第十六話 頑丈すぎる薬草棚
どすん、という音で目が覚めた。
屋根裏の天窓の外は、まだ群青色だった。夜明けの少し前。鳥も鳴いていない。わたしは布団の中で、今の音が夢だったのか現だったのか、ぼんやり考えた。
階下の、ちょうど店の戸口のあたりだったと思う。重いものを、そっと置こうとして、置ききれずに鳴った音。
机の上で、語り灯が淡く光っていた。
夜語りはとうに終わって、ささめも眠っていたはずの時刻なのに、硝子の中に、ほのかな黄色がにじんでいる。ささめが、丸い耳をぴんと立てて、窓のほうを見ていた。
……夢だ。
わたしはそう決めて、もう一度目を閉じた。光は、まぶたの裏でゆっくり消えていった。
新月の寄り合いから、九日が過ぎていた。
月は細い弧からだんだんふくらんで、夜語りの声も、日ごとに遠くまで届くようになった。見習いさんの便りは、この九日で二通。どちらも短くて、部下の夏負けの相談と、雨の夜の夜警で滑らない靴底の話だった。
恋の話は、書いていなかった。
手作りのものを、と勧めたのはわたしだ。勧めておいて、その返事が来ないことに、毎晩少しずつ落ち着かなくなっていた。
朝になって店の戸を開けると、目の前に壁があった。
壁ではない。棚だ。
戸口の脇、店の外壁に沿って、わたしの胸の高さほどの木の棚が立てかけてあった。夜露よけの麻布がかぶせてある。めくると、白っぽい木肌が現れた。鼻を近づけなくても、すうっとした樅の香りが立ちのぼる。
板が、厚い。
指で測ると、二寸はあった。棚板が三段。下の二段には観音開きの扉が二枚ついていて、蝶番は黒い鉄だ。角はすべて丁寧に面取りしてあって、ささくれひとつない。
宛名は、なかった。
札も、手紙も、何も挟まっていない。ただ棚だけが、朝の光の中に、どっしりと立っていた。
「あら、なにそれ」
向かいのパン屋のおかみさんが、窯の煙の向こうから顔を出した。
「……分かりません。朝起きたら、ありました」
「誰かの忘れ物?」
「こんな大きなものを、忘れていく人はいないと思います」
おかみさんは亭主を呼び、亭主は隣の肉屋の親方を呼んだ。三人がかりで、というより、ほとんど親方ひとりで、棚は店の中へ運びこまれた。
「重てえな、こりゃ」
親方が額の汗を拭った。牛を一頭担ぐ人が言うのだから、本当に重いのだ。
「どこに置く」
「……窓の下に、とりあえず」
置いてみて、わたしは息をのんだ。
窓の下の壁に、ぴたりと収まった。左右の隙間は、指一本ぶんずつ。高さは窓枠のすぐ下で、光をまったく遮らない。まるで、誰かがこの壁を測って作ったみたいだった。
「ぴったりじゃねえか」
親方が感心したように言って、扉の取っ手に手をかけた。開けようとして――眉を上げた。
「固えな」
「え」
わたしも取っ手を握って、引いた。
開かない。
いや、開く。開くけれど、両手で、腰を入れて引いて、ようやく少しずつ動く。扉の板まで二寸あるのだ。蝶番は油をさしたみたいに滑らかなのに、扉そのものが重すぎる。
「……嫌がらせ?」
思わず口から出た。
名前を書かずに、夜明け前に置いていく。開けるのにひと苦労する扉。もしかして、昼に怒鳴りつけた酔っ払いか、薬を売らなかった誰かの、手のこんだ仕返しなのではないか。
「嫌がらせに、こんな上等な樅を使うかねえ」
階段の上から声がした。師匠だ。
師匠は杖をついて下りてくると、棚の天板を指の関節でこんこんと叩いた。耳を寄せて、音を聴いている。
「樅だね。北の山の木だ。目が詰まってる」
「北の」
「このあたりの樅は、こんな音はしないよ」
師匠はもう一度叩いて、それから、ふっと笑った。
「百年もつね、これは」
そう言ったきり、師匠はまた二階へ上がっていった。笑い声は、今朝は聞こえなかった。かわりに、階段の途中で一度だけ立ち止まって、何かを噛みしめるみたいに、小さく首を振っていた。
わたしは、試しに棚を使ってみることにした。
壁の高い棚から、毎朝踏み台に乗って下ろしていたヤロウの壺を、樅の棚のいちばん上の段に移す。胸の高さ。踏み台もいらず、腕をいっぱいに伸ばす必要もない。調合室から振り向けば、ちょうど手の届くところにあった。
扉の中には、乾かした薬草を入れた。窓辺の笊にあふれていたカモミールを、袋に詰めて並べていく。重い扉は、閉めてしまえば隙間ひとつなく、埃も湿気も入らない。夏の湿った空気から、薬草を守るには、この重さがちょうどよかった。
……すごく、使いやすい。
わたしは、扉に手を当てたまま、しばらく動けなかった。
この棚を作った人は、わたしの店を見ていた。わたしが毎朝、踏み台の上で爪先立ちになるのを。窓辺の笊に薬草があふれているのを。この壁の幅を。
名前を隠して贈る人は、たいてい、恥ずかしがり屋ですから。
宛名探しさんに、わたしはそう答えた。
次は、あなたの手で作ったものを。少し不格好なくらいがいい。
見習いさんに、わたしはそう勧めた。
――見習いさん?
