第十四話 宛名探し
いちばん上の棚の壺は、いつも少しだけ遠い。
踏み台のいちばん上に爪先で立って、腕をいっぱいに伸ばす。指先が釉薬のつるりとした肌に触れ、ようやく縁に指がかかった。乾かしたヤロウの花を詰めた壺だ。思ったより重い。
手前に引いた拍子に、壺がぐらりと傾いた。
あ、と思ったときには、もう指から離れていた。
「おっと」
軽い声がした。
床に落ちるはずの壺は、落ちなかった。わたしの肘のすぐ下で、誰かの手が、まるで最初からそこにあったみたいに壺の底を受け止めていた。
ちりん、と扉の鈴が遅れて鳴った。
「危ないなあ。こういうの、言ってくれたら取りますよ」
ロイさんだった。
垂れ目を細めて笑いながら、壺をカウンターに置く。それから、わたしが踏み台の下に置いていた籠――乾燥棚から下ろした薬草の束が山になったもの――を、ひょいと片手で持ち上げた。
「これはどこへ?」
「あ……調合室の、手前の台に」
「了解」
籠は、音もなく調合室の台に収まった。ロイさんは戻ってきて、踏み台の上のわたしに、手を差し出した。
「どうぞ。降りるときがいちばん危ないんで」
わたしは、その手を借りて床に降りた。
速くもなく、遅くもない。押しつけがましくもなく、わざとらしくもない。気づいたら助けられていて、助けられたことに礼を言う暇もない。
――困っているときに、さりげなく手を貸す。
宵待が見習いさんに言った言葉が、そのまま目の前で形になっていた。
「……ありがとうございます」
「いえいえ」
ロイさんは懐から小さな革袋を出して、カウンターに置いた。わたしは昨日から包んだままになっていた常備薬の包みを、その横に並べた。
「昨日の常備薬、受け取りに来ました。ティモのやつ、品物もお代も置いたまま帰ってきたらしくて。あいつ、何かあったんですか? 真っ赤な顔で詰所に駆けこんできて、馬がどうとか言ってましたけど」
「……さあ」
わたしは目をそらした。
ロイさんは包みを小脇に抱えて、扉の前で振り返った。いつもの、何かを面白がっている顔だった。
「困ってるときは手を貸せって、どこかで聞いたんでね」
わたしの心臓が、ひとつ跳ねた。
「……どこで、ですか」
「さあ、どこでしたっけ」
嘘はついていない。この人は、嘘をつかない。だからこそ、その「さあ」の重さが、ずっしりと響いた。
「それと、エルナさん。次の新月の寄り合い、来ますよね」
「行きます、けど」
「よかった。じゃ、また」
ちりん、と鈴が鳴って、ロイさんは小路の光の中へ出ていった。
わたしは、カウンターの壺を見つめた。
灯り番。語り手仲間。宵待がわたしだと知っている人。宵待の時間を聴いていて、宵待の言葉を、今日、わたしの前でなぞってみせた人。
胸元の語り灯は、昼の光の中で静かに眠っていた。
……副団長さんなら、いい人だ。
明るくて、優しくて、手を貸すのが上手で、嘘をつかない。好きになってもらって困る理由なんて、ひとつもない。
なのに、どうしてだろう。胸の真ん中に、薄い石を一枚載せられたみたいに重かった。
一昨日の土手道を、わたしは思い出していた。
団長さんは、麻袋を押収するみたいに抱えて、振り返りもせずに先へ行ってしまった。脚の長さが違いすぎて、わたしは砂利道を小走りで追いかけるしかなかった。息が切れて、うなじに汗が流れて、靴の中に小石が入った。
副団長さんは、気づいたら手を貸してくれていた。息ひとつ乱さずに済んだ。
どちらが上手かなんて、比べるまでもない。
……なのに、あの砂利道を走って追いかけたとき、わたしは少しも嫌ではなかった。
その夜も、月はまだ昇っていなかった。
新月まで、あと三日。光の粒は細く、低く、路地のすぐ上を這うように流れていく。わたしは蜂蜜飴を舌の上で転がしながら、窓辺に座った。
「こんばんは。夜更けの薬草相談室、宵待です。眠れない方も、眠りたくない方も、少しだけお付き合いください」
一通目は、夜の名「宛名探し」さんからだった。
