第十三話 馬が怖い者
副団長さん、かもしれない。
その考えは、ひと晩たっても頭から出ていかなかった。
朝の店で、わたしは乾燥棚の束を入れ替えながら、何度も同じところで手を止めた。ロイさんは灯り番だ。宵待がわたしだと知っている。知っていて、宵待に便りを書いてくるのだとしたら、それはつまり、わたしが自分への恋を読み上げるのを、どこかで聴いて楽しんでいるということになる。
……あの人なら、やりかねない。
でも、あの人は嘘をつかない。それに、あんな丁寧な字を書く人だろうか。
次の新月まで、あと四日。寄り合いの夜には、ロイさんと同じ卓を囲むことになる。どんな顔をして座ればいいのか、今から考えるだけで胃が痛かった。
答えの出ない考えを抱えたまま、扉の鈴が鳴った。
「薬師さん、おはようございます!」
ティモさんだった。
顔色はすっかり元どおりで、肩もちゃんと回っている。昨日から夜警に戻ったのだという。手には、走り書きのような速い字で品目が並んだ紙を持っていた。グレタさんの字に似ている。詰所の常備薬の、最初の注文書だ。
「団長から預かってきました。それと、傷を見てもらえって」
「見せてください」
擦り傷は、もうほとんど痕だけになっていた。痣も薄い黄色に変わっている。
「よく治りました。でも、しばらくは無理をしないこと」
「はい!」
返事だけは、いつも満点だ。
わたしは注文書を見ながら、棚から壺を下ろしはじめた。化膿止め、晒し、熱冷ましの煎じ薬。それから、乾燥させた薬草を詰めた大きな籠。籠を抱えて踏み台に乗ろうとしたとき、ティモさんが慌てて手を伸ばしてきた。
「僕がやります!」
「え、いえ、大丈夫――」
「困ってるときは、さりげなく手を貸せって」
ティモさんは籠を奪い取るようにして、踏み台に飛び乗った。ぐらりと揺れる。籠が傾く。わたしは反射的に踏み台の脚を押さえ、ティモさんの腰の帯をつかんだ。
籠の中のカモミールが、ばさりと半分、床に散った。
「……すみません」
「いえ」
わたしは床にしゃがんで花を拾いながら、さっきの言葉を頭の中で繰り返した。
――困ってるときは、さりげなく手を貸せって。
「ティモさん。今の、誰に言われたんですか」
「えっ」
「さりげなく手を貸せ、って」
ティモさんは、踏み台の上で固まった。
「あ、あの、宵待さんが。一昨日の夜語りで、見習いさんって人に、そう言ってて。いい言葉だなって思って」
わたしは、手の中のカモミールを握りしめた。
見習い騎士。
毎晩、宵待を聴いている。
団長に聴き灯を渡した本人。あの日、この店で、わたしが怒るのを一番近くで見ていた。毎朝の巡回で、月見草に水をやるわたしの前を通ることもあるはずだ。
……まさか。
「ティモさん」
わたしは立ち上がって、できるだけ平らな声で聞いた。
「宵待に、便りを出したことはありますか」
ティモさんの顔が、みるみるうちに赤くなった。耳の先から首筋まで、熟れた林檎みたいに。
「あ、ありません! いや、あります! あ、でも、それは、その」
「夜の名は」
「い、言えません! 夜の名を昼に言うのは、仁義に反するって、宵待さんが前に!」
それは、わたしが言ったことだ。
「……見習い、ですか」
踏み台の上で、ティモさんがきょとんとした。
「見習い?」
「夜の名が」
「ち、違います! 僕のはそんな、格好いいのじゃなくて」
格好いいのだろうか、見習いは。
「僕のは、その、馬が――」
そこまで言って、ティモさんは自分の口を両手でふさいだ。踏み台から転げるように下りて、扉のほうへ後ずさる。
「馬のことは、忘れてください!」
扉の鈴が派手に鳴って、ティモさんは小路を全力で走っていった。走らない、と言ったのに。
わたしは、しばらく扉を見つめていた。
馬。
――夜の名「馬が怖い者」さんから。
ふた月ほど前に、そういう便りがあった。騎士なのに馬が怖いのだと。乗るたびに膝が震えて、仲間に笑われるのが恥ずかしいのだと。わたしはそのとき、馬の首を撫でるところから始めてみては、と答えたのだった。
