第十七話 非番の三日間
勝手口の戸が叩かれたのは、八つの鐘が鳴ってまもなくだった。
叩き方で、だいたいの用件が分かる。こつこつと遠慮がちなのは切り傷か腹下し。間をあけて二度なら、子どもの熱。今夜の音は、そのどれでもなかった。拳で、続けざまに、戸板が鳴るほど強く。
ランプを掲げて戸を開けると、ひょろりと背の高い騎士が、肩で息をしていた。
手帳の騎士だ。この前、小路じゅうに聞き込みをして回っていた人。
「す、すみません、薬師さん。第二騎士団のルッツです」
「どうしました」
「ティモが、熱を出して。夕方からどんどん上がって、さっき、うわごとを」
わたしは、もう棚の扉に手をかけていた。
重い扉が、両手で引くと、ぎい、と開く。中から熱冷ましに使うエルダーフラワーの袋と、晒しを何巻きか取り出して、往診の鞄に詰めた。
「治療院には」
聞いてから、ルッツさんの顔を見て、答えが分かった。
「……詰所に、そのお金がなくて」
「行きましょう」
夜の下町は、灯りでいっぱいだった。
月は満月に近いところまでふくらんで、南東の空の高いところにかかっている。月が満ちていく時期の夜語りは、声が遠くまでよく届く。路地の両側の窓で、聴き灯が橙色に満ちていた。
九つの鐘のあと。灯り番の時間だ。
「――今夜の見回りは、川沿いの土手道から。昨日、銀の莢亭の前で酔っ払いがひとり、樽に頭から突っこんでました。皆さん、飲むなら樽の外で」
窓という窓から、ロイさんの軽い声がこぼれてくる。笑い声まで、あちこちの家から聞こえた。
わたしはその声の中を、ルッツさんの背中を追って、早足で歩いた。
第二騎士団の宿舎は、川向こうのいちばん外れにあった。
古い倉庫を改修した建物だと、聞いたことはあった。実際に見るのは初めてだった。石壁のあちこちに継ぎ当ての跡があり、屋根の一角には板が打ちつけてある。入口の戸は、開けるたびに悲鳴みたいな音を立てた。
廊下の突き当たりに、薬棚がひとつあった。
見覚えのある壺が並んでいる。うちの店の化膿止め。うちの晒し。うちの熱冷まし。それ以外の段は、ほとんど空だった。
ティモさんの部屋は、二階の端だった。
狭い部屋に、寝台が二つ。窓辺の小さな机には、ひびの入っていない聴き灯がひとつ置いてある。その寝台の横に、大きな背中が丸まっていた。
団長だった。
外套を脱いで、袖をまくり上げ、膝の上で手ぬぐいを絞っている。足元には水を張った盥。絞った手ぬぐいをティモさんの額に乗せ、ぬるくなった前の一枚を盥に戻す。大きな手が、驚くほど静かに動いていた。
わたしに気づいて、団長は立ち上がった。
「薬師殿」
「診ます」
団長は黙って場所を空けた。
ティモさんの額は熱かった。頬が赤く、唇が乾いている。けれど、息は浅くない。喉も腫れていない。手首の脈は速いけれど、乱れてはいなかった。
「ここ数日、休んでいましたか」
「……昼番のあと、夜も詰所に残っていた。厩の掃除を、自分から」
団長が低く答えた。
馬だ、と思った。毎朝ブラシをかけて、首を撫でて。宵待の言葉を、あの子は真面目に守っていたのだ。
「疲れが溜まったところに、夏の暑さが来たんだと思います。今すぐ治療院に行かなければならないような、危ない熱ではありません」
わたしは鞄から薬草の袋を出した。
「これを煎じて、少し冷ましてから、少しずつ飲ませてください。一度にたくさんではなく、目が覚めるたびに、ひと口ずつ。それから、額と首と脇の下を冷やして。手ぬぐいは、ぬるくなったら替えてください」
「どのくらいで替える」
「……二刻に一度は、必ず」
「承知した」
団長は、わたしの言ったことを口の中で一度だけ繰り返したようだった。ひと口ずつ。二刻に一度。額と首と脇の下。
「夜明けになっても熱が下がらないか、水を飲めなくなったら、そのときは治療院へ連れていってください」
「そのときは、私が連れていく。費用も持つ」
当たり前のことを言う口調だった。
戸口のほうで、誰かが小さく息を吐いた。振り向くと、赤茶の髪の女の人が、腕を組んで柱にもたれていた。グレタさんだ。
「団長。それ、今月何度目です」
「数えていない」
「こっちは数えてますよ。三度目です」
グレタさんはわたしのほうを見て、肩をすくめた。
「うちは、薬の予算が去年また削られてね。治療院どころか、薬棚もあのとおりさ。あんたの店の薬がなかったら、とっくに空っぽだよ」
――予算が、削られた。
わたしは、手の中の薬草の袋を握りしめた。
予算、余ってるんですか。わたしは副団長さんに、そう聞いた。騎士団って、そういうところにはお金があるのね。木箱の花を前に、わたしはそう思った。
お金なんて、なかったのだ。
じゃあ、あの木箱は。