この棚は、少しも不格好ではなかった。むしろ、頑丈すぎるくらいだった。
副団長さんは、こんなものを作れる人なのだろうか。器用そうな人ではある。何でも上手にこなす人だ。でも、あの人の手に、樅の板と鑿が似合うかと言われると、うまく想像できなかった。
その夜、満ちていく月が、窓の高いところにかかっていた。
光の粒は遠くまで流れ、川向こうの端の窓まで、淡い黄に満ちていく。わたしは窓辺に座り、階下の暗い店にある棚の形を、なんとなく思い浮かべていた。
「こんばんは。夜更けの薬草相談室、宵待です。眠れない方も、眠りたくない方も、少しだけお付き合いください」
三通目の便りは、夜の名「泣かせ屋」さんからだった。
太くて、力の入りすぎた字。紙が少し破れかけている。肉屋の親方だ。
「『顔が怖くて、子どもに泣かれる。店の前で泣かれると商売にならねえし、何より坊主どもに悪い。おれは店の奥に引っこんで、女房に店先を任せたほうがいいのか』」
わたしは便箋を机に置いた。
今朝、あの棚を、ほとんどひとりで担いでくれた背中を思い出す。重てえな、と汗を拭った顔。確かに怖い顔だ。眉が濃くて、目が鋭くて、頬に火傷の痕がある。
でも、あの人がいなかったら、あの棚は今も店の外で夜露に濡れていた。
「泣かせ屋さん。引っこまなくていいと思います」
ささめが、机の上で耳を傾けている。
「顔は、変えられません。でも、子どもは、毎日そこにいる人には慣れます。泣かれても、そこにいていいんです。泣かせてしまったら、無理に笑わなくていい。ただ、そこにいて、転がってきた球があったら拾って、そっと置いて、少し下がってあげてください」
言いながら、わたしは自分の言葉に、はっとした。
――転がってきた球を、拾って、そっと置いて、少し下がる。
それは、わたしが見た光景だった。
川沿いの道で、石の顔のまま球を差し出して、泣かれて、地面に置いて、一歩、二歩と下がった人。泣きながら走っていく子を、その場に立ったまま見送っていた、あの大きな背中。
「……泣いた子は、次の日には、あなたのことを少しだけ覚えています。その次の日には、もう少し。そのうち、球を拾ってもらいに来るようになります。怖い顔の人が、そこにいてくれることを、子どもはちゃんと覚えていきますから」
わたしは、肉屋の親方に答えていた。
答えていたはずなのに、頭の中に浮かんでいたのは、別の人の背中だった。
「今夜のお薬は、カモミールのお茶です。――おやすみなさい」
灯りが欠けていく。
今夜も、青い月石はなかった。
わたしは梯子を下りて、暗い店の中で、棚の前に立った。月明かりが窓から差して、樅の白い木肌を淡く照らしている。重い扉に、手のひらを当てた。
ひんやりとして、なのに、どこか温かかった。
――あの人も、そこにいていいんだ。
誰のことを思ったのか、自分でもよく分かっていた。分かっていて、わたしはその名前を、心の中でさえ口にしなかった。




