
グレタさんは、上からの命令だと自分で言っていた。ヴェルナー隊長は、奥さんにぞっこんだと小路で有名だった。
――残るのは。
ちりん、と軽い鈴の音が、記憶の中で鳴った。垂れ目と、着崩した襟と、「全部、乾かしてくれたんですね」と言ったときの、少しだけ丸くなった目。
「……副団長さん?」
でも、あの人は灯り番だ。宵待がわたしだと、知っている。
知っていて、宵待に、わたしへの恋を相談してくる?
わたしは、麻袋の口を、必要以上にきつく縛った。
◇
――幕間
「報告します」
詰所の団長室に、ヴェルナーとグレタとルッツが並んでいた。ルッツの手帳は、昨日一日でずいぶん分厚くなっている。
「好きな食べ物、蜂蜜。好きな色、緑。好きな花、月見草。嫌いなもの、愛想笑い。それから――」
ルッツは一瞬詰まって、手帳を読み上げた。
「大丈夫と言って、無理をする人」
ヴェルナーとグレタが、同時に私を見た。
「……何だ」
「いえ」
「何でもありません」
二人とも、声がまったく同じ平らさだった。窓際のロイが、口元を手で隠している。
「なお、昨夜の鐘守の夜語りで、本件は『事件』として下町に知れ渡りました」
グレタが淡々と付け加えた。
「聞き込みは、今日で終わりにする」
私は言った。昨夜、宵待殿は、大勢で聞いて回るとその方が困ると言った。顔から火が出ている、とも。それはつまり、薬師殿は困っているということだ。
三人を下がらせてから、私は今日の昼のことを考えた。
土手道で、薬師殿が重い麻袋を抱えていた。宵待殿の言ったとおり、手を貸した。
――手を貸した。……速すぎた。
振り返らなかったが、後ろから砂利を蹴る音がずっとついてきていた。走らせてしまった。次は、歩幅を半分にしなければならない。
ルッツの手帳の最後の頁には、肉屋の親方の言葉が書いてあった。
優しい。
私はその一行を、しばらく見ていた。
――私も、そう思う。
声に出さずにそう思って、窓際のロイがこちらを見ているのに気づき、私は書類に目を戻した。




