第十五話 新月の寄り合い
新月の夜の下町は、暗い。
空に月がないだけではない。窓という窓の聴き灯が、ひとつも満ちていないのだ。いつもなら宵の口から色とりどりにともる灯りが、今夜は三日月の光さえ見せずに、硝子の球のまま眠っている。路地を渡る光の粒もない。聞こえるのは、川の水音と、どこかの家の赤ん坊の泣き声だけだった。
わたしは師匠と並んで、銀の莢亭へ向かって歩いていた。
胸元の語り灯も、今夜は冷たい。ささめは莢の上で丸くなったまま、身じろぎひとつしなかった。
「暗いと、星がよく見えるねえ」
師匠が杖をつきながら、空を見上げた。
「新月の夜はね、語り手が人間に戻る夜なんだよ。あたしの師匠がそう言ってた」
「人間に、戻る」
「声を精霊に預けない夜だからさ。言いたいことは、自分の口で、目の前の相手に言うしかない」
師匠はそう言って、なぜかわたしの顔をちらりと見た。
銀の莢亭の裏口をくぐると、表の酒場の喧騒が壁越しにくぐもって聞こえた。麦酒と炙った腸詰めの匂い。笑い声と、誰かが調子外れに歌う声。その奥の、樽を積んだ廊下を抜けた先の小部屋には、もう灯りがついていた。精霊のではない、ふつうのランプの灯りだ。丸い卓の上に、四つの語り灯が並んでいる。どれも同じまるい硝子の球で、中ではそれぞれの精霊が眠っていた。真鍮色の鈴の形、水滴の形、灯火の形、羽の形。わたしは胸元の灯りを外して、五つ目としてその横に置いた。
「宵待、遅い!」
真っ先に声を上げたのは、鐘守くんだった。
十二歳の、時計塔の鐘つきの子。卓の端に、焼き菓子の包みを山のように積み上げている。
「鐘守。菓子は一人二つまでと言ったろう」
卓の奥で、水鏡さんが低く言った。白い髭の、寡黙な水門番。五十年、ルナリア川の水門を守ってきた最古参で、この寄り合いのまとめ役だ。
「二つずつだよ! 五人ぶんと、先代のぶん!」
「……数は合っとるな」
水鏡さんは、それ以上何も言わなかった。
鐘守くんは菓子をひとつ頬張りながら、わたしのほうへ身を乗り出した。
「ねえ宵待、このあいだのあれ、何の事件だったの? 騎士団が宵待の店に――」
「鐘守」
水鏡さんの声が、低く卓の上を渡った。
「昼の話は、ここでもせん」
「……はあい」
鐘守くんは首をすくめて、二つ目の菓子に手を伸ばした。わたしは、水鏡さんに小さく頭を下げた。水鏡さんは、何も言わずに湯呑みを傾けただけだった。
「ごきげんよう、宵待さん」
艶のある声がした。夜鳴き鶯さんだ。銀の莢亭の歌姫で、下町いちばんの人気の語り手。結い上げた髪に、薔薇色の飾り紐を一本。舞台の上と同じ、きれいな笑みを浮かべている。
「わたくし、宵待さんのこのあいだの夜語り、聴きましたのよ。好物を読み上げるところ。あれ、どなたのお話だったのかしら」
ぎくりとした。
「……聴き手さんのお話です」
「まあ、そう」
夜鳴き鶯さんは、くすりと笑った。
そして、最後のひとりが、わたしの隣の椅子を引いた。
「どうも、宵待さん」
灯り番のロイさんだった。
寄り合いでは、互いを夜の名で呼ぶ。昼の名を知っていても、ここではそれが決まりだ。だから今のロイさんは「副団長さん」ではなく、灯り番で、わたしは薬師ではなく、宵待だった。
――どうも、宵待さん。
その呼ばれ方が、今夜はやけに耳に残った。
寄り合いは、いつもどおり始まった。
水鏡さんが、この月の精霊たちの様子を順番に尋ねる。鐘守くんの鈴の精霊は、最近よく食べるらしい。灯り番の灯火の精霊は、夜番の騎士の誰かの声を気に入っているらしい。夜鳴き鶯さんの羽の精霊は、相変わらず気まぐれ。
「宵待のところは」
「……よく食べます。最近、とても」
見習いさんの便りのたびに、ささめは蜂蜜に溺れたような顔になる。それを言うわけにはいかなかった。
それから、聴き灯の修理の話、川沿いの家から苦情が来た話、秋の月送りの重ね語りの順番の話。まだ先のことだけれど、水鏡さんはいつも早めに決めたがる。
そのあいだじゅう、ロイさんは、わたしの湯呑みが空になるたびに、黙ってお茶を注いでくれた。
速くもなく、遅くもなく。気づいたら、満ちている。
