第十八話 薔薇色の灯り
ティモさんの熱が下がって二日後の昼、扉の鈴が、ちりん、と軽く鳴った。
「どうも。ティモの件、ありがとうございました」
ロイさんだった。手には、焼き菓子の包みと、詰所の常備薬の注文書。注文書は、相変わらずグレタさんの速い字だった。
「あいつ、もう元気すぎて困ってますよ。今朝なんか、厩で馬のブラシがけしながら、馬に向かって身の上話をしてました」
「……馬に」
「名前を呼んで、首を撫でるといいって、誰かに言われたらしくて」
ロイさんの垂れ目が、楽しそうにわたしを見た。わたしは、注文書に目を落とした。
壺を棚から下ろそうとして、ロイさんの視線が、窓の下で止まったのに気づいた。
樅の棚だ。
ロイさんは、しばらく黙ってそれを眺めていた。それから、天板の角を指でなぞり、重い扉の取っ手に手をかけ、ぎい、と少しだけ開けて、また閉めた。
「……すごいな、これ」
小さな声だった。いつもの軽い調子ではなかった。
わたしは、口を開きかけた。
――副団長さんが、作ったんですか。
聞けばいい。ひとことで済む。この人は嘘をつかないから、答えはきっと、まっすぐ返ってくる。
なのに、声が出なかった。
はい、と言われたら。いいえ、と言われたら。どちらの答えも、なぜか怖かった。どちらを聞いても、わたしの中の何かが、もう元に戻らない気がした。
「エルナさん?」
「……いえ。重いんです、その扉。毎朝、腕の稽古になります」
ロイさんは、ぶっと吹き出した。
「腕の稽古。いいですね、それ。作った人に言ってやりたいな」
つられて、わたしも少しだけ笑ってしまった。
自分でも驚いた。昼に、人前で、声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。ロイさんの笑い方は、人の口の端まで勝手に持ち上げてしまう。
戸口まで見送りに出ると、午後の日差しが小路を白く照らしていた。ロイさんは包みを抱え直して、ちりん、と鈴を鳴らした。
「じゃ、また。……あ」
ロイさんが、小路の向こうを見て、ほんの一瞬、言葉を止めた。
わたしも振り向いた。けれど、小路の角には、荷車がひとつ通り過ぎていくだけだった。
「どうかしましたか」
「いえ。……巡回の時間だったかな、と思って」
ロイさんは、少しだけ困ったように笑って、角のほうへ歩いていった。
夕方、わたしは往診の鞄に、喉の薬を詰めた。
セージと蜂蜜で練った、喉の薬。銀の莢亭の歌姫、ジルケさんの分だ。夏になると、毎年この時期に喉を傷める。昼の名で頼まれる薬は、昼の名で届ける。それも、語り手どうしの仁義のうちだった。
日が沈みかけた繁華な通りは、もう人でいっぱいだった。
酒場の軒先に提灯が下がり、焼いた川魚と麦酒の匂いが通りまで流れてくる。銀の莢亭の前には、早くも人だかりができていた。今夜もジルケさんが歌うのだろう。
その人だかりの手前で、わたしは足を止めた。
店の脇の、樽を積んだ暗がりに、見覚えのある濃紺の外套が立っていた。
夜番の巡回の途中なのだろう。その前に、薔薇色の飾り紐を髪に結んだ人が、すぐそばまで顔を寄せていた。
ジルケさんだった。
ジルケさんは、団長の腕にそっと手を添えて、何かを熱心に話していた。舞台の上と同じ、きれいな笑みで。首をかしげて、下から覗きこむように。団長は、石の顔のまま、それを見下ろしていた。
ジルケさんが、何かを言って、くすりと笑った。
団長が、短く何か答えた。
ジルケさんの笑みが、ほんの少しだけ、揺れたように見えた。それから彼女は、団長の腕から手を離して、もう一度何か言った。今度は、笑っていなかった。
わたしは、その場に立ち尽くしていた。
何を話しているのかは、聞こえない。聞こえなくてよかったと思った。聞こえたら、たぶん、もっと困っていた。
――ジルケさんは、恋の話の名手だ。
夜になれば、下町いちばんの人気の語り手。華やかで、優しくて、誰とでもすぐに打ち解ける人。石像団長の腕に手を添えて、あんなふうに話しかけられる人を、わたしはほかに知らない。
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
喉の薬の包みを持つ手に、力が入っていた。
……わたしには、関係ない。
関係ない、はずだ。わたしの見習いさんは、副団長さんかもしれなくて。団長さんは、ただの、うちの店の上得意のひとりで。
わたしは人だかりの裏を回って、裏口から酒場の給仕の男の子を呼んだ。包みを渡して、「ジルケさんに」とだけ言って、そのまま来た道を引き返した。
振り返らなかった。
十の鐘が鳴ったとき、わたしは二階の師匠の部屋の前を、通りかかった。