古風な、流れるような字だ。ずいぶん年配の方だと思う。
「『冬のあいだ、毎週、家の戸口に薪の束が置かれていました。この夏になって、今度は焼いた魚が届くようになりました。誰が置いているのか分かりません。礼を言いたいのです。どうすれば贈り主を探せるでしょうか』」
便箋の最後に、小さく一行が添えてあった。
「『いい年をして、戸口で泣きそうになりました』」
わたしは便箋を置いて、少し考えた。
「宛名探しさん。素敵な方が、近くにいらっしゃるんですね」
ささめが、机の隅で耳を立てた。
「贈り物には、たいてい、どこかで手に入れた跡が残っています。薪なら薪屋、魚なら魚屋か、川の漁師さん。贈り物そのものを見るより、それを売った人に聞いてみてください。同じものを、同じ頃に、同じ数だけ買っていく人を、お店の人はたいてい覚えています」
言いながら、薬草問屋の親父さんの顔を思い浮かべていた。あの人も、誰が何をどれだけ買っていったか、驚くほどよく覚えている。
「それから、もうひとつ。もし贈り主が見つかっても、すぐにお礼を言わなくてもいいかもしれません。名前を隠して贈る人は、たいてい、恥ずかしがり屋ですから。見つけたことを、しばらく胸にしまっておくのも、ひとつの贈り物です」
二通目、三通目と読み進めて、わたしは四通目の封筒に手をかけた。
指先に、硬くて丸いものが触れた。
青い月石。
――来た。
自分でも驚くほど、胸が鳴った。三日ぶりだった。
「次のお便りは、夜の名『見習い』さんから」
封を開ける。いつもの角の立った字。けれど、今夜の便りは短かった。
「『宵待殿。ご助言のとおり、手を貸しました。役に立てたかどうかは分かりません』」
――手を、貸しました。
今朝、壺を受け止めた手が、目の前に浮かんだ。速くもなく、遅くもない。踏み台から降りるわたしに差し出された手。
困ってるときは手を貸せって、どこかで聞いたんでね。
……やっぱり、副団長さん?
便箋の続きは、二行だけだった。
「『それから、先日は大勢で聞いて回り、ご迷惑をおかけしました。聞き込みはやめました。彼女にも、申し訳なく思っています』」
わたしは、少しだけ目を閉じた。
宵待が「困ると思います」と言った次の日に、聞き込みはやめになったのだ。この人は、本当に、言われたことをすぐにやる。
「見習いさん。きっと、役に立っていますよ」
ささめが、便箋の上でとろけていた。
「手を貸してもらった人は、そのときは驚いて、うまくお礼が言えないことがあります。でも、ちゃんと覚えています。重さを分けてもらったことは、腕が覚えていますから」
少し、間をおく。
次に何を勧めればいいのか、わたしは迷った。見習いさんが副団長さんなら、あの人はたいていのことを、わたしよりずっと上手にやってのけるだろう。花も、言葉も、手を貸すことも。
だから、上手にできないものを。
「次は、あなたの手で作ったものを、何かひとつ贈ってみてはどうでしょう。上手でなくていいんです。むしろ、少し不格好なくらいがいい。手作りのものは、作った人の時間ごと届きますから」
母の「ちゃんと食べなさい」の一行を、わたしは思い出していた。上手な字ではないのに、何よりも温かい一行を。
「今夜のお薬は、エルダーフラワーのお茶です。――おやすみなさい」
灯りが欠けていく。
わたしは便りを箱にしまって、窓の外の暗い空を見上げた。月のない空に、星だけがやけに多かった。
副団長さんが、見習いさんなのかもしれない。
三日後の寄り合いで、あの人は、わたしにどんな顔を向けるのだろう。
そして、わたしは。
――団長さんは、今夜も夜番だろうか。
暗い路地を、あの大きな背中がひとりで歩いているところを思い浮かべる。あの人も、聴き灯を持っているのだろうか。持っているとしたら、誰の時間を聴いているのだろう。
灯り番の声だろうか。夜鳴き鶯さんの唄だろうか。
どうしてその人のことを考えたのか、分からなかった。分からないまま、わたしは灯りを消した。