あれが、ティモさんだったのだ。
見習いさんではない。
わたしは、ほっと息を吐いた。吐いてから、なぜほっとしたのか自分でも分からなくて、床のカモミールを最後のひとつまで拾い集めた。
二階から、杖で床を叩く音が三回した。
続いて、階段の軋む音。師匠が下りてきて、床に残った花びらを杖の先でつついた。
「見習い騎士に、見習いかって聞いたのかい」
「……聞こえてたんですか」
「聞こえるように騒ぐからさ」
師匠は丸眼鏡を押し上げて、わたしの顔をしげしげと眺めた。
「あんた、自分が誰を探してるのか、ちゃんと分かってるかい」
「見習いさんです」
「そうかい」
師匠はそれだけ言って、また二階へ上がっていった。何が言いたかったのか、わたしには分からなかった。
その夜も、月はまだ昇っていなかった。
十一の鐘のあと、語り灯がともり、ささめが目を覚ます。机の上の便りは四通。わたしは一通ずつ開いて、読んで、答えた。井戸の水が濁ったという相談、孫の名前の付け方の相談。
三通目の封を開いたとき、便箋の端が少しよれているのに気づいた。何度も書き直したらしい。
「次のお便りは、夜の名『馬が怖い者』さんから」
思わず、声がやわらかくなった。
「『宵待さん。今日、ある人に、夜の名がばれかけました。恥ずかしくて死にそうです』」
ごめんなさい、と心の中で謝った。ばらしかけたのは、わたしだ。
「『十日たったら馬に乗っていいと言われました。でも、やっぱり怖いです。子どものころ、近所で火事があって、暴れた馬に蹴られました。それからずっと、馬の目を見ると足がすくみます』」
便箋の字が、少しだけ乱れていた。
「『そのとき、煙の中から、赤ん坊の妹を抱いて出てきてくれた騎士がいました。顔は怖かったけど、妹はその人の腕の中で泣きやんでいました。僕はその人みたいになりたくて騎士になったのに、馬にも乗れません』」
――顔は怖かったけど。
わたしは、便箋から目を上げた。
窓の外を、光の粒が低く流れていく。
ティモさんが憧れて騎士になった人。顔が怖い騎士。誰のことか、聞かなくても分かった。あの子が誰よりも崇拝している人は、この下町にひとりしかいない。
石像団長が、煙の中から、赤ん坊を抱いて出てきた。
その赤ん坊は、あの腕の中で泣きやんだ。
「……馬が怖い者さん」
わたしは、ゆっくり言葉を選んだ。
「怖いものを怖いと言えるのは、騎士にとって恥ではないと思います。怖いことを知らない人より、怖いと知っていて前に出る人のほうが、ずっと強いですから」
ささめが、便箋の上で小さく丸くなった。とろけた顔ではない。静かに、何かを聴いている顔だった。
「乗っていいと言われた日に、乗らなくてもいいんです。まずは毎朝、ブラシをかけてあげてください。名前を呼んで、首を撫でて。馬のほうが、あなたを覚えてくれるまで」
それから、少しだけ付け足した。
「あなたが憧れたその騎士も、きっと何かを怖がりながら、煙の中に入っていったんだと思います。怖くなかったから入れたんじゃない。誰かが中にいたから、入ったんです」
言いながら、胸の奥がきゅっと鳴った。
最後の便りを読み終えて、わたしは締めの言葉を言った。
「今夜のお薬は、リンデンの花のお茶です。――おやすみなさい」
灯りが欠けていく。
わたしは、机の上に残った封筒を数えた。四通。そのどれにも、青い月石は付いていなかった。
今夜は、見習いさんからの便りはなかった。
毎晩届くわけではない。三日あくことも、五日あくこともある。半年のあいだ、それが当たり前だった。
なのに、封を開けるたびに、指先が青い石の重さを探していた。
……そのほうがいい。
そう思った。思ったはずなのに、胸のどこかが、すうっと冷えた。
わたしは便りを箱にしまい、窓辺で膝を抱えた。
煙の中から赤ん坊を抱いて出てくる、あの大きな背中を、勝手に思い浮かべていた。顔は、たぶん、そのときも石みたいだったのだろう。
なのに、わたしの想像の中のその人は、少しも怖くなかった。