「……団長さんは、休んでいらっしゃるんですか」
話をそらしたくて、そう聞いた。グレタさんは鼻で笑った。
「この人に非番なんて、あってないようなもんさ。この前も、非番の三日間、まるまるどっかに立ってたしね」
息が止まった。
非番の、三日間。
警備だ、とこの人は言った。店の前で、背筋を伸ばして。朝から昼まで、昼から夕方まで、日によって時刻をずらしながら。
あれは、非番の日だったのだ。
わたしは団長を見た。団長は、ティモさんの額の手ぬぐいを替えていた。こちらを見ようとしなかった。耳の先が、ランプの灯りの中で赤かった。
遠くで、十の鐘が鳴った。
わたしは、はっとして顔を上げた。夜鳴き鶯さんの時間が始まる。その次は、宵待の時間だ。
「わたし、戻らないと」
「送る」
団長が言った。
「いえ。ティモさんのそばにいてください」
団長は少しのあいだわたしを見て、それから、戸口のほうへ顎をしゃくった。
「ルッツ。薬師殿を送れ」
「はいっ」
階段を下りながら、わたしは一度だけ振り返った。
狭い部屋の中で、大きな背中が、また寝台の横に丸まっていくところだった。
その夜、十一の鐘のあと、机の上の便りの中に、青い月石がひと粒あった。
四日ぶりだった。
「……最後のお便りは、夜の名『見習い』さんから」
声が、少しだけかすれた。急いで梯子を上がったせいだと思う。
「『宵待殿。ご助言のとおり、手で作ったものを贈りました。上手くはできませんでした。重すぎたかもしれません』」
――重すぎた。
頭の中で、樅の扉が、ぎい、と鳴った。
手で作ったもの。重すぎる。三日前の朝、宛名もなく店の前に立っていた、あの棚。
見習いさんが、あの棚を。
……副団長さんが?
あの軽やかな手が、二寸の樅の板に鑿を当てているところを、わたしはやっぱりうまく想像できなかった。できないまま、声だけが先に出ていた。
「見習いさん。重いものは、大事なものを守るのに、ちょうどいいんです」
ささめが、便箋の上でとろけていた。
「湿気も、埃も、入らない。そういう重さです。受け取った方は、たぶん、毎日使っています。毎朝、扉を開けるたびに、少しだけ力がいるけれど――」
言いすぎだ、と思った。思ったのに、止まらなかった。
「――爪先立ちにならずに済むのは、きっと、とても助かっています」
窓の外で、光の粒がゆっくり流れていった。
「今夜のお薬は、エルダーフラワーのお茶です。熱の出はじめに、よいと言われています。――おやすみなさい」
夜明け前、わたしはもう一度、宿舎へ向かった。
空はまだ群青色で、西の低いところに、ふくらんだ月が沈みかけていた。悲鳴みたいな音の戸を、そっと開ける。階段を上がって、二階の端の部屋を覗いた。
ティモさんは眠っていた。頬の赤みが引いて、寝息が穏やかになっている。額に手を当てると、熱はほとんど下がっていた。
寝台の横で、団長が、さっきと同じ姿勢で座っていた。
膝の上に、絞った手ぬぐい。足元の盥の横に、使い終わった手ぬぐいが、きちんと畳んで積んである。わたしは、その数を目で数えた。
五枚。
二刻に一度、とわたしは言った。それより、ずっとこまめに替えていたのだ。
「……下がりました」
わたしが言うと、団長は小さくうなずいた。
「助かった。感謝する」
声が少しだけ掠れていた。目の下のクマが、いつかの夕方よりも濃い。一晩じゅう、ここに座っていたのだ。
「団長さんも、眠ってください」
「問題ない」
問題しかない顔だった。
言いたいことは、喉元までいくつも来ていた。非番の三日間のこと。木箱のお金のこと。どうして、うちの店の前に。
でも、どれも口から出てこなかった。顔が見えていると、わたしの言葉はいつも詰まる。
寝台のティモさんが、薄く目を開けた。
「……あ、薬師さん」
「おはようございます。熱、下がりましたよ」
「夢、見てました。宵待さんの時間、聴いてたんです。団長と、一緒に」
ティモさんは、窓辺の聴き灯のほうへ、ぼんやりと目をやった。
「団長、途中で、手ぬぐい、落としてました」
団長の背中が、ほんのわずかに強張った。
わたしは、窓辺の聴き灯を見た。ひびひとつない、ティモさんの灯りだ。昨夜の十一の鐘のあと、この部屋で、淡い黄に満ちていたのだろうか。
――爪先立ちにならずに済むのは、きっと、とても助かっています。
聞かれていた。
誰が聞いていても、おかしくはない。宵待の時間は、下町じゅうの窓で満ちるのだから。それでも、よりによってこの人に、と思うと、顔から火が出そうだった。
胸元で、語り灯がことりと鳴った。
沈みかけた月の名残りの中で、硝子の奥に、淡い黄色がにじんでいた。ささめが、大きな背中のほうへ、まっすぐ身を乗り出していた。