「宵待さん」
話が途切れたところで、ロイさんが小声で言った。
「最近、便り、多いでしょう。……誰かさんの」
わたしは、湯呑みを持つ手を止めた。
「答えるの、大変じゃないですか」
「……どうして、そう思うんですか」
ロイさんは、少し困ったように笑った。
「俺は何も言えないんですけどね。仁義なんで」
嘘はついていない。この人は、嘘をつかない。
言えない。仁義だから。
――自分のことは、言えない。
わたしは湯呑みを置いて、膝の上で手を握った。顔が熱いのは、お茶のせいだと思いたかった。
向かいでは、夜鳴き鶯さんが、ロイさんのほうを一度も見ずに焼き菓子を割っていた。
「鶯さん、その菓子、おいらのだよ」
「わたくしの分ですわ、鐘守」
ロイさんが、何気なく口を開いた。
「鶯、このあいだの新しい唄、よかったよ」
夜鳴き鶯さんの手が、止まった。
「……あ、あたしは別に、あんたのために唄ったわけじゃ」
言いかけて、夜鳴き鶯さんは咳払いをした。
「わたくし、どなたのためにも唄っておりませんわ」
耳の先が、薔薇色の飾り紐より赤かった。
卓の奥では、師匠と水鏡さんが、並んで座っていた。
「明日の市は、晴れる」
「そうかい」
「川の水は、少し減る」
「そうかい」
水鏡さんは、湯呑みの縁を太い指でなぞっていた。言葉を選んでいる人の指だった。選んで、選んで、結局いつもの言葉しか出てこない人の。
「蜂蜜は、少し高い」
「……そうかい」
二人の会話は、それだけだった。五十年近く、毎月この卓で顔を合わせて、たぶん、ずっとこうなのだ。師匠の横顔は、ランプの灯りの中で、わたしの知らない表情をしていた。
帰り道も、空は暗かった。
「灯り番の坊やと、何を話してたんだい」
師匠が、杖の先で石畳を叩きながら聞いた。
「……師匠。見習いさんって、灯り番さんかもしれません」
師匠の杖が止まった。
それから、肩が震えはじめた。小さく、だんだん大きく。最後には、暗い小路の真ん中で、丸眼鏡を外して目尻を拭っていた。
「そうかい、そうかい」
「笑いごとじゃありません」
「ああ、笑いごとじゃないねえ。……ほんとにねえ」
師匠は笑いながら、なぜか、少しだけ寂しそうな声でそう言った。
◇
――幕間
新月の夜は、眠れない。
宿舎の寝台の上で、私は天井を見ていた。枕元の聴き灯は、ひびの入った硝子の球のまま、ひとすじの光も見せない。宵待殿の声が届かない夜は、月に一度、必ず来る。
隣のロイの部屋は、空のままだった。
あの男は月に一度、新月の夜にどこかへ出かけて、夜更けまで戻らない。灯り番の集まりだと聞いている。語り手には語り手の決まりがあるのだろう。私は語らない人間なので、詳しくは知らない。
――次は、あなたの手で作ったものを、何かひとつ。
三日前の宵待殿の言葉を、私は暗がりの中で繰り返した。
手で作れるもの。
剣は打てない。縫い物もできない。文字は書けるが、上手ではない。
だが、木なら扱える。
私は木こりの息子だ。十四で村を出るまで、斧と鑿を握って育った。樅の板から、棚でも、箱でも、椅子でも作った。
店の前に立っていた三日間のことを思い出す。
薬師殿は、毎朝、踏み台のいちばん上で爪先立ちになって、いちばん高い棚の壺に手を伸ばしていた。乾燥棚はどこも満杯で、窓辺の笊にまで薬草があふれていた。
低い棚があればいい。扉のついた、埃の入らない棚が。
私は起き上がって、蝋燭に火を入れた。便箋の裏に、店の壁の寸法を書き出す。三日間、立ちながら目で測っていたので、だいたいは覚えている。
幅は、窓の下に収まる長さ。高さは、彼女が爪先立ちにならずに済む高さ。扉は二枚。蝶番は鉄にしよう。湿気に強い。
木は、北の山の樅がいい。あれなら百年はもつ。
夜更け、廊下の板が軋んだ。ロイが戻ってきたらしい。私の部屋の前で足音が止まり、扉越しに、上機嫌な声がした。
「団長、まだ起きてるんですか」
「ああ」
「いい夜でしたよ」
「……そうか」
足音が遠ざかっていく。口笛が聞こえた。
私は便箋に、最後の一行を書き足した。
――板の厚みは、二寸。
頑丈であることに、越したことはない。