戸の隙間から、薔薇色の光が漏れていた。師匠の聴き灯が、夜鳴き鶯さんの時間に満ちている。
歌声が聞こえた。
――月の舟に 名前を乗せて あなたの窓まで 流れていけたら
いつもより、少しだけ寂しい唄だった。
わたしは、梯子に足をかけたまま、その唄を最後まで聴いていた。
「立ち聞きかい」
戸の内側から、師匠の声がした。
「……違います。通りかかっただけです」
「そうかい」
師匠は戸を開けて、丸眼鏡越しにわたしの顔を見た。じっと、長いあいだ。
「あんた、顔色が悪いね」
「疲れてるんです」
「どこか痛むのかい」
「……胸のあたりが、少し」
言ってから、しまったと思った。師匠の目が、ほんのわずかに細くなった。
「薬師なら、原因くらい分かるだろう」
「分かりません」
「分からないふりは、薬師がいちばんやっちゃいけないことだよ」
師匠はそれだけ言って、戸を閉めた。
わたしは梯子を上がりながら、胸に手を当てた。
原因。
痛むのは、いつからだろう。銀の莢亭の前の、樽の暗がり。薔薇色の飾り紐。腕に添えられた、細い手。
あの人の隣に、わたしではない誰かが立っているのを見たとき。
――わたし、もしかして。
そこまで考えて、わたしは頭を振った。考えるのをやめた。十一の鐘が、もうすぐ鳴る。
宵待は、昼のことを持ちこまない。
その夜、まるく満ちた月が、空の高いところで白く光っていた。下町の窓は、川向こうの端まで、淡い黄に満ちていった。
青い月石は、届いていなかった。
◇
――幕間
今日、私は二度、立ち止まった。
一度目は、昼の巡回で蝋燭小路の角を曲がったときだった。
月見草薬房の戸口で、薬師殿が笑っていた。
声を出して、口元に手を当てて。隣にはロイがいた。あの男はいつものように何か軽口を言い、彼女はそれに、肩を揺らして笑っていた。
私は、あの人が笑うのを初めて見た。
私の前で、あの人は笑ったことがない。怒るか、困るか、黙るかだ。当然だ。私は彼女の店の前に三日立ち、重すぎる棚を置き、一度は麻袋を奪って走らせた。
ロイが私に気づいた気がして、私は角を引き返した。
二度目は、夕方の夜番の巡回で、銀の莢亭の前を通ったときだった。
酒場の歌姫に、呼び止められた。
「団長さま。少しだけ、よろしいかしら」
薔薇色の飾り紐の女だった。名は、ジルケといったと思う。私の腕に手を添えて、首をかしげた。
「副団長さまのことで、少し伺いたいのですけれど。あの方、最近は蝋燭小路の薬屋さんに、よく通っていらっしゃるそうね」
「……そうだな」
「そう。……仲がおよろしいのね」
「そう見える」
嘘ではなかった。今日の昼、私はこの目で見た。
歌姫の笑みが、一瞬だけ揺れた。それから彼女は、私の腕から手を離して、小さく息を吐いた。
「わたくしたち、似た者同士かもしれませんわね、団長さま」
何のことか分からなかった。分からないまま、彼女は人だかりの中へ戻っていった。
宿舎へ戻る道で、ルッツから聞いた噂を思い出した。
蝋燭小路の薬屋に、誰が置いたか分からない棚が届いた。パン屋と肉屋が三人がかりで運びこんだ。扉が重くて、薬師殿が毎朝、両手で開けている。井戸端では、もうそんな話になっているらしい。
三日前の夜、宵待殿は、重いものは大事なものを守るのにちょうどいいと言った。湿気も埃も入らない、と。爪先立ちにならずに済むのは、きっと助かっている、とも。
私は棚とは書かなかった。それでも、下町の噂は夜語りに届く。宵待殿は、あの棚のことを知っていたのだろう。そして、どこの誰に贈ったものかも。
顔から火が出る思いがした。ティモの寝台の横で、手ぬぐいを取り落としたのはそのせいだ。
だが、ひとつだけ救いがあった。噂になるほど人に見せているのなら、薬師殿は、あの棚を嫌がってはいないのかもしれない。
宿舎の机で、私は便箋を引き寄せた。
『宵待殿。彼女には、親しい者がいるようです』
ペン先が止まる。
ロイは、いい男だ。軽口の裏で、誰よりも人を見ている。言葉が上手く、手を貸すのが上手く、人を笑わせるのが上手い。
私が持っていないものを、すべて持っている。
『私よりも、ずっと言葉の上手な男です。彼女はその男の前でだけ、笑うのです』
『身を引くべきなのかもしれません』
書き終えて、便箋を折った。
窓を開ける。満ちた月が、夜空の高いところにあった。今夜送れば、宵待殿は明日の夜、この便りを読むだろう。
私は、便箋を窓辺に置こうとして――置けなかった。
折りたたんだ便りを、机の引き出しにしまう。
十一の鐘が鳴った。枕元の聴き灯が、淡い黄に満ちていく。
「こんばんは。夜更けの薬草相談室、宵待です」
いつもの声だった。いつもより、ほんの少しだけ、元気がないように聞こえた。
気のせいだろう。私は目を閉じた。




